さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

中江俊夫『沈黙の星のうえで』昭和40年10月刊より

2017年09月30日 | 現代詩 戦後の詩
寝床の脇に積んである本の中から、一冊抜き取って披いてみると、まことに時宜に適うような詩が目に入ってきたから、少しばかり長いけれども全編引用してみよう。これを読むうちに読者の気が紛れたら幸いである。

詩集『沈黙の星のうえで』昭和40年10月刊より

  めくる   中江俊夫 

季節をめくる 風をめくる
昼と 夜をめくる
時間をめくる
ことばをめくる 沈黙をめくる
生をめくる
心臓をめくる
瞼をめくる

(明日はない)

夢をめくる
欲望をめくる
愛をめくる 花びらをめくる
存在をめくる 秩序をめくる
神をめくる
天体をめくる
無をめくる

(明日はない)

商標をめくる
会社をめくる
社長の背広をめくる 脱税をめくる
カバンをめくる
書類をめくる 伝票をめくる
課長をめくる
不渡手形をめくる

(明日はない)

トランプをめくる
かるたをめくる
頭の皮をめくる
顔をめくる
秘密をめくる
青空をめくる
星空をめくる

(明日はない)

パンのみみをめくる
鼻紙をめくる
キャベツや たまねぎの皮をめくる
かん詰のふたをめくる
じゃがいもの皮をめくる
カレンダーをめくる
便箋をめくる

(明日はない)

厚ぼったい毛布をめくる
薄汚れたシーツをめくる
ぺしゃんこな敷きぶとんをめくる
すりきれた畳をめくる
こわれかけた床をめくる
白ありのくった土台をめくる
重たい土をめくる

(明日はない)

ベトナムをめくる コンゴをめくる キプロスをめくる キューバをめくる 
民族をめくる 死骸をめくる
アメリカをめくる ソ連をめくる
中国をめくる 台湾をめくる
インドネシアと マレーシアをめくる
争いをめくる
世界中をめくる めくれるだけめくる

(明日はない)

田舎をめくる 農村漁村をめくる
祖先をめくる
山林地主をめくる 野山をめくり 海をなぎさからめくる
因習をめくり 村八分をめくる
むしろをめくり 農協漁協をめくり 宿屋をめくる
坊主と 寺をめくる

(明日はない)

新聞をめくり 雑誌をめくり 活字をめくる
独占資本と マスコミをめくる
死をめくる 女優をめくる
スカートをめくる おま〇こをめくる
黒い魂をめくる
胎児をめくる
恐怖をめくる

(明日はない)

※引用了

[解説と解釈]
 無関係な方々の検索にかからないように、一箇所あえて伏字にしてある。

 一行あけた(明日はない)までをセットにして一連と数えることにして、詩は全体で九つの連で構成されている。一連目と二連目までは、極大のものが相手になっていて、まじめな感じがする。三連目以降は、下世話な日常生活の事柄が取り上げられてきて、ユーモラスである。七連目では当時の紛争地と対立勢力の名があげられる。八連目は日本全国津々浦々、九連目でジャーナリズムや芸能界が何となく想起されてから、詩はどうにかおわる。ここでの「女優」はマリリン・モンローかもしれない。

 そもそもこの、「めくる」というのは、どういう意味の動作動詞なのだろうか。ありとあらゆるものを飲み込んで「めくって」しまう。ここには、「めく」られてしまったあと、そのモノは、消えて見えなくなってしまうような気配がある。「めくる」という語は、最強の否定の表現なのだ。しかし、同時に「現前」の瞬間自体は肯定されている。「めく」られるものには、良いもの、素晴らしいものが含まれる。

 「めくる」という言葉には、「引っくり返す」とか、「覆す」というようなニュアンスが感じられる。そうしてから転換、または展開してしまうのである。 「明日はない」というのは、その「めく」られたモノが明日はもう無いと言っているようだ。同時に「明日」というものが「ない」。あるものを「めく」ってしまったら、その結果として「明日」は無くなるのだよ、と言っているようにも解釈できる。きれいさっぱりめくってしまって、ああせいせいした、という気配も、ないではない。無。無こそがもっとも願わしい。

 それと同時に、めくって、めくって、めくってしまって、その果てに「明日はない」のだから、「めくるな」と作者は言いたいのかもしれない。めくってばかりいるんじゃない。めくるな、と。こういう矛盾したメッセージを、各連ごとに挿入される(明日はない)という言葉が発散している。「めくるな」とは、他者に対してだけではなく、作者自身に向けても発せられているメッセージである。どうしてあなたと私はさまざまなモノを「めく」り続けるのか。そうやってすぐにリセットしたがるのか。そんなふうに、やり過ごしてばかりいるンじゃない、と。

「めくる」という言葉には、多分に本や雑誌や新聞をめくる、というようなニュアンスが伴っている。「めくる」ためには、手や指先の動きが必要となるからだ。それほど大変ではなく、けっこう簡単に、やすやすと「めく」れるのである。スマホの画面もそんな感じだ。ここでまた、元の疑問に戻る。「めくる」というのは、どういう意味の動作動詞に置き換えられるだろうか。

通り過ぎる。忘れる。台無しにする。看過する。適当にごまかす。やりすごす。見ないようにする。考えないようにする。

こんなニュアンスを含み持っているかもしれない。

ところで、あるシチュエーションにおいて、「めくる」ことを強いられるのは、ひどく屈辱的だ。これは、仕事で働いて一定の報酬を得るために頭を下げるのとは、訳がちがうのである。日頃から「めく」られないようにしたいものである。と言うより、まずは「めくる」ことを疑ってみないといけない。自動的に「めく」っているみたいだけれど、何で私とあなたは「めく」るのか、「めく」られてしまうのか。

もしかしたら、「めくる」という語は、「生きる」ということの同義語なのかもしれない。それは抗いようのないことなのだから。とは言いながら、そこに「明日はない」という断言が連続する時、「めくる」ことは即座に絶体絶命の危機にぶち当たってしまうのである。その危機の感覚こそが、作者にとっての詩であり、詩的な文明批評なのだ。強烈な異議申し立てだ。でもまあ、かなり乱暴な感じのする詩ではある。論理性が、にょきっと突き出て聳え立っている。良くも悪くも「荒地」派の詩なのだ。




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