その夜義定は範頼の館に泊まることとなった。
夜もかなり更けた頃、義定は月を見ないかと範頼を誘った。
「あの夜の星々も見事であった。」
「は?」
「蒲殿と初めて会った頃共に星を見上げた夜のことじゃ。富士川の戦いのすぐ前のことじゃった。
あの頃、わしらは甲斐国にあって、平家の襲来を警戒しておった。
それに備えて、わしと蒲殿は遠江国の住人たちに与同を働きかけていた。」
「さようにございましたなあ。」
しばし二人は夜空を眺める。秋の風が感じられるようになった頃のこの夜の空は
月や星を一層輝かせている。
「あの頃は平家はまだまだ強く、平家に従う者も少なくなかった。
遠江を手中にせんとわしは目論んでいたが、先行きは全く見えないものじゃった。」
少し涼しく感じられるようになった風が通り過ぎる。
「その頃、わしが遠江守になるとは誰も思わなかったじゃろう。
兄者も、他の甲斐源氏一族も・・・」
夜空から顔を背けずに義定は話を続ける。
「ほんに世の中とはわからぬものよ。
無位無官の謀反人が国守となり、名も知られぬ木曽の男が左馬頭や伊予守になる。
雲の上の方々も先はわかったものではない。
官位や知行国を独占していた平家は都を落ち、その奉じる帝も今では先の帝となられた。
そして、そなたの御養父殿も・・・」
「!」
「その今の帝の乳母殿の叔父御がそなたの御養父ぞ。今までの世ならば御位に就くとは考えられぬ皇子が皇位に上られたゆえ。
蒲殿も凄い方の御猶子となられたものじゃ・・・」
安田義定の目が一瞬鋭い光を放った。
「わしはご養父殿に先日お目どおりが叶った。蒲殿がわしのことを御養父の高倉殿(藤原範季)に知らせておいてくれたおかげでな。」
「養父は息災でしたか?」
「ああ。お元気でおられた。」
「お忙しそうにしておったが、蒲殿のことを気にかけておられた。よいご養父じゃな。大切になされるが良い。」
風がかなり冷たくなってきたので夫々寝所に引き上げた。
翌朝義定は遠江に向かって去っていったが、帰り際に一通の書状を範頼に残していった。
その書状には
「此度遠江守になったので、折を見ては蒲殿の母御の消息を尋ねるつもりである。これからも蒲殿とはよき付き合いをしていきたい。」
と書かれていた。
「母」という言葉に一瞬動揺が走った。
範頼が幼い頃から行く方知れずとなっているその母は遠江国の出である。
遠江守となった義定ならば何かしら良い手ががりを得る可能性がある。
母という言葉で義定は範頼を縛り付ける。
今や帝の乳母の縁に連なる人物となってしまった範頼は義定にとってはまた別の意味で重要な盟友となるのである。
義定とて今の遠江守の地位獲得だけで満足しきっているわけではない。遠江支配を強固にならしめるためには都の有力者との縁を繋ぎ、またそれを深めなくてはならない。乳母の叔父となった藤原範季に繋がる範頼との今後の提携は義定にとっては欠かせないものとなる。
一方範頼は兄頼朝にとっても重要な弟となっている。
野木宮の戦いにおいて、目立たぬながらも将として十分な働きを見せた範頼の能力を頼朝は評価している。
また、甲斐源氏を凌駕して東海道筋における主導権を握らんとする頼朝にとって三河で勢力を築きつつある弟は大切な一つの駒となる。
その異母弟を手近に引き寄せんと範頼の妻には頼朝にとって最も信頼のおける家人安達藤九郎盛長の娘を配した。
範頼は東海道の支配権を巡って微妙な関係にある鎌倉殿源頼朝と甲斐源氏遠江守安田義定にとって共にに重要な人物となっている。
一方、範頼から見ると、兄頼朝も盟友安田義定も共に大切な人物である。
安田義定の後援、そして兄頼朝外戚熱田大宮司家の支援この両方無くば範頼は三河に勢力を築くことはできなかった。そしてこの両者からの協力は恐らく今後も欠かせないものになると思われていた。
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夜もかなり更けた頃、義定は月を見ないかと範頼を誘った。
「あの夜の星々も見事であった。」
「は?」
「蒲殿と初めて会った頃共に星を見上げた夜のことじゃ。富士川の戦いのすぐ前のことじゃった。
あの頃、わしらは甲斐国にあって、平家の襲来を警戒しておった。
それに備えて、わしと蒲殿は遠江国の住人たちに与同を働きかけていた。」
「さようにございましたなあ。」
しばし二人は夜空を眺める。秋の風が感じられるようになった頃のこの夜の空は
月や星を一層輝かせている。
「あの頃は平家はまだまだ強く、平家に従う者も少なくなかった。
遠江を手中にせんとわしは目論んでいたが、先行きは全く見えないものじゃった。」
少し涼しく感じられるようになった風が通り過ぎる。
「その頃、わしが遠江守になるとは誰も思わなかったじゃろう。
兄者も、他の甲斐源氏一族も・・・」
夜空から顔を背けずに義定は話を続ける。
「ほんに世の中とはわからぬものよ。
無位無官の謀反人が国守となり、名も知られぬ木曽の男が左馬頭や伊予守になる。
雲の上の方々も先はわかったものではない。
官位や知行国を独占していた平家は都を落ち、その奉じる帝も今では先の帝となられた。
そして、そなたの御養父殿も・・・」
「!」
「その今の帝の乳母殿の叔父御がそなたの御養父ぞ。今までの世ならば御位に就くとは考えられぬ皇子が皇位に上られたゆえ。
蒲殿も凄い方の御猶子となられたものじゃ・・・」
安田義定の目が一瞬鋭い光を放った。
「わしはご養父殿に先日お目どおりが叶った。蒲殿がわしのことを御養父の高倉殿(藤原範季)に知らせておいてくれたおかげでな。」
「養父は息災でしたか?」
「ああ。お元気でおられた。」
「お忙しそうにしておったが、蒲殿のことを気にかけておられた。よいご養父じゃな。大切になされるが良い。」
風がかなり冷たくなってきたので夫々寝所に引き上げた。
翌朝義定は遠江に向かって去っていったが、帰り際に一通の書状を範頼に残していった。
その書状には
「此度遠江守になったので、折を見ては蒲殿の母御の消息を尋ねるつもりである。これからも蒲殿とはよき付き合いをしていきたい。」
と書かれていた。
「母」という言葉に一瞬動揺が走った。
範頼が幼い頃から行く方知れずとなっているその母は遠江国の出である。
遠江守となった義定ならば何かしら良い手ががりを得る可能性がある。
母という言葉で義定は範頼を縛り付ける。
今や帝の乳母の縁に連なる人物となってしまった範頼は義定にとってはまた別の意味で重要な盟友となるのである。
義定とて今の遠江守の地位獲得だけで満足しきっているわけではない。遠江支配を強固にならしめるためには都の有力者との縁を繋ぎ、またそれを深めなくてはならない。乳母の叔父となった藤原範季に繋がる範頼との今後の提携は義定にとっては欠かせないものとなる。
一方範頼は兄頼朝にとっても重要な弟となっている。
野木宮の戦いにおいて、目立たぬながらも将として十分な働きを見せた範頼の能力を頼朝は評価している。
また、甲斐源氏を凌駕して東海道筋における主導権を握らんとする頼朝にとって三河で勢力を築きつつある弟は大切な一つの駒となる。
その異母弟を手近に引き寄せんと範頼の妻には頼朝にとって最も信頼のおける家人安達藤九郎盛長の娘を配した。
範頼は東海道の支配権を巡って微妙な関係にある鎌倉殿源頼朝と甲斐源氏遠江守安田義定にとって共にに重要な人物となっている。
一方、範頼から見ると、兄頼朝も盟友安田義定も共に大切な人物である。
安田義定の後援、そして兄頼朝外戚熱田大宮司家の支援この両方無くば範頼は三河に勢力を築くことはできなかった。そしてこの両者からの協力は恐らく今後も欠かせないものになると思われていた。
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