★★★ 芦坊の書きたい放題 ★★★

   
           毎週金曜日更新

第593回 奇人列伝-6南方熊楠ほか

2024-09-13 | エッセイ
 久しぶりに「奇人列伝」の第6弾をお届けします(文末に、直近2回分へのリンクを貼っています)。
 前回ネタ元にしました「昭和超人奇人カタログ」(香都有穂(こと・ゆうほ) ライブ出版)から引き続き3人をご紹介します。いずれ劣らぬ変人、奇人、(なかには)超人ぶりをお楽しみください。

★南方熊楠(みなかた・くまぐす)(1867-1941)★
 超人的学識と奇行で知られた民俗学者、博物学者です。

 キノコ、コケ類、粘菌の研究分野で、世界的な業績を残しています。数限りない奇行エピソードを残していますが、驚異の記憶力、天才ぶりに絞ってご紹介します。
 7歳で小学校に入学した時には、すでに難しい漢籍を読みこなしていました。10歳の時から、当時の百科全書として広く使われていた「倭漢三方図絵」(全105巻)の筆写に取り組み始め、わずか5年で完成させています。
 12歳の時、和歌山市内の古本屋で和装本の「太平記」を見て、欲しくなりましたが、値段が高くて手が出ません。そこで、小学校の帰りに、3枚、5枚と立ち読みして暗記し、自宅で書き写しました。半年で全54巻を写し終えたといいます。
 過ぎ去った43日間の日記を、天候、会った人物、時間までも正確に再現し、少しの間違いもなかった、とのエピソードも残しています。熊楠が自身の記憶力について語った言葉です。
「わが輩は地獄耳で一度聞いたことは決して忘れない。また忘れてしまいたいと想う時は奥歯をキューと噛んで舌打ちすると、すぐ忘れる」(同書から)
 日本が世界に誇る超人、奇人です。

★金田一京助(きんだいち・きょうすけ)(1883-1971)★
 数多くの国語辞書の編集で知られた言語学者です。息子の晴彦も言語学者として名をなしています。
 東大、早大で教壇に立っていますが、講義の延長が常でした。20~30分の延長はザラで、2時間のところが3時間になることもよくあったといいます。
 昭和29年に、天皇陛下の前で講義した時もそのクセが出たのです。柳田国男ら4人に、15分ずつが割り当てられました。予定通り終えた柳田に続いた金田一が気がつくと、45分も超過しています。柳田からあと5分で切り上げるよう耳打ちされましたが、さらに15分かかりました。
 数日後、天皇から4人が呼ばれて食事をご相伴した時のことです。失態に恐縮する金田一に「天皇は「金田一、この間の話はおもしろかったよ」と声をかけました。「恐れ入りました」と金田一は感激の涙をポロポロ流した」(同書から)ずいぶん純情だったんですね。
 ある時、放送局から、晴彦が対談番組に出演するための迎えのタクシーが来ました。それにサッサと乗って京助が出かけました。いくら待ってもタクシーが来ないので、電車を乗り継いで晴彦が放送局に着くと、なんとそこに京助がいるではありませんか。
 放送局も、大先生の京助にあなたではございません、とも言えず、結局、親子にゲストを加えたトークになりました。
 息子が番組に出るのを知っていたのではないでしょうか。なかなかのちゃっかり親父ぶりを発揮しています。

★横溝正史(よこみぞ・せいし)(1902-1981)★
 金田一探偵が活躍する「八つ墓村」などで知られた推理小説作家です。
 大変な乗り物恐怖症で、乗っていると何ともいえない恐怖と孤独に襲われて、飛び降りたい衝動にかられるというから危険この上ありません。昭和8年、東京から汽車に乗った時のこと。千葉で最初の発作が出て、そこで降りてしまいました。その時は、酒を飲み続けて何とか帰ってきました。戦後、小田急沿線に住んでいましたが、電車に乗ったのは、6年間で2回だけだったといいます。小説では人を恐怖させながら、本人が、乗り物恐怖症というのが意外でした。

 いかがでしたか?直近2回分へのリンクは、<第203回><第452回>です。なお、ネタ元の本にもう少しご紹介したい人物が「います」ので、いずれ続編をお届けする予定です。それでは次回をお楽しみに。

第592回 現代の海賊との攻防話

2024-09-06 | エッセイ
 18、19世紀ならともかく、現代(といっても、ネタ元が少し古い本ですので、1990年代のことになります)に、海賊なんているの、と言われそうです。でも、20万トン級タンカー(原油輸送船)を標的にした襲撃事件が起こっていた、というのを知って驚きました。
 こんなタイプの船です(ネットから)。

 以前にも何度かネタ元にしました上前淳一郎さんの「読むクスリ」シリーズ(文春文庫:文末に簡単な書誌データを付記しています)の「海賊ニ注意セヨ」(第32巻所収)から、お届けします。最後までよろしくお付き合いください。

 日本船主協会海務部の日比野雅彦さんによると、1997年中に世界で、229件もの海賊襲撃事件が発生したといいます。そして、ほぼ半分の110件が極東・東南アジア海域で巨大タンカーが襲われた事例です。それには、こんな事情がありました。
 中東から日本へ原油を運ぶタンカーは、アラビア海からベンガル湾を通り、南シナ海に抜けるルートを航行します。その途中にあるマラッカ・シンガポール海峡は、ご覧のように狭く、しかも水深が浅いため最大の難所です。

 タンカーは、速度を落とし、周囲の船や浅瀬に注意を払いつつ、夜は、衝突防止のため前方をこうこうと明かりを照らしながら進みます。でも、巨体ですから、船体の後部までは監視が行き届きません。しかもスピードを落としています。そこが海賊どもの目の付け所です。小型の高速艇で近づき、タンカー後部の手すりにカギ付きロープを投げ上げ、引っ掛けます。武器を手にした数人がよじ登り、乗組員を脅して金品を奪うのです。
 船内はとにかく広いですから、乗組員たちが気づかぬうちに部屋に入り込み、金品を奪って逃げます。中には、ピストルで応戦した船長が射殺されるケースもあったといいます。狭い海峡で陸地が近いですから、一旦、船を離れれば逃走も容易で、連中にとっては都合がいい条件です。

 「なぜ海賊が捕まらないか、とおっしゃるんですか?それは海の上の出来事だからですよ」(同書での日比野さんの発言。以下、同じ)
 日本人を含め、多国籍の船員が襲われた場合、誰が、どこへ届け出るか、という問題があります。沿岸国に届け出たとしても、神出鬼没の海賊の取り締まり、捜査に期待はできません。かえって、情報収集に協力して足止めを食い、原油の輸送が遅れるばかりです。
 
 手を拱(こまね)いてばかりはいられません。船主の経済的被害を防ぎ、船員を守る対策は、自分たちでやるしかない、と取り組みが始まりました。
 航行中の船同士は、お互いに交信して、怪しい高速艇が迫ってこなかったか、情報をやりとりします。日比野さんは、日々、世界の「海賊情報」を集め、危険水域を航行中の日本船に「海賊ニ注意セヨ」と連絡するようにしました。
 その上で、「海賊どもをよじ登らせないようタンカーのほうで気をつけるしか、方法がありません」
 夜間、船尾の見張りを強化しました。不審な船に気づいたら、汽笛を高く鳴らして投光器で照らし、消火用ホースで大量に水をぶっかけます。お前たちの正体はわかっているぞ、と示すことで連中は逃げ出しました。
 そして、対策の切り札は、船尾へのセキュリティシステムの設置です。まず、赤外線やレーザーを使って、海賊が登ってこようとすると探知する装置が試作されました。
 そんな中、日本のナビックスライン社が開発したのが「桃太郎」というシステムです。後部の上甲板にぐるっと鋼線を張りめぐらせます。海賊がロープを投げ上げると、この鋼線に引っ掛かり、張力を検知するというシンプルな仕掛けです。警報ブザーが鳴り出し、乗組員に知らせます。あとは、先ほどのような対応で、海賊どもを追っ払うのです。同社船員部の児玉敬一さんによれば「7年前にこれをタンカーに設置してから、わが社では1件も海賊の被害がありません」とのことで、効果絶大です。
 「桃太郎」という可愛い名前は、同社の女子社員が「鬼退治なら「桃太郎」でしょう」との提案が、その場で採用されたもの、とのこと。なお、ナビックスライン社は、1999年4月に商船三井と合併して社名は消えましたが、「「桃太郎」にはまだまだご活躍願わなければならないだろう」と著者は締めくくっています。

 いかがでしたか?当たり前のように入ってくる原油の裏には、こんな攻防、ご苦労があったんですね。タンカーに限らず、世界を航行中の船の安全を願わずにはいられません。それでは次回をお楽しみに。
<付記>「読むクスリシリーズ」は、1984年から2002年まで、著者が週刊文春に連載したコラムを書籍化したものです。企業人たちから聞いたちょっといい話、愉快な話などを幅広く紹介しています。文春文庫版は全37巻です。

第591回 開高健のジョーク十番勝負-2

2024-08-30 | エッセイ
 続編をお届けします(文末に前回分へのリンクを貼っています)。作家の開高健氏と、島地勝彦氏(週刊プレイボーイ編集長(当時))が、酒を飲みながら都合10回行われたジョークバトルの記録「水の上を歩く?」(TBSブリタニカ)がネタ元です。多少色っぽいのも含め、気楽にお楽しみください。なお、< >内は、私なりのコメントです。画像左が開高氏、右が島地氏です(同書から)。

★ジョーク界のVIP(開高ネタ。以下<K>)
 ブラジルのリオデジャネイロで地下鉄工事が計画され、工事が始まりました。ところが、岩盤が硬く、掘れども掘れども繋がりません。市長が替わり、州知事も替わりましたが完成しません。そこで誰言うとなく、これを「ジャクリーヌ」と呼ぶようになりました。「ココロは、世界で一番ゼニのかかる穴ちゅうわけや」
 ケネディ大統領元夫人にして、世界の海運王オナシスに嫁した彼女をネタにした実話だそう。

<有名人、VIPはよくジョークのネタになりますが、それも有名税の一部なのかも>

★本当の男って?(島地ネタ。同<S>)
 アメリカ人を乗せたローマのタクシー運転手が、自慢げにいいました。
「旦那、ローマじゃ、本当の男だけがタクシーの運転手になれるんでさあ」 
 理由を尋ねる客に「おれたちゃ左手は交通合図に使い、右手は歩いてる女の子に手を振るのに使ってるからね」 
 驚いて、どうやってハンドルを動かすかを訊く客に、運転手は胸を張って、「だから本当の男でないとだめなんでさあ」
<乱暴だけど、運転はうまいイタリア男性を巧みに笑い飛ばしています>

★小説家の変なクセ<K>
 だいぶ前の人ですが、舟橋聖一という小説家がいました。いろいろエピソードの多い人物だったようですが、「覗き」の趣味を持っていました。
 昔は、文士が地方へ講演などで地方へ行くと、夜は、芸者遊びがつきものです。さる文士が芸者としけこんで翌朝、実はこれこれと朝飯の時に戦果を報告していると「フムフムと聞いていた舟橋先生が言ったーーー「ウン、君はなかなか正直だな」」
<信憑性が高く、大笑いしました>

★これであなたも痩せられる?<S>
 腹の出っ張った熟年のオッチャンがサンフランシスコの坂道をよたよた登っていると「10ドルであなたも痩せられる」との看板が出ています。10ドルで痩せられるなら安いもの、と看板の出ていたジムに入りました。10ドル払って、レオタードを着せられ待っていると、向こうの赤いドアのかげからビキニ姿の美女が出てきました。よく見ると、パンティに「つかまえたら、あなたのものよ」と書いてあります。それっと追いかけますが、相手は逃げ足早く、へとへとに疲れただけでした。さて、2~3日後、今度は「20ドルであなたも痩せられる」との看板を目にしました。20ドルならもっと美人が出てくるだろうと、性懲りもなく店に入って俟っていると、出てきたのはヒゲモジャの大男。「「!?」呆然として男を眺めるとパンツのところに「つかまえたら、オレのものにするゾ」
<オチまでとんとんと運びたいジョークですね>

★ロシアン・ジョーク<K>
 この道の王道といえばロシアのジョークです。
 ゴルバチョフがペレストロイカ(改革開放)を進めていた頃のことです。国産車ボルガが欲しい若者が、節約に節約を重ねて金を貯め、ディーラーへ買いにいきました。案の定、ウェイティング・リストが一杯で、納車は10年後になるというのです。若者の「いいですよ。でも、10年後のその日の午前中ですか、それとも午後ですか?」(同)との発言に、係りの男は、10年先の午前か、午後かなんて、わかるわけないだろ、と返します。
 それに対する若者の言い分です。「実は、10年後の今日の午前中、私は水道管の修理に行かなくちゃならないんで、同志」
<物不足、人手不足を笑い飛ばす豪快なジョークです>

 存分に笑っていたいただけましたでしょうか?なお、前回へのリンクは<第576回>です。合わせてご覧いただければ幸いです。それでは次回をお楽しみに。

第590回 「ちょ・・」ほか大阪弁講座58

2024-08-23 | エッセイ
 第58弾をお届けします。タイトルにある「ちょ・・」は、「ちょ」がアタマにつき、大阪人がとりわけ好む様々な言葉を取り上げます、とのつもりで付けましたた。いささか尾籠な響きのある「屁のつっぱり」とあわせ、お気楽に最後までお付き合いください。


<ちょ・・>
 「ちょ」で始まる言葉で、日常的に広く使われるものといえば、「ちょっと」とか「ちょうど」などが思いつきます。大阪人はことのほか「ちょ」が付く言葉が好きなようで、バラエティに富んだのがいっぱいあります。思いつくままにご紹介してみます。

 量とか数が少ない、というのが基本的なイメージです。
「ちょびっと」というのが代表例になります。子供っぽい響きがありますが、大のオトナも堂々と使います。
 「なあ、もう「ちょびっと」安うなりまへんかなぁ?ほたら(そうすれば)買(こ)うてもエエんやけど・・・・」

 小さい頃、駄菓子屋の店先なんかで、「ちょぼ焼き」というのをオバさんなんかが焼いてました。タコ焼きのタコの代わりにコンニャクやら紅生姜やらを入れたもので、「ちょぼ」というのにふさわしく小ぶりで、安直な食べ物でした。こちらは「タコ焼き」です。

「ちょぼ」の系列では、「おちょぼ口」という言い方もありました。女の子の小さくて可愛い口を指して、オトナが使ってました。
 そうそう「ちょぼちょぼ」という言い回しを思い出しました。同じ程度ということなんですが、「ちょぼ」というくらいですから、レベルの低いところで、どっちもどっち、大した違いはない、と少々突き放したニュアンスの表現です。
「どっちが勉強できるかゆうてケンカしてるけど、二人とも「ちょぼちょぼ」や。ケンカしてるヒマがあったら勉強しぃ!」

 「ちょろ」系の言葉もあります。
 「ちょろちょろ」「うろちょろ」というのは、全国的に広く使われます。
 大阪弁だと「ちょろい」というのが代表選手でしょうか。ものごとが簡単、容易なことを意味します。
 「あんな試験「ちょろい」もんや。全部でけたわ」と自慢げに使えます。また、
 「宿題してきたかぁて訊くから「してきた」と答えたらそのまま信用してるねん。「ちょろい」先生や」のごとく、騙しやすいことを、すこしからかい気味に使う用例も思いつきました。
 「ちょろまかす」というのがあります。そう大した額とか量とかでないものをごまかすことです。「ちょろ」(少し)プラス「ごまかす」で「ちょろまかす」かなぁ、と思っています。
お使いに行って帰って来た子が親から詰問されています。
「なあ、計算が合わへんけど、アンタ、お釣り「ちょろまかし」てへんか?」

 「お」をつけて、「おちょくる」というのがあります。馬鹿にする、というほどキツくはないですが、相手の言動を軽くからかう時に使います。
「こっちは真剣に説明してますねん、いちいち「おちょくる」のは止めてもらえまへんか?」
「おちょける」というと、自分の方から、ふざけたマネなんかをすることです。小さい時から笑いを取ってナンボの精神が染み付いてるのが大阪人ですからね。
「またそんな変顔して。「おちょけ」とらんと、人の話をちゃんと聞き!」

<屁のつっぱり>
 いかにも大阪人が好みそうないささか品位に欠ける言葉ですが、小さい頃から親しんできました。
 「つっぱり」というのは、ものを支える支えるための棒、つっかえ棒のことじゃないかと想像しています。気体として出てしまった「屁」に「つっぱり」を入れても、何の役にも立たない、手遅れ、余計なお世話・・・・そんな想いを込めて「「屁」のつっぱりにもならん」と否定形で使うのがお約束です。
 「こっちは親戚中が集まっての法事で朝からてんやわんやで準備しとんねん。あらかた用意が出来た頃合いに来て、「なんか手伝うことないかぁ?」言われても。「屁のつっぱり」にもならんわ。ホンマ、あんたの父さんの親戚にはロクなんおらへんわ」
 小さい頃、親戚一同が集まるお盆の法事で、おふくろが、陰でよくこぼしてたのを思い出します。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。

第589回 幕末、米人英語教師がいた

2024-08-16 | エッセイ
 幕末、日本人に本格的に英会話を教えたいとの一念で、単身密入国したアメリカ人がいた、というのは驚きです。その人物の名は、ラナルド・マクドナルド。父はスコットランド生まれ、母はアメリカ先住民の娘という出自です。アメリカの捕鯨船で北海道近海まで来て、あとは、大胆にもボートに乗り換え、1848年に利尻島に上陸しました。ペリー来航の5年前のことです。
 そんな歴史に埋もれた人物を、作家の吉村昭氏(以下、「氏」)は「海の祭礼」(文春文庫)で小説化し、光を当てました。エッセイ「史実を歩く」(文春新書)には、小説化のきっかけ、マクドナルドを巡るエピソードなどがコンパクトに書かれています。同書に拠り、ご紹介することにしました。1853年、29歳当時のマクドナルドです(同書から)

 そんな人物がいたことは、氏がよく訪れる長崎の県立図書館館長・永島正一氏から聞かされていました。直接のきっかけは、文藝春秋社の役員(当時)で、作家でもあった半藤一利氏から、資料を渡され、作品化を勧められたことです。それは、訳せば「日本における最初の英語教師であるラナルド・マクドナルドの日本冒険物語」なる英文回想録でした。以下、氏のガイドで、この興味深い「史実を歩く」ことにしましょう。

 上陸したマクドナルドは、島に軟禁されます。意思疎通は、身ぶり手振りしかなく、名前ひとつ聞き出すのにも、相当困難があったようです。それでも「マキドン」という名を聞き出したことが松前藩の記録に残っています。
 当時の国法に従って国外追放にすべく長崎に護送されました。語学熱心なマクドナルドは、その道中でも日本語の習得に努めました。根っからの語学好きだったんですね。
Thank you ー>  Arigodo(ありがとう)/ Hand ー> Tae(手)/ Pen ー> Fude(筆)などの記録を残しています。
 長崎では大悲庵の座敷牢に入れられました。その時、幕府と長崎奉行は、大胆な決断をします。当時、英語圏の船がさかんに日本近海で活動していました。それらの国となんらかの接触の機会があれば、英語が必要になるだろうと考え、オランダ通詞(通訳)に、座敷牢で英語を学ばせることにしたのです。

 実は彼らオランダ通詞には、英語の下地がありました。当時のオランダ商館長の次席ヤン・コック・ブロムホフは、軍人としてイギリス滞在経験があり、英語が話せました。彼の協力もあり、約6千語を収録した日本初の英和辞書まで出来ていたのです。
 ただし、誤訳も多く、特に発音に難がありました。
Hair(毛) ー> ヘール / Head(頭)ー> ヘート / Thunder(雷)ー> テュンデル といった具合で、どうも「オランダ語訛り」が抜けきれなかったようです。

 さて、マクドナルドとの「学習」で、通詞たちが特に力を入れたのは、耳から生きた英語を習得することでした。その勉強ぶりを先ほどの回想記(富田虎男氏訳)には「彼らは大変のみこみが早く、感受性が鋭敏であった。彼らに教えるのは楽しみだった。」(同書から)とあります。
 一方、マクドナルドも語学オタクぶりを発揮し、単語帳を充実させています。
Good(良い)ー> Youka(良か)/Bad(悪い)ー> Warka(悪か)/ Cheap(安い)ー> Yasuka(安か) のように。長崎弁丸出しなのがご愛嬌で、ちょっと笑えます。
 
 マクドナルドは1年足らずで、アメリカ軍艦で日本を去ります。でも、彼が蒔いた種は確実に育ちました。なかでも、森山栄之助は優秀で、先ほどの英和辞書の発音を修正したり、後継者の育成に精力的に取り組むなど尽力しました。
 そしてペリーの来航です。1853(嘉永6)年と、その翌年、森山は、交渉の場に首席通詞として臨みました。単なる通訳としてだけでなく、日米両国の立場、意思を伝えるという困難な任務をやりとげました。その語学力は、アメリカの代表団からは高く評価され、のちにイギリス公使として着任したオールコックからも認められています。とりもなおさず、幕府が、文明国並みの権威と地位を有していることを知らしめることになりました。ひとつ間違えば戦火を交える可能性もあっただけに、森山の功績は際立ちます。

 帰国後のマクドナルドですが、国内では無名で、ずっとその功績が知られることはありませんでした。そんな彼に光を当てたのが、エプソン社のアメリカ駐在員冨田正勝氏です。「海の祭礼」を読んだのをきっかけに、マクドナルドの功績を広く知ってもらうよう活動しました。その結果、生地オレゴン州アストリアで関心が高まり、遂には、英語と日本語で記された顕彰碑が建てられたのです。
 日本でも、長崎の大悲庵の近くと、平成8年には、利尻島の上陸海岸に碑が建てられ、氏は両方の式典に参列しました。さぞ感無量だったことでしょう。ネットで見つけた碑の画像です。

 いかがでしたか?まるで図ったようなタイミングで、日本に舞い降りて、英語の教育に尽力したマクドナルド。そして、その教えを日米交渉の場で活かした森山栄之助。歴史上、その功績がもっともっと有名になってほしい二人です。それでは次回をお楽しみに。

第588回 幇間に学ぶ会話術

2024-08-09 | エッセイ
 「幇間(ほうかん)」または「たいこもち」とも呼ばれる仕事をご存知でしょうか? 宴席などに侍って、唄、踊りなどの芸を披露したり、お客との会話に加わったりして座を盛り上げるのが主な務めです。時代の流れもあり、今や、全国でも数えるほどしかいない貴重な存在で、後ほど登場いただく悠玄亭玉介(ゆうげんてい・たますけ 1907-94年)師匠です。

 な~んてエラソーに書いてますが、落語「鰻の幇間(たいこ)」などで、その世界をちょっぴり知る程度です。まずは、その噺を通じて、仕事ぶりの一端を知っていただき、漱石の「坊っちゃん」に登場する人物にも触れることにします。後半が本題で、玉介師匠の聞き書き本をネタ元に、快適な会話を楽しむコツを学ぼう、という趣向です。どうぞ最後までお付き合いください。

 噺の流れです。今日も今日とて、幇間の一八(いっぱち=落語での幇間の定番ネーム)は、景気の良さそうな馴染み客を見つけて昼飯でもゴチになろうと町をブラブラしています。向こうから、見覚えがあるような、ないような若旦那がやって来ました。調子よく話しかけると、鰻屋に誘われました。路地裏のうす汚い店の二階で、ほかに客は居ず、いかにも流行っていません。不味い鰻を食べながら、一八もそこは商売。適当に話の調子を合わせているうちに食事が終わりました。そこで男は便所に立ちましたが、なかなか戻って来ません。便所にもいないので、下へ降りて、店の者に訊くと、「お代は、二階の旦那が払うから」と言って、六人前の鰻まで土産にし、先に帰ったというのです。あげくは、一八の草履まで履いて帰ってしまいました。泣く泣く羽織に縫いこんであったカネで払うハメに。ゴチになるはずが、踏んだり蹴ったりのオチが笑いを誘います。

 ここで登場した幇間は、特定の贔屓客とか、出入りの料亭などを持たず、自分の才覚だけでやっていく、いわばフリーの幇間です。正規の(?)幇間連中からは、うんと見下され、俗に「野だいこ」と呼ばれました。
 といえば、思い出す方も多いはず。漱石の「坊っちゃん」に登場します。教頭の「赤シャツ」の腰ぎんちゃくで、ゴマばかりすっている画学教師に、坊っちゃんが付けたアダ名です。漱石の時代には身近な存在だったのでしょうね。それにしてもぴったりのニックネームで、漱石のユーモアセンスにあらためて感心します。小学年の頃、この作品を読んで「「野だいこ」ってなに?」と親に訊いた覚えがあります。明快な説明はありませんでした。知らなかったのか、知っていたけど小学生に説明のしようもなく困った、のどちらかだったのでしょうね。

 前置きが長くなりました。本題に入ります。師匠の「幇間(たいこもち)の遺言」(集英社文庫)は、生い立ちから始まって、苦労話、艶話など興味が尽きない一冊です。
 なかでも、一流の幇間の証しでもあり、一番大切な心得として説かれていたのが、ヒトの話をよく「聞く」ということでした。
「おまえさんねぇ、なんで耳が口より上に付いてるか知ってるかい?まず、ヒトの話を聞くってのが大事なんだよ。しかもだよ、耳は2つ、口は1つだろ?いかに聞くように出来てるか分かるだろっ」(同書から)
 幇間といえば、ちゃらちゃらと一方的にしゃべりまくって、ヨイショ(お世辞)でいい気持ちにさせるものだとばかり思ってました。確かに、落語の世界では確かにそんな幇間ばかりなんですけど、とんだ勘違いでした。

 実は、一流の幇間になると、ほとんどしゃべらないのだといいます。お客の話にひたすら耳を傾けて相づちを打つだけ。でも、そこが芸。「ほ~」「なるほど」「で、どうなりました?」「一体どんなわけで?」「そりゃ、驚いたでしょ」「さすがだねぇ」など、いろんな合いの手が、しかも間合いよく繰り出されます。お客はますます興に乗り、いい気分になるという次第です。酒が進み、財布の紐も緩もうというもの。
 ものの本によれば、そこまで配慮されても、半分くらいしか話してない、しゃべり足りない、と感じる人が多い、というのです。つくづく、人間って身勝手な生き物だ、と感じます。

 最近は足が遠のいていますが、かつては、馴染みのスタンドバーなどでも、中には、自分勝手で、マイペースなトークを展開する人もいなかったわけではありません。でも、振り返ってみれば、相手の話をよく聞き、「質問する」という形で、話題を広げ、盛り上げていく「心掛け」はしていたつもりです。オトナのお客さんが多かったこともあり、概ね対等で快適な会話を楽しめたかな、と感じています。師匠のような域に達するのは無理としても、会話は「聞く」のが基本、を肝に銘じて(機会は減りましたが)いろんな人とのトークを楽しんでいこうと決意したことでした。

 いかがでしたか?快適な会話をお楽しみいただく上で、ご参考になれば幸いです。それでは次回をお楽しみに。

第587回 謎の画家バンクシー物語

2024-08-02 | エッセイ
 謎につつまれたイギリス人画家・バンクシー(通称)を、NHKのドキュメント番組「アナザー・ストーリーズ」が取り上げていました(2024年3月1日放映)。
 美術界という既成の権威への反発、不満から、彼は創作活動をスタートさせました。しかし、その過激さ、ユニークさがかえって評判を呼び、自身のブランド力、商品価値を高めてしまう、というきわめて皮肉で、興味ひかれる「ストーリー」です。番組内容に沿ってご案内します。最後までお付き合いください。

 1980年代、イギリスでは新自由主義経済政策が採られた結果、貧富の格差が拡大し、多くの若者が不平、不満を抱えていました。バンクシーが生まれ育ったブリストル(ロンドン西方、約170kmの港湾都市)でも、若者と警官隊との衝突が日常化していました。

 そんな中、無断で建物の壁や塀に巨大なスプレー画を描き、社会へのメッセージを発信する「グラフィティ(落書き)・アーティスト」と呼ばれる若者が続々と現れます。バンクシーもその一人で、当時、彼が描いたとされる2点の「作品」です(以下、画像は全て同番組から)。

 彼らの活動を、プロカメラマンとして追いかけていたラザリデスは、当時まだ10代のバンクシーと出会います。そして、バンクシーに代わって番組に登場し、いろいろ語るのです。

 出会った時の印象を「寡黙で無愛想な青年で、第一印象は決して良くなかった」とラザリデス。でも、彼の作品に接して、すっかり惚れ込んでしまい、「見た瞬間に恋に落ちた」といいます。そして、1997年、ついに決断するのです。プロカメラマンを辞め、バンクシーのマネジメントに専念することを。
 活動の拠点を、ロンドンに移すのが最初の仕事でした。でも、そこは至るところに監視カメラの目が光っています。そのため二人は知恵を絞ります。ステンシル(画像を切り抜いた型紙)を何枚か用意し、スプレーを吹き付けて、手早く「作品」を仕上げる手法を採用したのです。おかげで多くの作品がロンドン中で話題にはなったものの、美術界からは、まともなアートとは評価されず、鬱屈した日々が続きました。

 ある日、パブで飲みながら、バンクシーはラザリデスにある計画を持ちかけます。イギリスを代表するテート・ブリテン美術館に侵入し、自分の作品を無断で展示しようというのです。「まるで銀行強盗に入る気分」とのラザリデスの言葉も無理はありません。でも、周到な準備により計画は成功します。番組では、彼が撮影したその時の動画が流れました。その一部です。

 「あれは本当に痛快だった」「自分の絵と有名な絵のどこが違う。展示される場所でアートを判断する人への強烈な皮肉だった」とラザリデスは、バンクシーの気持ちを代弁しています。
 翌年には、ロンドン自然史博物館、大英博物館、メトロポリタン美術館(米国)でも計画を成功させ、その動画を公開するなど、行動はますます過激になっていきます。
 2006年、アメリカでの展示会には3日間で有名人も含めて3万人が訪れました。おかげでバンクシーの作品は高値で転売されるようになります。商業主義とは一線を画してきたたはずの彼は、そのことに大いに不満を抱き、とんでもない「事件」を起こすことになるのです。

 2018年10月5日、彼の「風船と少女」という人気作品のプリント版が、サザビーズ(世界的なオークションハウス)で競売にかけられました。値はどんどん上がり、88万ポンド(約1億3千万円)で落札されました。すると、その瞬間、額縁内に仕込んであったシュレッダーが作動し、作品の下半分だけが短冊状に切り刻まれたのです。番組で流された動画の一部です。

 一体何が起こったのかわからず、会場は大混乱に陥った、と現場に居合わせた美術記者は伝えています。ハウス側はとりあえず「作品」を一旦引き上げ、関係者による協議が40分ほど続きました。疲れ切った表情で会場に戻ってきた責任者の一言です。「バンクシーにやられた」
 あまりの手際の良さに、バンクシーとサザビーズが手を組んだのではないか、との噂が流れるほどでした。
 そして、この「事件」には後日談があります。3年後、前回の落札時のままの「作品」が再びオークションにかけられ、29億円という「バンクシー史上の最高値」で落札されたのです。「バンクシーはさぞ怒り狂ったことだと思うよ。彼があそこまでやっても美術界という巨大なマーケットに飲み込まれていったわけだからね。あの事件以降、彼は少し自信を失くしているようにみえるよ」と語るラザリデス。作品の破壊という作戦は、まったくの裏目に出てしまったわけです。

 番組の終わりのほうで、彼の近況が伝えられます。パレスチナをたびたび訪れ、ハトなどのグラフィティを残すとともに、ホテルの建設までも手がけました。場所は、イスラエルがパレスチナの各都市を分断するために設置した分離壁のまん前です。部屋の窓からは壁しか見えません。でも、「世界一、眺めの悪いホテル」との評判で客が押し寄せ、商売繁盛です。ウクライナも訪れ、こんなグラフィティを残しています。

 黒帯柔道着の人物が誰かは、わかりますよね。私も、弱者に心を寄せる活動には共感つつも、またしても商売になってるんじゃない?と、ちょっぴり感じたことでした。

 いかがでしたか?アートとビジネスをめぐって、こんなエピソードがあったんだ、と知っていただければ幸いです。それでは次回をお楽しみに。

第586回 山の不思議話

2024-07-26 | エッセイ
 山登りまではできませんでしたが、ロープウェイやケーブルカーを利用して、雄大な眺望を楽しんできました。「山怪」(田中康弘 ヤマケイ文庫)は、主に山を生活、猟などの場としている人たちが語る不思議話を集めたものです。「不思議なことがあるもんやなぁ」心が刺激された4つのエピソードを選んでご紹介します。最後までお付き合いください。その表紙です。

<色っぽい復讐>
 秋田県中部の打当(うちあて)集落を訪れた著者が、そこの村人から聞いた話です。
 彼が、車で林道を通って打当に向かっていると、親子の狐がいました。その狐に向けてハンドルを切ったり、追い回したりしたというのです。夜になって、彼とあとから来た友人たちとの酒盛りは夜半にお開きとなりました。彼が、トイレで目が覚めて部屋を見まわすと、ひとりの友人がいません。皆が心配していると、夜明けのちょっと前、玄関先に人の気配がして、慌てて開けると、その友人が立っています。一体どこへ行っていたのかと問う人たちに彼が語った話です。
「夜中寝ていると誰かが戸を叩く音がする。普段なら酒を飲んでその程度では目が覚めることなどないが、なぜか昨晩はすぐに目が覚めた。気になったので戸を開けて外を見ると、暗い中に一人の女が立っている。その女が綺麗でなあ、おらにこっちに来いって手招きするんだ」(同書から)
 手を伸ばせば届きそうですが、どうしても追いつけず、結局、朝まで追いかけ、さまよっていた、というのです。「だから狐にちょっかいなんて出すもんじゃねえ」(同)というのが、この話を語った人のキツイ忠告です。それにしても、色っぽい復讐ですね。こんな復讐だったら・・・

<道に迷った?ベテランのマタギ>
 同じ集落でのこと。ベテランのマタギ’(山での猟を専門とする人たち)が、集団で熊猟をすることになりました。勢子(せこ)と呼ばれる役割のマタギたちが、山の裾から「ホヤ~、ホヤ~」と声をかけながら、熊を山の頂上付近に追い詰め、撃ち手が銃で仕留めるという猟です。ある猟の時、勢子の一人と無線連絡が取れなくなりました。皆が心配する中、彼は、配置予定の場所から4~5kmも先にいるのを、林道工事をしている作業員に「発見」されました。様子がおかしいので、作業員が声をかけたといいます。「「おめさ、どっからきたんだぁ?」その言葉に惚けたような顔をした彼がはっと我に返った。こうして無事仲間の元へ帰ることが出来た彼が言うには、「いや、持ち場さ向かって山に入ったところまでは覚えてるんだ・・・・ただ、後は何も分からね。どこさ歩いてたのか全然分からね」」(同)というのです。途中には大きな滝があり、小さな温泉施設もあるといいます。どのようにそこを越えたのか。ベテランの身に起きた異様な体験です。

<叫ぶ声>
 打当の近くの根子地区のマタギ斎藤弘二さんの体験です。
 マタギになるべく厳しい訓練を積んで、一人立ちした佐藤さんは、ある冬、真冬の山中で夜明かしという訓練を自らに課しました。雪洞を掘って、入り口を柴木で塞ぎ、長い夜を迎えました。
 夕方には無風で、雪がちらつく程度だったのが、夜半から猛吹雪になりました。眠気と戦い、柴木が飛ばされないよう押さえていました。すると、人の声らしきものが聞こえてきたのです。
「あんまり風の音が凄いんで、よくは聞き取れねえんだよ。何かを叫んでるんだ。段々耳が慣れてきたらよ、どうもおらのことを呼んでるんだな」(同)
 誰かが自分を探しに来た可能性を考えて、一旦、外に出てみると、猛吹雪の中、呼ぶ声だけがしています。幸い、そこで足が止まりました。「いや、これは人間じゃねぇ。絶対に違う、行っては駄目だ」(同)と気づきました。「あのまま行ってたら間違いなく遭難してたべしゃ」(同) 
 マタギにふさわしい冷静な判断が、身を助けたのは何よりでした。

<謎のきれいな道>
 兵庫県北中部の朝来(あさこ)市のベテラン猟師吉井あゆみさんから聞いた話です。
 仲間の猟師たちと猟をしていた時、撃ち手の包囲網を抜けて、獲物が逃げたらしいというので、一旦集合して態勢を立て直すことになりました。その時、山の上で待機していた一人の男が「あれ、こんなとこに道があるわ。こっち行くと近いんちゃうか、俺こっちから行くわ」(同)
 白くて、まっすぐで、綺麗な道だというのです。そんなところに道があるはずないと不審がる仲間たち。一同が集まって1時間以上経っても彼は現れません。皆で探す相談をしているところへ彼が現れました。帽子はなく、顔は傷だらけ、泥まみれで、服はボロボロ。何度も滑り落ちたのは明らかです。何があったのか、と訊く仲間に「それがよう分からんのや。何でわしここにおるんですやろ」(同)
 さて、この事件の2年後のことです。以前と同じような状況で、獲物に逃げられ、一旦集合ということになりました。山を降りる準備を済ませた吉井さんは、目の前に、白くて、新しい道があるのに気づきました。近道そうだから、というので2、3歩踏み出したところで、2年前の事件を思い出しました。「真っ白の一本道・・・・あん時の道やこれは!行ったらあかんのや」(同)
 危うく難を逃れた彼女。2年の時を経て、二人の別の人間の前に現れたのですから、深い謎に満ちた「道」でした。

 いかがでしたか?山には山なりに不思議な話があるものですね。それでは次回をお楽しみに。
 

第585回 変わり者天国イギリス-2

2024-07-19 | エッセイ
 だいぶ間が空いてしまいました。続編(で最終版の予定です)をお届けします(文末に、前回記事へのリンクを貼っています)。ネタ元は、前回と同じ「変わり者の天国 イギリス」(ピーター・ミルワード 秀英書房)です。こちらは、その表紙で、イギリス人である著者自らが「変わり者」、「変なもの」と断じるいくつかのケースをご一緒に楽しみましょう。

 まずは、大学の話題から。イギリスを代表する大学といえば、オックスフォードとケンブリッジ(合わせて、「オックスブリッジ」と総称されることもあります)です。
 さて、ご覧の画像(以下、すべての画像は同書から拝借しました)は、オックスフォード大学の構内を外から見たものです。塀の上に、「忍び返し」と呼ばれるなんとも無粋なものが乗っかっています。

 本来は、泥棒とか部外者の侵入を防ぐための設備ですが、これはそうじゃないんですね。「学生の不法侵入」を防ぐためのものです。同大学は全寮制で、門限があります。門限に遅れると、各カレッジの入口で、きちんと遅れたことを報告する規則です。そして、それが度重なると、最悪「放校」という重い処分が待っています。
 ですから、学生の方も、塀をよじ登ったり、塀際の友人の部屋からロープを垂らしてもらったりと、知恵を絞ります。いかにも学生らしいノリですが、それに気づいた大学側が採った対策がこれ、というわけです。そこまで厳しくルールにこだわる大学って、ちょっと変?

 ライバルのケンブリッジ大学からも「変なもの」をご紹介します。同大学のクライスツ・カレッジの正門の片側にある奇妙な彫像です。

 これは「飛竜(ワイバーン(wyvern)」と呼ばれ、紋章に使われることもある想像上の怪物です。竜の体と双翼、鷲の鉤爪(かぎつめ)、蛇の尾を持つというんですが・・・
 著者も書いていますが、どう見ても、「有翼の豚」にしか見えません。同大学の卒業生には「失楽園」を著したジョン・ミルトンがいます。毎日、この像を横目に眺めながら、文学的インスピレーションでも得たのでしょうか。

 話題変わって、イギリス人て厳格な人が多くて、ユーモアとは無縁のような気がしていましたが、そうでもないんですね。こんな街の看板を紹介しています。

 なんのお店か、おわかりですか?
 「靴の修理屋さん」です。ショーウィンドウの上に「 upon my sole 」とあります。
 「 upon my soul 」のシャレで、「我が魂(soul)」ならぬ「靴底(sole)」に「誓って(upon)」と、というわけです。「靴底に誓って(しっかりと、いい仕事をします)」という決意表明なのでしょう。ホンワカしたユーモアで、ちょっぴり英語弁講座も兼ねました。

 さて、イギリスといえばパブ(居酒屋)です。どんな辺鄙なところにも必ずあります。そのユニークな名前、看板にまつわる2つの話題を、最後にお届けします。
 ロンドンの北に位置するハートフォードシャー州には、
 「古闘鶏亭(The Old Fighting Cocks)」とでも訳すべき名前のパブがあります。19世紀の半ばに法律で禁止されるまで、「闘鶏」という娯楽がありました。2羽の鶏を一方が死ぬまで戦わせ、その勝敗を対象にしたギャンブルです。このパブがその会場だったのか、当時のオーナーが「闘鶏」好きだったのかは、分かりませんが、今なら動物愛護の精神に反する名前を堂々とつけているのがいかにもイギリスです。
 ちなみに、闘鶏の会場は、"cock-pit"と呼ばれていました。飛行機の操縦席をその狭さから、
"cockpit"(コックピット)と呼ぶ由来になっているのが面白いです。

 スコットランドのエディンバラには、「 The World's End 」という名のパブがあります。こちらがその看板。

 「世界の終わり亭」というとんでもない名前です。所在するのは、エディンバラ市街の東の端。当時の住民にとっては、そこが世界の終わり、地の果てのように思えたからではないか、と著者は店名の由来を推測しています。こんなところにも、イギリス的ユーモアが溢れていました。

 いかがでしたか?前回記事へのリンクは、<第418回>です。合わせて、イギリスの「変わり者天国」ぶりに触れていただければ幸いです。それでは次回をお楽しみに。

第584回 椎名誠が嫌いな言葉たち

2024-07-12 | エッセイ
 言葉は生き物です。新たな言葉、使い方が生まれる一方、消えていくものもあります。ちょっと変だなと思う言葉や使い方も、私はそう気にしません。便利なら使うこともありますし、好みに合わないものは使わないだけ、と割り切っています。
 作家の椎名誠さん(以下、「氏」)には、仕事柄いろいろ気になる言葉使いがあるようです。「活字たんけん隊」(岩波新書)の「嫌いな言葉」という一文からご紹介しつつ、<  >内に、私なりの意見もちょっぴり付記しました。合わせて最後までお付き合いください。

★ファミレス敬語(「~になります」ほか)
 氏がまず指摘するのが、ファミレスなどでお馴染みのマニュアル化された敬語です。
 「こちら味噌ラーメンになります」「味噌ラーメンのほうお持ちしました」「味噌ラーメンでよろしかったですか」などの例です。マニュアル通りの言葉使いとは承知の上で、「へんてこ敬語」(同書から)だというのです。感覚的に居心地が悪いようですね。
<「~になります」というのは、敬語としては「あり」ですね。「明日は、いつお見えに「なります」か?」のように動作を表す言葉が前に付けば、ごく自然に聞こえます。ただし、「味噌ラーメン」などモノの名前との組み合わせには、私も違和感を感じます。
 で、私はマニュアル作成者のこんな想いを想像しています。モノを差し出す時の敬語は「~でございます」が普通です。でも、言い慣れない若いスタッフの場合だと、「~でごじゃります」などと思わぬ笑いを取ってしまうことがあり得ます。それなら言いやすい「~になります」でいこう、と決断をしたのではないかと。いっそ、「味噌ラーメン、お持ちしました」でいいですよね。
 さて、「よろしかったですか」との過去形も、「あり」ですけど、やりすぎと考えます。知っているかどうかを訊くのに「ご存知ですか?」は、ストレート過ぎるので、「ご存知でしたか?」と過去形にして柔らげる用法があります。それを「よろしかったですか」まで拡大、応用したのが、やりすぎで、ファミレスというカジュアルな場に合わなかった、という点では氏に共感します>

★若者言葉
 氏は、いわゆる若者言葉もやり玉にあげています。「口のきき方」(梶原しげる 新潮新書)から、関東圏の学生から収集した例の一部を引用しています。
「私的(わたくしてき)に」「~とか」『~みたいな」「てゆうかぁ」「~っぽい」「いちおう~」「なにげに」「私って~なヒトなんです」
 氏は「その言葉づかいの用法には「軽さ」と「幼児性」が通底している」(同)と断じます。
<断定的な言い方は避けて、波風を立てず、円満に会話を進めていこうという気持ちの表れかな、と若干好意的に受け止めてはいます(自分では使いませんが)。私自身が若い頃、「な~んちゃって」などと、軽いノリで自分で自分にツッコミを入れていたことと思い合わせて・・>

★「ら」抜き言葉
 最後に氏が取り上げるのは、悪評高き「「ら」抜き言葉」です。
「食べれる」「着れる」のような表現に、世代ギャップを感じるといいます。
<確かに、正しい用法ではありません。ただ、私は以下のような事情から、この流れは変えられず、いずれ定着するだろうと考えています。
 まずは、「られる」には「尊敬」と「可能」という2つの意味があるということです(「受け身」もありますが、とりあえず脇に置きます)。
 例えば、部下から「今度は、いつ「来られ」ますか?」と訊かれた上司はどう感じるでしょう。「ます」は付いていますが、敬意ではなく、来るのが可能かどうか、都合を訊いていると受け取ってムッとする人が多そうです。「来る」の敬語としては、「いらっしゃる」「お見えになる」「お越しになる」など専用の敬語表現がありますからね。「食べる」だと「召し上がる」です。
 かくて、「られる」は敬語としての地位をどんどん失いつつある、というのが私の見立てです。ただし、一応敬語ですから、この場合は、「「ら」抜き」にはなりません。
 そして、「可能」の「られる」です。カジュアルに可能性、都合などを表現しますから、「られる」の「「ら」行音の3連発」という発音上の面倒は避けたくなります。「れる」が定着するのは、自然の流れです。対等な相手で、カジュアルな場面、との条件は付きますが・・・
「今夜の飲み会に「来れる?」「これ、すごく辛いんだけど「食べれる?」などのように。
 誰が決めたわけでもないですが、一応のルール(「可能」の場合のみ「ら」抜きが可)があり、発音の省エネにもなる合理的な仕組みだと感じて、私は大いに愛用しています>

 いかがでしたか?「ちょっぴり」のつもりが、もっぱら私の考えが中心になった点はご容赦下さい。日本語の面白さを感じていただくきっかけになれば幸いです。それでは次回をお楽しみに。