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慶応4年(1868)5月、寛永寺に集結した彰義隊は新政府との激戦の末敗走。累々と横
たわる隊士の遺体をみた円通寺の仏磨和尚は、官許を得て寛永寺御用商人の三河屋幸三郎と共
に、遺骸を火葬して円通寺(南千住)に合葬しました。これが縁となって明治40年、寛永寺
の黒門が円通寺に移されました。
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「死節之墓」 旧幕臣の戦死者の供養に尽力した三河屋幸三郎が向島の別宅に、鳥羽、伏
見、函館、会津などの戦死者の指名を彫って供養していたものを、官許のある円通寺に移築す
ことにより、彰義隊と合わせて供養ができることになったものです。(荒川区遺跡)
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