繊細な感性と鋭い観察力に俯瞰力を併せ持つ或る男性
(仮にMr.Kとしておこう)に
今日行われた自分たちの演奏の「出来」のようなものを尋ねてみた
その回答や会話の内容が大変面白く
どうしても書き残したい
細かい言葉選びは忘れてしまったが
こんな内容のことだった
Mr.K
「ほら
20時45分頃になると出て来る奴があるじゃないですか
必ず出る事を事前にわかっているのに
出るとホッとする」
僕
「水戸黄門の紋所ですね
予定調和の象徴的存在だ」
Mr.K
「そう、予定調和です
結論がわかってるのに不快ではない、という
決して悪いものではない
さかきばらさんの音は『それ』じゃないんです」
僕
「そうだとしたら嬉しいですよ
僕の音に予定調和の要素が無いということならね…
音楽は芸術でありエンターテイメントでもあるから
エンターテイメントの部分では客席の空気を読み
リアルタイムで出し引きの匙加減を判断するべし的な教訓があるけど
僕は客席の顔色を見ながら演じてるものは結局
オーディエンスの心を深く抉れないと感じてる
だから客席の反応は関係ないんです僕」
Mr.K
「あくまで僕の主観的観察ですが...
だからさかきばらさんの演奏が始まるとまず聴き手の頭の上に ?マークが出る
今まで食べた事の無い食べ物を食べさせられた時のように
不安を併せ持った興奮のようなものが起こり
2曲目から3曲目くらいで落ち着いて
4曲目は ?マークを超越するんです」
僕
「ほう…」
ということでMr.K曰く
僕のgtは「Not紋所」だ、ということなようだ
この評は僕にとって最上級の賛辞である
紋所は凡庸ではあるが
安心を提供することで支持率も高い
Not紋所は非凡である事から
なかなか市民権は得られない
が
命が崖っぷちに立たされたような臨場感を得られる
僕という人間は静かな音を奏でながら
実はこういう興奮を精神内部では味わい楽しんでいる人間であることを
Mr.Kに看破されたといえる
自分自身がはっきり自覚も出来ていない事を
的確に看破されるのはとても愉快な事だ
そういえば昔
音楽仲間のW君からこんなことを言われたことがある
「さかきさんの音ってのは
爽やかなイタリアンサラダを食べてたら
最後に器の底に1枚だけ貼付いてたパクチーなんですよ」
(W君
それは確かにNot紋所であるよ)
話を戻しMr.Kにこんなことを尋ねてみた
僕
「こういった行動(Not紋所的な)ってマイノリティじゃないですか?
例えば僕のような
こう風にしか生きられない人種が生きやすい場所って
どういう処なんでしょうね」
Mr.Kは即座にこう答えた
「マジョリティかマイノリティかは一旦脇へ置いて
さかきばらさんの生きやすい場所は
さかきばらさんの音の中に既に在ります」
この言葉を聞いた途端
マイノリティと思い込んでいた被害者意識
とも言える長年の僕の深層心理の霧がサァーッと晴れ
自分が肩にかけたgtから
良い香りのする花びらが放出され続け
僕はその花びらと共に何処まででも歩いて行けるようなイマジネーションが観えた
何処へでも、誰の前でも、それが何の目的であっても関係なく
奏でる事への怖れと不安が霧散したような気がした
僕はただただ嬉しくなり
その後はファミレスでMr.Kとケラケラ笑いながら過ごした
このMr.Kは
つい最近、日本国の首相に茶を煎れ
その味を脳内深くに刻みせしめた現代の千利休
真の芸術家であり
勿論彼自身もNot紋所である