さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

菊村到『雨に似ている』

2017年06月04日 | 現代小説
大波のようなコンステレーションの続き。今日はすごい。始めの方のニ十ページほどを読んでから、読みさしにしてあった菊村到の小説『雨に似ている』(昭和三十四年九月雪華社刊)を読み始める。これも主人公の戦場帰りの兄が自死するというストーリーだ。その兄が夢を語る場面がある。

「…ああ、おれは死んだんだな、このおれは死体なんだな、とおもつたらなんともいえない悲哀をおぼえたね。ほんとうに悲しいんだ。それから気がついてみると、ひじように匂うんだ。あの匂いが…(略)。気がついたら、ぼくはふたたび生きているんだ。やつぱりフイリピンの山の中だつた。ぼくはスペイン人のカソリツクの学校にいるんだ。そこは尼さんばかりのところで、男はだれもはいれない。ところが、ぼくだけは連隊長の通訳をやつていたから、とくべつに出入りを許されていた。いや、これは夢じやない。これはほんとうのことなんだ。ぼくは、この学校で日本語を教えたりしていた。戦場ぐらしでぼくにとつていちばん平和なころだつたな。ぼくは『海ゆかば』を英訳して聞かせたりした。どんなふうにほんやくしたのか、いまではすつかり忘れちまつたけどね。」

 菊村到の小説は、成瀬映画の「おとうと」だったか、あれとまちがいなく共鳴している。今でも舞台化できそうな小説である。それに、いまここに書き写していて思ったのだが、この夢語り全体が、シェークスピアの舞台のせりふのような美しさと韻文的な響きを持っている。声に出して読んでみるといいだろう。

 それにしても、前の日に秋谷豊の詩について書いたために引っ張られてここまで来ている。ついでに書いておくと、「文學界」2017年6月号の高澤秀次「夏目漱石から小津安二郎へ」という評論は、最近読んだ文学関係の評論の中ではもっともおもしろいものの一つだった。私は年をとるにつれて『それから』の代助という主人公がどんどん嫌いになって来ていたのだが、この評論の論じ方では、その不快さをまったく思い起こさせなかったので舌を巻いたのである。


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