さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

「舟」30号。「毎日新聞」6月3日「名作の現場」。「短歌現代」1981年5月号。

2017年06月04日 | 日記
今日は一日家にいたので、ものを書くのに疲れたら何となくねそべっては手元に積んである本や雑誌をぱらぱらめくったりしている。中公文庫の吉田秀和『響きと鏡』というエッセイ集を何ページか読み、舟の会の「舟」30号をみる。後記の訃報欄をみると、「浮島」と名乗る歌人が三十二歳で夭折している。ああ、またここに一人若い人の命が消えた。遺作「水底弔歌」をみると、これは自分で自分に別れを告げている歌のように見える。ためらいを覚えるのだが、やっぱり引いてみることにする。ペンネーム浮島。歌は技術的に完璧である。惜しい才能だ。

 ごめんなさい私がいたらラジオからは雨音だけしか 聞こえない
 
 ある夜に彼女はしろい砂糖菓子に自分がなれないことに気付いた

 一冊の本になりたい図書室で光をさけて眠っていたい

 たくさんの娘らが並ぶ霧の海 真珠になれない、ごめんかあさん

 白い白いハチドリたちが降りつもる 海底にまるで雪みたいに

 おびただしいガラスの小瓶 あの人は天使をつかまえようとしていた


 私の知人の早坂類さんの詩に少し似ている。

前日の「毎日新聞」の「名作の現場」は梅崎春生の『幻化』について島田雅彦が書いていて、これは阿蘇の火口を二人連れの男のうちの一人が一周するのを、もう一人の似た者同士の男が望遠鏡でのぞきながら声援を送るという話だった。島田は書く。

「戦争は終戦とともにきれいさつぱり終わるのではなく、戦後も心的外傷との戦いは継続する。それを含めての戦争文学なのである。『幻化』が書かれた一九六五年は東京オリンピックの翌年であるが、元兵士の意識は依然として生死の微妙な境目に立っている。心が弱った者に阿蘇の火口ほど危険な場所はないが、二人は死に誘惑されるか、活力を補充して生還するか、際どい賭けをしている。実は私たちの誰もが一歩間違えると、戦争や狂気に押しやられる日常を過ごしており、阿蘇の火口に立つ二人と同じ立場にいるのである。」

 次に積み上げてある手元の雑書の山の中から何気なく一冊抜き出して読み始めたのが「短歌現代」1981年5月号である。特集「北原白秋『桐の花』の研究と背表紙にあるので買っておいた本だが、はじめから順にめくっていったら30ページと31ページに見開きで「松村英一追悼」として右のページに三浦武、左のページに御供平佶の文章が載っているではないか。そうして32ページに「松村英一の秀歌100」として千代国一の選が載っている。さっき御供平佶の歌について書いたばかりである。小半時のうちにこの一冊に手が伸びる、ということ自体が偶然とは言え、なかなかできすぎている。

 御供は、松村英一に「短歌は態度の文芸であると言われた。生活を大切にすることと、何事にも深く徹することを厳しく命じられた。」とある。「短歌は悲哀の文芸だと語りつづけた松村英一先生」ともある。

「書斎人の先生の知識欲は深く、三面記事的な事柄の多い鉄道公安の僕の日常を「ほうほう」と身を乗り出して聞かれ「その話書いとけ」と言われた。画商で店番をされた少年期に見た、袂の底を叩き袖口から飛び出す蝦蟇口を摑む掏摸の話を「今じゃこんな職人はおらんよ」と楽しそうに語られた。多くの悲惨に耐えた哀しみを忘れたかの眼差しであった。」と書いてもいる。短文ながら要を得ていて、かつ楽しい。

 ついでに右ページの三浦武の文章も紹介しておく。

「先生の話によると、六人の幼い子供を次々に亡くした虚無感から生きる気力を失い、投身をすべく奥様と二人で錦ヶ浦の崖の上に一日佇んでいたとのことであった。奥様のひとことで思いとどまったとのことで、終日見下ろしていたその日の冬の海の印象は今でも鮮明に覚えているといい、「歌が、国民文学があったのも死ねなかった原因の一つだよ」と感無量の言葉を継いでくださった。」

そんなつもりはなくて書きはじめたのだが、こんな文章になってしまった。
 



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