Rosa Guitarra

ギタリスト榊原長紀のブログです

2016/10/16//SoloLive@カナフ

2016-10-16 | 演奏記録


終演後に綺麗なお花を頂きました
(というところから今日は書き始めてみる僕)





オレンジのはバラかな?
美味しそうな色




こちらは薄ピンクのバラ
紫のはリンドウとかかな?
(とか、知ってる花の名を適当に言ってみてる僕)




こちらは4人の皆さんでくださった大きな花束
ゴージャス







ん?


これは?




いや…

まさかね ^^;




え?


でも

やっぱり?











レタスですか…





ということは?





こう?



















3本の大切な大切なソロライブが
とにかく終わった解放感から
独りボケしてふざけています


PCの向こうで
きつく突っ込んでやってください






。。。。






真面目な話します




いわき市での2本と今日のカナフの3本のソロライブを
させて頂いた中で
一番の気付きは
「キミと僕」の「キミ」が
自分の中の悲しがっていたり
寂しがっているもう一人の自分を差して
作曲したことに気付いた事でした



そしてこの「キミと僕」という曲を演奏する時は
自分の中の泣いている小さな自分に語りかけるように奏でると
突き抜けた良い演奏になります


(何言ってるか解らない方もいらっしゃるでしょうが
すみませんが書き進めます)



そして「キミと僕」という曲を奏でる時に限らず
僕の独奏は全般に
僕の中のもう一人の(いつまで経っても心が埋まらない)僕
に向けて奏でられているのだと気付きました



自分の内側に向けて話しかけ
心が枯渇した部分を自分で癒そうとしている
その行動、光景が
僕の独奏ステージの本質的な姿なのだと思います


そしてこれはもはや
娯楽としての音楽というより
むしろ精神医療に近いのでは、と思ったりします

でも、そんなタイトルを付けた音楽コンサートは
見たことありませんし

もしあるとすれば
急に怪しげな宗教の臭いがして来てしまうだろうし
(注:僕は30万で壷を売ったりはしませんのでご安心を)




「泣く」
ということは良い事だと
以前から考えて来ました


泣く事は悲しい事ではない

膠着して泣けなくなってしまった心の方が悲しいと感じます


泣く事で解れて行き
解れた事で昨日の自分より少し元気に生きる事が出来る

心も肩凝りと同じなんでしょうね
解して血行を良くしてやらないと
酷い頭痛や病気にもなる


「笑って」というメッセージは
笑えないところに立ってしまっている人には
苦しい圧力にもなります
(僕自身が過去にそういう苦痛な体験をしました)

むしろ「泣いて良いのだよ」と伝えた方が
元気になる人も沢山居る


ですから自分の演奏が
聴き手が「解れて泣く」という
ひとつのきっかけを作れるならば
それは良い事だと自分はずっと考えて来ました

そこにスポットを当てた交流や表現を
「暗い」と捉える方も世間に沢山いらっしゃいます

僕は
「それは暗いのではなく
明日に向かって力を取り戻すために
一時的に休憩しているだけ」だと言いたい

でも
暗いと思われる方は多分
内観から得られる精神休息を必要としておられない方なのでしょうから
それも結局その人の自由なのです




話しを戻しますが

泣く事は良い事と考えて来ましたが
物事には表裏がある


名優、笠智衆は
「男は泣かないもの」という
確固とした信念のもとに生涯俳優を貫き

晩年の山田洋次監督の映画で
泣く演技を要求され

「すみません、先生
私は泣けません」と言ったそうです



笠智衆にとって
「泣く事」は「心を解す事」とは別物なのですね

だから僕の
(泣けよとばかりに)憂いを満たした独奏は
笠智衆にとってはきっと
厚ぼったい衣の付き過ぎたトンカツ
のようなものかもしれません



泣く事は恥ずかしい事と思っていた子供時代から
泣く事は良い事だと気付き
その市民権を得るために
独奏という形で市民権運動をして来たようなところがありますが

ここにきて
泣く事が万人にとって必ずしも良いかどうかは
誰にも決められないのだと悟りました

一回りして振り出しです

音楽を追究すればするほど
表裏は一体で
1つの答えはその逆の答えも併せ持つことを知らしめさせられます


ただ
僕が今思うのは

その人にとって
泣く事が必要な事か不必要かわからなくても
結局僕にはこういう演奏しか出来ない、ということです


もし出来得るならば
聴く人の心を解し

笠智衆でさえ無意識の涙を一筋流すような音を奏で

そしてその時
自分は微笑んでいたい









僕の大切な3本のソロライブは終わりました

次ぎは何も決めていません

また僕が
1つ心のステージを登った時に
やりたくなるかもしれませんし
もしかしたらもうやらないのかもしれませんし


ただこの先どこで、どんな形で弾いていても
僕の音での語り掛けは
自分の中のもう一人の泣いている自分「キミ」
に向けられたものだと思います

そこに共鳴してくださる方が
きっと僕の音の傍に残ってくださる方なのでしょうね



本日はこの
ある意味とてもマニアックなライブに足をお運びくださり
本当にありがとうございました


そしてカナフの皆さん
お世話になりありがとうございました













。。。
。。







そう…


これは余談なのですが



今日
カナフに着いてサウンドチェックを始めました

今日のPAのエンジニアさんは初対面の方でした



音質の注文をさせて頂きながら
徐々に自分のやりやすい音に近づいて行きました


やりやすい音に近づくにつれ僕は
無意識のうちに演奏に没頭して行ってしまいます


今日も開場時間の前に
PAさんの存在を忘れてしばらく没頭してしまいました


ふと我に返ってPAさんの方を見ると
彼は音を聴くともなしに聴きながら
外の風景を眺めてらっしゃいました
少し遠い目をして…

その時その遠い眼差しが少し気になりました



終演後、一段落して
PAさんにご挨拶をしようと思ったら
タカシさんから
「なんだかご不幸があったようで先に帰られた」
と聞きました


あの時の遠い目は
もしかしたら…
既にその知らせを受けておられたのかもしれない

音に没頭している時は
スピリチュアルなアンテナが働きます
RH中での演奏の合間に見たあの遠い眼差しは
きっと…



言葉には出来ませんが
その一瞬の光景が僕の中に深く焼き付きました



PAさん
お世話になりました





















コメント (1)
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