Rosa Guitarra

ギタリスト榊原長紀のブログです

5次元目

2016-01-16 | ギターの栄養



縦横高さに時間の流れをプラスした4次元の先に
「感じる」
という5次元目が存在していることを
或る人との会話で今日ハッキリ認識することになった


自分にとって「感じている時間」というものを再考してみるに
縦横高さは全体像としてボンヤリ感じていれば済むことになり
時間の流れは在って無いに等しいものになる


寿命を考え生き急ぐことも無くなる

重力に逆らう労力からも解放される


ただ一番に素敵だと思うことは
その場所では泣いても笑っても怒っても憂いても
誰も何も文句を言う人は居ない、ということだ


観念の中で何年分かの体験をし
瞑想状態から解かれれば
大した時間も過ぎてないこともあるし
その逆に
ほんの短い間だと思って瞑想から解かれたら
何時間も過ぎていたということもあるだろう


感覚を研ぎすませて行くと
こういう場所で
痛んだ自分を気の済むまで解放させ休息を取ることが出来る

そしてそこにやってくる人とは
いくらでも会話も出来る

会話と言う表現は方便で
本当は「繋がっている感じ」を得られる


人間が生き残るために働かせている本能がある以上
そういうものが縺れ合いながらこの世界が出来ている以上
現実の世界での摩擦や理不尽さは無くならないだろう

この5次元目の場所でしか得られないものがある


この場所は
生きながら体験出来る天国
とも言うことが出来るかもしれない









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記憶の深い部分に残ること

2016-01-16 | ギターの栄養


昨年末に発症した帯状疱疹のしつこい名残が
まだ顔に残ってる中
昨日は晃教くんのアルバムのレコーディングで
1曲弾かせて頂きに出かけた




歌とアコギとチェロだけの編成の曲で
曲中テンポが変化する

クリックを聴きながらのレコーディングだった


ヘッドフォンの中の歌とアコギとチェロとクリックの
4つのバランスを各々がとるために
まず試験的に録音をし始めた


クリックに縛られ固い演奏になるのが嫌で最初小さめに設定したが
演奏が始まってみるとよく聴こえなくて
最初の方の何テイクはクリックとズレてしまった


が、僕が嬉しかったことは
クリックの示す位置より
僕のギターが音を置いた位置に
晃教君がぴったり寄り添って歌っていてくれたことだった






。。







少し理屈を書くが…


例えば、僕の歌心から生まれた音の置き位置より
クリックの示す位置を優先するのが普通のプロだ


ポピュラー音楽のレコーディングの世界は
仕上がった音には結局居ない「クリック」という存在を
聴きながら皆で音を出し合ってrecしている

クリックを聴きながらでは
アンサンブルの相手が奏でた微妙な位置を感知することは
まず出来ない

相手がつば先に手を掛けるやいなや
こちらは間合いを一気に詰めるか、飛び退くか…
そういった微妙なやり取りは不可能になる


クリックという、ただ一定のテンポを示す者が
たった一人アンサンブルの中に入り
しかも粗奴がその曲の法律である、となると
生の演奏者同士の息も出来ないほどの駆け引きは
物理的に全く出来なくなってしまうのだ


クリックという陰の支配者の示す独裁的な枠組みの中に皆が音を収め
しかも無責任なことに作品の最終形には独裁者は姿を見せない


レコーディングのこういう構図に窮屈を感じて
クリックの訓練をしなくなって数十年経つ自分は
ポピュラー音楽の世界では多分2流の演奏家だろう

だがその分逆に
相手の間合いを感知するアンテナは研ぎすまされた


人間が放つ「気」を絡め合う行為が
生きてる間に出来るのはアメージングなことだ

だから
僕の音楽人生はそれで良い





。。






僕が到着した時には
前の曲をエレキの人がrecしていた


自分の番が来てブースに入る


真ん中の大きなブースにチェリストさん
向こうの離れた小ブースに晃教君


チェロは持続音の楽器だから
減衰音のギターのように音の置き位置にはあまりシビアではなくても
十分な役割を果たす

だからこの曲の間合いは
アッキーの歌と僕のギターで骨組みを作ることになる



僕のブースとは離れたブースに入ったアッキーは
アイコンタクトが取れるようにと
僕のブース内での座り位置を数十センチ動かせ
ガラス窓越しに目が合わせられるようにさせた

recが始まったらお互いを見る余裕は結局無かったが
間合いを合わせようとするお互いへの理解が明確になった



最初小さめに設定したクリックは
音が盛り上がった場所でほとんど聴こえなくなり
微かに聞こえてるクリックを自分がズレていることを
途切れ途切れに感じながら演奏した


その
クリックとズレている間

晃教君と僕の音はずっとピッタリ重なっていた





このことが
昨日の僕の記憶の深いところに刻み込まれたことなのだ






音の置き位置は僕の心の投影でもある


プロとしてクリックに合わせることより
クリックとズレても合奏者との間合いを合わせて行くことが
僕の音楽であり僕の心の会話だとも言える



そこに寄り添ってくれる存在に対し
僕は最大限のリスペクトをするだろう




最終的にはクリックの示す位置に音を置くことで
帳尻を合わせる結末になったのだが


その結末のことより

昨日体験した非クリックな時間のことは

僕の記憶の深い部分に刻まれたことだった
















コメント (1)
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