時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(三百五十三)

2009-02-12 05:11:47 | 蒲殿春秋
後白河法皇の使者が鎌倉に在る頃、都ではある変化が起きた。
寿永二年(1183年)九月二十日、都から木曽義仲が忽然と姿を消した。
人々は義仲が逐電したと驚きあわてた。が、それは逐電ではなく西国にある平家の追討への出発であった。
その前日義仲は後白河法皇より平家追討を命じられていたのである。

この頃、義仲の都に置ける立場は悪いものとなっていた。
食糧、物資などの不足に彼や彼に同行した他武将の兵は苦しめられ、それが故に食糧等の強奪を行なわざるを得なくなり、それが益々都における義仲の評判を落としているのである。また、食糧事情の悪さに苦しんでの義仲軍の兵の離脱がここのところ止まらない。

この事態を打開するには西国でまだ健在の平家を追討して武士としての義仲を
都の人々に再評価させるしかない。
また、その以前義仲には平家没官領が与えられていたが、その領地は西国に数多く存在する。
平家を打ち倒さない限り義仲が得た領地は平家に押さえられたままの状態で実質的に義仲のものにはならない。
平家の没官領を獲得して食糧物資の調達を図ると言う狙いもある。それにより自軍の兵の離脱を食い止める。

この出陣は、義仲以外の他の源氏武将ー源行家、土岐光長などには一切知らされなかった。
あくまでも義仲軍単独の出陣であった。
光長などの武将たちは元々義仲とは全く別個の武士団の長で、義仲と彼等の関係はあくまでも同盟者である。
そして今、彼等の義仲を見つめる目は時として冷ややかなものになっている。
この同盟軍の武将達の優位に立つためには自軍のみの力で平家に勝利しなければならない。
また、公卿たちの間には未だに平家を武力討伐することには反対の意見も根強い。
この公卿たちの反対運動が起きる前に平家追討に出発しなければならなかった。
そのような理由で逐電とも思われる急な出陣をとり行ったのである。

義仲は慌しく西国へと出発していった。
が、この頃平家は西国において力を取り戻しつつあった。それに対する人々の認識は未だに薄い。

その義仲が去った都に今度は源頼朝からの返答を抱えた院の使者中原康貞が戻ってきた。

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