Rosa Guitarra

ギタリスト榊原長紀のブログです

「銀河鉄道の夜 3」

2009-01-05 | 「銀河鉄道の夜」絵本



にわかに川の向う岸が赤くなりました。
楊(やなぎ)の木や何かもまっ黒に透かし出され、見えない天の川の波も
ときどき、ちらちら針のように赤く光りました。
向う岸の野原に大きなまっ赤な火が燃され、
その黒い煙は高く桔梗(ききょう)色の冷たそうな天をも焦がしそうでした。
ルビーよりも赤く透き通り、リチウムよりも美しく酔ったようになって
その火は燃えているのでした。
「あれは何の火だろう。あんな赤く光る火は何を燃やせば出来るんだろう。」ジョバンニが言いました。
「蝎の火だな。」カムパネルラが地図と首っ引きで答えました。
「あら、蝎の火のことなら、あたし知ってるわ。」
「蝎の火ってなんだい。」ジョバンニが聞きました。
「蝎が焼けて死んだのよ。その火が今でも燃えてるって
あたし何遍もお父さんから聞いたわ。」
「蝎って、虫だろう。」
「ええ、蝎は虫よ。だけどいい虫だわ。」
「蝎はいい虫じゃないよ。僕、博物館でアルコールにつけてあるの見た。
尾にこんなカギがあって、それで刺されると死ぬって先生が言ったよ。」



「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さん、こう言ったのよ。
昔、バルドラの野原に一ぴきの蝎がいて、
小さな虫やなんか殺して食べて生きていたんですって。
するとある日、イタチに見つかって食べられそうになったんですって。
さそりは一生懸命逃げたけど、とうとうイタチに押えられそうになったわ、
その時いきなり前に井戸があって、その中に落ちてしまったの。
そしてもうどうしても這い上がれなくてサソリは溺れ始めたのよ。
その時、蠍は、こう言ってお祈りしたというの、
 ああ、わたしは今まで幾つの命を奪ってきたかわからない、
そしてその私が今度イタチに追われた時は、あんなに一生懸命逃げた。
それでもとうとうこんなになってしまった。
ああ、何にもあてにならない。
どうしてわたしは、わたしの体を黙ってイタチにくれてやらなかったろう。
そしたらイタチも一日生き延びたろうに。
どうか神様。私の心をごらん下さい。
こんなに虚しく命を捨てず、
どうかこの次には真(まこと)のみんなの幸せのために私の体をお使い下さい。って言ったというの。
そしたらいつか蠍は自分の体が真っ赤な美しい火になって燃えて
夜の闇を照らしているのを見たって。
今でも燃えてるってお父さん仰(おっしゃ)ったわ。
本当にあの火、それだわ。」

その真っ赤な美しいサソリの火は、音も無く、明るく明るく燃えたのです。


 その火がだんだん後ろの方になるにつれて、
賑やかな楽器の音や、人々の口笛や歌声やらが近づいてきて
草花の良い匂いまでしてくるのでした。
それはもうじき町か何かがあって、
そこでお祭でもあるというような予感をおこさせました。

「もうじき南十字です。降りる支度(したく)をして下さい。」
青年がみんなに云いました。



「僕、もう少し汽車へ乗ってるんだよ。」男の子が言いました。

女の子はソワソワ立って支度をはじめました。けれども、
せっかく仲良くなったジョバンニ達と別れたくないような様子でした。

「ここで降りなきゃぁいけないのです。」
青年はきちっと口を結んで男の子を見おろしながら云いました。

「厭だい。僕もう少し汽車へ乗ってから行くんだい。」
 
ジョバンニがこらえ兼ねて云いました。
「僕たちと一緒に乗って行こう。僕たちどこまでだって行ける切符を持ってるんだ。」

「だけどあたしたち、もうここで降りなきゃいけないのよ。
ここ天上へ行くとこなんだから。」女の子が淋しそうに云いました。

「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。
ぼくたちここで天上よりも、もっといいとこをこさえなけぁいけないって
先生が言ったよ。」

「だっておっ母さんも先に行ってらっしゃるし、
それに神様がおっしゃるんだわ。」

「そんな神様、うその神さまだい。」

「あなたの神様、うその神さまよ。」

「そうじゃないよ。」

「あなたの神様ってどんな神さまですか。」青年は笑いながら云いました。

「ぼくほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしに、本当のたった一人の神様です。」

「ほんとうの神様は、もちろんたった一人です。」

「ああ、そんなんでなしにたった一人の本当の本当の神様です。」

「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなた方がいまに、
その本当の神様の前に、わたくしたちとお会いになることを祈ります。」

青年はつつましく両手を組みました。
女の子もちょうどその通りにしました。
みんな本当に別れが惜しそうで、その顔色も少し青ざめて見えました。
ジョバンニはあぶなく声をあげて泣き出そうとしました。

「さあもう支度はいいんですか。じきサウザンクロスですから。」
 ああその時でした。



見えない天の川のずうっと川下に青や橙(だいだい)や、
もうあらゆる光で散りばめられた十字架(じゅうじか)が、
まるで一本の木という風に川の中から立って輝き、
その上には青白い雲が、丸い環(わ)になって後光のようにかかっているのでした。
汽車の中がザワザワしました。
みんなあの北十字の時のように真っすぐに立ってお祈りをはじめました。
あっちにもこっちにも子供が瓜に飛びついた時のような喜びの声や
何とも云いようない深い慎ましい溜め息の音ばかり聞こえました。

そしてだんだん十字架は窓の正面になりあの苹果(りんご)の肉のような青白い環の雲も、ゆるやかにゆるやかに繞(めぐ)っているのが見えました。

「ハルレヤハルレヤ。」
明るく楽しくみんなの声は響き、
みんなはその空の遠くから、冷たい空の遠くから、
透き通った何とも云えず爽やかなラッパの声を聞きました。

そしてたくさんのシグナルや電燈の灯(あかり)の中を
汽車はだんだん緩やかになり、とうとう十字架のちょうど真向いに行って
すっかり停まりました。

「さあ、下りるんですよ。」
青年は男の子の手を引き、だんだん向うの出口の方へ歩き出しました。

「じゃさよなら。」女の子が振り返って二人に言いました。



「さよなら。」ジョバンニはまるで泣き出したいのを堪えて、
怒ったようにぶっきら棒に言いました。

女の子はいかにも辛そうに眼を大きくして、もう一度こっちを振り返って
それからあとは、もう黙って出て行ってしまいました。

汽車の中はもう半分以上も空いてしまい俄(にわ)かに伽藍(がらん)
として寂しくなり、風がいっぱいに吹き込みました。
 
そして見ていると、みんなは慎(つつ)ましく列を組んで
あの十字架の前の天の川の渚に膝まづいていました。
そしてその見えない天の川の水を渡って、一人の神々(こうごう)しい
白い着物の人が、手を伸ばしてこっちへ来るのを二人は見ました。

けれどもそのときはもう硝子(ガラス)の呼子(よびこ)は鳴らされ
汽車は動き出しと思ううちに、銀色の霧が川下の方からすうっと流れて来て
あっという間に、そっちは何も見えなくなりました。

振り返って見ると、さっきの十字架はすっかり小さなペンダントのようになって、さっきの女の子や青年たちが、その前の白い渚(なぎさ)に
まだひざまずいているのか、それとも天上へ行ったのか、
ぼんやりして見分けられませんでした。




ジョバンニは、あぁと深く息をしました。



「カムパネルラ、また僕たち二人きりになってしまったねえ、
僕たちは決して離れないで、どこまでもどこまでも一緒に行こう。
もう僕は、本当にみんなの幸せのためならば、
あの蠍(さそり)のように、体を百ぺん焼かれてもかまわない。」

「うん。僕だってそうだ。」
カムパネルラの眼には綺麗な涙が浮かんでいました。

「けれども本当の幸せって一体何だろう。」ジョバンニが言いました。

「僕、わからない…。」カムパネルラがぼんやり言いました。

「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧(わ)くようにふうっと息をしながら言いました。

「あ、あそこ、石炭発掘場の穴だよ。」

カムパネルラが少しそっちを避けるようにしながら
天の川のひととこを指さしました。
ジョバンニはそっちを見て、まるでギクッとしてしまいました。



天の川の一とこに大きな真っ暗な孔がドンと空いているのです。

その底がどれほど深いかその奥に何があるか
いくら眼をこすって覗いても何も見えず
ただ眼がしんしんと痛むのでした。

ジョバンニが言いました。
「僕、もうあんな大きな暗(やみ)の中だって怖くないよ。
きっとみんなの本当の幸せを探しに行く。
どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こうね。」

「ああきっと行くよ。
…ああ…、あそこの野原、なんて綺麗なんだろう。
みんな集ってる。
あそこが本当の天国じゃないだろうか。
あっ!あそこにいるの、ぼくのお母さんだ。」

カムパネルラは俄(にわ)かに、窓の遠くに見える綺麗な野原を
指して叫びました。
 
ジョバンニがそっちを見ると、
そこはぼんやり白く煙っているばかりで、
どうしてもカムパネルラが言ったように思えませんでした。

「カムパネルラ…、…僕たち絶対に一緒だよ。」

そう言いながら、ジョバンニが何とも言えず不安になって
もう一度、振り返って見たら、
今まで座っていた席に、もうカムパネルラの姿はありませんでした。

ジョバンニはまるで鉄砲丸のように立ちあがりました。

「カムパネルラッ!!カムパネルラ~ッ!!」



そして誰にも聞えないように窓の外へ体を乗り出して
力一杯、激しく胸を打って叫び、
それからもう咽喉いっぱい泣き出しました。


もうそこらがいっぺんに真っ暗になったように思いました。



「おまえはいったい何を泣いているの。」

今までたびたび聞こえた、あの優しいチェロのような声が
ジョバンニの後ろから聞こえました。

「おまえの友達がどこかへ行ったのだろう。
あの人はね、今夜、川に溺れた友達を助けようとして
自らの命を落としたのだ。
そして今夜、本当に遠くへ行ったのだ。」

「ああ!、どうしてなんだ。
ぼくたちは、真っすぐ一緒に行こうと、
さっき約束したばかりなんです。」



「あゝ、そうだ。みんながそう考える。
けれども一緒には行けない。
おまえが、あらゆる人の一番の幸せを探し、そのために生きたら
その時、その場所でだけ、おまえは本当にカムパネルラと一緒に居られるのだよ。」

「あゝ、僕もそれを求めています。
でも、なんで…
さっきまでカムパネルラと一緒だったのに…」

「おまえのひたむきな心が、カムパネルラの心と重なり合ったのだ。
おまえの居る世界では、目に見えぬものをなかなか信じないだろう。
だが、ここでは、そういうことは、あたりまえのことなのだ。

おまえはおまえの切符をしっかりもってお行き。
お前はもう夢の鉄道の中ではなく、本当の世界の火や、激しい波の中を
胸を張って真っすぐ歩いて行かなければいけない。
宇宙でたった一つの、おまえだけのその切符を、
決して無くしてはいけない。」






あのチェロの声が、そう言い終わると、
ジョバンニの目の前から、天の川が遠く遠くなって、
風が吹き、
気が遠くなるような心持ちで目を開くと
自分は丘の上で眠っていたことに気付きました。



「ああ、カンパネルラ…
お父さん、お母さん… 」

何かいろいろのものが、いっぺんにジョバンニの胸に集まって
何ともいえず、哀しいような、新らしいような気がするのでした。

琴の星がずっと西の方へ移って、変わらずに瞬いていました。














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