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ルー・サロメ~善悪の彼岸

2006年09月04日 | ら行 外国映画
『愛の嵐』でさまざまな物議をかもし出したリリアーナ・カヴァーニの1977年の作品。ドイツの大哲学者ニーチェの晩年に大きな影響を与えたと言うルー・サロメと、若き哲学者パウル・レーとの愛の軌跡を描いた問題作。

19世紀末、どの時代よりも【退廃】と称される時代を生きた大哲学者、フリードリヒ・ニーチェは、今日もアヘンで倒錯の世界に足を踏み入れていた。彼を尊敬する若き哲学者パウル・レーは、彼の体を心配するが、フリッツ(ニーチェ)はどこ吹く風と今日も刹那的に女を抱く。

ある時、ロシアから来たという美しく、聡明で、自由奔放に生きるルー・サロメに出会ったパウルは人目でルーに惹かれ、すぐさま求婚する。



しかし、結婚などという形式にとらわれないルーは3人での共同生活を提案する。『魂の仲間』、『三位一体の生活』を望む。ルーにとって二人だけの結婚などは、甘ったるい牢獄に過ぎない、と言い飛ばすのだ。3人目の同志に選ばれたのが「道徳など伝説だ。人間の本性ではない」と説くフリッツ。フリッツもまた一目でルーに惹かれ、すぐさま同意する。

共同生活の前に、フリッツの実家に一緒に行ったルーは、そこで兄を溺愛する妹に会う。厳格なルター派の牧師の子供として育った兄妹には、ルーの奔放さは異次元の世界。ルーとフリッツの行動は彼女にとって傍若無人な振る舞いで、苦痛以外の何モノでもない。家族の縁を切るようにフリッツは実家を出て行く。

そして始まる3人の共同生活。それは均衡がとれているようで、とれていない。人間の感情はそれほど崇高ではないようだ。生活はドンドンと歪んでいく。



嫉妬に狂い、酒を浴び、他の男を引き入れる。『魂の仲間』とは到底程遠い醜い世界だ。パウルとルーは勉学の為にベルリンに行くと、フリッツの精神はドンドンと狂気の世界に進んでいく。彼らに待っているのは悲劇しかないのか・・・。

哲学が苦手な私はニーチェなどは名前だけ。あとは著作がほんの少々「神は死んだ」は彼の言葉だったかな程度の知識しかない。・・・情けないことに。映画では、若き哲学者パウル・レーの目から、魅力的な自由奔放に生きるルー・サロメが、さまざまな人間の運命を変えるファム・ファタールぶりを表しているのだが、なんか違う、どうもすとんと落ちない何かを感じた。

退廃の代表選手のように言われる世紀末だが、モラルの欠如や、自由な思想などをすべて世紀末のせいにしてはいないか。ルー・サロメの先駆的な考えは性などにはとらわれない、もっと崇高な男女の関係がある。それが『魂の仲間』。共同生活をしていても性交渉は一切なかったという。女性の自立や、男にとらわれない生き方についてのバイブルのようなルー・サロメの人生と、この映画は違うのではないかと思うのだ。

表現ははっきり言っていかがわしい。ストレートに見せる。それが人間の本性だから、変に隠すよりは、逆にエロスを感じさせないのだが、いかがわしいことには変わりない。フリッツが売春宿に行って、覚悟したかのように梅毒女と寝る。狂気の世界に登場する裸体の男。パウルの本性をあからさまにした最期。その描き方は鋭く深い。そして妥協しない。それがリリアーナ・カヴァーニの世界だ。

この映画が作られたのは30年前だが、さまざまな抑制が存在していたあの時だったからこそ、このような挑戦的な映画を撮ったのではないかと思えた。その精神力は強く、すさまじいまでの覚悟を感じるが、もろ手をあげて賛成はできない。もっと違った表現のルー・サロメが見たい。そう感じだのが素直な感想である。

『ルー・サロメ ~善悪の彼岸 ノー・カット版』
監督・原案・脚色 リリアーナ・カヴァーニ
出演 ドミニク・サンダ エルランド・ヨセフソン ロバート・パウエル


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