さいかち亭雑記

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石井辰彦『石井辰彦歌集』 現代短歌文庫

2020年08月02日 | 現代詩 短歌
あらかじめ石の上に置かれた夜明けの薔薇の花束のために

 朝起きだして、枕元に置いてあった石井辰彦歌集を取り出してめくりはじめたら、おどろくほどするすると読めた。後半の単行本未収録短歌がドリアン・グレイの嘆きのうたみたいで、作者だけではなく読者である私自身も、年齢的に老いと死をより強く意識せざるを得なくなっているから、詩句のいちいちが沁みて感じられたのである。自らに捧げた墓碑銘まで含む本集の後半を一気に読み通してから、前半を丁寧に読む前にいったん本を置いてこれを書きはじめた。

書きはじめる前にキース・ジャレットのアルバム「Facing You」をチョイスしてかけてみたのを途中でうちきって、「The Merody At Night,With You」に切り替えた。石井さんの書いたものを読んでいると、何度か聞いたことがあるご本人の朗読会の声と調子を思い出してしまう時があるが、いつも生の声というのはキースの叫びのようになまなましすぎるものだと思ってきた。肉声だけでは官能の気配や嘆きとかなしみの思いが表面に出すぎるきらいがある。歌いながら弾いていたキース・ジャレットのピアノの音に相当するのが、石井さんの場合は華麗な文字表記ということになるだろうか。しかし通常の短歌型式よりも文字の間隔を詩行式にあけて組まれたものの方が、すっきりしていて風通しがよく感じられる。

短歌は、上から下にぎっしり言葉が詰まっていく分、血が鬱血する感じがして、語りがモノトーンになりがちであるし、石井さんの詩美への探求と探索というものは、それ自体が自己語りのナルシスティックな雰囲気を漂わせてしまうものでもあるから、そこはバランスをとるためにも、常に意識的に断裂の切れ目を作品に入れることが方法的に要請されてくる。その試みの繰り返しが、石井辰彦の前衛希求の詩的道行きというものであったと言ってよい。こだわりにこだわった彫心鏤骨の手業、句読点やルビ打ちの多用や、一字空きや異字変換の多用や、諸々の詩的技法の試みはすべて、詩歌のことばがポリフォニックに立ち顕れるためのてだてというものであった。そうして、西欧の詩、ギリシアや異教の神々への憧憬と関心が、作者の詩劇のように歌を構成してみようとする志向を支えてきたのであろう。徹底した浪漫派である石井さんの短歌の世界における特異な位置は、敬して遠ざけられるようなものではない。かつては鬼面人を驚かすように見えた石井短歌の表記や内容や工夫も、近年ではむしろ平易で読みやすいものと感じられるようになってきた。それだけ時代が移りかわってきているのだ。
以下に縦書きを横書きにして引かなければならないことを作者と愛読者の方にご容赦いただきたい。

信じてはならない    石井辰彦

信じてはならない。     巫女が    ※「巫女」に「フジヨ」
震へつつ占ふ(君の)明日を。事無き    ※「明日」に「あす」
人生を。       疑つてみるべ
きだ。 (肉眼では)確かめる術もない    ※「術」に「すべ」
天文学を。         凶兆は
既に(君の)鼻先にある。臭つては来    ※「臭」に「にほ」
ないか?海が。       腐つた 
油を泛べ、押し寄せる(空紫色の)海    ※「泛」に「うか」、
が。そして風が。        風   ※前行の「空紫」に「うつぶし」
は雷霆を孕み、雷霆は(君の)肝先に     ※「雷霆」に「ライテイ」
落ちる。     ルカヌスは「戦後
生れのぼくたちにも戦中を」と詠つた    ※「詠」に「うた」
が、戦地ではないのか?   逃げ惑
ふ人びとがゐるからには、ここは。音
も無く終るに違ひない。     濁
りゆく大気に、囲繞され、噎せかへる   ※「囲繞」に「ヰゼフ」
この世界は。    (人類の)知識   ※前行の「噎」に「む」
なんて、片秀なものさ。いくつもの星   ※「片穂」に「かたほ」
が(もう)見えなくなつた。 この星
も(さう)長くは(青く)輝かないだ
らう。   天空に向いた(君の)眼
を、大地に向けるのだ。今まさに、終
りの始まりの時。    いやに美し
く見えないか? 無人の都市は。棄て
られた田畑は。    だから予言し
ておくのだ、滅亡を。逃所は(どこに   ※「滅亡」に「メツバウ」、
も)無いのだと。  神が請け合つて    ※前行の「逃所」に「にげど」
も信じてはならない。(君の)未来を
            Da Capo

「単行本未収録連作短歌 Ⅰ」より

この「逃げ惑ふ人びとがゐるからには」という句は、原発事故の避難者や近年の自然災害、の被災者そうしてコロナ禍に倒れている人々にとっては、まさに「信じてはならない」という現実のこととしてあるではないか。なお十行目の「肝先」は「軒先」の誤植の可能性もあるが、作者独特の詩語の使い回しとして疑わず残した。もしもの場合は御批正をまつ。

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