星を見ていた。

思っていることを、言葉にするのはむずかしい・・・。
良かったら読んでいってください。

天使が通り過ぎた(28)

2008-05-09 02:07:46 | 天使が通り過ぎた
 呼出し音は4回鳴った。もしかしたら登録されていない電話番号には出ないのかも、と思い始めた頃「もしもし」という声がした。久しぶりに聞く落ち着いた低いその声は、間違いなく健一さんの声だった。
「もしもし。桜井です。桜井、香織です。」
 私は健一さんが自分を認識できないかもしれない、と思いフルネームで名前を言った。自分をフルネームで名乗ることなど日常ほとんどないので、それは少し滑稽に響いたように思えた。それにもしかしたらフルネームを言ったところでぴんと来ないかもしれない、とも思った。
「ああ。香織さんですね。」
 そんな私の考えは関係なかったかのように、健一さんはまるで普段からよく私と電話をしているみたいに自然な反応で応対した。
「お久しぶりです。今お仕事大丈夫ですか?」
 私は久々の、しかもたった一度会っただけの人に電話を掛けているという緊張感で、どうして私はこの人に電話を掛けてしまったのだろうと思った。
 「大丈夫ですよ。お元気でしたか?」
「私は元気です。あの、メール読みました。それで健一さん、今どちらにいらっしゃるんですか?」
 私はあの一人旅行をしたときの、健一さんの車に乗った遠い場所を思い出していた。だが今この電話をしている健一さんは、ほんの数駅先の場所にいるようだった。健一さんの話を聞いていると、あの静かな落ち着いた顔が頭に浮かんだ。
「そうですか。」
私はいったい何を確認しようとしているのだろう、と自分で思った。私が言い淀んでいると健一さんが続けて言った。
「香織さん、今日はこんな日でお忙しくないのですか?近くに来たので、もしお暇ならと思って、あんなお誘いをしてしまいましたが。」
 私はこの声を聞いて、たった一度しか会ったことのない、しかもほぼ知らないも同然の人であるのに、こんなに懐かしさを感じるのは何故だろうと思った。緊張は健一さんの短い言葉で溶けてしまって、私はまるで旧知の友人に電話をしているような気分になった。
「いえ私も、こんな日なのに暇なのです。お恥ずかしいですが。」
「お恥ずかしい、ですか。」
 言いながら健一さんは笑った。
「では、こんな夜に暇な者同士、久しぶりにお会いしましょうか。7時半にどうでしょうか?」
 続けて健一さんは待ち合わせの詳しい場所を言った。
「分かりました。お誘いありがとうございました。」 
「こちらこそ。ご丁寧に電話をいただいて。ありがとう。」
少しの間沈黙が漂った。
「じゃあまた、あとで。」
「あとでまた。」
また同時に言った。私の口からは、何となく笑みがこぼれた。

先ほどまでの気分とは裏腹に、こんな日に急に出掛けることが決まった私は、まるでデートに出掛ける前みたいに、浮き立った気分で外出の支度を始めた。すっぴんに近かった化粧をし直し、きちんとマスカラをしてシャドウを塗った。着ていくワンピースにアイロンを掛け皺を伸ばした。何も塗っていない爪をコーティングし、久しぶりに気に入ったピアスを着けた。今日という日が、数ある他の日のうちの一日であったなら、さほど気にせずに家を出たのだろう。だが今日はクリスマスイブだった。それでここ数ヶ月引き篭もり同然でいた自分が、久しぶりに外出の楽しみを思い出したようだった。こんなに出掛ける準備を入念にするのは暫くなかったことだった。

「香織、出掛けるの?」
部屋と洗面所を行ったり来たりしている私に、母が声を掛けた。
「そう。友達が急に出てこないかって誘ってきて。」
それだけしか言わなかった。健一さんが友達かどうかはこの際関係なかった。母は下駄箱からロングブーツを出している私を横目で見ながら「そうなの。」と一言だけ言った。姿見で全身をチェックしている私を、母は何も言わず穏やかな顔で眺めていた。何か言いたげだったのだろうが、引き篭もっているよりこんな日に出掛ける娘を健全だと思ったのだろう。玄関を出るとすでに外は暗くなっていて、空気は昼間より一層冷たくなっていた。だが、私は何となく暖かい気分で満たされていた。

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