さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

上條雅通『文語定型』

2017年09月24日 | 現代短歌
私は作者が還暦を過ぎて第二の人生を同じ会社に再就職して働いているということを知っている。けっこう仕事の歌が多いのだけれども、そのどれもが味わい深いものだ。母の挽歌も胸にしみる。

 俯きて入りたる路地に高々と投げ上げしごとく白き月照る

 少女にて大空襲に生きのこりわれを生み賜ひ今し絶えたり

 曇天の昼の米原風さむく男いくたりか「のぞみ」を捨てぬ

 集中には月をうたった作品がいくつもあって、そのどれもがいい歌だ。三首目は、むろん新幹線の列車を降りたというだけなのだが、誇張法を用いることによりサラリーマンの運命のようなものが漂う歌に仕上がっている。これはちょっと古いタイプの「男」の像かもしれないが、人生黄昏の感慨を、いぶし銀のようににじませた、しぶい男の歌なのだ。

 右ひだり尾根そびえたつ谷底に駅と街あり行く人二、三

 小説の郡奉行の決心をおもひみるべしふゆの夜道に

 用一つ終へてしとどに濡れゐたる車を降りぬそば啜らむと

 こういう仕事の途次で取材して作られた歌が、どれもいい。孤独で、清々しくて、かすかな悲哀感が漂っている。

 今日もまたプツシユサンドと注文しプレスサンドと直されにけり

 うつすらと風邪気味なれば旨くなき煙草二本目に火をつけにけり

 作者は含羞の人だから、ユーモアが感じられる歌は多少自分を責める方向に行く気配がある。いまや少数派の喫煙者でもある。自己プレゼン世代ではないので、蕎麦の歌がさまになる。人生は旨くなき二本目の煙草のようなものだ、と言って絵になる。でも、歌を作りながら生きていられることは幸せだ。そういうことを直接に言った歌もある。おしまいに。

 取柄なき小さき庭も秋の夜は幼きわれを酔はす虫の音

 落日を見むと来たれど山ぎはの雲に入りたる鈍き没りつ陽

 身辺に薄の野原がなくなって、最近は都市部では馬追虫やえんま蟋蟀やキリギリスの声をまったく聞かなくなってしまった。私は作者より年下だが、子供の頃虫の声に酔った年代だ。常に自然の景色を恋うている。二首目、壮麗な落日ではなく、鈍き没りつ陽をうたうところがいかにも作者らしい。


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