さいかち亭雑記

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秋谷豊の詩「背嚢」を読む

2017年06月03日 | 現代詩 戦後の詩

背嚢  秋谷 豊   『降誕祭前夜』(昭和三十七年十一月 地球社刊)より

おれのなかには夜がいつぱいだ
けれど おれを重くするのは夜ではない

おれが見知らぬ兵隊の背中で
ゆらゆらとねむりながら
波の上をわたつてきたのは夜の間だ
鉛のように
それが原野へつづいているなら
おれもそこへ行こう?
戦争はおれを熱い薬盒にする
唾液に
飢え
渇き
倒れていつただれかれの顔を
おれは逆光の中にまざまざと見るが
それはなんという大きな落日だつたろう

おれはれおれの中の夜を圧し殺す
けれど おれを暗くするのは夜ではない

兵隊が死ぬまで支えていたのは
銃であつた
兵隊は銃のために死ぬ
銃ににぶくほりつけてある
紋章のために死ぬ
兵隊は固いぺトンでつくられたもの
夜を夜と考えることのできぬ
沈黙のぺトンだ

おれと夜の間を長い長い軍列が流れてゆく
そいつは煉獄のはてから来た
だが おれを撃ち苦しめるものを
おれはキリストのように
背負うことはできないのだ 

 この詩の作者は、戦争からの帰還者である。
「あとがき」には、
「ぼくは自分の底に流れている戦争の体験を、いまも消し去ることができないでいる。戦争はわれわれにとって過ぎ去った暗黒の時間ではない。今日の崩壊しつつある人間性の危機は、ここから「神」が狂っていった二十年前のあの渦の中に再びわれわれをまきこもうとする。」
とある。

 詩の全体は、五つの連に分れている。タイトルが「背嚢」となっているから、「おれのなかには夜がいつぱいだ」という言葉を読んだ時に、読者は背嚢を語り手としてまずこの詩を読み始める。けれども、この重たい言葉の響きからただちに感じることは、「背嚢」である「おれ」が、まちがいなく作者自身の実感を担ったものだということだ。
 ここに二行目の「けれど おれを重くするのは夜ではない」という詩句が重ねられる時、では何が「おれ」を重くするのだろうか?という問いを読者は抱え持つことになる。そうして以下の詩句を続けて読む時に、その答は与えられるのか。

 二連目前半。「おれが見知らぬ兵隊の背中で/ゆらゆらとねむりながら/
波の上をわたつてきたのは夜の間だ/鉛のように/それが原野へつづいているなら/おれもそこへ行こう?」

 潜水艦の攻撃や空襲を避けて、輸送船はなるたけ夜間に移動するということがあるだろう。そうして夜のうちに「原野」のある南方の戦線のどこかに兵隊とともに上陸した。ここには作者自身のそうした暗闇の記憶が書かれている。この詩の「それが原野へつづいているなら」の「それ」とは、背嚢の中にある「夜」のことだろう。鉛のような夜。ハンス・ヘニー・ヤーンの小説に『鉛の夜』というタイトルがあった。鉛のような夜は、戦争の時代のわかりやすい比喩である。「おれもそこへ行こう?」と疑問のかたちになっているのは、行って原野の夜に溶け込むことなどできはしないからだ。

 二連目後半。「戦争はおれを熱い薬盒にする/唾液に/飢え/渇き/倒れていつただれかれの顔を/おれは逆光の中にまざまざと見るが/それはなんという大きな落日だつたろう」

 南方戦線では、戦死者の大半が餓死であった。飢えと渇きの中で倒れて行った兵隊たちを、「背嚢」は見ていた。生還した兵士である「私」の背中で。戦場において、「背嚢」は熱い「薬盒」となった。
「大きな落日」というのは、戦争の敗北、敗走の現実そのもののことでもあるだろうし、また実際に赤々とした夕陽を目にもしたのであろう。
 一連目の「けれど おれを重くするのは夜ではない」という句の「重くするもの」の当体は、飢えと渇きにさいなまれた戦争体験の総体ということになるだろう。また、そうは言っても「重くするもの」のすべてをここで説明し尽くしているわけではないのだ。それが「あとがき」で作者がこの詩集において「神」を問題にしていると書いた理由ともつながって来るのだろう。

 三連目。「おれはれおれの中の夜を圧し殺す/けれど おれを暗くするのは夜ではない」。
ここに来て、「背嚢」は自分の中の「夜」を押し殺してしまった。それなのに、相変わらず「おれ」は「暗く」されている。そうして「おれを重くするのは夜ではない」という冒頭の一連の言葉も生きている。さらに、「おれを暗くするのは夜ではない」という句が付け加わった。

 四連目。「兵隊が死ぬまで支えていたのは/銃であつた/兵隊は銃のために死ぬ/銃ににぶくほりつけてある/紋章のために死ぬ/兵隊は固いぺトンでつくられたもの/夜を夜と考えることのできぬ/沈黙のぺトンだ」

 ここでは「背嚢」がものを感じたり、考えたりすることができるのであって、兵隊にはそれが許されていない。兵隊は「固いぺトン(「べトン」はフランス語でコンクリートのこと)」であり、銃のために、銃に彫り付けられている菊の紋章のために(天皇と大日本帝国のために)死ぬのだ。兵隊には「夜を夜と考えること」が許されていない。夜とは何か。戦争の現実を支えるまっくらな塊のようなもの。戦争そのもの。


 五連目。「おれと夜の間を長い長い軍列が流れてゆく/そいつは煉獄のはてから来た/だが おれを撃ち苦しめるものを/おれはキリストのように/背負うことはできないのだ」

ここでも「背嚢」は、外側にある「夜」と自身を一体化しない。「おれと夜の間」には、「長い長い軍列」が「流れてゆく」のだ。それは地獄、ダンテが描いたような「煉獄のはて」からやって来た。圧倒的に強固な戦争という「軍列」が隔てるために、「おれ」は「おれ」自身であり、「おれ」の荷物でもある「背嚢」を、仮に言ってみるなら<罪>というものを、「夜」そのものに預けてしまうことはできない。しかしながら、その背負いきれないものをキリストのように「背負う」ことも、またできないのだ。

「おれ」は「おれを撃ち苦しめるものを」背負うことも、周囲の「夜」に一体化させることもできないまま、「撃」たれ、「苦し」んでいる。銃弾に撃ち抜かれた背嚢。背負いきれない思いだけが、ここに厳然として残り、「おれのなかには夜がいつぱいだ/けれど おれを重くするのは夜ではない」という根源的なアイロニーだけが、かろうじてよじれる言葉としてここに投げ出され続けるのだ。


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