さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

年頭所感 

2022年01月03日 | 
 北陸は大雪だというニュースが流れているが、温暖な小田原の海岸部では十一月末に早くも蝋梅が咲いていた。横浜市の内陸部では、そこに住んでおられる方が年末に蝋梅が咲いたとおっしゃつていた。今年は早い、とも。だいたい二月ごろに梅に先んじて咲く花というイメージがあるから、確かに今年は早いのだろう。水仙の花も、たくさんではないが、早咲きのものは、開いたばかりの初々しくて輝くような固さを持った白い花弁を一株に三つぐらいずつ咲かせている。でも、まだ花芽のままのものもたくさんある。直射日光を浴びている時はあたたかく感じるが、気温は連日低く、年末の十二月三十日には風花が舞った。

 この一週間ほど、年末の仕事休みの期間を使って引っ越し荷物の整理に追われていた。借りていた四畳半の書庫兼物置の所有者が変わったため賃料が値上がりし、急遽出ることを決めたためである。本や雑誌が千冊ほど、それに荷物の段ボール箱が二、三十個あるだろうか。ばかにならない量である。ゴミも混じっているから自分でやらないといけない。ワゴン車で何往復もしたけれど、なかなか終わらない。いや、こんな話はここまでにしよう。

 それでブックオフに本を売りに行ったのだが、そこで待っているうちにまた本を三冊ほど買ってしまった。それが二千五百円ほどだったから、本を売りに行ったとも言えない。売った方は計百円なにがしの評価額だった。一冊五円とか十円なのだろう。買ったのは椎名誠の『遺言未満、』と洋画家の評伝と、あともう一冊なんだったか忘れた。椎名の本は、いま机の周辺を引っくり返していたら『毎朝ちがう風景があった』が埃にまみれて出てきた。これは有隣堂のカバーがついていて2019年12月初版。椎名誠もそろそろ自分の終末を意識し始めたのだなと思って買ったのだったが、『遺言未満、』を見ると骨仏を取材したりしていて、これは著者が死をテーマにした二冊目の本であるのだそうだ。しかし、松の内に読む本なのかなあ。私自身は、知人の肉親がなくなったり、もう一人の知人は娘さんの一周忌の前後に連日お会いしたり、何かとそういう終末感を感じざるを得ない時間を過ごしていたのである。その中での引っ越しだから、本も読めないし、思考は一ヶ所にとどまっていなかった。

手を動かしているあいだ、なぜか頭の中では演歌のメロディーがずっと響いていて、クールファイブの「長崎は今日も雨だった」の「雨」は自分を捨てた相手を思う涙のことでもあるのだな、と急に心づいて、なんでそんなことに気がつかなかったのかな、と思ってみたり、クラシックでもロックでもない、演歌のさびの部分、あんこつばきの、ああんが、あんがあんが。何でああいうすばらしい歌詞と、歌唱が生まれるのだろう、というような断片的な思念のほかは、カラオケの曲のはじまりの部分のようなメロディーが、頭のなかでずっと響き続けていたのである。私は特に演歌のファンではないのだが、ここしばらくはそうだったので、あんこーつばきーの、ああんが、あんがあんが…。これが、年頭所感と言えるような文章だろうか。

それでまた今晩本が崩れて、野上彌生子の『昔がたり』というほるぷ出版の一冊本の自選作品集が出て来て、装丁が中川一政で、カラー図版として中川による挿し絵が五点ほど入っている本で、中川の絵は高くて私には買えないので、こういうのは有難い。扉の枇杷の絵が実にいい。昭和四十七年刊。その末尾の「『昔がたり』解説」という作者野上の自解の文章に引かれた夏目漱石の手紙が感動的である。

「文学者たらんと欲せば漫然として年をとるべからず文学者として年をとるべし」。こんな手紙を処女作の小説の感想としてもらったら、奮起しないわけにはいかないだろう。私自身、漫然と生きて来たつもりはないが、さりとて野上彌生子のように常にこういう言葉を背中にしょってやって来たわけではない。とは言いながら、漫然と生きないようにするためには、そうならないような場所に自分で自分を持って行かないといけないのだ。ということで、これを年頭所感の言葉とすれば、本文をおわることができそうだ。

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