さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

津野海太郎『かれが最後に書いた本』

2023年05月20日 | 
昨日今日と津野海太郎の『かれが最後に書いた本』(2022年3月新潮社刊)を読んでいた。

思い出すと佐藤信演出の「ブランキ殺し上海の春」を学生の頃に黒テントで見た。大学を卒業してからは斎藤晴彦が本多劇場でやった「セロ弾きのゴーシュ」を見に行ったり、時々自動公演の舞台も何度か見に行ったりしたから、黒テント系のものは私の趣味に合っていた。空き缶で楽器を自作したり、古いオルガンを舞台に持ち込んだりする時々自動の音楽の使い方はいまでも恋しい。あまり熱心に公演を見に行ったりしなかったが、黒テント系のあの軽演劇ふうの諧謔味が何とも言えず好きだった。斎藤晴彦がベートーヴェンの田園交響曲の有名な主題に勝手な歌詞をくっつけて歌ってみせるゴーシュの演技とか、思い出すとうれしくてうれしくて、自分までいっしょにやってみたいような気がする。そういうお芝居の細部の場面についての記述は、津野海太郎さんの本にはあまり出て来ない。絵や音楽の具体的な内容もあまり話題にしない。そういう意味では自分の専門と得意分野に限った書き物と思う。その道のエキスパートに囲まれていると、自分の専門でないことにはおいそれと口を出さないようになるのかもしれない。また、そういう細部に立ち入ろうとすると、とても書ききれないということになるのかもしれない。それにしても、全篇ほぼ追悼文のような内容の本でありながら暗くならない。つい先ごろまでともに活動していた友人たちが、次々と消えて行く。それを見送りながら、著者は残された友人知人の本を読んで書く。読んでは書き、それからまた新たな死者を見送ることの繰り返し。読みながら、こちらもともに茫然とする。

おしまいの方に映画好きとして生きて来た著者のこれまでに見たベスト・テンを選んでみようとする章がある。それを読んでみて映画好きでもなんでもない私との映画に接する態度のあまりの違いに驚いた。

 ※     ※ 
話はかわって、私が自分の思い出に残る映画をあげるとしたら何があるだろうと思って、昼間から発泡酒を飲みながら手元の紙切れに書きだしてみた。そうすると、半分以上が十代に見たものであった。

「禁じられた遊び」(テレビで家族でみた)、「タクシー・ドライバー」(大学の授業をさぼって池袋の文芸座でみた)、「ダーティー・ハリー」(「ダーティー・ハリー2」を中学生の時に初めて映画館で見たが、続編より本編の方がこわい)、「田園に死す」(美術部の同級生にすすめられて高校二年の時に銀座の並木座でみたような)、「暗殺の森」(初期のベルトリッチ、テレビでやっているのを断続的に何度か見た)、「惑星ソラリス」(これはタルコフスキーの名作)、「ザ・メキシカン」(いつだったか飛行機の中ではじめてみた)、「コルチャック先生」(岩波ホールでだった)。
映画ではないが、家族で見たNHK大河ドラマ「天と地と」、NHK大河ドラマ「樅ノ木は残った」、母といっしょに見た民放の昼の連続ドラマ「喜びも悲しみも幾歳月」など。

こうしてみると、いわゆる名画があまり入っていない。昼のドラマのタイトルはまったく記憶にないが、熱心に見ていた。テレビで放映される映画はまめにチェックしていて見た。映画でもテレビで一度見たままタイトルがわからないものがあって、それが案外強く記憶に残っている。たとえば、調べればわかるのだろうが、ただちに思い出すものとして一つはポール・ニューマンが脱獄して長いカーチェイスをするやつ。あの男前の男優が女に顔をなぐられる場面が印象的。もう一つは、アフリカの農場主の主人公役のジャンポールベルモンドが女を追ううちに罪を犯して山中に逃避行を強いられることになって終る映画。こういう映画への嗜好には、私の性格の被虐的な側面が出ているのかもしれないと、いま思った。考えてみると先にあげた「ザ・メキシカン」の怒り狂うジュリア・ロバーツとボケ役のブラッド・ピットのばかばかしい演技が好きでビデオまで買ってしまった覚えがある。

そういえば岩波現代短歌辞典の「広場」の項目に私が引いた岡井隆の歌は、女性にきびしく追いすがられる場面を詠んだものだった。岡井さんにしてみれば、苦い引用歌だったろう。なんだか思いかえすと申し訳ないが、それが気になるというところに私の女性に対するある気分の持ちようが出ているようだ。別にもてたわけではないのにね。現実の私はそういう局面では、脱兎のごとくにありたいと思いつつ、うーむと下を俯いていることが多かった。そろそろ地雷を踏みそうなところに近づいているようなので、やめにしよう。

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