さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

江田浩司『想像は私のフィギュールに意匠の傷をつける』 2

2016年08月09日 | 現代詩 短歌


 (承前)続いて、太字の俳句が出て来る。前回の引用にあたって、「雲雀堕つ 柱の傷の水明かり」が太字で印刷されていたのを見落としていた。これは、詩のなかに織り込まれた俳句なのだった。

「冬の雲雀」とノートに書いてみる
力ない羽ばたきが遠くで聞こえたかと思ふと
たちまちに 雲雀堕つ 柱の傷の水明かり と耳もとで囁く声
「雲雀は冬をどうやつて過ごすの……」
なんども妹に訊ねられ 翼のすれる音が匂いくる 

「柱の傷」というのは、背比べをして、兄弟が柱に印をつけるという五月の節句の歌を
想起してみればわかるだろう。そこから「妹」が出て来るというのも、わかりやすい連想ではないだろうか。しかし、その思い出のようなイメージと、「雲雀堕つ」の初五とは、どうつながるのか。「水明かり」だから、川が流れているのだ。「雲雀堕つ」という悲劇的な言葉と幼年期の思い出のようなイメージがぶつかっている。このあとに、一行あけて次の句が来る。

眼裏に虹 麦の神から届けられ

「眼裏」には、「まなうら」と振り仮名がある。「麦の神」は季節の神と考えていいだろう。「麦」は夏の季語だ。ちなみに「雲雀」は春の季語である。引用を続ける。

温かき時間の間 一筋の 水が逝く

やっぱり水だ。五七五、と来て「水が逝く」で座五が一句多い詩行だ。「間」には、「あはい」と振り仮名がある。続いて太字の俳句。

牛乳の膜 キルケゴールの奈落かな

「牛乳」に「ちち」と振り仮名。悪くない。キルケゴールというのが気障な感じがするけれど。キルケゴールの「絶望」という言葉は、印象的なものであるが、これを「奈落」とひねってある。朝の安寧な一時。それを「温かき時間」と言えないことはない。そこで、牛乳をあたためて飲んでいる。キルケゴールのような厭世的な気分にとらわれることのある自分も。続いて四行の詩句のあとに短歌一首。

嘯きながら抱く 冬の雲雀の血はうす青く   
朝のスープに沈む針……
レマン湖の畔に住む老詩人の遠き声音に疼く 股間   
冬の雲雀は一羽ずつ死の様式を自らに課し
      ※「嘯」に「うそぶ」と仮名。「畔・ほとり」「声音・こわね」。

憎しみは玻璃の中で育ちゆきさみどりの夜にしづめむ怒り
      ※「玻璃」に「ガラス」と仮名。

水は時間につながっている。どうして「嘯きながら抱く」のだろう。ここでは「冬の
雲雀」を抱いているとしか、読めない。生きる力が衰えると、それは冬の雲雀のようなものかもしれない。血もうす青い。スープに針があるというのは、食べ物に刺すような痛みが伴っているということの喩である。そうして、ここで書き手は「レマン湖の畔に住む老詩人」に自分を投影しはじめる。レマン湖はバイロンの詩に関係があるが、若くして亡くなったバイロンは「老詩人」ではない。これも少しずらしてあるのだろう。「レマン湖の畔に住む老詩人の遠き声音に疼く 股間」というのは、やっぱり加齢に関係しているのだ。股間が疼くというのは、若者の股間ではなくて、ある年齢に達して残存する性欲なのだ。「冬の雲雀は一羽ずつ死の様式を自らに課し」というのは、正直なわかりやすい句で、作者は死について考えている。しかし、そのあとの歌において急に「憎しみ」が出てくるのはどういうわけか。
短歌の技術批評は私は得意だ。「玻璃の中」はあまり丁寧ではない(と書いたが、この「中」を「うち」と読めば問題はないと、後になって気がついた。訂正8月15日)。ガラス窓がある部屋の中、ぐらいの意味だろうか。たぶん、これは幼少年期の記憶なのだ。そこに戻っているととると、少し「憎しみ」がわかる。作者に現実の妹がいたかどうか、私はそんなことは知らない。別解では、塚本邦雄の歌に、ヘロデの幼児虐殺を題材にした歌がある。その歌でも作者はガラスの内側から五月の緑を見ていた。続けて三行の詩。

「雲雀は冬をどうやつて過ごすの……」と何度も訊ねる妹……
滅びの美しさだけが夕波に揺れつつあらむ一日に
君は月影あをき霧の階段をのぼる

「一日」に「ひとひ」、「階段」に「きだはし」と振り仮名。「滅びの美しさだけが夕波に揺れつつあらむ一日に 君は月影あをき霧の階段をのぼる」というロマンチックな二行は、むろん肯定的な描写ではない。「滅びの美しさ」を作者は好意的に見ていない。死に引かれる「君」に対して作者は、いらだっている。たぶん、これが正解だろう。誰だか知らないが、たぶん自死に近いかたちで死んでしまった誰かについて、書いたのがこの詩なのだ。一応答を出してしまったから、この後は全部引かない。一行だけ。
冬の雲雀は初霜を置き 歓喜の果てに裂ける臓器か

なかなか美しい詩句である。この詩は、「冬の雲雀」のような、か弱い存在、そういう生き方をする誰かを悼む詩なのだ。


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