★★★ 芦坊の書きたい放題 ★★★

   
           毎週金曜日更新

第589回 幕末、米人英語教師がいた

2024-08-16 | エッセイ
 幕末、日本人に本格的に英会話を教えたいとの一念で、単身密入国したアメリカ人がいた、というのは驚きです。その人物の名は、ラナルド・マクドナルド。父はスコットランド生まれ、母はアメリカ先住民の娘という出自です。アメリカの捕鯨船で北海道近海まで来て、あとは、大胆にもボートに乗り換え、1848年に利尻島に上陸しました。ペリー来航の5年前のことです。
 そんな歴史に埋もれた人物を、作家の吉村昭氏(以下、「氏」)は「海の祭礼」(文春文庫)で小説化し、光を当てました。エッセイ「史実を歩く」(文春新書)には、小説化のきっかけ、マクドナルドを巡るエピソードなどがコンパクトに書かれています。同書に拠り、ご紹介することにしました。1853年、29歳当時のマクドナルドです(同書から)

 そんな人物がいたことは、氏がよく訪れる長崎の県立図書館館長・永島正一氏から聞かされていました。直接のきっかけは、文藝春秋社の役員(当時)で、作家でもあった半藤一利氏から、資料を渡され、作品化を勧められたことです。それは、訳せば「日本における最初の英語教師であるラナルド・マクドナルドの日本冒険物語」なる英文回想録でした。以下、氏のガイドで、この興味深い「史実を歩く」ことにしましょう。

 上陸したマクドナルドは、島に軟禁されます。意思疎通は、身ぶり手振りしかなく、名前ひとつ聞き出すのにも、相当困難があったようです。それでも「マキドン」という名を聞き出したことが松前藩の記録に残っています。
 当時の国法に従って国外追放にすべく長崎に護送されました。語学熱心なマクドナルドは、その道中でも日本語の習得に努めました。根っからの語学好きだったんですね。
Thank you ー>  Arigodo(ありがとう)/ Hand ー> Tae(手)/ Pen ー> Fude(筆)などの記録を残しています。
 長崎では大悲庵の座敷牢に入れられました。その時、幕府と長崎奉行は、大胆な決断をします。当時、英語圏の船がさかんに日本近海で活動していました。それらの国となんらかの接触の機会があれば、英語が必要になるだろうと考え、オランダ通詞(通訳)に、座敷牢で英語を学ばせることにしたのです。

 実は彼らオランダ通詞には、英語の下地がありました。当時のオランダ商館長の次席ヤン・コック・ブロムホフは、軍人としてイギリス滞在経験があり、英語が話せました。彼の協力もあり、約6千語を収録した日本初の英和辞書まで出来ていたのです。
 ただし、誤訳も多く、特に発音に難がありました。
Hair(毛) ー> ヘール / Head(頭)ー> ヘート / Thunder(雷)ー> テュンデル といった具合で、どうも「オランダ語訛り」が抜けきれなかったようです。

 さて、マクドナルドとの「学習」で、通詞たちが特に力を入れたのは、耳から生きた英語を習得することでした。その勉強ぶりを先ほどの回想記(富田虎男氏訳)には「彼らは大変のみこみが早く、感受性が鋭敏であった。彼らに教えるのは楽しみだった。」(同書から)とあります。
 一方、マクドナルドも語学オタクぶりを発揮し、単語帳を充実させています。
Good(良い)ー> Youka(良か)/Bad(悪い)ー> Warka(悪か)/ Cheap(安い)ー> Yasuka(安か) のように。長崎弁丸出しなのがご愛嬌で、ちょっと笑えます。
 
 マクドナルドは1年足らずで、アメリカ軍艦で日本を去ります。でも、彼が蒔いた種は確実に育ちました。なかでも、森山栄之助は優秀で、先ほどの英和辞書の発音を修正したり、後継者の育成に精力的に取り組むなど尽力しました。
 そしてペリーの来航です。1853(嘉永6)年と、その翌年、森山は、交渉の場に首席通詞として臨みました。単なる通訳としてだけでなく、日米両国の立場、意思を伝えるという困難な任務をやりとげました。その語学力は、アメリカの代表団からは高く評価され、のちにイギリス公使として着任したオールコックからも認められています。とりもなおさず、幕府が、文明国並みの権威と地位を有していることを知らしめることになりました。ひとつ間違えば戦火を交える可能性もあっただけに、森山の功績は際立ちます。

 帰国後のマクドナルドですが、国内では無名で、ずっとその功績が知られることはありませんでした。そんな彼に光を当てたのが、エプソン社のアメリカ駐在員冨田正勝氏です。「海の祭礼」を読んだのをきっかけに、マクドナルドの功績を広く知ってもらうよう活動しました。その結果、生地オレゴン州アストリアで関心が高まり、遂には、英語と日本語で記された顕彰碑が建てられたのです。
 日本でも、長崎の大悲庵の近くと、平成8年には、利尻島の上陸海岸に碑が建てられ、氏は両方の式典に参列しました。さぞ感無量だったことでしょう。ネットで見つけた碑の画像です。

 いかがでしたか?まるで図ったようなタイミングで、日本に舞い降りて、英語の教育に尽力したマクドナルド。そして、その教えを日米交渉の場で活かした森山栄之助。歴史上、その功績がもっともっと有名になってほしい二人です。それでは次回をお楽しみに。

第588回 幇間に学ぶ会話術

2024-08-09 | エッセイ
 「幇間(ほうかん)」または「たいこもち」とも呼ばれる仕事をご存知でしょうか? 宴席などに侍って、唄、踊りなどの芸を披露したり、お客との会話に加わったりして座を盛り上げるのが主な務めです。時代の流れもあり、今や、全国でも数えるほどしかいない貴重な存在で、後ほど登場いただく悠玄亭玉介(ゆうげんてい・たますけ 1907-94年)師匠です。

 な~んてエラソーに書いてますが、落語「鰻の幇間(たいこ)」などで、その世界をちょっぴり知る程度です。まずは、その噺を通じて、仕事ぶりの一端を知っていただき、漱石の「坊っちゃん」に登場する人物にも触れることにします。後半が本題で、玉介師匠の聞き書き本をネタ元に、快適な会話を楽しむコツを学ぼう、という趣向です。どうぞ最後までお付き合いください。

 噺の流れです。今日も今日とて、幇間の一八(いっぱち=落語での幇間の定番ネーム)は、景気の良さそうな馴染み客を見つけて昼飯でもゴチになろうと町をブラブラしています。向こうから、見覚えがあるような、ないような若旦那がやって来ました。調子よく話しかけると、鰻屋に誘われました。路地裏のうす汚い店の二階で、ほかに客は居ず、いかにも流行っていません。不味い鰻を食べながら、一八もそこは商売。適当に話の調子を合わせているうちに食事が終わりました。そこで男は便所に立ちましたが、なかなか戻って来ません。便所にもいないので、下へ降りて、店の者に訊くと、「お代は、二階の旦那が払うから」と言って、六人前の鰻まで土産にし、先に帰ったというのです。あげくは、一八の草履まで履いて帰ってしまいました。泣く泣く羽織に縫いこんであったカネで払うハメに。ゴチになるはずが、踏んだり蹴ったりのオチが笑いを誘います。

 ここで登場した幇間は、特定の贔屓客とか、出入りの料亭などを持たず、自分の才覚だけでやっていく、いわばフリーの幇間です。正規の(?)幇間連中からは、うんと見下され、俗に「野だいこ」と呼ばれました。
 といえば、思い出す方も多いはず。漱石の「坊っちゃん」に登場します。教頭の「赤シャツ」の腰ぎんちゃくで、ゴマばかりすっている画学教師に、坊っちゃんが付けたアダ名です。漱石の時代には身近な存在だったのでしょうね。それにしてもぴったりのニックネームで、漱石のユーモアセンスにあらためて感心します。小学年の頃、この作品を読んで「「野だいこ」ってなに?」と親に訊いた覚えがあります。明快な説明はありませんでした。知らなかったのか、知っていたけど小学生に説明のしようもなく困った、のどちらかだったのでしょうね。

 前置きが長くなりました。本題に入ります。師匠の「幇間(たいこもち)の遺言」(集英社文庫)は、生い立ちから始まって、苦労話、艶話など興味が尽きない一冊です。
 なかでも、一流の幇間の証しでもあり、一番大切な心得として説かれていたのが、ヒトの話をよく「聞く」ということでした。
「おまえさんねぇ、なんで耳が口より上に付いてるか知ってるかい?まず、ヒトの話を聞くってのが大事なんだよ。しかもだよ、耳は2つ、口は1つだろ?いかに聞くように出来てるか分かるだろっ」(同書から)
 幇間といえば、ちゃらちゃらと一方的にしゃべりまくって、ヨイショ(お世辞)でいい気持ちにさせるものだとばかり思ってました。確かに、落語の世界では確かにそんな幇間ばかりなんですけど、とんだ勘違いでした。

 実は、一流の幇間になると、ほとんどしゃべらないのだといいます。お客の話にひたすら耳を傾けて相づちを打つだけ。でも、そこが芸。「ほ~」「なるほど」「で、どうなりました?」「一体どんなわけで?」「そりゃ、驚いたでしょ」「さすがだねぇ」など、いろんな合いの手が、しかも間合いよく繰り出されます。お客はますます興に乗り、いい気分になるという次第です。酒が進み、財布の紐も緩もうというもの。
 ものの本によれば、そこまで配慮されても、半分くらいしか話してない、しゃべり足りない、と感じる人が多い、というのです。つくづく、人間って身勝手な生き物だ、と感じます。

 最近は足が遠のいていますが、かつては、馴染みのスタンドバーなどでも、中には、自分勝手で、マイペースなトークを展開する人もいなかったわけではありません。でも、振り返ってみれば、相手の話をよく聞き、「質問する」という形で、話題を広げ、盛り上げていく「心掛け」はしていたつもりです。オトナのお客さんが多かったこともあり、概ね対等で快適な会話を楽しめたかな、と感じています。師匠のような域に達するのは無理としても、会話は「聞く」のが基本、を肝に銘じて(機会は減りましたが)いろんな人とのトークを楽しんでいこうと決意したことでした。

 いかがでしたか?快適な会話をお楽しみいただく上で、ご参考になれば幸いです。それでは次回をお楽しみに。

第587回 謎の画家バンクシー物語

2024-08-02 | エッセイ
 謎につつまれたイギリス人画家・バンクシー(通称)を、NHKのドキュメント番組「アナザー・ストーリーズ」が取り上げていました(2024年3月1日放映)。
 美術界という既成の権威への反発、不満から、彼は創作活動をスタートさせました。しかし、その過激さ、ユニークさがかえって評判を呼び、自身のブランド力、商品価値を高めてしまう、というきわめて皮肉で、興味ひかれる「ストーリー」です。番組内容に沿ってご案内します。最後までお付き合いください。

 1980年代、イギリスでは新自由主義経済政策が採られた結果、貧富の格差が拡大し、多くの若者が不平、不満を抱えていました。バンクシーが生まれ育ったブリストル(ロンドン西方、約170kmの港湾都市)でも、若者と警官隊との衝突が日常化していました。

 そんな中、無断で建物の壁や塀に巨大なスプレー画を描き、社会へのメッセージを発信する「グラフィティ(落書き)・アーティスト」と呼ばれる若者が続々と現れます。バンクシーもその一人で、当時、彼が描いたとされる2点の「作品」です(以下、画像は全て同番組から)。

 彼らの活動を、プロカメラマンとして追いかけていたラザリデスは、当時まだ10代のバンクシーと出会います。そして、バンクシーに代わって番組に登場し、いろいろ語るのです。

 出会った時の印象を「寡黙で無愛想な青年で、第一印象は決して良くなかった」とラザリデス。でも、彼の作品に接して、すっかり惚れ込んでしまい、「見た瞬間に恋に落ちた」といいます。そして、1997年、ついに決断するのです。プロカメラマンを辞め、バンクシーのマネジメントに専念することを。
 活動の拠点を、ロンドンに移すのが最初の仕事でした。でも、そこは至るところに監視カメラの目が光っています。そのため二人は知恵を絞ります。ステンシル(画像を切り抜いた型紙)を何枚か用意し、スプレーを吹き付けて、手早く「作品」を仕上げる手法を採用したのです。おかげで多くの作品がロンドン中で話題にはなったものの、美術界からは、まともなアートとは評価されず、鬱屈した日々が続きました。

 ある日、パブで飲みながら、バンクシーはラザリデスにある計画を持ちかけます。イギリスを代表するテート・ブリテン美術館に侵入し、自分の作品を無断で展示しようというのです。「まるで銀行強盗に入る気分」とのラザリデスの言葉も無理はありません。でも、周到な準備により計画は成功します。番組では、彼が撮影したその時の動画が流れました。その一部です。

 「あれは本当に痛快だった」「自分の絵と有名な絵のどこが違う。展示される場所でアートを判断する人への強烈な皮肉だった」とラザリデスは、バンクシーの気持ちを代弁しています。
 翌年には、ロンドン自然史博物館、大英博物館、メトロポリタン美術館(米国)でも計画を成功させ、その動画を公開するなど、行動はますます過激になっていきます。
 2006年、アメリカでの展示会には3日間で有名人も含めて3万人が訪れました。おかげでバンクシーの作品は高値で転売されるようになります。商業主義とは一線を画してきたたはずの彼は、そのことに大いに不満を抱き、とんでもない「事件」を起こすことになるのです。

 2018年10月5日、彼の「風船と少女」という人気作品のプリント版が、サザビーズ(世界的なオークションハウス)で競売にかけられました。値はどんどん上がり、88万ポンド(約1億3千万円)で落札されました。すると、その瞬間、額縁内に仕込んであったシュレッダーが作動し、作品の下半分だけが短冊状に切り刻まれたのです。番組で流された動画の一部です。

 一体何が起こったのかわからず、会場は大混乱に陥った、と現場に居合わせた美術記者は伝えています。ハウス側はとりあえず「作品」を一旦引き上げ、関係者による協議が40分ほど続きました。疲れ切った表情で会場に戻ってきた責任者の一言です。「バンクシーにやられた」
 あまりの手際の良さに、バンクシーとサザビーズが手を組んだのではないか、との噂が流れるほどでした。
 そして、この「事件」には後日談があります。3年後、前回の落札時のままの「作品」が再びオークションにかけられ、29億円という「バンクシー史上の最高値」で落札されたのです。「バンクシーはさぞ怒り狂ったことだと思うよ。彼があそこまでやっても美術界という巨大なマーケットに飲み込まれていったわけだからね。あの事件以降、彼は少し自信を失くしているようにみえるよ」と語るラザリデス。作品の破壊という作戦は、まったくの裏目に出てしまったわけです。

 番組の終わりのほうで、彼の近況が伝えられます。パレスチナをたびたび訪れ、ハトなどのグラフィティを残すとともに、ホテルの建設までも手がけました。場所は、イスラエルがパレスチナの各都市を分断するために設置した分離壁のまん前です。部屋の窓からは壁しか見えません。でも、「世界一、眺めの悪いホテル」との評判で客が押し寄せ、商売繁盛です。ウクライナも訪れ、こんなグラフィティを残しています。

 黒帯柔道着の人物が誰かは、わかりますよね。私も、弱者に心を寄せる活動には共感つつも、またしても商売になってるんじゃない?と、ちょっぴり感じたことでした。

 いかがでしたか?アートとビジネスをめぐって、こんなエピソードがあったんだ、と知っていただければ幸いです。それでは次回をお楽しみに。

第586回 山の不思議話

2024-07-26 | エッセイ
 山登りまではできませんでしたが、ロープウェイやケーブルカーを利用して、雄大な眺望を楽しんできました。「山怪」(田中康弘 ヤマケイ文庫)は、主に山を生活、猟などの場としている人たちが語る不思議話を集めたものです。「不思議なことがあるもんやなぁ」心が刺激された4つのエピソードを選んでご紹介します。最後までお付き合いください。その表紙です。

<色っぽい復讐>
 秋田県中部の打当(うちあて)集落を訪れた著者が、そこの村人から聞いた話です。
 彼が、車で林道を通って打当に向かっていると、親子の狐がいました。その狐に向けてハンドルを切ったり、追い回したりしたというのです。夜になって、彼とあとから来た友人たちとの酒盛りは夜半にお開きとなりました。彼が、トイレで目が覚めて部屋を見まわすと、ひとりの友人がいません。皆が心配していると、夜明けのちょっと前、玄関先に人の気配がして、慌てて開けると、その友人が立っています。一体どこへ行っていたのかと問う人たちに彼が語った話です。
「夜中寝ていると誰かが戸を叩く音がする。普段なら酒を飲んでその程度では目が覚めることなどないが、なぜか昨晩はすぐに目が覚めた。気になったので戸を開けて外を見ると、暗い中に一人の女が立っている。その女が綺麗でなあ、おらにこっちに来いって手招きするんだ」(同書から)
 手を伸ばせば届きそうですが、どうしても追いつけず、結局、朝まで追いかけ、さまよっていた、というのです。「だから狐にちょっかいなんて出すもんじゃねえ」(同)というのが、この話を語った人のキツイ忠告です。それにしても、色っぽい復讐ですね。こんな復讐だったら・・・

<道に迷った?ベテランのマタギ>
 同じ集落でのこと。ベテランのマタギ’(山での猟を専門とする人たち)が、集団で熊猟をすることになりました。勢子(せこ)と呼ばれる役割のマタギたちが、山の裾から「ホヤ~、ホヤ~」と声をかけながら、熊を山の頂上付近に追い詰め、撃ち手が銃で仕留めるという猟です。ある猟の時、勢子の一人と無線連絡が取れなくなりました。皆が心配する中、彼は、配置予定の場所から4~5kmも先にいるのを、林道工事をしている作業員に「発見」されました。様子がおかしいので、作業員が声をかけたといいます。「「おめさ、どっからきたんだぁ?」その言葉に惚けたような顔をした彼がはっと我に返った。こうして無事仲間の元へ帰ることが出来た彼が言うには、「いや、持ち場さ向かって山に入ったところまでは覚えてるんだ・・・・ただ、後は何も分からね。どこさ歩いてたのか全然分からね」」(同)というのです。途中には大きな滝があり、小さな温泉施設もあるといいます。どのようにそこを越えたのか。ベテランの身に起きた異様な体験です。

<叫ぶ声>
 打当の近くの根子地区のマタギ斎藤弘二さんの体験です。
 マタギになるべく厳しい訓練を積んで、一人立ちした佐藤さんは、ある冬、真冬の山中で夜明かしという訓練を自らに課しました。雪洞を掘って、入り口を柴木で塞ぎ、長い夜を迎えました。
 夕方には無風で、雪がちらつく程度だったのが、夜半から猛吹雪になりました。眠気と戦い、柴木が飛ばされないよう押さえていました。すると、人の声らしきものが聞こえてきたのです。
「あんまり風の音が凄いんで、よくは聞き取れねえんだよ。何かを叫んでるんだ。段々耳が慣れてきたらよ、どうもおらのことを呼んでるんだな」(同)
 誰かが自分を探しに来た可能性を考えて、一旦、外に出てみると、猛吹雪の中、呼ぶ声だけがしています。幸い、そこで足が止まりました。「いや、これは人間じゃねぇ。絶対に違う、行っては駄目だ」(同)と気づきました。「あのまま行ってたら間違いなく遭難してたべしゃ」(同) 
 マタギにふさわしい冷静な判断が、身を助けたのは何よりでした。

<謎のきれいな道>
 兵庫県北中部の朝来(あさこ)市のベテラン猟師吉井あゆみさんから聞いた話です。
 仲間の猟師たちと猟をしていた時、撃ち手の包囲網を抜けて、獲物が逃げたらしいというので、一旦集合して態勢を立て直すことになりました。その時、山の上で待機していた一人の男が「あれ、こんなとこに道があるわ。こっち行くと近いんちゃうか、俺こっちから行くわ」(同)
 白くて、まっすぐで、綺麗な道だというのです。そんなところに道があるはずないと不審がる仲間たち。一同が集まって1時間以上経っても彼は現れません。皆で探す相談をしているところへ彼が現れました。帽子はなく、顔は傷だらけ、泥まみれで、服はボロボロ。何度も滑り落ちたのは明らかです。何があったのか、と訊く仲間に「それがよう分からんのや。何でわしここにおるんですやろ」(同)
 さて、この事件の2年後のことです。以前と同じような状況で、獲物に逃げられ、一旦集合ということになりました。山を降りる準備を済ませた吉井さんは、目の前に、白くて、新しい道があるのに気づきました。近道そうだから、というので2、3歩踏み出したところで、2年前の事件を思い出しました。「真っ白の一本道・・・・あん時の道やこれは!行ったらあかんのや」(同)
 危うく難を逃れた彼女。2年の時を経て、二人の別の人間の前に現れたのですから、深い謎に満ちた「道」でした。

 いかがでしたか?山には山なりに不思議な話があるものですね。それでは次回をお楽しみに。
 

第585回 変わり者天国イギリス-2

2024-07-19 | エッセイ
 だいぶ間が空いてしまいました。続編(で最終版の予定です)をお届けします(文末に、前回記事へのリンクを貼っています)。ネタ元は、前回と同じ「変わり者の天国 イギリス」(ピーター・ミルワード 秀英書房)です。こちらは、その表紙で、イギリス人である著者自らが「変わり者」、「変なもの」と断じるいくつかのケースをご一緒に楽しみましょう。

 まずは、大学の話題から。イギリスを代表する大学といえば、オックスフォードとケンブリッジ(合わせて、「オックスブリッジ」と総称されることもあります)です。
 さて、ご覧の画像(以下、すべての画像は同書から拝借しました)は、オックスフォード大学の構内を外から見たものです。塀の上に、「忍び返し」と呼ばれるなんとも無粋なものが乗っかっています。

 本来は、泥棒とか部外者の侵入を防ぐための設備ですが、これはそうじゃないんですね。「学生の不法侵入」を防ぐためのものです。同大学は全寮制で、門限があります。門限に遅れると、各カレッジの入口で、きちんと遅れたことを報告する規則です。そして、それが度重なると、最悪「放校」という重い処分が待っています。
 ですから、学生の方も、塀をよじ登ったり、塀際の友人の部屋からロープを垂らしてもらったりと、知恵を絞ります。いかにも学生らしいノリですが、それに気づいた大学側が採った対策がこれ、というわけです。そこまで厳しくルールにこだわる大学って、ちょっと変?

 ライバルのケンブリッジ大学からも「変なもの」をご紹介します。同大学のクライスツ・カレッジの正門の片側にある奇妙な彫像です。

 これは「飛竜(ワイバーン(wyvern)」と呼ばれ、紋章に使われることもある想像上の怪物です。竜の体と双翼、鷲の鉤爪(かぎつめ)、蛇の尾を持つというんですが・・・
 著者も書いていますが、どう見ても、「有翼の豚」にしか見えません。同大学の卒業生には「失楽園」を著したジョン・ミルトンがいます。毎日、この像を横目に眺めながら、文学的インスピレーションでも得たのでしょうか。

 話題変わって、イギリス人て厳格な人が多くて、ユーモアとは無縁のような気がしていましたが、そうでもないんですね。こんな街の看板を紹介しています。

 なんのお店か、おわかりですか?
 「靴の修理屋さん」です。ショーウィンドウの上に「 upon my sole 」とあります。
 「 upon my soul 」のシャレで、「我が魂(soul)」ならぬ「靴底(sole)」に「誓って(upon)」と、というわけです。「靴底に誓って(しっかりと、いい仕事をします)」という決意表明なのでしょう。ホンワカしたユーモアで、ちょっぴり英語弁講座も兼ねました。

 さて、イギリスといえばパブ(居酒屋)です。どんな辺鄙なところにも必ずあります。そのユニークな名前、看板にまつわる2つの話題を、最後にお届けします。
 ロンドンの北に位置するハートフォードシャー州には、
 「古闘鶏亭(The Old Fighting Cocks)」とでも訳すべき名前のパブがあります。19世紀の半ばに法律で禁止されるまで、「闘鶏」という娯楽がありました。2羽の鶏を一方が死ぬまで戦わせ、その勝敗を対象にしたギャンブルです。このパブがその会場だったのか、当時のオーナーが「闘鶏」好きだったのかは、分かりませんが、今なら動物愛護の精神に反する名前を堂々とつけているのがいかにもイギリスです。
 ちなみに、闘鶏の会場は、"cock-pit"と呼ばれていました。飛行機の操縦席をその狭さから、
"cockpit"(コックピット)と呼ぶ由来になっているのが面白いです。

 スコットランドのエディンバラには、「 The World's End 」という名のパブがあります。こちらがその看板。

 「世界の終わり亭」というとんでもない名前です。所在するのは、エディンバラ市街の東の端。当時の住民にとっては、そこが世界の終わり、地の果てのように思えたからではないか、と著者は店名の由来を推測しています。こんなところにも、イギリス的ユーモアが溢れていました。

 いかがでしたか?前回記事へのリンクは、<第418回>です。合わせて、イギリスの「変わり者天国」ぶりに触れていただければ幸いです。それでは次回をお楽しみに。

第584回 椎名誠が嫌いな言葉たち

2024-07-12 | エッセイ
 言葉は生き物です。新たな言葉、使い方が生まれる一方、消えていくものもあります。ちょっと変だなと思う言葉や使い方も、私はそう気にしません。便利なら使うこともありますし、好みに合わないものは使わないだけ、と割り切っています。
 作家の椎名誠さん(以下、「氏」)には、仕事柄いろいろ気になる言葉使いがあるようです。「活字たんけん隊」(岩波新書)の「嫌いな言葉」という一文からご紹介しつつ、<  >内に、私なりの意見もちょっぴり付記しました。合わせて最後までお付き合いください。

★ファミレス敬語(「~になります」ほか)
 氏がまず指摘するのが、ファミレスなどでお馴染みのマニュアル化された敬語です。
 「こちら味噌ラーメンになります」「味噌ラーメンのほうお持ちしました」「味噌ラーメンでよろしかったですか」などの例です。マニュアル通りの言葉使いとは承知の上で、「へんてこ敬語」(同書から)だというのです。感覚的に居心地が悪いようですね。
<「~になります」というのは、敬語としては「あり」ですね。「明日は、いつお見えに「なります」か?」のように動作を表す言葉が前に付けば、ごく自然に聞こえます。ただし、「味噌ラーメン」などモノの名前との組み合わせには、私も違和感を感じます。
 で、私はマニュアル作成者のこんな想いを想像しています。モノを差し出す時の敬語は「~でございます」が普通です。でも、言い慣れない若いスタッフの場合だと、「~でごじゃります」などと思わぬ笑いを取ってしまうことがあり得ます。それなら言いやすい「~になります」でいこう、と決断をしたのではないかと。いっそ、「味噌ラーメン、お持ちしました」でいいですよね。
 さて、「よろしかったですか」との過去形も、「あり」ですけど、やりすぎと考えます。知っているかどうかを訊くのに「ご存知ですか?」は、ストレート過ぎるので、「ご存知でしたか?」と過去形にして柔らげる用法があります。それを「よろしかったですか」まで拡大、応用したのが、やりすぎで、ファミレスというカジュアルな場に合わなかった、という点では氏に共感します>

★若者言葉
 氏は、いわゆる若者言葉もやり玉にあげています。「口のきき方」(梶原しげる 新潮新書)から、関東圏の学生から収集した例の一部を引用しています。
「私的(わたくしてき)に」「~とか」『~みたいな」「てゆうかぁ」「~っぽい」「いちおう~」「なにげに」「私って~なヒトなんです」
 氏は「その言葉づかいの用法には「軽さ」と「幼児性」が通底している」(同)と断じます。
<断定的な言い方は避けて、波風を立てず、円満に会話を進めていこうという気持ちの表れかな、と若干好意的に受け止めてはいます(自分では使いませんが)。私自身が若い頃、「な~んちゃって」などと、軽いノリで自分で自分にツッコミを入れていたことと思い合わせて・・>

★「ら」抜き言葉
 最後に氏が取り上げるのは、悪評高き「「ら」抜き言葉」です。
「食べれる」「着れる」のような表現に、世代ギャップを感じるといいます。
<確かに、正しい用法ではありません。ただ、私は以下のような事情から、この流れは変えられず、いずれ定着するだろうと考えています。
 まずは、「られる」には「尊敬」と「可能」という2つの意味があるということです(「受け身」もありますが、とりあえず脇に置きます)。
 例えば、部下から「今度は、いつ「来られ」ますか?」と訊かれた上司はどう感じるでしょう。「ます」は付いていますが、敬意ではなく、来るのが可能かどうか、都合を訊いていると受け取ってムッとする人が多そうです。「来る」の敬語としては、「いらっしゃる」「お見えになる」「お越しになる」など専用の敬語表現がありますからね。「食べる」だと「召し上がる」です。
 かくて、「られる」は敬語としての地位をどんどん失いつつある、というのが私の見立てです。ただし、一応敬語ですから、この場合は、「「ら」抜き」にはなりません。
 そして、「可能」の「られる」です。カジュアルに可能性、都合などを表現しますから、「られる」の「「ら」行音の3連発」という発音上の面倒は避けたくなります。「れる」が定着するのは、自然の流れです。対等な相手で、カジュアルな場面、との条件は付きますが・・・
「今夜の飲み会に「来れる?」「これ、すごく辛いんだけど「食べれる?」などのように。
 誰が決めたわけでもないですが、一応のルール(「可能」の場合のみ「ら」抜きが可)があり、発音の省エネにもなる合理的な仕組みだと感じて、私は大いに愛用しています>

 いかがでしたか?「ちょっぴり」のつもりが、もっぱら私の考えが中心になった点はご容赦下さい。日本語の面白さを感じていただくきっかけになれば幸いです。それでは次回をお楽しみに。


第583回 アメリカの1コマ漫画−5

2024-07-05 | エッセイ
 「アメリカの1コマ漫画」シリーズの第5弾をお届けします(文末に過去分へのリンクを貼っています)。ネタ元は、ショートショート作家にして、アメリカ1コマ漫画の収集でも知られた星新一さんの「進化した猿たち」(新潮文庫(全3巻)」です。
 アメリカでは、キリスト教と聖書の世界観を堅く信じ、広く世の人々に、それを知らしめようと活動する(世話好きな)人たちが結構いるようです。今なら、ネットでしょうけど、漫画の背景は、半世紀以上も前の時代ですから、手作りのプラカードを掲げて、街を練り歩くのが主流でした。その一途な生き方が、ひとつの漫画ジャンルを形成するほど、かつては、ごく日常的な風景だったようです。その人たちが強く訴えるのは、最後の審判の前段階としての、「この世の終り」です。そんなことがあるのを、ケロッと忘れて、遊び呆けている連中に、警告を与えなければならぬ、との使命感が駆り立てるのでしょう。今回は、このテーマの特集です。熱い使命感と現実とのギャップが生み出す笑いをお楽しみください。

 さっそくご紹介します。まず、「この世の終り」がいつ来るかについての「見解」は分かれます。
★ "THE END OF THE WORLD IS NEAR."(この世の終りは近い)などは、漠然として、「良心的」な方でしょう。当面は、バレる心配もないですし・・・
 漫画では、今日か、明日に終わる、というのが多いんですね。
 "THE WORLD ENDS TODAY/TOMORROW."というパターンです。WILLを使う未来形じゃなく、現在形なんですね。「今日」か「明日」という切迫感が伝わってきます。

★「今日終わる」のプラカードを掲げた男が、警官から警告されている。
 「今日」は、見逃してやるが、明日もうろつくようなら逮捕するぞ」

★「明日、終わる」方のプラカードを掲げた男が、結婚式を終えて出て来たカップルのそばで言う。「あしたまでの楽しみだとは知らないようだね」
 招待客のにらみ返す顔、顔、顔。

★曜日指定というパターンもあります。"TODAY"のところを曜日にするわけです。7つの曜日を使い分けてやってる男が、女房に訊いている「おい、今日は何曜日だっけ?」

★一番差し迫ってるのが、「今日の正午」というパターン。すぐバレるのに・・・
 "THE WORLD RNDS TODAY AT NOON."
 そのプラカードを持って出かけようとする男に、女房が訊いている。
 「アンタ、夕食はなににする?」


★ちょっとひねったアイディアで、原始人がプラカードを持って回っているのがあります。
 "THE END OF THE STONE AGE IS NEAR."(石器時代の終わりは近い)

 「悔い改めよ」も定番です。
★ "(SINNERS) REPENT"((罪人よ)悔い改めよ)などと書いたプラカードを掲げる男の偽善性で笑いを誘う作戦です。
 そんなプラカードを持った2人の男。夜の女を膝に乗せてる男のほうが、それをにらんでるもうひとりに言っている。「いまは休憩時間だ」

★溺れかけている男に、ライフガードが、プラカードを指し示している。
 "REPENT AND YE SHALL BE SAVED." (悔い改めよ。されば、汝は救われん)
 ここまで行くとブラックジョークの世界ですね。

★「汝の隣人を愛せ」お馴染みの標語(?)ですが・・・・
  "LOVE THY NEIGHBOR"のプラカードを持った夜の女が、裁判官の前に立っている。
 裁判官いわく「持ち歩くのはいいが、それで商売しちゃいかん」

★飲酒が罪悪、という認識を徹底させようという「おせっかいな人」もいるようです。
 "DRINK IS A CURSE"(飲酒は、災いのもと)というプラカードを抱えた老人が、バーのカウンターに寄りかかって、バーテンダーに声をかけている。
 「そのムニャムニャを一杯くれないか」
 「さっさと主義を捨てるほうが楽ですよ」と、思わず声をかけたくなります。

 ちょっぴり英語弁講座っぽくなりましたが、いかがでしたか?こんなタブーっぽいテーマを漫画にするのが、いかにもアメリカですね。冒頭でご紹介したリンクは。<その1><その2><その3><その4>です。それでは次回をお楽しみに。

第582回 小説講座で学ぶ文章術

2024-06-28 | エッセイ
 ブログは中身が第一といいながら、よりわかりやすく洗練された文章を心がけています。ですので、文章力アップにつながりそうな本にはよく目を通します。
「天気の良い日は小説を書こう」(三田誠広 集英社文庫)の著者は、1977年、19歳で「僕って何」で芥川賞を受賞したこちらの方です。同世代という親しみもあり、通読しました。
 
 母校のワセダ大学(あえてそう表記しています)で、小説家を目指す学生たちへの講義(全6回)を書籍化したものです。前半は、小説とは何か、小説の歴史などの基本的な話題が中心で、後半では、小説の実作という実践編になります。全体を通じて、随所にユーモアが散りばめられ、豊富な知識、体験に基づきテンポよく進む講義を堪能しました。この「受講」体験を少しでも共有できれば、との想いでエッセンスをご紹介します。どうぞ気楽に最後までお付き合いください。

 まずは、前半の基本的講義部分です。
 さすが小説家。「「桃太郎」は小説でないことを実証する」という切り口で、物語と小説の違いを明らかにするなど、巧みな「ツカミ」で受講生を飽きさせません。
 小説にとって何より大切な「リアルさ」ということについて、映画『E.T.」を例に説明しているのが秀逸です。子供とE.T.と呼ばれる宇宙人との出会いと別れ、、、という単純なSFファンタジーと思われがちですが、三田によればそうではありません。
 子供たちに父親はいません。離婚した母親は働きに出ています。1980年代アメリカの社会をリアルに切り取った設定です。夕食を作ってくれる人はいませんから、子供たちは相談して、宅配ピザを注文するんですね。当時映画を見た日本人にはあまりピンと来なかったかも知れませんが、今だと、その侘しさ、悲しさがリアルに伝わります。
 主人公の少年がピザを受け取って、配達人が帰ったあと、物置で何か音がします。そっちの方へ行ってみると、ガサッと音がして、E.Tの足が出てくる。少年はびっくりしてピザを落とす。そしてピザの箱が地面に落ちるカットになります。「少年の驚いた顔のカットを撮るよりも、ピザが落ちたところを撮ったほうが、もっとリアリティがある。」(同書から)
 全く同感です。映画を引用しながら、小説的リアルさをどう表現するかの一端が分かったような気がしました。

 後半は、実作に向けた技術論、諸注意、秘訣の開陳、そして、短編小説の実作となります。講義の冒頭あたりで、三田は、実作での「禁じ手」、つまり文中(セリフは可)で使ってはいけない言葉を決めます。
 それは、「孤独」「絶望」「愛」「希望」「感動」の五つです。
 「この言葉が出てくると、書いてる人がバカに見えます(笑)。(中略)主人公が孤独に生きているありさまを、「孤独」という言葉を使わずに表現するのが文学なんですね。」(同)
 う~ん、なるほどのシバリです。受講生の皆さん、大変だったことでしょうね。

 さて、いよいよ最終講義です。免許皆伝の秘訣として、三田先生はいきなり黒板に、「じねんじょ」「両手にミキサー」「性格の悪い犬」「カツ丼」など8つのキーワードを書きつけます。受講生もさぞ驚いたことでしょう。それぞれの小道具でどんな小説的世界を構築したか、実際の作品(プロ、アマ)を例に挙げての講義が見事で、こういう秘訣があったのかと、引き込まれます。
 ここでは、三浦哲郎の自伝的色彩が濃い「拳銃」という短編での例をご紹介します。

 三浦とおぼしき主人公が郷里に帰り、父が護身用として持っていた遺品の拳銃(使った形跡はありません)の処分を、母から頼まれるのが発端です。
 実生活の三浦は、6人兄弟の末っ子です。2人のお姉さんは、生まれつき体に色素がありません。髪の毛も肌も真っ白です。アルビーノと呼ばれる遺伝性の病気で、大きくなればカツラ、化粧、サングラスなどでカバーできますが、小さい頃はさぞ辛かったことでしょう。東北の田舎ということもあり、兄弟全員が、周囲の冷たい差別的な視線にさらされます。
 で、女兄弟のひとりが自殺します。それからひとりが行方不明になり、さらには、自殺・失踪と続くのです。三浦哲郎は頑張って大学を出て、芥川賞を取ります。そして、「拳銃」です。

 「死にたいと思ったこともあるんじゃないかと、遺品の拳銃を眺めながら、作品の主人公は推理をするわけです。それで、護身用と言って拳銃を手に入れて、いつでも死ねるという思いを持ちながら、苦しみに耐えて生きてきた。結局、老人になるまで生き抜いて、大往生を遂げたんですね。そういう父親の苦しい人生が、この1個の拳銃に込められている。」(同)
 ひとつのモノを切り口にこれだけの世界を構築するプロの技のスゴさ、奥の深さを思い知りました。

 いかがでしたか?小説という切り口でお届けしましたが、ブログなどちょっとした文章を書く際のヒントにでもなれば幸いです。それでは次回をお楽しみに。

第581回 人名いろいろ-8 名字の謎2

2024-06-21 | エッセイ
 シリーズの第8弾です。前回に引き続き「名字の謎」(森岡浩 ちくま文庫)をネタ元に、珍しい姓、ユニークな名字を中心に、その由来、由緒に敬意を表しつつご紹介します。なお、文末に、直近2回分へのリンクを貼っています。最後まで気軽にお付き合いください。

★1から億までー数字の名字★
 数字のつく名字は多いです。数字の「一」だけで、「いち」、「かず」、「はじめ」と読む名字があります。「九」で「いちじく」と読ませる名字が、東京都に実在します。不思議な読み方をするのが、宮崎県にある「五六」で、「ふのぼり」って、絶対に読めません。
 「四十」がつく珍しい名字がいくつかあります。「四十」(よと、しじゅう)、四十九(よとく)、四十物」(あいもの)などの例が挙げられています。中でも珍しいのは、「四十八願」と書いて「よいなら」と読む名字。戦国時代からある由緒ある名字で、仏教用語の四十八願(阿弥陀仏が法蔵比丘であったころ、一切衆生を救うために発した四十八の願い)に由来するとされています。仏教用語の「しじゅうはちがん」が、なぜ「よいなら」になったかは不明、と著者の言。
 数字が3つ連続するのは、「一二三」(ひふみ)、「二三四」(ふみし)、「三九二」(みくに)、「七五三」(しめ)の4つを著者は確認しているとのことです。
 大きい数字では、加賀百万石の城下町金沢には、ずばり「百万」という景気のいい名字があります。一番大きいのが、小豆島在住の「億」(おく)さん。なんとも景気のいい名字で、うらやましいです。

★ユニフォームからこぼれそうな名字★
 昭和56年、大分県の日田林工高校からドラフト1位で、源五郎丸(げんごろうまる)という投手が、阪神タイガースに入団しました。甲子園には出場していませんが、九州大会で優勝するなど実力は折り紙付きでした。阪神ファンの私も、その珍しい名字とともに、大いに活躍を期待していたのをはっきり覚えています。初めてのキャンプを前にして、ちょっと話題になったのが、「GENGOROMARU」という11文字にもなる選手名が、ユニフォームに収まるかどうか、ということ。文字を小さくしてなんとか収めている画像を見つけてきました。

 ところが、そのキャンプで足の筋肉を断裂してしまい、5年間の在籍期間中は1度も公式戦への出場の機会はありませんでした。活躍ぶりを見られなヵったのが返す返すも残念です。

★長い名字、短い名字★
 短い方からいきましょう。紀(き)、井(い)、何(か)という例が挙げられています。私のサラリーマン時代、仕事上で「井」さんとお付き合いがありました。名刺には「いい」と振り仮名が打ってあって、私たちも「いいさん」とごく普通に呼んでいたのを思い出します。
 長いほうです。難読姓辞典などには、「十二月三十一日」で「ひづめ」と読ませるのがよく載っているそうですが、著者によれば、実在は確認されてないそう。実在名字では、「勘解由小路」(かでのこうじ)という5文字の名字があります。京都の地名に由来する公家の名字で、ご子孫は山口県在住だそう。もうひとつは、埼玉県在住の「左衛門三郎」(さえもんさぶろう)という下の名前を二つ重ねたような名字です。朝廷の官僚に由来するのでは、と著者は推測しています。

★景気のいい名字★
 「金持」という大変うらやましく、縁起のいい名字があります。伯耆国(現在の鳥取県)日野郡金持という地名に由来し、「かもち」と読みます。鎌倉時代の御家人に金持氏がいて、吾妻鏡にもその名が見えることから、由緒ある名字といえます。現在では、「かねもち」「かなもち」「かなじ」などの読み方があるそう。
 おカネといえば、「一円」という名字があります。もともとは、近江国(現在の滋賀県)発祥の地名に由来し、一族が高知県に移って栄えました。「円」という貨幣単位がなかった江戸時代以前は、特に珍しい名字という認識はありませんでした。明治以降、「厘」「銭」の上の通貨単位になり、だいぶ有り難みが増しました。昭和の初期には、東京中どこでも1円という「円タク」も登場しました。
 戦後、円が最小の通貨単位になり、有り難みは薄れましたが、この名字を一躍有名にしたのが、関西学院大学学長もつとめた法学者の一円教授(故人)です。なにしろ、下の名前が「一億」ですから。ただし、「かずお」と読ませます。漢字は豪快ですけど、読み方を遠慮したみたいで、ちょっと頬が緩みました。

 いかがでしたか?なお、冒頭でご案内したリンクは、<第6弾 開高健編><第7弾 名字編-1>です。合わせてご覧いただければ幸いです。それでは次回をお楽しみに。

第580回 久米宏のラジオ・デイズ

2024-06-14 | エッセイ
 久米宏さん(以下、「氏」)といえば「ニュースステーション」(テレビ朝日系列)です(1985年10月の放映開始から2004年まで担当)。歯切れの良いコメントやテキパキした進行が魅力で、よく見ました。自叙伝ともいうべき「久米宏です。」(朝日文庫)では、この番組も含めTVでの活動も語られます。でも、TBSラジオのアナウンサーとしてキャリアをスタートしたラジオ時代のエピソードが秀逸です。こちらを中心にご紹介します。最後までお付き合いください。

 早稲田大学卒業を控え、氏はTBSラジオのアナウンサー採用試験に臨みました。試験、面接は7次まであり、何千人もの中から4人が選ばれるという厳しいものです。選考が進むにつれて、人が人に優劣をつける仕組みに怒りを感じ、人事部の若手と押し問答をしたり、面接官とケンカ腰になったりしたといいます。反骨精神は当時からのものだったようです。5次試験では、目の前に置かれたモノについて3分程度話をするという課題が与えられました。置かれたのは赤電話です。ポケットの10円玉を入れ、自宅の電話番号を回し、母親に今の状況を話す、という演技をしました。通話が終わって受話器を置いても、10円玉は戻ってきません。それに文句を言うと、試験官にはウケたといいます。決して優等生的に振る舞ったわけではないようですが、機転、熱意、センスなどが認められたのでしょう。1967年、見事合格、採用されました。

 入社して2年ほど経った頃、大きな試練が待ち受けていました。慣れない仕事のストレス、食欲不振からくる栄養失調などが重なって、肺結核を発症したのです。1日おきの注射と薬の服用で、電話当番などの軽い仕事を担当する日々が始まりました。さぞ辛い雌伏の時期であったことだろうと想像します。そして、病気が治りかけた頃、大きなチャンスが訪れました。1970年5月に始まった新番組「永六輔の土曜ワイド ラジオTOKYO」(土曜の午後1時半から5時の生放送)のレポーターに起用されたのです。若き日の永さん(左)とのツーショット(本書から)です。

 番組では、「久米宏のなんでも中継!!」のコーナーを任されました。上野動物園の猿山中継を皮切りに、歩道橋、山手線、蟻塚などを訪れ、利用者などの声を拾いながらナマ中継するという企画です。テーマはどんどんエスカレートし、「ミュンヘンの街角から」という企画では、街の雑踏や路面電車の音などをラジカセで流しながらレポートしました。「あっ、アベックがいる」と伝えたのに合わせて事前に録音しておいたドイツ人男女の声を流す、という凝りよう。さすがに、最後に「横浜・山下公園からの中継でした。」(同書から)と種明かしをしたとのこと。

 パーソナリティである永さんに褒められようと、企画は一層過激さを増し、ついに「日活ロマンポルノ」の撮影現場を中継することになりました。通常、この種の映画の撮影では、音声は映像に合わせて後から録音する(アフレコ)のだそう。ですから、現場では「頭をもっと後ろへ」とか「もっと気持ちよさそうにやれ」とかの監督の指示、怒号が飛び交います。それを中継しようという狙いだったのです。ところが、当日、緊張した監督さんはすっかり黙り込んでしまいました。「すると俳優たちがその沈黙を埋めようと妙に気を遣ってリアルな演技をしだした。」(同)のです。生々しいアエギ声を中継し続けるわけにはいきません。止められるのは永さんだけです。「「こんな中継やめだ!切って、切って」(同)の一声で、唯一、途中中断の中継となりました。

 「なんでも中継」が評判になって、更なるウケ狙いで始まったのが、「隠しマイク」作戦です。袖に隠しマイクを仕込んで、キャバレーやピンサロなどに突撃し、生々しいやりとりを中継するというアブない企画です。ある時、氏が銀座・三越の前にゴザを敷き、ホームレスに扮して中継した時は大問題になりました。歩き出すと通行人はよけます。店に入ろうとすると「入っちゃダメ!」との冷たい声がオンエアされます。数寄屋橋の交番で、「「トイレを貸してください」と頼んだら、お巡りさんが叫んだ。「ダメダメ、汚ねぇ!向こう行け!」(同)
 警察官が人を差別している、との抗議の電話が警視庁に殺到し、TBSは、警視庁記者クラブへの「出入り禁止」処分を食らう騒ぎとなりました。

 8年間レポーターを務めて、1978年から永さん、三國一郎さんに継ぐ3代目のパーソナリティとなりました。レポーターとして兼務したのが「久米宏の素朴な疑問」コーナーです。「コンニャクに裏表はあるか?」「おねえさんからおばさんにかわる基準は?」「魚にも美人とブスはいるのか?」などの「素朴な疑問」にあちこち電話して答えを出そうという企画です。「なぜ色鉛筆は丸くなくてはいけないのか?」という疑問には、みずから、文具店、鉛筆メーカー、はては鉛筆組合まで電話する奮闘ぶり。一見、教養っぽいコーナーですが、やっぱり娯楽路線でした。

 1979年にフリーとなってから、氏はテレビに軸足を移します。クイズ番組「ぴったしカン・カン」、歌謡番組「ザ・ベストテン」などを経て、「ニュースステーション」でブレイクするのを目(ま)の当たりにした方も多いことでしょう。ラジオ時代にナマ放送で鍛えられた瞬発力、胆力、現場力などがあったからこそ、というのが本書を読んで、十分に理解できました。
 いかがでしたか?2021年、氏は、TV、ラジオでの活動休止を宣言されました。本当に長年お疲れ様でした。
 それでは次回をお楽しみに。