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(玉)ー玉葉、(吉)ー吉記、(吾)ー吾妻鏡
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(玉)ー玉葉、(吉)ー吉記、(吾)ー吾妻鏡
日付 | 頼朝勢力 | 北陸 | 美濃尾張 | 西国 | その他 | 朝廷 | 平家 | 8月1日 | 頼朝密奏と宗盛の返事の記事(玉) | 頼朝密奏と宗盛の返事の記事(玉) | 8月2日 | 頼朝駿河に仮屋を作る(玉) | 8月6日 | 藤原秀衡、城資職へ任官の動き(玉) | 8月12日 | 足利俊綱頼朝に背くとの噂(玉)、秀衡官軍に与力するとの噂(玉) | 8月15日 | 平経正北陸に出発(吉) | 藤原秀衡ら国守に任官される(玉、吉) | 平経正北陸に出発(吉) | 8月16日 | 平通盛北陸に出発(吉) | 平通盛北陸に出発(吉) | 8月23日 | 加賀国住人越前にの郷を二つ焼き討ち(吉9/1) | 伊予の河野通清が殺されたとの噂(吉) | 9月1日 | 平通盛、越前国府にいる(吉) | 9月2日 | 北陸の賊徒を平通盛征伐できないとの報(玉) | 9月6日 | 熊野別当湛増坂東に赴く(玉) | 鎮西の反乱甚だしく、原田菊池和平して平貞能を尋ねるとのこと。 | 熊野別当湛増坂東に赴く(玉) | 9月9日 | 熊野別当湛増院に坂東下向の釈明(玉) | 平通盛越前加賀国人に敗れたとの報(玉、吉) | 熊野別当湛増院に坂東下向の釈明(玉) | 9月10日 | 平通盛敦賀城に引きこもる。軍勢を越前に送ること決定(玉) | 9月11日 | 鉄兜大神宮に奉幣(玉) | 平教経、行盛北陸へ、重衡東国へ下向することが決まる(玉) | 9月12日 | 平通盛敦賀城を追われる、若狭の平経正援軍に行かず(玉) | 9月13日 | 北陸追討使、下向定まらず(玉) | 9月15日 | 平家滅亡の託宣平時子の女房が受ける(玉) | 9月24日 | 平宗盛の大和大福庄源氏の二川三郎に焼かれる(玉) | 9月25日 | 使者が頓死した伊勢神宮の兜事件 無事奉納(吉) | 9月27日 | 平行盛北陸に向けて出立(玉) | 平行盛北陸に向けて出立(玉) | 9月28日 | 東国の輩、上洛近い、平宗盛伊勢美濃へ郎党派遣(玉) | 熊野反乱、平頼盛追討に下向を仰せ下される。源氏の武士高野山に何人か篭る(玉) | 10月4日 | 11日に平知盛、清経越前下向、重衡東国下向などの予定(玉) | 10月10日 | 北陸等への出兵延期、官軍の兵数減少(玉) | 北陸等への出兵延期、官軍の兵数減少(玉) | 10月11日 | 熊野の行命(官軍寄り人物)上洛しようとして、他熊野勢力に討たれる(玉) | 10月16日 | 平貞能、鎮西を平定して上洛するとの噂、秀衡に官軍につくように使者を送る(玉) | 10月20日 | 伊勢権禰宜渡会光倫鎌倉より来着(吾) | 10月23日 | 頼朝上洛の為尾張にいるとのこと、行家も尾張にいる。(玉10/27) | 10月24日 | 北陸を攻めようとするが、官軍無勢の為延期(玉) | 11月5日 | 平維盛東下に備えて、出兵準備するも出陣せず(吾) | 11月11日 | 源頼政縁者鎌倉下向(吾) | 11月19日 | 平通盛、北陸より帰京(吉) | 平通盛、北陸より帰京(吉) | 12月7日 | 政子体調崩す(吾) |
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Q1.郎従長明 能清・長明 と書いているのは、何月ですか?
Q2.秀が池田の庄を取得もしくは、持っていた記述がないですか?
さてご質問についてなのですが
Q1 すいません 郎従長明 能清・長明がどのような方なのかまたどの文献や伝承に在る方なのか分かりません。もし、どのような方なのかご存知でしたら教えていただけるとありがたいのですが。
Q2.秀が池田の庄を取得もしくは、持っていた記述がないですか?
秀というのは俵藤太こと藤原秀郷のことでしょうか?申し訳ありませんがこのあたりについてもまったく分かりません。
よろしければ色々教えていただけるとありがたいのですが・・・
ご質問に答えることができない上、ご教示を願うのは失礼かと存じますが宜しくお願いいたします。
吾妻鏡に載っているのです。
おはようございます。
お返事ありがとうございます。
よろしければ「池田の庄」や「俵藤太」、そしてその二つの関連が乗っているのは吾妻鏡のどのあたり(何年何月何日条)か教えていただけるとありがたいのですが・・・
遅くなりました。
「東鑑」壽永三年甲辰二月……云々。の記述があり、池田ノ荘の領主について書かれている。
この条に載っている件です。
紀伊名所図會(二)(P325に記載あり)
建初山愛染院金剛寺の項に、俵藤太秀碑 境内にあり。
よろしく。
日にちが記入忘れていました。
壽永三年二月大廿一日庚辰。
教えていただきましてありがとうございました。
「吾妻鏡」当該記事確認いたしました。
その記事に載っている秀郷子孫の尾藤太知宣さん、非常に興味引かれる存在です。
何故信濃と紀州双方に所領を持っていたのかとか、義朝、義仲との関係を色々と考えてみると面白そうです。
いつか「吾妻鏡」関連の記事に書かせていただきたければ、などと考えております。
紀伊名所図會(二)
こちらは、比較的入手可能な史料でしょうか?
今まであまり荘園関連の史料をじっくり見る機会がなかったので興味惹かれます。
今後とも宜しくお願い申し上げます。
簡単に借れましたよ。
借りてきて、スキャナーでコピーを撮りました。
情報ありがとうございます♪
今度↑図書館でさがしてみます。
何か良い情報を、教えていただけますか?
私は、今、この5輪塔を調べています。
境内に古き五輪の石塔あり相傳へて藤太秀の石碑といふ或説に此寺舊は秀の創建にて明恵の再建なりともいふ按するに當荘秀の領なりし事東鑑にあり然れは里人其菩提の為に此五輪を建しならん(紀伊続風土記 巻三十 P650)
この5輪塔が地・水・火・風・空の五大の梵字の刻まれた、『藤原秀』の分骨供養塔として里人に
依って、建てられたように感じられる。