★★★ 芦坊の書きたい放題 ★★★

   
           毎週金曜日更新

第203回 奇人列伝−4 中江兆民ほか

2017-02-10 | エッセイ

 前回(第187回)に引き続き「昭和超人奇人カタログ」から、奇人のエピソードの第4弾をお届けします。

<中江兆民>
 明治の自由民権思想家ですが、その行動は、破天荒で、酔うとハダカになるクセがあった。こんな写真が残っています。

 兆民が役人だった頃、華族令嬢との縁談が持ち上がった。見合い当日、酒ですっかり出来あがっていた兆民は、いきなりフンドシをとって、真っ裸になり、キンタマを手で大きく広げた。
 「オレは一文無しで、花嫁にやるものがない。ただ一つ、ここにキンタマ火鉢(小ぶりの火鉢で、またいで股ぐらを暖めるのに適することから、この名があるー筆者注)があるから、これをやろう」と差し出した。
 花嫁が目を白黒させていると、友人のひとりが、「火の気のない火鉢では仕方あるまい」と、真っ赤に焼けた炭火をキンタマに乗せたからたまらない。当然、破談になった。

 兆民先生のキンタマ話には続編がある。
 宴会で酔った先生は、芸者に悪ふざけして、キンタマの袋を大きく広げ、杯のようにして酒を注ぎ飲ませた。芸者もさるもの。仲居に命じて、熱燗の日本酒をキンタマに「返杯」したからたまらない。「アッチッチ」と飛び上がったそうな。
 まったく懲りない大セクハラおやじである。

<坂田三吉>
 「明日は~、東京へ~、出ていくからは~、何がなんでも勝たねばならぬ~」と、いまだに、私ら大阪人の反東京意識をくすぐり続ける「偉人」。
 いわずと知れた将棋名人。将棋以外は子供みたいな人物で、エピソードも多い。その一部を同書から。

 生涯で書けた文字は、名前の「三吉」と角の裏面の「馬」だけであったが、「三吉」の書き方がある書家から教わった独特なもの。まず、「一」の字を上から並べて七つ書く。そして、四つ目と五つ目の真ん中にタテに棒を入れる・・・という具合にタテとヨコ棒だけで教えた。生涯、その筆法で名前を書いていたという。
 昭和9年、三吉65歳の時のこと。16歳の升田幸三初段と会って、その稽古ぶりを見ていた。その後も熱心に、升田の将棋を追いかけた。
 ある時、升田が「なぜ、私なんかの将棋をご覧になるんですか」と訊いたら、「あんたぁ、天下を取りまっせ。木村(名人)を、負かすのはアンタや。アンタの将棋は大きな将棋や。木村のは小さい」と、三吉は、ズバリと将来を言い当てていた。

<阿部定>
 あまりにも有名な「阿部定事件」の当事者です。事件の相手となった石田吉蔵(当時42歳)は遊び人で、定が接した男の中では情事が一番うまく、やさしい男だった。吉蔵には、マゾの気があり、情交中に窒息するまで首を絞められるのを好んだ。事件当時も腰紐であまりに絞めすぎて死なせてしまった、というのが真相とされる。
 予審調書で、定は、「私のやったことは男にほれぬいた女ならば世間によくあること。ただ、しないだけだと思います」と述べている。
「しないだけ」という発言が怖い・・・・・

 私なりに、調べてみたら、懲役6年の判決を受けたものの、昭和16年に、紀元2600年の恩赦で出所してるんですね。
 そういえば、昭和40年頃だから、彼女も60歳を過ぎていたはずですが、都内で、おにぎり屋をやっている、との記事を、週刊誌だかで、読んだ記憶があります。その後、「失踪」したまま、というのが、謎めいてますが・・・・

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。