では、何が鎌倉方に勝利をもたらしたのでしょうか?
色々な説を上げてみたいと思います。
1)元々平家に対して人数的に劣勢だった鎌倉勢に多くの都の武士が与力した為
軍勢が増えてそれが勝利に繋がった。(元木泰雄、川合康)
2)山手口が最初に突破された為に、平家の船が停泊する大和田泊がまず鎌倉方の占拠された。その為に船に多くの将兵が逃げる時間を失い平家方に大損害を与えた。(菱沼一憲)
3)多田行綱を始とする摂津国武士や途中で義経の道案内者となった武士などの地の利に詳しいものの協力があった。(川合康)
4)福原の防衛ラインが広すぎた。また、山上での戦闘の記録が無く、戦いは山すそもしくは平地でのみ行なわれた。
平家側が山上に兵を配置していれば、平家側は戦いやすかったはずである。(柘植久慶「源平合戦 戦場の教訓」PHP文庫)
5)都において和平と主戦の論議があり、方針がまとまらなかった。平家のほうには和平論だけが伝わり戦闘の事前準備が十分ではなかった。(「吾妻鏡」寿永3年2月20日条宗盛の書状より)
6)平家側の軍勢には「駆り武者(臨時で召集される現地の武士)」が多かった。(「平家物語」)
などなどありますが、どれが正しいのかというのはまだ決着がついていないようです。
しかしながら、「玉葉」によると当初人数的に劣勢と見られていた鎌倉方*が一刻のうちに平家方に勝利した事
そして、多くの平家の将が討ち取られ、一門の中枢に位置する平重衡が捕虜になった、
そのような事実だけでも当時の都の人にとってみれば「劇的な戦い」だったのではないかと思います。
そしてそれに色々な話が後に伝わっていって、「物語化」して「劇的な一の谷の戦い」に昇華していったのではないかと思えるのです。
*「玉葉」の記載によると、鎌倉方の出陣時の兵力は「合計でも2,000から3000騎」程度、対する平家方は数万と噂されていた。
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色々な説を上げてみたいと思います。
1)元々平家に対して人数的に劣勢だった鎌倉勢に多くの都の武士が与力した為
軍勢が増えてそれが勝利に繋がった。(元木泰雄、川合康)
2)山手口が最初に突破された為に、平家の船が停泊する大和田泊がまず鎌倉方の占拠された。その為に船に多くの将兵が逃げる時間を失い平家方に大損害を与えた。(菱沼一憲)
3)多田行綱を始とする摂津国武士や途中で義経の道案内者となった武士などの地の利に詳しいものの協力があった。(川合康)
4)福原の防衛ラインが広すぎた。また、山上での戦闘の記録が無く、戦いは山すそもしくは平地でのみ行なわれた。
平家側が山上に兵を配置していれば、平家側は戦いやすかったはずである。(柘植久慶「源平合戦 戦場の教訓」PHP文庫)
5)都において和平と主戦の論議があり、方針がまとまらなかった。平家のほうには和平論だけが伝わり戦闘の事前準備が十分ではなかった。(「吾妻鏡」寿永3年2月20日条宗盛の書状より)
6)平家側の軍勢には「駆り武者(臨時で召集される現地の武士)」が多かった。(「平家物語」)
などなどありますが、どれが正しいのかというのはまだ決着がついていないようです。
しかしながら、「玉葉」によると当初人数的に劣勢と見られていた鎌倉方*が一刻のうちに平家方に勝利した事
そして、多くの平家の将が討ち取られ、一門の中枢に位置する平重衡が捕虜になった、
そのような事実だけでも当時の都の人にとってみれば「劇的な戦い」だったのではないかと思います。
そしてそれに色々な話が後に伝わっていって、「物語化」して「劇的な一の谷の戦い」に昇華していったのではないかと思えるのです。
*「玉葉」の記載によると、鎌倉方の出陣時の兵力は「合計でも2,000から3000騎」程度、対する平家方は数万と噂されていた。
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