さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

荻世いをら「私のような体」(「すばる」3月号)

2016年03月01日 | 現代小説
 この小説は、電車の中で読みはじめて、読みさすのがいやで電車を降りたくなくなった。先日の早助よう子の小説がおもしろかったのに味をしめて、文芸誌の小説をまともに読むことにしたのである。日本の現代小説って、こんなにおもしろいんだ。と、再び思った。この小説から学生の頃に読んだアルフレッド・ジャリの『超男性』のことをなぜかいま思い出した。先にことわっておくと、本文のタイトルの「体」は「躰(からだ)」の正字だが、文字化けするのでやむなくこの活字とした。

本作の主人公Aは、場の文脈の読めないところがあるボディビルダーで、「自分の命より自分の肉体を大切にしている」種族の一人である。この号で小説は一応短編として終わっているものの、主人公のAがそののち詩を書くようになったといういきさつまでストーリーをたどりきっていないのが少々残念だった。だから、連作の短編の一部のような気配もしないではない。

ともにボディビルダーの主人公AとそのライバルBは、エッシャーのだまし絵のように前景が後景に入れ替わるかたちで、交換可能な人物である。しかも二人はスカイプでつながっている。Aは筋肉増強剤否定派、Bは肯定派で、二人の議論は妙によじれた平行線をたどる。AはBの紹介で入って来た後輩がBのスパイなのではないかと疑心暗鬼になったりする。Aはストーカー事件を解決する会社の会長の傍らで働くことになり、そこでAは無類の活躍をするのだが、物語の最後には、その会長自らが、最悪のストーカーと化してしまう。これも入れ子細工のように相似形の人間の欲望を描いている。AとBの姿は、まるで現代の日本の国会の戯画のようでもあり、このシンボリックな自己愛物語の真の主人公は、現代の日本人であるのかもしれない。などと私も日頃の鬱憤をこんなところでぶちまけてみるのだが、この小説に出て来る人々の被害妄想的な思考のいちいちが常軌を逸しているのにもかかわらず、そのリアルさは、さもありなん、と思わせられるところがあって、要するにこの小説の登場人物たちは自己愛以外のモラルがない。これはほとんど現存の政治家の竹中平蔵などの姿と重なる。とまた鬱憤をぶちまけても許されるぐらいのカリカチュアライズする精神が旺盛な小説なのだ。この調子でピカレスク・ロマンをデフォルメしていけば何だって書けるだろう。

小説の場面のどれもが、微妙に既成のジャンル小説の場面を型として取り出しながらパロディ化しているところがあると感じる。集中にばらまかれる映画名や音楽についての蘊蓄は、そういう趣味の持ち主へのサービスともなるものだが、一方でそういうスタイルの著名な書き手の癖を取り込んだパロディーでもあってほしいので、単に筆者がそこでオタク的であるだけでは広がりをもたない気がする。

小説のラストの姿見が出てくるあたりは、出来すぎという気もしないではないが、心憎いほどの写像関係へのこだわりではある。ひとつだけ気になるのは、Aがアナボリック・ステロイドを使用していたことが途中で突然明らかになるのだが、その理由や動機がいま一つわからない点である。ホルモン・バランスが崩れてオフに体が女性化してしまう(ビッチ化と言っているが)という逆転の悲喜劇は、このカリカチュア小説のもっとも愉快なシーンであると思うが、そこに至るまでのきっかけや経緯が丁寧に書き込まれてない。これは既定の枚数以内にまとめるために作者がネグってしまったとしか思われないので単行本にする時は丁寧に詰めておいてもらいたいと思う。

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