さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

短歌と日本語による〈私〉の語りについて 3 

2017年01月01日 | 現代短歌 文学 文化
 Ⅱ
土屋文明歌集『六月風』 27
片山貞美・文語短歌の高峰 30
吉田 漱、幾度の挫折 32
大島史洋著『言葉の遊歩道』 34
中野重治の『斎藤茂吉ノート』 35
  Ⅲ
桂園派という補助線・短歌と自然 37

    Ⅱ
時に剛直に、また豊けく・土屋文明歌集『六月風』

 歌集『六月風』には、昭和十年から十二年にかけて発表した五六六首を収める。中では、社会主義運動にかかわって死んだ教え子伊藤千代子を悼んだ歌や、二・二六事件を詠んだ歌などが、よく知られている。
  まをとめのただ素直にて行きにしを囚へられ獄に死にき五年がほどに
  降る雪を鋼条をもて守りたり清しとを見むただに見てすぎむ吾等は
 二首めの下句について、近藤芳美は「無論反語であり、ひそかな、激しい忿怒が無力の自嘲と共にうたいこめられている言葉なのであろう」と書いた(『鑑賞土屋文明の秀歌』)。二首とも上句は五七五で定型の枠に収まっているが、下句は大幅の字余りとなっている。一首めの四句めをシェイクスピア劇の俳優のように早口で読むと、ここに作者の激情がほとばしっていることがわかる。二首めは、「清しとを見む」、「ただに見てすぎむ」と繰り返し言って、無理にも一つの断念に向かって内向してゆこうとする精神の屈従のさまを映し出している。ただの字余りではないのだ。
  言直き古の代も時の力をあからさまに罵りし言は伝へず
 これも大幅な字余りが見られる歌だが、言いたいことがありながら、あえてそれをこらえるニュアンスを暗黙のうちにこの字余りが伝えている。「古の世も」の「も」は、今「も」あからさまにものが言えない時代なのだという意味である。
一集の末尾に近いところには、朝鮮の金剛山に旅行した際の歌六八首がまとめられており、これは後の『韮菁集』の達成を予告するものとなっている。全体に占める旅行詠の割合が高く、また数多くの植物が詠まれていて、その執着ぶりは徹底している。
  すみれ細辛の白き花びらにほのかなるみどりの色のながるかなしも
 八八五七七。「すみれさいしんの/しろきはなびらに/ほのかなる」とだけ読むのではなくて、その下に、「すみれさい/しんのしろき」という句またがりを重ねて読むと、上句のスピード感が増して感じられる。こういう句法上の実験は、前歌集『山谷集』以来続けてきたものである。あとがきで作者は、この歌集の「乱調」ぶりを言うのであるが、後の歌集『韮菁集』を思えば、これは謙遜の辞というほかはない。むしろふてぶてしいほどの作家精神の持続を読み取るべきであろう。
  岩むらは冬の林と見るまでに天にそばだつ夕雲のなか
岩は岩を閉づると見ゆる山の間を落ち来る水に一日そひてゆく
「見る」と言い、「見ゆる」と言いつつ伝統和歌の見立てをこえた把握の仕方がここにはある。これはそのつど掘り出された一回毎の「言葉」を介して「もの」を見ているのであって、ただ「見ているもの」を「言葉」にしているのでは決してない。ここには、近代短歌の最良の要素があるのだ。 (「短歌現代」二〇一〇年十月号)
  ※「すみれ細辛」は花の名である。一箇所訂正しておく。
 

片山貞美・文語短歌の高峰

 多くの公共の図書館の検索で片山貞美の名前を探すと、『吉野秀雄の歌』が出て来るだけで歌集は所蔵されていない。これは残念なことだ。全歌集が欲しい歌人である。土屋文明はその座談『歌あり人あり』で聞き手の片山に向かって、「われわれの時代のものを、次の時代の人がなんにも引き継いでいかなくても、それは当然だろう」と言い放ってみせた。この言葉は、場合によっては旧派として滅ぶことも辞さぬという自信と覚悟のほどを示したものである。
 短歌のジャンルにおける文語の使用と、漢文的な教養へのこだわりは、その両方が、戦後の大きな社会変動の中で揺さぶりをかけられた。清水房雄は、その著書『斎藤茂吉と土屋文明』の中で、土屋文明という人は、漢文的な素養が自然に身についた時代の最後の人であろう、と言っている。それになぞらえて言うなら片山貞美らは、そういう漢文的な教養を敬慕し、かつ自らとは異質な新時代の修辞に対抗するための拠り所とした最後の世代と言っていいのかもしれない。
 片山の作品には、文語短歌の持つ格調と様式美へのこだわり、それからそうした文体によって形を与えられる倫理がある。それは、徹底した外界と自己の内面への観照を通して、あくまでも作品の一首一首の文体や、語法上の工夫の上に表出される生の表現なのであり、その意味でどの一首も、自然や身体の一回性と、時間の偶有性への覚悟に支えられている。
 片山の言葉には、「風」や「耳」を彫刻しようとした美術家たちの作品のような風情がある。漢字が象形文字であることと類比的に、この人の歌は一首の言葉の連なりのあらわれ(相貌)において、あたかも粘土か石のような塊(かたまり)感を持っていると私は感じる。次の歌を見ると、実際にそのようなことを思いながら、歌を作っていたことがわかっておもしろい。
  しが歌に何を欲りすと巌石のごとき風体を われは欲りすと 『鳶鳴けり』より
この歌は椎名恒治が、「地中海」二〇〇九年二月号に書いた追悼文(ネットで見ることができる)に引いている。一読を勧めたい。
  見下ろせば底ひあをあをゆらぎたつ流れの外は雪の氷りぬ    
 雪分けて雨降山に辿り着きぬ北遠く秩父南に道志
 雪山のさがれる陰に雪まぶれなるありて田畑を分かず
 片山貞美の山の歌は実にいい。相当な高齢になるまで登山をした人であったようだが。
  羊歯の葉のそよぐ岸べに土こぼれ佐々木喜善が石ばしら墓
 芭蕉の葉舷の如く濡れぬると称へし人も死にてはるけし    『魚雨』より
 「石ばしら墓」という、ざらりとした男性的な響きを持つ語による把握には、強い喚起力がある。その次の歌の「舷」という一語もまことに効果的である。漢文について文盲に等しい戦後世代には、もうこういう歌は作れないのではないかと思う。片山の歌には、「モノ」に「情報」の網目がかかっていない時代の良さが強く感じられる。繰り返すが、「モノ」の手触りがそのまま言葉によってつかまれているようなところがある。そのような目の働きがある。現代人が自己を回復するための燃料のようなものが、ここにはないか。
(「短歌現代」二〇一〇年二月号)

大正十一年生まれの歌人吉田 漱、幾度の挫折

 吉田漱については、田井安曇が『現代短歌大事典』に簡潔に記述している内容が、知己の言と言える。リアリズムから前衛短歌まで、戦後短歌史の激動の一時期を近藤芳美と岡井隆に並走した。筆まめで調査好きだった吉田には、芳美、文明、憲吉、茂吉に関する多くの著書がある。しかし、時間をかけて準備していた土屋文明『韮青集』の研究は、まとめぬうちに逝ってしまった。
 美術家の息子として東京に生まれ、岡山大学に勤めた吉田は、専門の浮世絵の分野で河鍋暁斎研究会会長をつとめたことが示すように、幅広い問題関心を持っていた。あまり人に知られていないところでは、利根光一の筆名で『テルの生涯』というエスペランチストについての伝記を書いている。この本には、吉田の独自な戦争へのこだわり方があらわれている。
 合同歌集『未来歌集』には、印象的な相聞歌が数多く見られるが、吉田も例外ではない。次に引く歌は、初読の際に衝撃を受けた一首であるが、いま読むと素朴な作りの歌だと感ずる。感情が直接に吐露された官能性の濃い歌と言うべきだろう。
  眼を閉ぢてこの戦慄に堪えゐれば近々と汝のすべてが匂ふ   『未来歌集』
 昭和三一年に出た第一歌集『青い壁画』は、筑摩書房の「現代短歌全集」第十三巻に収録されている。戦後世界を生きる青年の病苦と憂憤の思いを清潔に歌った歌集である。
  戯れにカロッサの泉と名づけしが早や冷えびえと昏くなり居り    黙然と汝のベットに寄りおればいつか目をあきて見つめて居たり
  幾度か眼を冷してはもどる部屋書類が一せいに吹きなびきいる
  いくばくの要求にあらず集うとき装甲車何度も列をよこぎる     『青い壁画』
 政治的な行動者として現実に闘う歌が、この歌集には多く収められている。社会的な現実の歌い方については、近藤芳美に学ぶところが大きかった。
 一九八二年刊の『FINLANDIA』は、あとがきによると、一九五五年から六三年にかけての歌を収めている。作られてからまとめられるまでにずいぶん間のあいた第二歌集である。象徴的な歌い方のなかに悲痛な思いを詩的に昇華して表現している。今日再評価に値するのは、この歌集ではないかと、私は思う。後半の失意の著しい歌にも、共感を誘われるものがある。
  ちぎりたる紙片にいくつ呼び名かくなお昏々とねむれるかたえ
  くらき海その子の四囲よりしりぞきてめぐりささやきにみつ地の上は
 われら父母をなお見えぬままフロラの季、花ひらくまでは保たぬという
 首垂れし子をいだきつつ登りきて渡らねばならぬ綱光りみゆ
                              『FINLANDIA』
 子の生誕をめぐる一連は、神話的な澄明な喜びの光をもって始まり、一転して難病の子をみとる悲歌へと連続してゆく。 (「短歌現代」二〇〇九年四月号)

大島史洋著『言葉の遊歩道』

大島史洋著『言葉の遊歩道』(二〇〇四年七月・ながらみ書房刊)は、小学館の『日本国語大辞典』の元編集長にして、「未来」の選者でもある著者のエッセイ百篇を集めた本である。雑誌「短歌往来」に足かけ十二年にわたって連載されたものだから、一部を目にしたことのある読者は多いかもしれない。こうやってひとつにまとめられてみると、国語辞典関係者らしいこだわりのある文章が多い。けれども、筆者は自分のそういう職業的な関心を前面に出してものを言うことを、むしろ避けてきたように思われる。私は、歌人大島史洋が一語を選択するまでにどれだけの嵩の知識をかいくぐっているかを本書によって示されたように思う。また、筆者の語彙についての談義は、自然と短歌の作り方の勘所のようなものに触れるところがある。たとえば、「なずき」という文章の末尾に、「肝に銘じる」とか「胸にきざむ」といった表現が、なかなか短歌の中には取り入れにくいということを書いたうえで、「そこで少しずらすわけである。こんなふうに。」と言って次の二首の歌を実例として引いてみせる。この引用歌が、実に大島さん好みなところも楽しい。
  雨の粒点ちそめし砂を踏みゆけば肝にひびきて射撃音する   田谷 鋭『乳鏡』
  騒客のわれもあはれにわかき日のもののなやみを額に刻みぬ 吉井 勇『酒ほがひ』
 そうして筆者の土屋文明や「アララギ」への日頃からの興味と関心は、「解良富太郎の歌」といった文章の味わいとなっている。解良富太郎は、東京帝大法学部の助手となったが、たぶん結核のため昭和十二年に亡くなった歌人である。土屋文明はその遺歌集を編んだ。当時の切迫する時局の中で、解良富太郎は次のような歌を作っている。
  たたかひは文化の母とふその言葉肯ひ難く吾は思へり 解良富太郎
 この歌の前に「昭和九年十月、感あり」と詞書がある。筆者が調べてみると、この年の十月に陸軍省が出したパンフレットの冒頭にこの言葉が来るという。文明が「用心」して彼の歌集を編んだと別のところで歌ったわけはここにあったのだ……。本書は言葉を楽しみながらものを読む方法を教えてくれるのである。      (「短歌四季」)

中野重治の『斎藤茂吉ノート』

 最近、知人と中野重治の『斎藤茂吉ノート』の読書会を行った。その際に岡井隆の『斎藤茂吉と中野重治』を取り出して熟読したのだが、その緻密な論の展開にぞくぞくするような喜びを味わった。中野の「ノート」(以下、略称)は、なかなかの難物で、特に書き出しの部分がわかりにくい。岡井の著書は、読みにくいこの本に参入するうえで最良のガイドブックとなるだろう。未読の場合は、先に「ノート」四、五、六あたりを拾い読みしてみてもいい。
 『斎藤茂吉ノート』の功績の一つに、伊藤左千夫の価値を「アララギ」人の特殊なこだわりの域から開放して、その仕事に普遍的な意義を見出したということがある。それから、茂吉の近代性の現れを、特に性の歌を歌うことにおいて抽象的な抒情を打ち出したという点に求めて、風景の「写生」に極限して理解されがちな茂吉の所説を、本人の意向に反してまで読み替えるという大胆で鮮やかな転換を行ってみせたことがあげられる。
 その反面、中野重治は、茂吉の近代性を認めながら、北原白秋にはそれを認めなかった。それから、鴎外の「我百首」をあまり高く評価しなかった。また、近代短歌が培った省略や朧化の表現技法も完全には理解しようとしなかった。むしろ意識的に「わからない」と言って突き放した節がある。
 白秋の評価については、玉城徹が『近代短歌とその源流』などの著書で、白秋の仕事の意義を丁寧に説き明かして、図式的な整理に異を唱えているのだが、白秋が近代的な精神の実現という面において不足があった、という認識は、何しろすでに文学史の定説となってしまっている。私はこの見解を中学校の頃に買った片岡良一の「岩波小辞典」で読んで以来、ずっとそう思い込んで来たのだ。だから、何となく白秋については、天才的な言語能力を持った詩人だということは理解しつつも、どこか軽く見るところがあった。こうした、近代的な自我をめぐる物語が強力な威力を発揮していた時代の文学研究の成果について、われわれは一つ一つ見直して行くべき時代に入っている。
 ただ、中野の白秋に対する評価の低さの一つの要因として、昭和十年代の白秋の社会的な活動が中野の気に入らなかったということがあるだろう。白秋を批判し、茂吉の近代性を評価するということを通して、中野がかろうじて確保しようとしたものは、人間のエロスに立脚しながら、「思想的」であるということの意味だった。中野は転向はしたけれども、思想的である、ということへのこだわりは、捨てたわけではなかった。自分の眼前の対象に向かって、自己の感性が支配し、浸透できる要素を見出しながら、徹底的に対象に即き抜くことによって、書くことがそのまま生きることであるような局面を切り開くこと、それが中野にとっての「ノート」の意味だった。そこでは、文筆家が文筆家として生活する、ということの意味が、一行一行の文章に刻み込まれている。そうして所々に精神的な疲労の色が濃い、水に溺れつつ書いているような鈍い部分があることも事実である。
 独特の諧謔が感じられる一文を引く。
 「女にもてるといふことが一般になく、しかしそのことに慣れてしまふといふことも出来ぬ男にだけ、女に関する恋の歌でない詩が永久に出来るといふことが可能性として考へられるのである。」
 中野が茂吉の「写生の意義の深化」の裏面に見通したものは、ほろ苦い。 (「未来」)
   Ⅲ
桂園派という補助線・短歌と自然

 大谷俊太の著書『和歌史の「近世」』(ぺりかん社)の末尾に富士山の歌を論じた文章がある。武将歌人として著名な細川幽斎が、富士の歌を詠もうと思って、東国に出立する前に下準備をし、古歌を抜き書きした書き付けなどを用意して現地に至ったところ、実際の富士のあまりにも雄大な姿を見て、自分の「才木」(材木、つまり歌の材料)が、「木どり、皆ちがふなり」(言葉が寸法に合わず、役に立たない)と言ったという興味深い話が紹介されている。大谷によれば高峰富士は、普通の旅枕とちがって、近世初頭の歌人たちの前に「実感を重視することが自由」な存在として立ち現れていた。その例として次のような歌が紹介されている。
雲霞ながめながめて富士のねはたゞ大空につもる雪かな      烏丸光広
       (『黄葉集』一二四一) ※二字以上の繰り返し記号は起こして表記した。
 大谷は、この歌について「富士の高根の白雪のみがあたかも虚空に浮かんでいるかのごとくに見えるのを、『大空につもる雪』と捉えた点、実景をほうふつさせる。」とのべている。ここで「実景」と言ったり、「実感」と呼んだりしているものを尊重するということを、江戸時代の歌人たちはすでに歌論として展開していたのだった。その代表と目されるのは、小沢廬庵と香川景樹である。景樹には、次のような富士の歌があった。
ふじのねを木の間木の間にかへりみて松のかげふむ浮島が原 香川景樹
                        「事につき時にふれたる」より
 これを右の烏丸光広の歌と並べてみると、両者の歌には共通するところがあることに気づく。それは、「ながめながめて」と「木の間木の間に」という繰り返しである。東海道を旅しつつ富士を眺めることに伴う情緒の表し方の型として、この繰り返しが出て来ているのである。
半田良平は、右の歌について次のような鑑賞をのべている。 (※以下、散文の引用は現代仮名遣いとする。歌は旧活字のままとし適宜振り仮名を付した。)
「【語義】 「浮島が原」、東海道の原《はら》附近にある平野で、廣重の東海道五十三次の版画にも、ここが書かれている。 〇「松のかげふむ」、原中の道を通って行くと、道の上に映った松の木の影を踏むというのである。 【評言】有名な歌であるが、私はあまり感心しない。第四句の「松のかげ踏む」という句が、巧《たく》みに過ぎて、却って感じを浅くして居る為めだと思う。一首全体としてみれば、印象があまりに明確に失し過ぎて、裏に含むところのないのが難である。
             (半田良平著『香川景樹歌集』大正十四年刊 六五ページ)
 私は右の歌の四句めについて、何ということもない『松のかげ踏む』という句を、なだらかに働かせるところに作者の独創があると考えるので、半田良平の審美的批評のすべてに同意はできない。巧みにすぎる、と言うより、これがなかったら右の歌には何も新しみがないことになってしまう。比較材料として、『新勅撰集』から一首、それから鎌倉時代の中後期の歌人藤原雅有の歌を一首、次に引いてみることにする。両方とも元の仮名のままでは読みにくいので、漢字仮名交じりの表記とする(注一)。
 百首歌に
  足柄の関路越えゆくしのゝめにひとむら霞む浮島の原
                              後京極摂政前太政大臣
   かへりのぼり侍し時、ふじの山をみて
  眺めつつ今日は暮らさむ富士のねの行き過ぎがたき浮島の原 藤原雅有
 「浮島の原」が、富士を詠む際の組題の素材となっていたということが一首めからわかるだろう。二首めの藤原雅有の歌は、すぐあとに浜名で公達たちと船遊びをする歌が出てくるような、のんびりした余裕のある旅である。また、景勝富士を「行き過ぎがたき」思いを持って眺めつつ今日を暮らしたり、「木の間木の間にかへりみ」たりして、通り過ぎることを惜しむ気持を抱くということが、浮島が(の)原という地名を詠み込んだ歌の本意なのだということがわかる。ここから先に引いた香川景樹の歌がどれだけ和歌的な制約を踏まえていたかを見て取ることができる。原と松が取り合わせられるようになったのがいつか、調べてみたことがないので私にはわからないが、東海道五十三次の絵に松が出てくるということも本意の視覚的な表現と考えていいだろう。景樹の歌は、たいていそこを外さなかったから人気も出たのであるし、また一般に迎えられて和歌的な教養を身につけようとする広い階層の人びとに支持されたのである。
 斎藤茂吉は、そこのところを嫌悪して
「彼は、義太夫でいえば『さわり』のごとき一種の心の技法を用いた。これは一種の通俗趣味であり、一種の感傷趣味であるが、これが畢竟一般向であるから、彼の歌風は流行して、遂に天下の歌壇を風靡するに至った。」          (『近世歌人評伝』)
となかなか穿った観察をのべている。しかし、やはり近代短歌と前代の和歌との違いは大きい。本意を踏まえつつ「松のかげふむ」という、誰にでもわかるような、しかも的確な一句を持ってきた景樹の技量を、ここは素直に肯定していいのではないだろうか。また、「巧みに過ぎて、却って感じを浅くして居る」(半田)のではなく、わざわざ「浅く」見えるように作っているところに、この作者の老巧さがあると私は思う。だから、そのことの反面として、確かに半田の指摘するような物足りなさも出てきてしまうわけで、長い目で見ると、そういうことはよろしくないのだ、と茂吉は言った。桂園の歌風流行について、前文に続けて茂吉はこう書いている。 
 「この現象をも彼は調べの説に帰著せしめただろうと思うが、桂園の歌が衰微するとき、回顧して見れば必ずしもそうでないことが分かる。」            (同右)
本意や歌枕の呪縛から解き放たれた者の、しかも党派的反感を抱く立場からの嫌味なコメントだが、もともとが背中から切っているという性質のものであることは否めない。茂吉に感情的に同化して読めば、それなりに満足感を得られる文章なのだが、こういう文章によって、茂吉の論争対象とされた相手は、景樹に限らず、短歌史的にだいぶ割りを食ってしまった。茂吉の散文には、それ自体の持つ一種のリズムがあるから、論理など度外視していつの間にか読まされてしまうところがある。
 最近になって私は、黒岩一郎の『香川景樹の研究』(昭和三十二年刊)という本を見て、自分の不勉強を反省した。同時にはじめて香川景樹らの歌を丁寧に読んでみて、著者が景樹復権のために孤軍奮闘したことの意味がわかって来た。黒岩一郎の名前は、国文学の研究の方に区別されていて、現代短歌関係の辞典には出て来ないが、「アララギ」歌学の呪縛を脱するためには、忘れてはならないものの一つである。またこれは万葉学者の奥村和美氏のご教示によるが、近世文学の中村幸彦による、子規と景樹の歌論を比較対照した論文(注二)も、子規・茂吉の言うところを鵜呑みにしないために見るべきものだった。
 それから、篠弘が『自然主義と近代短歌』(昭和六十年刊)で触れているように、窪田空穂がどれだけ香川景樹の歌論から学んだかを知ると、「アララギ」の系譜の中だけで文学史を知ることの危険性に気付かされる。大岡信の『古今和歌集』をめぐる一連の仕事は、多くの読者を持ったが、「アララギ」系の歌人たちが、香川景樹の歌を読み直す動機にはつながらなかった。
私が読んでみたところでは、景樹の歌のうちいくつかは、近代短歌と並べてみても遜色は無いし、深いところで「写生」の範疇に属するような歌が見られる。現代歌人と同様な人生的詠嘆の表現もあり、まったく古風ではない作品がいくつもある。近代人的な自照する自意識をはたらかせている歌もある。景樹の歌の多くは、題詠をきっかけとしたものでも、実際の体験の手触りを感じさせるものが多い。また、いくつかの歌には、景樹自身が提唱した古今調だけでなく、微妙な新古今的な万葉調も見られて、異風の魅力がある(注三)。大きな違いがあるとすれば、それは古歌を下敷きにする意識の強さのところにあるだろう。
 江戸時代の学問ルネッサンスは、分限にしばられた封建時代の人間の前に、古典という誰に対しても開かれた糧を置いたのだった。現代ほど自由にではないが、景樹の前には、「古今」も「新古今」も「万葉」も等しく摂取可能な対象として見えていたということが、『桂園一枝』を見ているとわかる。
 桂園派という補助線を引いてみると、近代短歌史が別の見え方をして来るのは、おもしろいことだ。私は、最近になって近世の和歌を読みはじめて、江戸時代の歌人たちが、丁寧に微細に観察する姿勢を持って自然に接する作品を数多く残していたことに、遅まきながら気がついた。まったくうかつな事だった。何のことはない。「明星」と正岡子規ら根岸派による「短歌革新」からすべてが始まって、歌についての物の見方がすっかり改まったかのような近代短歌史観は、玉城徹が『近世歌人の思想』(一九八八年刊)ですでに述べていたように(注四)、学校教科書的な文学史によって広められた謬見にすぎない。
 『近世歌人評伝』(昭和七年)に見られる斎藤茂吉の近世和歌の研究は、通り一遍の皮相な仕事ではなかったと思うが、そのかわりに主観的な好悪の念の投影した、その意味でいかにも茂吉らしい書き物だった。同書の桂園派の項を読むと、正岡子規の主張を受け継いで、旧派の香川景樹を徹底的に排撃しながらも、茂吉には景樹が清新な作品を数多く持ったすぐれた歌人だということが良く分かっていたのだということがわかる。その上で悪口を言い重ねているのだから、桂園派の評価に関して、茂吉はかなり人が悪かったと言ってよい。記述にどうしても党派的な情熱が感じられるのである。
 しかし、茂吉が熱烈に「万葉集」を言い続けたことについては、近藤芳美が次のように言っていることが当たっている気がする。
 「斎藤茂吉の作品には、分析して分析しきれない不思議なものがあると云われている。実に下らない事を歌っていると思いながら、歌い方自身に何か人を魅惑するものがあると多くの評者に語られている。それが何によって来たものであるか、茂吉自身は少しもかくさなかった。茂吉はそれを万葉調だと一生云いつづけた。茂吉だけが、万葉集の中から、知識としてでなく、作品の秘密として、何かを学びとったほとんど唯一の現代作家であったのだと云えよう。現代歌人は、一生万葉集の事を云い続けた茂吉の愚直を内心私かに笑い、茂吉の作品の韻律感の秘密にまでは立ち入ろうとはしなかった。」
               (『茂吉死後』昭和四十七年刊所収「万葉集に学ぶもの」)
 現代歌人は、茂吉の愚直を「内心ひそかに笑っていた」というのは苦い認識であるが、「知識としてでなく、作品の秘密として、何かを学びとった」という評価の仕方には、聞き逃せないものがある。近藤芳美の残した言葉には、随所にこういう言い当てた批評がある。
 たとえば茂吉が万葉集から摂取した韻律の問題としてあるように、われわれがどのように古典を読み、何をそこから摂取するのかということと、短歌作者が経験(具体的には眼前の「自然」など)をどのように歌うかという問題は、密接につながったかたちで存在している。伝統的な定型詩である短歌にかかわっている以上、単に写実の方法論を批判しただけで、近代短歌を乗り越えたことにはならないのは、右にのべたような古典の受容の問題があるからである。むしろ近代短歌の中から再び学び直すということも現在のわれわれには必要なことになっている。
 ここで一首だけ半田良平の歌を引く。
  彼岸より此岸にうつり来たる瀬の目にさやさやし冬の川みづ  半田良平
    (歌集『幸木』より 富士川渓谷を経て駿河大宮への一連から 昭和十六年作)
 この歌の持っている繊細で複雑な調べは、「アララギ」系の研鑽とは別のところから出て来たものだ。作者が、王朝以来の和歌や旧派和歌に深く通じていたからこそ可能になった調べなのである。四句めの「目にさやさやし」というのは、水のせせらぎの音と、光の反射するかげんの両方を、ともに言葉に取り込んだような響きを持っている。結句を三四調にして、一首が弱くなりすぎないように引き締めている技巧も心憎い。
 こういった調べのうえでの微差に感応する感覚を磨き続けていないと、短歌という文芸形式は衰微するのではないかと私は思うのである。

(注一)中川博夫翻刻の歴博本『隣女和歌集』(八一二)、(八一三)「鶴見大学文学部研究紀要」二〇〇六年三月刊所収
(注二)中村幸彦著述集「子規と景樹」
(注三)ここでまとめて香川景樹の歌を引いてみることにしたい。未見の方は、多少忍耐のうえ、ただ読むということをしてもらいたい。題は、作品の下に括弧をつけて示すことにする。
  常みればくぬぎ交りの柞原春はさくらの林なりけり          (林中櫻)
  おほぞらのおなじ所にかすみつつゆくとも見えぬ春の日の影       (遲日)
  行く水の末はさやかにあらはれて河かみくらき月のかげかな     (月照流水)
はつ時雨ふりしばかりの跡みえて梢のみこそ色付きにけれ      (紅葉淺)
浮雲は影もとどめぬ大空の風に残りてふるしぐれかな       (風前時雨)
  しぐるるはみぞれなるらし此夕松の葉しろく成りにけるかな        (霙)
  うづみ火の外に心はなけれどもむかへば見ゆるしら鳥の山      (題しらず)
  今よりははとりをとめら新桑のうら葉とるべき夏は来にけり (事につき時にふれたる)
  しらがしのみづえ動かす朝風にきのふの春の夢はさめにき       (同右)
  郭公しばしば鳴きしあけがたの山かきくもり小さめふり来ぬ     (同右)
  池水の蓮のまき葉けさみれば花とともにも開けつるかな (同右)
  ゆふ日さすあさぢが原に乱れけりうすくれなゐの秋のかげろふ (同右)
  思ふ事ね覚の空に尽きぬらむあしたむなしきわがこころかな (朝)
  かぎりなく悲しきものは灯の消えてののちの寝覚なりけり (題しらず)
  灯のかげにて見ると思ふまに文のうへしろく夜は明けにけり (題不知)





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