星を見ていた。

思っていることを、言葉にするのはむずかしい・・・。
良かったら読んでいってください。

金曜日

2008-08-17 12:56:58 | 読みきり
 23日は金曜日なはずだった。翌日の土曜日でもいいのではないかと思ったけれど、だんなは土曜日に何か用事があるようだったので金曜日にした。心の中で、ああ、9年なのだ、と思った。9年。10年なら、と思ったが9年なのだから特に余計な贈り物や何かはしなくてもよいだろう。東京のほうにまで出て行って、どこか気の利いた店を探して予約をしてみても良いかなと考えたけれど、店を検索しているうちに面倒臭くなってしまった。それで結局、地元にあるいつもの店に予約を入れた。高級フレンチでも居酒屋でもどうでもいいと思っている彼の食事態度を見ていると、店にこだわって探したりするのが馬鹿らしくなってしまう。

 先に言ってきたのはだんなの方だった。結婚記念日、どうする。私はなんとなく今年も結婚記念日がやってくるとは思っていながらも、それが暗黙の了解で毎年の恒例行事となっていることを分かっていながらも、あえて口には出さなかった。もうそれは形だけのものだったから。少なくとも私にとっては。1年目、2年目、3年目くらいまでは本当にそういったことが楽しいと思えた。ああ、2年前のあの日、私は結婚したのだったわ、と懐かしく思ったりした。それから5年目のときは、お互いにプレゼントを交換した。私は彼に時計を贈り、彼は私に安いけれども一応ダイヤのペンダントをくれた。今考えると、それらの行為はいかにもという感じがしてどこか陳腐に思えるけれど、その時は自分が結婚というものを決断しそれを何年も継続してきていることに対してのある程度の感慨のようなものがあった。それからさらに4年が過ぎたわけだけれど、もう私は、そういった結婚に対してのセンチメンタルのようなものはほとんど持っていない。私が結婚生活を継続しているのはそれが習慣になってしまっているから。でも、大抵の人にとって、そういう風に結婚生活は過ぎてゆくのかもしれない。

 じゃあ、仕事終わったらメールするから。そう言ってだんなは出て行った。私も。私は答えた。だんなはどこの店を予約したのかも聞かなかった。どこの店かというのは、彼にとってどうでもいいのだろう。時々思う、どちらかの携帯の電池が切れて連絡できなかったらどうするのだろうかと。職場にいるときはいいが、出てしまっていたらどうするのだろう。私の携帯の電話番号を暗記しているのだろうか。そう思いながらも私はあえてそれを口にしない。諦めて帰ってくるだけのことなんだろう。そして私も予約をキャンセルして家に帰る。特に彼をなじることも無く、もう、仕方ないわね、の一言で終わってしまうのかもしれない。明日出かける予定があるんだけど、あまり遅くはならないだろう?そう一言付け加えてだんなは言った。予定があるから、と彼は言った。予定。私は深く聞かないけれど、仕事ではない何かの予定。そうなの。食事したら帰るだけだから、大丈夫よ、と私は何ともない感じで返す。

 職場に出勤し、コーヒーメーカーのそばで自分のカップを準備していると、隣の係の上司が近づいてきた。おはよう。一言そう言うと、目と口元がにっこりと笑った。私はこの人の目が好きだ。顔の皮膚が柔軟なのか笑うとやわらかく大きな皺が口の横にできる。私はその皺の感じも好きだ。その皺を見ていると犬みたいだと思う。そしてその皺が優しそうな雰囲気を醸し出しているように思う。髪も、この年代にしては珍しくナチュラルに少し余計に伸びていて、そこを好ましく思う。私はガラスの丸いポットから自分の分と彼の分のコーヒーを注ぐ。そうしている間に、彼が、来週の水曜日はどうかな、と言う。ちいさな声で。私は台にこぼれたコーヒーの染みを布巾で拭きながら、いいですよ。と答える。それがまるで何か他のことを聞かれたみたいに。淡々と。じゃあ7時に。それだけ言って彼は自分の席に戻っていく。

 それから来週の水曜日まで、下手したら彼と口を聞くことはないかもしれない。違う係だし仕事の関連もない。用がないのだ。あるとすれば、こうしてコーヒーを注ぎにここに来るときだけ。この機械がこのフロアにはここにしかないから。たまたまここに来て鉢合わせになり、一言二言会話を交わす。ただそれだけの間柄だったのだ。ある時何かの行事でたまたま話をしたことがあった。仕事の打ち上げか何かの立食パーティーのような席で。浮かれている人達の列から外れている人の中に彼がいた。僕は飲まないんだよ。無礼講状態で乱れている人たちをよそ目に、静かにオレンジジュースを飲んでいた。そうですか。お酒は嫌いなんですか?いや、好きだよ。でもこういう場では一切飲まないんだ。そうなんですか。そういう態度に好感が持てた。珍しい。それから何が好きで何が嫌いかの話になった。本当はワインが好きなんだ。私も。焼酎は嫌い。私も。和食は好き。私も。実はスパゲッティを作るのが得意かな。簡単だから。そうなんですか。私も得意かも。おいしい店があるんだけれど。今度行って見る?それで私たちはある日食事に行くことになった。すごく自然に、何のやましさもないような感じで。

 今日仕事は退屈だった。私は何度も時計を見ては時間の経つのが遅いと感じていた。来週やるはずの仕事の準備までもしてしまった。掛かってくる電話も少ない。事務所の中は静かで今日は定時で帰れそうな気配が漂っている。5時半になると机の上を片付けロッカールームに向かった。

 あら、今日は早いわね。どこかこれから行くの?ロッカールームに行くと隣で着替えている他の部の年上の女性が声を掛けてくる。はい。今日結婚記念日なんで、食事に。あらいいわねえ。素敵ね。そのワンピースも素敵よ。彼女は私の黒のワンピースをちらと横目で見ながら言った。私は自分たちの結婚記念日のことなんて言わなくても良かったことだと思う。まあそれは、たわいもないことだけれど。何年目なの?彼女が化粧を直しながら聞いてくる。9年目です。ああ、そんなに経つのねえ。早いわねえ。彼女とは特に親しくはないが同じ会社に長くいるのだから私が結婚したことも知っている。じゃあ、楽しんできてね。そう言って彼女はバッグを持って部屋を出て行った。私も化粧を直す。一応家にただ帰るわけではないのだからと、いつもよりは念入りに直した。バッグから大き目のピアスも出してつける。胸元には一応、5年目の結婚記念日でだんながくれたペンダントをつけている。私がこうしていつもよりお洒落をしてきても、多分だんなは気づきもしないのだろう。彼はいつものようにいつものスーツを着て、そういえば朝何を着ていたか私はまったく見ていなかったが、来るのだろう。そもそも店がどこかさえ聞いていかないのだから、そんなことは一切考えていないのだろう。

 40分遅れてきただんなは、目の前でビールを飲んでいる。フレンチなんだけれど、ビール。まあ好きなものを食べて飲めばいいのだろうけれど。私はスパークリングワインのぽつぽつと浮かんでくる泡を眺めつつ向かいに座っただんなをちらちらと見ている。ご機嫌な顔をしている。コースでいいじゃん、と言うので面倒臭く適当なコースを頼んでしまった。最初に運ばれてきた前菜の盛り合わせを、3口で食べてしまうと次の料理までの時間が余ってしまいだんなはビールをがぶがぶと飲む。私のも食べる?一応聞くと、いいよ、大丈夫、と答える。だんなは仕事のことを絶え間なく喋っている。私は適当にその時々で多少言葉を変えながら、相槌を打つ。へえ、そうなの、それで、ふうん、大変ね。彼も私が真剣に聞いているかどうかなんて、あまり関係がないようにとめどなく喋っている。話すことで彼の中のちょっとしたストレスが解消されるのであろうか。私がどう思うかとかは関係なく、話すことに意味があるのかもしれない。

 彼のお皿の中に、さやインゲンの炒めた物と仔牛の煮込みが残っている。嫌いなものは絶対に食べず、好きなものを最後に取っておく。子供みたいだ。私はもうほとんど満腹状態に近いお腹に、無理してお肉を切り分けて入れる。だんなはもうパンを4回くらいお代わりしているかもしれない。それでも足りなさそうな感じだ。私は自分のお皿からお肉の半分を切り分けて、だんなのお皿に移す。もうお腹いっぱいで。でもデザート食べたいからと言って。

 向かいの席のだんなの話を聞いてだんなの顔を眺めながら、私はこの間隣の係の上司と食事に行ったときのことを思い出していた。フレンチだった。肩の凝らない、カジュアルな店。私たちはコースをいつも取らない。お酒と、軽く食べるものを数品、好きなものだけチョイスして頼む。前菜やサラダばかり頼むときもある。そして必ずデザートを頼む。飲むのも好きだけれど甘いものも彼は好きなのだ。そして最後にコーヒーを飲む。彼とどこかへ行くときは、私は本当に食べることを楽しんでいる。彼はたくさんのことを私に話す。彼と同じ年の仲のよい奥さんのことや、二人の年頃の娘たちのことや飼っているラブラドールレトリバーのことや趣味のことなど。その中にまったく不健全さは感じられなく、私は純粋に話を聞くのを楽しむ。運ばれてきたお皿から料理を取り分けて食べる。お酒と、食べ物と、それがおいしいと感じながら食べることに幸せを感じられるところが、私たちは似ている。カラオケにも行かない。がぶがぶとお酒だけ飲んで泥酔もしない。食べることが目的でたまに会い、向かい会って目を見ながら話をする。でもその中に、後ろめたさは一切ない。私たちは携帯の番号さえ教えあっていない。アドレスも。いつもあのコーヒーサーバーのところでひとことふたこと会話を交わし、日時を決め、そして当日確実にそこで会う。健全な時間に別れ、それぞれの家に帰る。

 もういっぱいビールを頼んでいいかな、だんなが言う。頼めば。そんないちいち聞かなくても。だんなは手を挙げるとウェイターが近寄ってくる。ビールを。ご飯まだ物足りない?私は一応聞く。いや、もういいよ。デザートも来るし。来年は違うところへ行こうか。焼肉屋さんとか。わたしはふざけて言う。いいね、焼肉屋。そうだな。だんなは満更でもないような口ぶりで言う。私は焼肉屋なんて別に普段行けばいいんだから、と内心思う。デザートが運ばれてくると私はうっとりと眺めて、まず目で楽しむ。それからどこから食べようかと思う。そうこうしているうちにだんなは一口食べ、お前にやるよ、これ、と言ってデザートのお皿をこちらへよこす。ビール飲んじゃったからさ。私はもうこれ以上入らない。そんなに食べれないよ。私は答える。アイスクリームがだらりととけてソースのように皿に広がる。だんなはもう、喋ることがないのかひとり静かにビールを飲んでいる。

 週が明け水曜日がやってくる。やはりあれから隣の係の上司とは一度も会話を交わしていない。フロアを横切ったときに、ちらと見たけれどどうも今日は朝からいないようだ。私は考える。今日のことは覚えているのだろうか。急に出張にでもなったのか。

 夕方ほぼいつもの時間に仕事は終わり、7時までには余裕があった。ゆっくりと着替えてから待ち合わせに向かおうと思う。隣のロッカーの人が、あら、今日も素敵な洋服着てるわね、と私に声を掛ける。すごく似合っているわ。さらっと私の全身を見て言う。ありがとう。私は答える。自分で無意識にお気に入りの洋服を着てきたことに気づく。どこか出掛けるの?彼女は続けて聞いた。私はどきりとする。いえ。特に。反射的にそう答える。彼女の家とはまったく反対方向だし、待ち合わせの場所はあまり皆がいかないような駅だから会うことはないのだろうと思う。別に見られても、何もやましいことなんてないけれど、と思い直す。

 待ち合わせの場所に着く。目印に何をモチーフにしているかわからないが像が立っている。その脇に時計があって、その下には同じように待ち合わせをしている人が多数いる。通り過ぎる人たちをぼんやりと眺める。たくさんの人が目の前を通り過ぎて、流れていく。ずっとそうして見ていたら、めまいがしそうになった。オブジェの横の時計を見る。20分過ぎた。自分の腕の時計を見る。20分過ぎている。そしてまた、顔を上げて遠くを見る。今日だんなは飲み会があると言っていた。どこで?咄嗟に聞いた。会社の近くの居酒屋。私は素っ気無く、そう。と答えた。ここから遠い場所だ。私も食事会があって遅くなるから。ちょうどいいわね。私は言う。そうか。それ以上深くはお互いに聞かない。だんなは素直に、飲み会のときは飲み会と言い、ほかの用事のときは予定があって、と言う。私が深く聞かないのを承知している。仕事の絡みの用事なんだと思っている振りをする。大変ね。色々。そうだな。それでお互いその話は終わりになる。

 不意に私の目の前を人影が遮った。ごめん。隣の係の上司がやってきた。少しばつのわるそうな茶目っ気のある顔でこちらを見た。客観的にその顔を見てかわいいと思う。少年みたい。でも忘れてなかったんだと思う。あの日今度の水曜ね、と言ったきり。そして今日は水曜だ。私は意外に自分がほっとしているのに気が着いた。何食べようか。会うとまず必ずこう言う。何食べようか。今日はちょっと軽めのもので。私は彼に、この前の金曜日、結婚記念日で食事に行ったことを告げる。そうか。おめでとう。もう9年にもなるんだね。でも9年まえ私たちはまったく違うセクションで仕事をしていて、知り合ってもいなかった。なんだか結婚しているって雰囲気ないな。彼は言う。そうですか。子供がいないからですかね。私は正直にそう言う。若いからかな。何気なく言ったみたいだが、何を基準に若いと言っているのだろうと少し思う。

 テーブルの上にワインと、プロシュートとチーズの盛り合わせ、ムール貝のワイン蒸しが並んでいる。狭い店内はカウンター席がほとんどと、数席テーブルがある。照明がほどよく落ちて静かにクラシックが流れている。カウンターに二人で並んで座りながら、ムール貝を手でつまんで食べる。ちらと横を見るとこちらを見て微笑んでいる。おいしいですよ、これ。私は少し首を向こうに向けて言う。たくさん食べな。子供に言うように彼が言う。誰かが何かを注文するとにんにくの匂いやソースの匂いやらが漂ってくる。静かすぎでもなく、話声が聞こえないくらいうるさいわけでもない。それにカウンターに隣同士で座っていると顔をくっつければささやき声だってよく聞こえる。今日は水曜日だからワインをあまり飲むのはやめよう。そう思いながらもおいしいものを食べているとワインが進んでいく。私は飲むと少しだけ饒舌になる。今日はあまり食べられない、と言いながらパスタを頼む。カニのパスタ。魚介類ってどうしてこんなに美味しいエキスが出るのだろう。フォークを口に運びながら思う。ちょっと鮮度が落ちると異様な匂いに変わっていくのに、料理に染みこんでいるこの独特の旨みや香りは何とも言えず食欲をそそる。ムール貝をつまんだ指は、いつもでも貝の匂いがついている。その指を舐める。

 彼は家族の話をしている。下の娘さんが大学のどの学科に進んだとか、出掛けるときはいつも奥様と一緒だとかいう話をしている。私は普通に相槌を打つ。そうなんですか。そして時々適切な質問をする。それからふと、私のことを奥さんに話したことはあるのだろうかという疑問が湧く。でもその疑問は口にはしない。自分の若い部下で地方出身者の子がいるので、家に呼んで食事をした等と言う話もする。私のことも、じゃあ今度、家に遊びに来ればいい等と言うかもしれない、とほんの少し思うが、それはまずないだろうと思い直す。私は相変わらず彼の口の周りのやわらかそうな皺を観察し、そのまま視線を移して目を見る。目が合って笑う。楽しいですか。不意にそんなことを聞いてしまう。そうだね。なんだか落ち着くね。そう彼は返す。

 私たちはやはり2時間ほどで行儀よくその店を出る。お手洗いに寄って丁寧に化粧直しをして出てくると、彼は出口で携帯メールを打ちながら待っていた。今から帰る。駅に着いたら迎えに来てくれ。そういう文面が浮かんできた。彼は悠然と携帯をポケットにしまう。私はそれを見ていなかった風ににっこりと微笑み、お待たせしました、と言う。私はメールもしない。だんなは私より遅く帰ってくるだろう。

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travel

2008-08-09 21:49:52 | 読みきり
 「行ってくるよ。」
 夫が出て行った。

 夫が食べた朝食の皿を洗ってしまうと、リビングに掃除機を掛ける。それからお風呂とトイレと洗面所の掃除をする。今日は丁寧にしなくてもよいだろう。掃除なんかしなくてよいくらいだ。けれども体が、毎日の繰り返しの作業に馴染んでいて、頭で考えていなくても勝手に動く。

 一通り終わると、寝室に行き、また掃除機を掛ける。ベッドカバーを直し、クッションを整えると、夫が脱いで無造作に置いてある、カーディガンをハンガーに掛けた。その度に、なぜ自分でやらないのかと思うのだが、最近はそういう気さえ起きない。ただ、体が、自動的にそういう動作をしているだけだ。

 寝室の窓ガラスが、少し曇って汚れているのが目に付いた。乾いた雑巾を持ってこようと、反射的に体が動きそうになるが、止めた。今日はそんなこと、しないでいよう。

 リビングの時計の、音楽が鳴った。まだ9時だった。焦って掃除をしたけれど、考えてみたら急ぐ理由がなかった。今日は遅く出かけたほうがいいのかもしれない。いつもの出かけるときの癖で、気が焦ってしまう。早く出かけて早く帰ってくるという、習慣が身に付いているのだ。

 クローゼットを開けて、肩掛けのトートバッグを取り出す。これで充分だろう。下着1セット、Tシャツ、化粧道具をぽんぽんと入れた。本棚の前に行き、小説を2冊加える。それから何が、必要なんだろうと考える。思いつかない。

 車のキーを差し込む。
 エンジンを掛けずに、シートに座ってしばらく考えた。車で出掛けようと思っていたが、今日は止めておこうと思った。電車で出掛けたほうが、旅気分を味わえる。きっとそうだろう。駅まで歩いていって、そこからのんびりと電車で行こう。車が置いてあったほうが、夫が帰ってきた時不審に思われないだろう。すぐに帰ってくると、思うだろう。

 車から降りる。そのまま駅に向かった。ふと足元を見ると、いつものドライビングシューズを履いてきてしまっているのに気が付いた。でもきちんと磨いてあるし、歩きやすいからいいだろう。カバンからマフラーを取り出して、首に巻く。手袋も出してはめた。

 なぜか早歩きになってしまい、あっという間に駅に着いた。電車に乗るのが、随分と久し振りのような気がした。路線図を見て、目的地までの切符を買う。一度乗り換えるだけでいいようだ。ちょっと考えてから、特急の、指定席の切符を買い足した。なるべく静かな席に座りたいと思った。一人になることに、没頭したいのだ。

駅のホームは、風が吹きさらしになって、余計に冷たかった。マフラーを顔まで引っ張って覆う。もう家を出たのだから、家のことは考えずに、一人の世界を楽しもうと思った。電車が入ってくると、空いているボックス席を探して座り、持ってきた本を取り出す。家にいて読もうと思っていたのに、なかなか読む暇がなかった。家事をきちんとしようとすると、きりがないということに気がついた。結婚して子供もいない私たち夫婦を、金銭的にも時間的にも余裕があって、何の気兼ねもなく悠々自適に暮らしていると思っている知人がほとんどだが、それは夫の性格を知らないからだ。 病的に潔癖症である夫は、私のする家事の、何もかもが気に入らないようになってしまった。子供がいるわけではないのだから、辞める必要がないのに、精神的にも肉体的にも苦しくなった私は、仕事を辞めた。でも、それが、もっと事態を悪化させる原因となった。仕事を辞めて家にいる私は、さらに完璧な家事を求められた。終わったそばから、これみよがしに掃除をやり直しされたことが、何度あるのだろう。それだったら夫がすべての掃除や炊事をすればいいのだが、働かないで家にいるならお前がやるべきだと主張して聞かないのだった。家にいるのが苦痛になった私は、短時間のパートに行くようになった。けれども、家事は、毎日完璧にやらなければ許されない。嫌ならパートを辞めろと言う。

 本を読みたいはずが、知らないうちにそんなことを考えていた。夫の考えはおかしいと、パート先の主婦仲間は言う。フルタイム社員であろうがパート社員であろうが、働いているのには変わりが無い。いまどきの専業主婦 だって、それほどまできちんと家事なんかしていない。夫のハウスキーパーになるために結婚した訳ではないのだ。それなのに、なぜ、うちの夫は私にそこまでの完璧さを、要求するのだろう。

 出会った頃は、そんな人だとは思わなかった。きちんとした人だとは思っていたが、病的と呼べるほどの潔癖さは、感じられなかった。それは確かに、デートの待ち合わせの時間に遅れたことは無かったし、独り暮らしをしているアパートへ行っても、男の部屋の割にはきちんと整頓されていた。靴はいつも磨かれていたし、髭はきちんと剃られていた。結婚してすぐの頃は、私に完璧さなど要求していなかった。よくいる子供のいない共働きカップルのように、夕食を作るのが面倒なときは外食し、休日の朝は遅くまで布団に潜り込み睡眠を貪り、一緒に休暇が取れる日はちょっとした旅行に行ったり映画を見に行ったりした。いつの頃から、こんなにきりきりとし始めたのだろう。体調がすぐれなくてソファに横になっている私を、怠け者のように言ったり、疲れて帰ってきたときに作った有り合わせの夕食を見て、手抜きだ、と言うようになったのは。たった今ガス廻りの掃除を終えたばかりなのに、仕事から帰ってくるなり、もう一度やり直し始めたりするようになったのは。

 パートの仲間に、そんなことをぽつりぽつりと話すようになると、皆が、あなたのご主人は少しおかしいと、言うようになった。仕事が大変で、何かストレスがあるのではないの、とか、浮気をしているのではないの、等と言われた。いっそのこと浮気でもしてくれていたら、どれほどいいかと思う。そうして別れてくれたほうが、お互いのためだろうと思うのだ。それなのに、私が、あなたの希望にそった妻にはなれそうもないから別れてくれと、いくら懇願しても、決して首を縦には振らないのだ。それが不可解だと思う。パートの仲間は、そこに触れてはいけないと思って口にはしないが、子供が出来ないのが原因の一端を担っているのだとも思う。私はひと通りの検査をして、どこにも体の異常がないのが分かった。でも夫は、検査をしようとしない。子供をそれほど欲しくない私は、それでもいいと思っている。けれども夫は、本当は子供がほしいのかもしれない。でも私は悪くないのだから、仕方が無い。離婚を拒む原因も、その辺にあるのかもしれないと思った。

 パートの仲間のひとりが、しばらく実家に帰ったら?と言った。私の両親は、歳をとってから離婚しそれぞれ再婚しているので、両方の家に顔を出しにくかった。どちらの家に行っても、私の居場所はなかった。それぞれの新しい配偶者は、悪い人ではないし、むしろ私に気を使ってくれ、親切に、本当の親のように接してくれるが、それが却って私に気を使わせた。そう答えると、別のパート仲間が、家出しちゃいなさいよ、と言った。家出?!とぎょっとして答えると、そんな大袈裟な家出ではなくて、プチ家出よ、と答えた。何も言わずに、ちょっとした近場に出かけてそのまま連絡せずに遅く帰る、のだそうだ。それくらいのことをしたら、あなたのご主人も、あなたがいないとどれほど寂しいとか心配かとかがわかるはずよ、と笑って言った。

 その話を聞いてから、私は密かに家出のことを想像し、その自由な感じに酔いしれた。自分のおこづかいから、残ったわずかな額を貯金にまわし、パートで得た夫に気付かれない臨時収入は、すべて貯金にまわした。最近ちっとも夫婦で旅行などにも行かなくなってしまったので、頭の中で想像する家出のことは、余計に楽しいことに思えた。パートの仲間が回してくれる雑誌に載った、都会の居心地のよさそうなホテルや、一人旅の女性に優しい宿、等の特集を見ると、密かにチェックをして、こんなところもいいなと、思い描いた。そうしていると、完璧さを求められる家事も、それほど苦ではなくなった。家出を敢行した暁には、それが元で離婚を言い渡されても、それはそれでいいとさえ思っている。家を追い出されても構わない。そうしたら私はフルタイムで働く職をなんとか探し、ひっそりと慎ましく、独りで生きていくだけのことだ。

 気が付くと、特急に乗り換えるターミナル駅に到着していた。ここからは指定席に座って、余計なことが頭をもたげないよう、持ってきた本を読もう、と思った。電車を降りると、特急の改札に向かった。

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雲の壁紙

2008-07-14 13:43:15 | 読みきり
 部屋の中にもう荷物は何もなかった。がらんとした、昨日まで居間として使っていた空間に立っていると、たいして愛着のなかったはずの家なのに、懐かしさのような、空しさのような、切なさのような、何とも言えない感情が押し寄せてくるのを感じた。そしてこの光景は、ずっと以前に見た覚えがあると思った。この家に引っ越してきた十数年前、初めて何もない部屋にこうして同じように立って、狭い社宅暮しから、誰にも邪魔されずに自分たちだけで住む家がやっと出来たのだと実感したときのことを思い出した。家具が置いてあったときには気付かなかった壁の染みや陽にやけた跡や、柱の傷や子供が小さな頃に書いた落書きなどが、自分がずっと長いあいだここに住んでいたということを嫌でも思い出させた。もう用がないこの家に、一分たりとも長くいたいとは思わなかったが、何となく立ち去りがたいものを感じて二階に上がった。一応最後に、この家がどんなだったかを確かめておきたかったのかもしれない。

 二階に上がるとまず自分たちの寝室だった部屋をざっと見た。ここを見ても、もう何の感傷も抱かなかった。思い出したくもなかった。部屋が北向きにあるせいか、暗くて狭くて落ち着かない場所、そういうイメージそのものだった。ベッドや箪笥や古びたカーテンなどがすべて取り去られた空っぽの部屋でさえ、そういうイメージが付きまとった。もうこの部屋に用はないのだと思うとほっとした。そのまま隣の子ども部屋を覗いた。何もないがらんとした部屋だったが、空と雲の柄のブルーの壁紙がここは子供部屋だったということを主張していた。家を建てたら子供部屋の壁紙は絶対にこの柄にするのだと、家を建てるずっと前から決めていた。以前見たアメリカ映画に出てきた子供部屋の、壁紙がこの柄だったのだ。ここに子供用のベッドと机を置くと、いかにもという感じの子供部屋になった。子供が大きくなるとこの壁紙を変えてくれと何度もせがんだが、そのうちね、と言っているうちにとうとうそのままになってしまった。結局高校生になるまでこの部屋であの子は過ごしたのだ。その昔見た映画というのは、確か離婚をテーマにした映画だったことを思い出した。そして皮肉だなと思った。

 私はこの抜け殻のような家を眺めながら、これから住むことになる2DKの市営住宅のことを思った。その今日から自分たちの住まいになるところは、私の持っている市営住宅というイメージからは少しはましなような気がした。まだ築年数がそれほど経っていないので、その辺の中古マンションとそれほど変わりがなかった。私と息子と、それぞれが部屋を使ってもやや広めのダイニングキッチンがあるのだからそれで十分だった。もう高校生の息子は学校やらアルバイトやらで多分ほとんど家にはいないだろうし、私も仕事があるので日中は家にいない。夜ご飯を食べて静かに眠れる場所があればそれで良いのだ。私にとっての安眠とは、それは主人がいない部屋に一人で眠ることであるのだから、それはもう私にとっては十分幸せな睡眠になるに違いなかった。

 私たちの仲が険悪なのは息子も大体分かっていただろう。私はあえて隠すこともしなかった。主人に文句があればいつでも憚りなく言ったし、彼も私に対して遠慮はしなかった。それでもそうなる前の、この家に引っ越してきた直後の十年ほどは、主人の母と同居していたこともあってそのような険悪な雰囲気ではなかった。その当時の私たちは、何か薄いベールに物を包んだような話し方をしていた。それはお互いに本音ではなかったのだろう。私たちはそれぞれの役目を従順に演じていただけかもしれない。よき嫁や妻や、よき夫など、そうあるべきだ、という曖昧な基準に従ってそのように振舞い、余計な波が立つのを避けていたのだ。それは無意識的にそうしていたのかもしれないし、そうすれば表面上はうまく家庭を形成できると意識的に計算づくでそうしていたのかもしれない。ただ私たちはお互いにそういう気配を感じていつつも、あえてその点に追求しなかった。そうしないほうが毎日はつつがなく送れるし、面倒なことも何一つ起きなかったからだ。

 その、一見平和で平凡な家庭が、少しづつ変わり始めたのは同居していた義母が亡くなってからだ。それまで義母の手前何となく追求しなかったそれぞれの不満な点を、お互いに容赦なく口にするようになった。私は義母が生きているときは例え思っていても口にしなかったようなこと、例えば自分がまるで主人のハウスキーパーとして結婚したんじゃなかろうかと思えることや、それまでに何となく形作られた家のルールが、まったく亡き義母のやり方であるということが、我慢できなくなってあえて口にするようになった。主人にしてみればそれまでおとなしく何の文句も言わなかった従順な妻が、急に自我を示し出したので戸惑ったかもしれない。彼は変化というものを嫌ったし、自分はいつまでも誰かが面倒を見てくれるもの、それは端から見たら子供がそのまま大きくなったようなものでしかないのだが、一家の主とはそのようにあるべきだと信じて疑わなかった。私が専業主婦だったら、それはそれでうまくいっていたのかもしれない。だが私は給料こそ主人には到底及ばないほどの額であったけれど主人と同じように朝早く家を出て、夜帰ってくる会社員としての生活をしていた。それなのに私だけが家事の負担や育児をすべて担っているということに、日々のストレスや不満が溜まっていった。

 それから些細なことでの言い争いが耐えないようになった。私が我慢をすれば済むことだとは分かっていたけれど、体力的にも精神的にも辛いと思える日々は私を辛抱強くはしてくれなかった。主人が出張でいないときなどは心底ほっとした。子供と二人で過ごすということは、私にとっては心安らぐときだった。私は多分、そもそも主人と結婚したのが間違いだったのだ、そう思うようになってきた。職場の上司が紹介してくれた人と、何の疑問もなく結婚してしまった当時の自分を、考えが甘かったのだと呪った。もしかしたら、私がどうしようもないくらいに惚れてしまった相手と結婚したのであったら、私はどんなことにも耐えられたかもしれない。この人の為なら、とあらゆることを我慢できたのかもしれないし、それだけ好きになった人の母親だったら、もっと愛情を持って接することも出来たのかもしれない。だが私は、だんだんと主人のことを所詮は他人なんだとしか思えないようになっていた。私がそれだけ愛情も何も感じなかった夫婦生活を決して離婚という方向に考えなかったのは、それは単純に息子がいたからだった。もしかしたら、これが女の子だったのなら、もう少し考えが違ってきたのかもしれない。でも私は、男の子の母親だった。私は子供が実際に生まれてくるまで、自分が男の子の母親というものをやっていけるのかどうか不安で仕方がなかった。男の子に接するのは、自分の苦手な分野だった。例えそれがわが子であっても、どんどんと成長していくに従って自分はどういう育て方をしていいのか自信がなかった。やはり父親は必要だと思っていた。

 そんな生活が続いていくうちに、やはり私は息子と二人で行きていこうという決心に変わったのは、主人が長期に単身赴任をしてからだった。息子が中学一年のとき、主人が一年間の地方への単身赴任となった。私は正直、なぜこんなときにと思った。中学一年といったらいちばん難しい年頃ではないか。小学校から中学になり、思春期という時期に入ってきた息子を、私ひとりで上手く切り抜けられるのかと不安に思った。息子は取り立てて何か問題を起こすような子供ではなかったが、それだけに中学に入って父親が不在になった途端に、何かが起きるのでは、とまだ起きもしないことに対しての不安が募っていった。けれども単身赴任の一年間、何事も起こらなかった。息子にしてみれば両親が些細なことで逐一口げんかをしている家に暮らしているよりも、静かな家に静かに暮らしているほうが伸び伸びとしているように見えた。私としても家事の負担は想像以上に少なく、あれこれと突っかかってくる人もいない中で、精神的にゆったりとした日々を過ごした。主人のいない一年間で、私は主人に頼らずに生きていけるかもしれないという、ささやかな自信を得たのかもしれない。

 一年間を終えて帰ってくると、主人は以前の主人とは違っていた。妙に私や息子に対して優しさを示すようになった。私はもう、主人の優しさは必要としていなかった。私は自分のペースで生活する術を少しづつ身に着けていた。息子が大学生くらいになって家を出てしまったら、一人きままな生活をしようと、密かに想像していた。具体的に離婚という話にはなっていなかったが、私の中では勝手にそう思っていた。そう思っていたからこそ、主人が戻ってきてからの日々の暮らしを、何とか穏便に過ごすことができたのかもしれない。だがある日、主人の優しさは主人なりの作戦だったのだと分かった。単身赴任の間に主人は土地の人と付き合っていた。主人にしてみれば、単身赴任が終わったらそれでお終いになる関係なはずだったのだろう。だがその若い女はこちらまで付いてきた。私はそのことが露見したとき、何の感情も感じなかった。ああ、そうなの、と思っただけだった。私はもう主人を必要としていなかったし、別に主人が他所の女を抱こうが構わなかった。それはまったく他人同士が誰と付き合っていようが自分に関係がないように、その時の私にとってはすでにどうでもいいことの範疇になっていた。

 だが、私のそんな反応を見て主人は怒った。私が嫉妬に狂って女をなじるとでも思っていたのだろうか。どこまでもステレオタイプ的な考えしかできない人だと思った。主人にしてみればそれは遊びだったのかもしれないが、彼女にとってみればそれは本気だったのだ。私は逆に、彼女が怒るのも無理がないと思った。どうして主人はそんな風にしか女を見ることができないのだろうと思うと、やはり言いようのない怒りが湧いてきた。他の女と寝た、という怒りではなく、女性蔑視を公然としているような態度に対しての怒りだった。その時私は、もうこの人とはやっていけないと思った。主人はどこまでも勘違いをしていた。私が怒っているのは、主人が浮気をしていることに対してだと信じて疑わなかった。浮気に嫉妬するくらいなら、私は逆に主人と別れようなどとは思わなかっただろう。だがそんな心理は到底わからないようだった。

「パパとママと、離婚したら悲しい?」
 当時まだ小学生だった息子に私はある日尋ねた。
「かなしくない。僕はママと一緒にいられたらそれでいい。」
 私が離婚をしようと本気で決めた一言だった。

私は雲の壁紙の子ども部屋を出て、階下へ降りそのまま玄関に向かった。外に出ると表札を外し、そのままゴミ袋の中に捨てた。


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あさがお

2008-07-12 21:53:39 | 読みきり
 私は、小学校の体育館の裏側に、他の31人の人達と、綺麗にならんで立っている鉢植えの朝顔です。

 私達にはそれぞれ、私達をお世話してくれる決まった子供がいます。その子の名前が、鉢の正面に書かれています。私のお世話をしてくれるのは、さき子ちゃんという子です。背の低い、くるくるとした髪の毛をした、いたずらそうな顔をした女の子です。

 子供達はいつも、2時間目と3時間目の間の休み時間や、お昼休みになると、ペットボトルの空き容器を持って、私たちのところへやってきます。日照りがつづいて、喉が渇いてどうしようもないときなんかは、皆自分のお世話してくれる子供が、何時来るか何時来るかと首を長くして待っています。私たちが種として土に埋められ、ここに連れてこられた直後は、ほとんどの子が毎日のように覗きに来ました。芽が出てくるのが待ち遠しくて仕方がなかったようです。それから、毎日のように様子を見に来る子、ほとんど来ない子、昼休みだけ来る子、というようにそれぞれの子供の性格によって、私たちは運命を左右されるようになりました。

 私のお隣さんは、本当によくやって来ます。ほとんど毎日のように昼休みになるとやって来ます。雨の日も覗きに来ます。なんて親切な子供が当たったんだろうと、お隣さんは嬉しそうに話してくれます。でも雨のたっぷり降った次の日も、きちんとお水をくれるので、少し乾きたいと思うときもあるようです。その反対のお隣さんは、がき大将みたいな、乱暴な大きな声でどなってくる男の子です。彼は気紛れで、来るとたくさんのお水をくれるし、来ない時はずっとずっと来ないみたいです。そんなときは、お隣さんは雨が降るとほっとしたような顔しています。私の後ろの人は、恥ずかしがり屋の女の子で、他の子達と違っていつも一人で来ます。皆が帰ってしまった夕方頃、やってくることもあります。この子は自分の鉢に水をやると、もういちど水を汲みに行って、周りのからからになった鉢にも、水をかけてやります。あの子のおかげで、ほんのひと時でも喉を潤せる仲間がなんと多いことか。私もあの子には何回かお水をもらいました。

 さて、私のお世話をしてくれるさき子ちゃんは、最初の一ヶ月ほどは、昼休みになると2、3人のお友達と一緒に、ペットボトルを持ってやってきました。私の前にじっと座って、アーモンドのような目をじっとこちらに向けて、見詰ています。いたずらそうな顔しているので、やっと出た私の小さい芽を、摘み取られるんじゃないかと思ったこともありましたが、そんなことは勿論ありませんでした。そうして1ヶ月がたった頃、いつも来る他の女の子はやってくるのに、さき子ちゃんだけ来ない日が続きました。私は、最初のうちこそ、あの気紛れなさき子ちゃんのことだから、と気にも留めなかったのですが、あまりにも来ない日が続いたのでだんだん不安になってきました。雨の降る日はそれほどでもないのですが、晴れた暑い日が続くと、さき子ちゃんを恨んでみたくもなってきました。そんなある日、お隣さんやらほかの鉢に水をやっている子供達が、さき子ちゃんは風邪で入院しちゃったんだって、と言っているのが聞こえました。私は、あ、っと思い、私を放ってばかりのさき子ちゃんを、恨もうとしたことを少し恥ずかしく思いました。

 それから2週間程が経ちました。もうあと一週間程すると、私たちはそれぞれの子供の家にお邪魔して、そこで夏の間お世話をしてもらうことになるのです。夏のお休みが終わったら、またここに帰ってきます。ぽつり、ぽつりと子供達のお母さんやお父さんがやってきて、家に連れていきます。お母さんの腕に抱かれて行く者、自転車の後ろの座席に載せられる者、夜、背広を着たお父さんが、よいしょ、と持ち上げて、連れられる者もいました。

 とうとう残った者は5人くらいになってしまいました。さき子ちゃんのお父さんもお母さんも、来ません。さき子ちゃん自身も、退院してから休みがちなようで、2,3回しか会っていません。でも、私はさき子ちゃんのいなかったのが長かったので、もうだいぶ我慢ができるようになっていました。残った5人で、私たちいつお迎えが来るのかしらねえ、とひそひそと話していました。さき子ちゃんのお父さんもお母さんもお仕事をしているので、なかなか来れないようなのです。

 そうして、毎日暑い日が続いて、たまに雨が降ったりして、夏のお休みが始まる前の日になりました。残ったのは私だけになってしまいました。3人くらいのときはそれほど寂しくなかったけれど、さすがに一人では、夜になると寂しい思いをしました。私はひと夏をここで過ごして、下手したら死んでしまうのかしら、そんなことを思っていると、向こうから大人と子どもが手をつないでやってきました。さき子ちゃんとお母さんのようでした。

「あーあ、さき子のは最後になっちゃったんだね、ごめんね。」
 お母さんは私をふいと持ち上げて、大きなスーパーの袋に入れました。
「ママが早く行ってくれないからだよ。」
「ごめんね。帰ったら水をやってやろうね。」

 私は、勿論、その言葉が私にではなくさき子ちゃんに言っている言葉だと分かっていました。でも、なんだかほっとして、ビニールの中で揺られながらさき子ちゃんの家に向かいました。

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校庭と桜の木と缶ビール

2008-03-28 16:18:58 | 読みきり
 その頃私がいた職場は今の部署とは違い、急な仕事が入らなければ普段はのんびりとした雰囲気だった。私は書類の整理やデータの入力作業や忙しいときには出来ない様々な雑用などで、それほど暇というわけではなかったけれど、隣の席に座る上司は、明らかに暇を持て余しているような時があった。一応係長というポストの席だけれども、忙しい部署から忙しい部署へと移る間の、息抜きのような席だと周りからは思われていた。

 その日も特に急ぎの仕事はなく、私たちは一日が過ぎるのを長く感じていた。私は仕事に関する資料を読んで時間を潰していたし、上司も何かを読んでいた。さすがにもう一人の年配の上司がいるときは私語をあまりしないように気を付けていたが、昼も近くなり年配の上司が外へ食事に出掛けてしまうと、読んでいた資料を閉じて、係長は私に話しかけた。係長の話は、私にとっては面白い話が多かった。事務員である私の知らない、現場での経験談や失敗談、小さい頃の話、家庭での話と様々なことをざっくばらんに話した。

 俺のうちは父親がいなくて貧乏でさあ、と係長は言った。係長の実家は蚕を飼っている養蚕業をしていたということ、係長の母親と祖母がその仕事をしていたことなどを話してくれた。
「学校から帰ってくると臭いで分かるんだよ。ああ、今日の夕飯はいるかだって。すげえ臭いがするんだよ、いるか肉って。おいしくなくてさ。」
 私は聞き間違えたのかと思った。いるか?いるかってあのいるか?きっと私は何度も聞き直したはずだ。やはり聞き間違えではなく、それはあのいるかだった。いるかは食べるものではないという認識を持っていた私は、いるかを食べる人が世の中に存在しているのだと(それもイヌイットとかではなく、日本国内の普通のご家庭の普通の夕飯に出てくる)いうことにショックを受けた。だが考えてみたらくじらの肉を食べるのだからいるかだって食べるのだろうと思った。哺乳類で同じような肉質なのだろうから。

 係長には、以前どこかの職場で知り合ったという奥さんがいる。美人な奥様だと、どこかからうわさで聞いた。だが、子供と夫がいるのに家庭というものを顧みない奥様だという、係長から見ればそういう奥様らしかった。自分は和食を食べたいのにいつもスパゲッティとかそういう料理が出てくる、とか、独身時代のように家事をほったらかしで長電話をしている、というような愚痴をよく聞かされた。その当時独身でまだ若かった私は、そういう処遇をされている家庭での係長を気の毒に思ったが、結婚もして子供もいる今思えば、そういうものだろうとも思う。共働き家庭の妻は、専業主婦の妻のように、何から何までご主人好みに尽くす、という訳にはいかないのだ。

 そんな係長と奥様が、出会った頃の話も聞いた。係長はその頃、赤い色のスポーツカータイプの車に乗っていて、付き合っていた彼女であった当時の奥様と、よくドライブをしたらしい。ほら、ケンとメリーじゃないけどさあ、と係長は言った。ケンとメリー?私には何のことだか分からなかった。聞くと昔の車のCMでそういうものがあったらしい。そういう感じだったんだよ。そのくらい最初の頃は完璧だと思っていたのになあ。そういう奴じゃないと思っていたのに。係長の家庭内は今にも崩壊しそうらしかった。家に帰っても口も聞かないし、勝手に出掛ける。子供がいるから離婚しないのだろうということが何となく伺えた。

 そんな風にして、毎日私の中には係長の情報が増えていった。この人は私に愚痴りたいのだろう、と私は黙って話を聞いていた。私は人の話を聞くのは苦ではなかった。どんな人からでもそこそこ興味深く話を聞くことができた。自分から自分のことを話すのは得意ではないのだが、人の話を聞くことに関しては、私はそれは特技でもあると思える位だった。そして係長の話はなかなか興味深かった。まだ20代になったばかりの私は、結婚生活とかそういうものに、憧れとまではいかないけれども未知の世界という感覚を持っていたが、係長の話を聞くと、どんなに素敵に出会って結婚しても、所詮冷めてしまうものなのだろうか、といういささかステレオタイプ的な結婚感というものを感じないわけにはいかなかった。

 4月のある日、係長は「昨日は息子と二人で花見をしてきたよ。」と穏やかな顔で言った。家の近くに息子さんが通う小学校があって、その校庭内には桜の木が植わっている。夕方、缶ビール一缶を持って、子供と一緒に学校まで歩いて行った。子供は確か、まだ一年生くらいのはずだ。子供はジュースを持って。学校の隅にある大きな桜の木は満開で、もう来週には散ってしまうはずだった。
 私は想像した。だだっ広い小学校の校庭に、40代のお父さんと一年生の子供が腰掛けている。多分タイヤの遊具か、丸太の遊具のような、ちょうど座るのによいくらいの物の上に。二人の頭上には大きな桜の木があって、夕暮れの薄暗い中にピンクがほんのりと浮き立って見える。もう満開のピークを過ぎた桜は、風が吹くとはらはらと舞ってくる。まるで雪のように二人の上に花びらが落ちてくる。父親はちびちびとビールを飲みながら、小さな男の子は、ジュースを飲み終わり、鉄棒か何かで遊んでいる。それを父親がぼんやりと見ている。私はその光景をまるで自分で見てきたかのようにはっきりと頭の中に思い浮かぶことができた。

 その係長はやはり1年ほどで他の部署に転勤になった。その数年後、偶然本社の廊下で係長とすれ違った。私は他の人の情報から、係長が離婚をして、もと同じ職場だった事務の女の人と再婚することを知っていた。その再婚相手の方は、私も少し面識がある方だったのだが、多分、夕飯には和食を作るタイプの人だった。
「よかったですね。」
 私はひとこと言った。係長はにこにことして、本当によかったよ、と言った。お子さんは?と聞くと、元奥様が引き取ったということを言った。仕方ないな、と。

 私は桜の時期になるたびに、この話を思い出す。小さな男の子と、お父さんと桜の木。広い校庭と、缶ビール、夕暮れ。

 今年も桜の時期が来た。

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はるかぜ

2007-04-01 20:39:14 | 読みきり

昨晩の、冷たい春の嵐はどこかへ消え去って、今日は穏やかなあたたかい一日だ。雨上がりの生温い空気が、ゆるやかに風に乗って体を包む。寒かった昨日は、どこへも行かず家にこもっていた。天気のせいばかりでなく、何もやる気が起きなかったからだ。今朝起きて何気なくカレンダーを見ると、今日から4月になっていることに気がついた。そうか桜だって、もう咲いている。今年は桜のことなんて、すっかり忘れていた。

明日職場の先輩が転勤してしまう。私がいつも頼りにして憧れていた人だ。ああいう人にならなければと思っていた。すらりとして清潔感がある美しい風貌も、誠実な人柄も真面目な仕事振りも頭のよいところも、すべてに好感を持っていた。その先輩に、ささやかな、けれど何か記念になるものを贈ろうと考えていた。

重い腰を上げて、出かける支度をする。大きく開けた窓からは、春の匂いがしていた。お日様の匂いが混じったような花の匂いが混じったような、この時期独特の匂い。日の当たる窓辺で化粧をしていると、じっと汗ばんでくる。季節が一気に進んでしまったようだ。

外に出て駅まで歩く。半袖の上に上着を羽織ってきただけなのに、それでも暑かった。日差しは惜しげもなく全身に降り注いで、まぶしくて手をかざすと、少し先に淡いピンクの桜の木が見えた。昨日の風でも散らなかった桜は、満開でちょうどいい見頃のようだ。

歩きながら、こんなにいい天気なのに、こんなに綺麗な桜が咲いているのに、心が晴れないのは何故だろうと思った。何かふつふつと、すっきりしない感じがする。春はいつも、こんな気分になる。春のこの生暖かい空気を吸うと、私は不安で不安でたまらなくなる。

駅5つ分の電車に乗って、久し振りに来た目的地に下りると、先ほどより風が強くなっていた。改札の人込みや家族連れやチラシ配りやギターを弾く女の子などを見ながら駅前の広場を歩くと、ふと昔の、もう20年ほど前の春のことを思い出した。こんな風に生あたたかい風が吹く時期に、ある人と出会ったことがあった。その人と会う時はいつも、あたたかい空気がその人と私を包んでいた。その人とは、たったの数ヶ月でさよならをしたから、寒い時期の記憶がない。いつもいつも、長い袖か短い袖のTシャツを着ていたような気がする。私はあの時の、出会ったときの気持を、久し振りに今思い出した。春だったけれど、これからどんなことが起こるかなんてまったく考えていなかったけれど、私は不安なんてなかった。あったのは、静かにわくわくする気持、暖かい空気のような、その人と共有していた時間の心地よさ、そうなようなものだった。あの時の私は、春を嫌いではなかった。

私は久し振りに来た駅周辺の風景を見ながら、いつから春がこんなに憂鬱になったんだろうと考えた。考えている頭の隅で、春でなく、今の私の状況が、私自身を不安にさせるんだろうというのも分かっていた。春休みの日曜日、天気はよく桜は満開で、道行く人は家族連ればかりだ。私がこんなにざわざわとした気分でいたとしても、また気がつかないうちに夏が来て冬になる。そうして季節は巡っていく。うんざりする梅雨と、真夏の強烈な暑さを想像して、私は気が遠くなる。私はどうしたらいいんだろう。

寂しいのは、先輩が転勤してしまうから。もちろん、それもあって、でもそれだけじゃない。私はとても寂しいのだと思う。誰か、私のそばにいてください。

どこからか、はらはらと桜の花びらが舞ってきた。来週はもう、桜は散ってしまうだろう。

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ねこ

2007-03-21 10:09:45 | 読みきり
寒さがぶり返して朝の空気は冷たかった。駅に向かう途中、大きな農家の門前に木が植わっていて、ピンクの花が咲いている。昨日はとても天気がよくて、空は雲ひとつなく真っ青で、その青い空にピンクの色がよく映えていた。携帯のカメラに収めようと思ったくらい綺麗だったけれど、時間がなかった。通り過ぎた。今日は曇っていて、空も花も、なんだかぼやけている。花の名前がよくわからないけれど、桃かな、と思う。そういえば子供の頃使っていたクレヨンには、ももいろ、ってひらがなで書いてあったな。

猫が、他の家の庭先からすたすたと歩いて来る。猫は、見かけると何となく気持ちを持っている動物のような気がして、周りに人がいなければ声を掛ける。向こうが声を掛けて貰いたそうな顔つきをしているからだ。

「ニャーオ。」私は物まねはまったく出来ないけれど、猫の泣きまねだけは上手いと思っている。すると私の後ろについて歩きながら、ニャーオ、と返事をした。

偶然かと思って、もう一度ニャーオ、と声を出す。するとまたニャーオ、と返って来る。一定の距離を空けながら付いて来る。やや歩いてもう一度、ニャーオ、と言ってみる。また返事をした。

とうとう曲がり道にきてしまって、それを曲がるともう猫はついて来なかった。

photo by web-mat さん

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面会時間

2007-02-25 23:51:41 | 読みきり

駅の改札を出ると、外は雨が降っていた。
もう辺りは暗くなっていて、空気は雨のせいで余計に冷たく感じた。トレンチコートの襟を少し立てる。駅前の塔についている時計を見ながら、すぐ脇のバスターミナルに向かって歩きだす。病院行きのバスが停車しているのが目に入る。傘を差すのももどかしく、バスに向かって走った。私が乗った途端に、扉が閉まる。車内はがらがらだった。二人掛けの椅子に腰掛ける。

駅前の商店街の前を通り抜けて、次第にバスは住宅街に進んでいく。窓ガラスは曇っていて、何も見えなかった。トレンチコートとカバンについた水滴をハンドタオルで拭きながら、もう一度腕の時計を見た。7時32分。20分くらいなら、面会できるだろう。

3年前に、父が亡くなった。それまで病気一つしたことがなく、持病も無かった父だったが、突然倒れてそのまま逝った。70という年齢は、死ぬのに早いのだろうか、遅いのだろうか。それは分からないけれど、私たち家族には、それは間違いなく突然の出来事だった。父から死を連想することは、何もなかった。病気には縁が無かったし、お酒も付き合い程度、煙草も吸わない、家系的に癌や心臓病で死んだものも無かった。母も私も、父がこんなに早く、しかもあっさりと逝ってしまうなんて、思ってもいなかった。

父と母は、取り立てて仲のよい夫婦という訳でもなかった。どう考えても父は大人しすぎた。母の我儘に付き合っているのも、ただ面倒だから何も言わずにふんふんと聞き流しているだけのような、そんな風に娘の私には見えた。けれども父と私は気が合った。父と私は、お互いがべったりとではなく、ちょうど上手い塩梅で距離を開けておくことができる類の人間だった。相手のことを思っているけれど、それを全面に押し出してまでアピールすることなんて、見っとも無いことだと思っていた。母は違っていた。私はこれだけあなたのことを思っている、と思ったら、それを口に出し態度に出し、相手にも強要しなければ気がすまない人間だった。だから、父も私も、その圧力の中で生活していくことに、時折疲れていた。私は社会人になって数年すると一人暮らしを始めた。思い切り息を吸って、吐いている実感がした。そして数年するとその空気も感じないほどに、私は自由になれた気がした。

父が逝った後、母は割と強かに生きてきた様な気がする。40年ほどを夫婦として一緒に過ごした、その片方が亡くなったのだから、気の落ち込みようは相当なものだろうと思ったのだが、私から見る限りでは、母はそれほどでもなかった。食事が喉を通らないなんてことはなかったし、夜眠れないということもなかっただろう。しばらくはぼんやりと数週間を過ごしていたが、人が一人死ぬということは、たくさんのしなくてはいけないことが山積されていて、まずはそれをひとつひとつクリアしていくだけで精一杯だった。しなくてはならないことのリストはうんとあって、それを私と二人でこなしていった。それが終わると、まるでそうすることが当然だと言うように、疲れたからちょっと近くまで旅行にでも行こうと、県内の温泉まで一泊旅行をした。

旅行が終わって、私はまたひとり暮らしのアパートへ帰っていった。もう母をひとりにしても大丈夫だと思った。離れているといっても電車で数駅の場所にいるのだし、何かあったらすぐ来れるのだ。それに私は、いったん離れた母の圧力の中で再び生きていくのは、今さら困難のように思われた。正直自分の部屋に帰って来たときはほっとした。父が居なくなって母のターゲットは私だけになってしまった。目配せして、阿吽の呼吸でこの気持を分かってくれる父は、今はもう居ない。

バスは幹線道路を少し走って、病院の敷地内にまで入って、入り口で止まる。カードを差し込んで受け取って、バスを降りる。夜の病院は嫌いだ。ロビーは明かりがほとんど付いていなく、私は横の夜間入口から入る。夜間入口のすぐ側に救急患者の待合椅子があり、父の時のことを思い出す。ここで待っている人達は皆不安げな面持ちで、目を合わせるのが憚られる。こうして呑気に見舞いに来ている私のほうが、数倍気が楽だ。

エレベーターに乗って5階を押す。エレベーターの横に売店があって、私はそこを見るとまた母に何かおいしいものを買ってきてやるのを忘れた、と思う。ここに来るまではここに来るだけのことを考えている。面会時間が間に合うようにと、仕事が終わるとすっ飛んで電車に乗りバスに乗り、ああ、間に合ったと思う。だからそんなの、買っている暇はないのだけれど、でも何だか、そういったことを忘れてしまう自分を冷たいと思う。エレベーターの中の鏡を見る。スーツを着てその上にコートを着て、いかにも仕事帰りだなという格好だ。そんな格好をしてくる自分も嫌になる。今日ここにくることが朝分かっているのだから、もっとラフな格好をしてくればよかったのだと、そう思う。これじゃさも忙しくて忙しくてしかたないみたいな格好じゃないか。

「こんばんは。失礼します。」
誰に言うでもなく、4人部屋である母の病室に入るときには必ずそう言う。母のベッドは奥の左。手前の人のベッドが嫌でも見えてしまうから。カーテンで仕切られているとはいえ、皆少しづつカーテンを開けてある。その隙間からちらっと顔が見えることもある。
「あら、今日も来てくれたのね。」
母はこちらに気付くと、見ていたテレビから目を離し、起き上がる。
「あ、いいよ起きなくても。今日は何もないんだけど・・ごめんね。」
私はカバン以外何も手荷物がないことを示す。母はベッドに腰掛ける。
「どう?変わりない?」
「うん、別にね。今日はCTとったけどね。」
母はそれから、一気にこの2日にあった出来事を話し出す。どんな検査をしたとか、先生はいつやってきてどんな話をしたかとか、担当の看護婦は今日は休みだったとか、気に入った看護士の子に冗談を言ったことや、シャワーに入れたことや食事の内容なんかのことを。
「まあ、御飯はまずいわねえ、相変わらず。仕方がないけどねえ。」
それから同じ部屋の人の話題やら退院していった人が外来で来た話やら何やらを。私は同室の人がきっと耳を澄まして聞いているのではないかとはらはらしながら、何も言わずにただ聞き役に徹していた。
「今日も仕事で大変だったんでしょう。平日は来なくていいのに。」
話が一息つくと、母はそう言った。でもそうしたら、5日間一回も来れないじゃないか。
「別に駅からバスが出てるから、この時間に間に合えば平気だから。洗濯もあるでしょ。」
「コインランドリーもあるけどね。だから無理に来なくてもね。」
口ではそう言うけれども、やはり家族が誰かしら来なくては、入院生活というものはたいそう淋しいものだろう。それくらいは私だって分かるのだ。

言いたいことを一気に言ってしまったら、急に話すことが無くなったらしく、母と私の間には静かな空気が横たわった。そういえば、こうして母が入院しているときのほうが、私たちは余計に会って話をしているのだ。母が元気なときは、私は実家に寄り付きもしない。来ようと思えばすぐ来れる距離だからこそなのか、それとも私が無意識に実家というものを避けているのか、こんなに話をすることなんて、ないんだ。

その時同じ部屋の入り口のベッドの方から、男性の静かな深い声が聞こえた。母の斜向かいのベッドの人の、ご主人のようだった。そのベッドの方は母よりも5,6歳年上のように見受けられる、可愛いご婦人で、母の話によるとご主人は毎日遅い時間に来て面会終了時間までいらっしゃるそうだった。
「そうか、それは辛かったねえ。そうかそうか。がんばったなあ。」
その声が耳に入ってくると、なぜか私ははっとしてしまった。ご婦人の声は体型と同じく、華奢で小さくて私の耳には入ってこなかったが、それに答えるご主人の声はよく聞こえた。その声は私のイメージする老人の男の人の声ではなく、老人の男の人の喋り方でもなく、なんというか実に魅力的に響く、本当に実感のこもった、こう言ったら生意気なようなのだけれど、長年ご夫婦を続けてこられた人の、お互いを慈しむような感情がこもっている声だった。
「ん?今朝?今朝はパンを焼いて食べたよ。ひとりで食べるのは淋しいねえ。はやく帰ってきてほしいねえ。」
奥さんのほうの会話は一切聞こえなくても、何を話しているのかよく分かった。どうしてこんなに切なく聞こえるのだろう。言いようによっては、もの凄く照れくさい言葉を、ご主人はさらりと、でも実感のこもった声で言うのであった。ご主人の声が素敵だからなのか、話し方が温かいからだろうか。こんな言い方をされたら、奥さんのほうはもっと切なくなるだろう。私は病室の端っこからカーテン越しに聞こえる会話に、涙が出そうになった。この会話をただちょっと聞いているだけで、この人たちがなんと深くて充実した夫婦生活を送ってきたのかが、分かるような気がした。

ふと母を見ると、母はまったく関係のない話をし始めた。耳の少し遠い母には、斜向かいのご夫婦の会話は聞こえていないようだった。そしてまったく違う話をしている母の顔をぼんやりと見ながら、ああ、父はもう亡くなったのだと、分かりきったことなのにたったいまそう思った。父はもういない。母にとっても、夫はもういない。私は涙が出てくるのを堪えるのに必死だった。

面会時間が終了するというアナウンスが病室に流れた。洗濯物が入った袋を貰い、私はエレベーターホールに出た。そこには斜向かいのベッドの可愛らしいご婦人と、うんと背の高いがっちりした、初老の男性がいた。私は軽くお辞儀をした。

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自然にそうなってしまっていたこと

2007-02-10 21:03:00 | 読みきり




人通りの多い道から、ちょっとそれて鳥居をくぐると、そこにはひっそりと神社があった。参道には私たち以外、ほとんど人はいない。曇り空の下、冬の空気がぴんと張り詰めている。


私は足元の砂利が、歩くたびに、ざっ、ざっと音を立てるのを聞いていた。その横で、手を伸ばせばなんとか届くけれど、でも決してぶつからない程度に距離を開けて、彼は歩いていた。二人分の、砂利を踏みしめる音がする。それ以外の音が、何もしなかった。都会の真ん中にあるこの神社は、こんもりとした木々に囲まれている。その木々が周りの騒がしさをすっかりと遮断して、この小さな世界には、まるで二人しか存在しないかのようだった。

2月中旬の東京は、とても寒かった。Pコートに、ぐるぐるとマフラーを巻いて、ジーンズの下にブーツまで履いているのに、芯から体が、冷えていきそうだった。静まり返った境内が、さらに寒さを助長するかのようだった。彼はダッフルコートを着て、やはりマフラーを巻いてジーンズを履いていた。広い境内をぐるっと散歩して、それからおみくじを引いた。けれども、それが何だったか、今ではさっぱり憶えていない。そのおみくじを木に結わえて、それからまた歩きだした。

手がとても寒かった。手袋をしていない両手は、自分でこすっても冷やっとするほど冷え切っていた。半歩前を歩く彼は、ダッフルコートの大きなポケットに、手を入れていた。私はそのポケットを、じっと見つめる。

今日までの過程を、繰り返し考える。初対面の男の人から、電話番号を聞かれることはあっても、自分からメモを差し出して、良かったら掛けて、と言われるのは初めてだった。気が付いたら、電話していた。そして、今日、こうして又会った。

両手を合わせて口元に持っていく。はあ、っと息を吹きかけても、ちっとも温まらない。私はずっと、彼のポケットを凝視している。そして、ポケットの中の手の大きさを、温かさを、想像していた。

考えていたら、もう我慢できなくなった。次の瞬間、私の右手は彼の左ポケットに入っていた。まるで自然にそうなってしまったかのように、手と手が重なった。ポケットの中は、私の想像したとおり、温かさで溢れていた。温かくて、大きな手が、ぎゅっと冷えた手を包んでくれる。

何も音はしない。でも、もう、寒くない。



photo by web-mat さん

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シャンプー

2007-02-04 01:52:50 | 読みきり
 僕がこの床屋に通うようになってから、もうかれこれ数年が経つ。いやここは、床屋ではなくて、ヘアサロンとでも言うのだろうか。髭は剃ってくれないし、普通に女の客も来るのだから、美容院と言うのだろう。最初ここに来たのは、別れた妻と結婚した当初のことだった。彼女がもともとこの美容院に通っていた。僕はいつも、髪を整え綺麗になった彼女を、車で迎えに来ていた。店の前の駐車場で、彼女が髪を切ったりパーマをかけ終わったりするのを待っていた。ガラスの扉の向こうから、店員に見送られた彼女が出てきて、それをバックミラー越しに確認すると、僕は一瞬、どきっとさせられるのだった。彼女はいつも、大胆に髪型を変えた。僕のイメージにある彼女と、ちょっと違う彼女がいつも出てきた。彼女は助手席に乗り、僕は平静を装って、静かに車をスタートさせる。ややしばらく経って、彼女は、どう、と髪の毛に軽く手を当てながら、訊ねる。いいんじゃないか、と僕はひとこと答える。けれど正直少し似合わないと思うときもある。しかし彼女は、男の好みに合わせて髪型を変えるタイプの、女ではないのだ。だから僕は、いつもそんな曖昧な返事をする。

 僕が彼女と初めて会ったとき、彼女の髪はすごく短くて、僕は瞬時に、ジーン・セバークを思い出した。すこし癖のある、真っ黒ではないが濃い茶色の、耳が見える程短い髪は、それだけでとてもセンスのいい女の子に見えた。耳には小さな、プラチナのピアスが光っていた。後で聞いて分かることだが、彼女は僕と出会う直前、男に振られ、それでそれまであった長い髪を、ばっさりと切ったばかりだったのだ。そんなことを僕は、随分と後になってから、そのヘアサロンの店長から、聞いた。

 初めて彼女がその美容院にやって来た時、彼女の髪の毛は肩よりもうんと長かったそうだ。やや癖がある柔らかい彼女の髪は、緩やかなパーマを掛けたような感じだった。小さな顔に、そのふわふわとした感じは、とてもよく似合っていただろう。僕には容易に、想像がつく。店に入って店長が「どうしましょうか。」と訊ねると、即答で「すごく短くしてください。」と彼女はきっぱりと言った。あまりにも表情が固く、話し掛けるタイミングを見出せなかった店長は、無言でハサミを動かし続けた。静かな音楽の流れる店内に、ハサミを動かす音だけが、妙に大きく響いた。ミラー越しに長さの確認をしながら、店長がカットを続けていると、彼女の瞳から、涙が、はらはらと落ちてきた。そんな客を過去にも何人か知っている店長は、その光景がまったく目に入っていないかのように、散髪の作業を続けた。彼女は、落ちてくる涙を拭いもせず、焦点をどこか遠くに合わせたまま、微動だにしなかった。
 
 カットが終わり、シャンプーも終わると、彼女はまるで、さっき涙を流した人物とは別の人のように、鏡の前に座っていた。泣いた後の瞼は少し腫れ、瞳は潤んでいた。そのせいでもともと大きい瞳が、他の顔のパーツよりも余計に目だって見えた。彼女は鏡に映った店長に向かって、にっこりと微笑み、ああ、すっきりした、とひとこと言った。
「いかがですか。随分と雰囲気変わりましたね。お似合いですよ。」
 店長は、やっと会話の糸口を見つけたとばかりに、声を掛けた。
「実はわたし、きのう彼に振られてしまったんです。それで、それで気分をさっぱりさせるために、髪を切ってやろうと思って、ここに来たんです。」
 店長は穏やかな笑みを続けながら、「そうですか。」と静かに答えた。そう言うしかないように思われた。
「すごくすっきりした。本当に、どうもありがとう。」
言いながら彼女は、自分で髪の毛の感触を確認するように、耳の上の辺りの、今までとはだいぶ長さの違う髪を、手ですくって見せた。
「シャンプーも楽ですよ。ピアスもよく映えますね。」
「そうですか。」「本当にすっきりしたわ。」
 満足そうな顔で、彼女は席を立った。それからずっと、彼女はこの店に通っている。

「こんにちは。」
 僕が店のガラス戸を開けると、アシスタントの女の子が静かに声を掛けてきた。店の道路側は一面ガラスになっていて、中の様子は丸見えだった。そして中からは、店にやって来る客がよく見える。彼女は少し遠くから、僕のことに気がついて微笑んでいた。
「今日はどうなさいますか?」
 店の会員カードと、上着を受け取りながら彼女は言う。店長は他の客のカットをしていた。
「いつもので。」
 バーで飲み物を注文するように、僕は答える。彼女は上着をハンガーに掛けると、洗髪台の方へ僕を誘導する。彼女の後ろを歩きながら、僕は彼女の、うなじの辺りを見ている。

 洗髪台に腰掛けて、椅子の動きに沿ってゆっくり仰向けになると、体の力が少し抜けるような感覚がした。アシスタントの彼女が、戸棚から薄いガーゼのハンカチを出して、顔に掛ける。ガーゼが顔にかかる間の数秒だけ、少し緊張する。ガーゼの下で目を瞑りながら、シャワーから出る水音を心地よく感じ、僕は眠ってしまいそうになる。
彼女は丁寧に、僕の髪の毛を洗う。今まで色々な床屋で、髪を洗ってもらったことがあるけれど、彼女のように洗う人はいなかった。あくまでも優しく、そっと地肌を刺激する。彼女に洗髪してもらうようになってから、女性がエステなどに行ってやみつきになる気持が、わからなくもないと思ったりするのだった。僕は半分眠っているかのような感覚になる。

 洗髪が終わり椅子が元に戻されると、僕は少し正気に戻る。
「お疲れ様でした。」
 言いながら彼女は、タオルで僕の髪の毛を、そっと拭く。それから、「こちらへどうぞ。」と言って、カットの台の左の席へ座るよう、僕を促す。
僕が椅子に座ると、彼女はカットの道具を、用意し始める。僕は椅子の周りを行ったりきたりする彼女の様子を、何気ない様子で眺めていた。彼女はなんというか、美容師という感じがしない。いや、若い、まだ見習いの美容師、という感じがしない。最近の若い女はみな痩せていて、僕の好みから言ったら、異様な痩せようだけれど、彼女は多分、今の若い子の平均的な基準から言ったら、大分ふっくらしている。いや、ふっくらと言うよりは太っていると言ったほうがいいだろう。美容業界という、ファッションセンスを問われ、常に流行の最先端を意識しなければならない業界であると思うのに、彼女はそういった、私は美容業界なんです、と言いたげな、肩肘張ったぎすぎすとしたような感じが、まったく感じられない。美容師であるのに、ちっとも荒れていない、彼女の指先を見ながらそう思う。ふっくらとした手の甲は、間接にくぼみがあって、昔あったキューピー人形を思い出す。かといってセンスがまったく無さそうという訳でもないと思う。僕は若い女の子の流行なんて、よく分からないが、動きやすいパンツ姿で、足元も常にスニーカーという出で立ちだけれど、なんとなくお洒落な感じがする。突飛な格好をしている訳でなく、なんてことない格好なのだけれども、彼女の周りからは清潔感が漂っている。髪の毛は、とんでもない色に染めている訳でも、前衛的なカットをしている訳でもない。つやのある茶色の髪を、うしろに束ねていたり、上だけ結んでいたりする。何気ない、という言葉がぴったりくるような気がする。彼女の髪は誰が切るのだろう。美容師同士で練習の為に切ったりするのだろうか。でも、この店には、店長と彼女の、ふたりしかいない。美容師は自分で自分の髪の毛を切れるものなのだろうか。

 彼女が「お願いします。」と言うと、店長がやってくる。
「いつものようにで、いいんですよね。」
「はい。お願いします。」
 店長は時々ミラーを見ながら、僕の髪をカットしだす。営業トークを、あまりしない。最初の頃は、少々こちらの出方をうかがっていたような感じがあったが、僕があまり世間話にのってこないのを理解すると、最小限の確認事項しか話しかけてこなくなった。けれども僕がなにかの話に反応すると、少しその話題について会話をやりとりするときもある。アシスタントの彼女もだけれども、この店のふたりは、ちょうどいい感じで僕を放っておいてくれる。そこに好感が持てる。

 あっという間にカットが終了する。やや頭が、軽くなった感じがする。彼女にもう一度、シャンプー台に案内される。「どうぞこちらへ。」
僕はやっぱり、前に立っている彼女の、肉付きのいいウエストのあたりをぼんやりと見ている。別れた妻のウエストを思い出し、もしかしたら2倍近くあるのではないかと、ふと思う。2倍はありすぎだろうが、両手で腰をつかむと、それで終わってしまうくらいな感じの元妻のウエストとは、かなり違うな、と思う。
先ほどの洗髪と違って、カットしたあとのシャンプーは、あっという間に終了する。もう一度カットの席に戻り、今度は彼女が、僕にドライヤーを当てる。
「今日はお休みなんですか。」
 鏡に映った僕に向かって、彼女が話し掛ける。彼女の二重になった顎を見ながら、「そうだね。」と一言答える。妻と別れた直後、僕がカットをしにここへ来たとき、同じ質問を彼女がしたことがあった。僕が同じように、そうだね、と答えると、じゃあこれから奥様とどこかへお出かけですか、と彼女は聞いてきた。「妻とはこの間、離婚したんだ。」僕がそう言うと、彼女はそれ以上何も言わなくなった。妻と僕の私的なことは、何も美容師に言うことではないだろうけれど、いちいちその後の質問を、はぐらかしたり嘘を言ったりするのが、面倒なだけだったのだ。僕は土曜や日曜には、絶対にここに来ない。彼女の休みである週末は、万が一鉢合わせするかもしれないから、やめておく。幸い僕は、平日休みが多いので、こうして普通の日の昼間に、ここにやってくる。

 鏡に映った自分の髪形を見ていると、彼女と視線がぶつかる。ほとんど笑っていないように、彼女は少しだけ微笑する。洗髪と同じような丁寧さで、彼女はあくまでも優しく、僕の髪をブローする。僕も、ほとんど分からないくらいの微笑をして、また視線をどこかに逸らす。


********


 この間髪を切ってから、2ヶ月近くが経っている。だいたい一ヶ月に一度散発しているのだが、このところ仕事が忙しく、休みがとれなかったのだ。会社の帰り、駅前からバスに乗ると、いつものヘアサロンの前を通る。たった二人でやっているこの店は、7時を過ぎると閉まっていることもある。信号が赤になると、バスはちょうど店の前に止まった。今日はまだ店は閉まっておらず、ガラス張りの店内は、蛍光灯の明かりが煌煌としていた。店長は、おそらく今日最後の客を前に、ドライヤーをあてていた。彼女の姿は見えない。信号が青になり、バスが発車しようとするとき、ふとガラスに張ってある張り紙が目についた。スタッフ募集中。詳細は店長まで。僕はよく見えるはずの店内に、彼女の姿をもう一度探した。バスが動き出した。彼女はやはり、見えなかった。今度休みが取れたら、髪を切りに行こうと思う。だがなんとなく、彼女はいないような気がする。あの店に、アシスタントは二人もいらないだろうから。僕はそんなことを思いながら、バスの外に目を向けた。

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夜、駐車場で

2007-01-20 23:02:43 | 読みきり
今日は少し、遅くなってしまった。駅に降りる直前に時計を見ると、11時40分を指していた。    

 白々としている蛍光灯が、等間隔に光っている。人がまばらでがらんとしたホームは、深夜に入ろうとしているこの時間帯は、あまりにも寒くて、思わず自分で自分を抱くように腕をさすった。

 エスカレーターを一段抜かしで上がり、改札をくぐる。ガラスの向こうの駅員はあくびをしていた。目が合った。一段抜かしで上がったせいか、少し息が切れる。外に出ると誰もいない。各駅停車しか止まらないこの駅は、夜10時も過ぎれば、人はほとんどいなくなる。

 すぐ目の前の駐車場に向かう。駐車場のすぐ横にコンビニがある。看板が煌煌としている。その中だけは人が数人いるのが見える。ビールを買っていこうかどうかという考えが浮かぶ。今日は飲み会なのに、車で来てしまったために一滴も飲めなかった。それなのに、よくこんな時間まで付き合ったものだ。女同士の食事会は、話が途切れないので、帰るタイミングをつかみずらい。家に帰ってお風呂に入ったら、絶対に飲みたくなる。でも時間が遅いのだし、とにかく一刻も早く帰って、熱いお風呂に入りたいと思った。コンビニを無視して駐車場に入る。

 この時間になると、ほとんどの車は埋まっている。よその車は朝出勤とともに駐車場を出て行き、晩になると帰ってくるようだが、私の場合は逆だ。朝ここに車を置いていき、帰るときに拾う。だから、他の所有者とは顔を合わせたことがない。隣の車は、若い人が乗りそうな青色のセダンだし、反対隣はワンボックスだ。多分、この近所のアパートの住民なんだろうと思う。私は軽ワゴンに乗っている。

 キーを押しドアを開ける。エンジンを掛けるとFMの音楽が流れる。頭の中はお風呂に入ることだけを考えている。熱いお風呂熱いお風呂。寒いときはお風呂がいちばんだ。帰ったらすぐにお風呂のスイッチを入れること。早く帰って入りたい。

 無意識に体が一連の動作をして、ギヤをドライブに入れようとしたら、バックミラーに、何かが映ったような気がした。夜中で真っ暗なので、気のせいだと思いたかった。ミラーに目を凝らすと何も無い。乗るときに、車の中に誰もいないかチェックするのを忘れたと思った。以前同僚が言っていたのだが、駐車場に停めた車に乗るときは、必ず中に誰もいないか確認して、乗ったらすぐにドアをロックすること、そうしないと万が一不審な者が隠れて乗っていたら、閉じ込められてしまうし、逆に車に乗ったときにすぐにロックしないと、ドアを無理やり開けられて入られてしまって危険だと。それを聞いてから、なるべくそうしようと心掛けてきたのだが、今日はお風呂のことばかり考えていてうっかりしていた。でも、そんなこと、アメリカなんかの国ならともかく、こんな日本であるのだろうか。

 「ねえ。」

 そう思いながらもう一度ミラーを除くと、そんな声が聞こえたような気がした。頭の中で、髪はぼさぼさで無精ひげで包丁を持った男が、咄嗟に想像された。そして包丁を私の肩越しに突き出し、金を出せ、とか○○へ行け、とか命令する、またはもっと身体的におぞましいことをされるのではないかと、それらのことが本当に一瞬の間に脳裏を駆け巡った。体が固まって動けなくなる。

 恐る恐るミラーを見る。体は微動だにせず、目だけでそっとミラーを見た。

 そこには、金に近い色の長い髪をした、少し浅黒の若い女の子が映っていた。

 最初声が出なかった。まじまじとそこに映っている人間を確認した。髭面のぼさぼさ男ではなく、若い女。まるで知り合いの車に乗っているみたいに、そこに普通に座っていた。そのことが少し自分を落ち着かせる。その子を眺めた。そして初めて声が出た。

 「ここで何してるの?!」

 あまり驚いた割に、淡々とした言葉が出たことに、自分でびっくりした。でも今度は少し早口になってしまった。

 「あんただれなのなんで私の車に乗ってるのどうやってのったの。」

 正直変な男でないことにほっとした。わたしより若い女の子ではないか。

 「ごめーん。あのさー、わるいんだけどー、ちょっとそこまで乗っけてってくんない?」

 自分の車に見ず知らずの女が乗っているのも理解出来なかったが、開口一番初めて見る他人に頼みごとする女も、理解できなかった。あんた何言ってんの、と内心文句を言うと、少し余裕が出てきた。

 「あなたは誰なの。なんで私の車に勝手に乗ってる訳?勝手に人の車に乗っておいて、いきなりそこまで送っていけって、失礼だと思わない?」

 私はもうほとんど横向きに座っていた。ミラー越しでなく、直接その若い女に向かってしゃべっていた。

 「ていうかさー、悪いと思ってんだけどー、酔っ払っててさー、間違っちゃったんだよねー。自分の車とさー。」

 そう言われると、確かに酒臭いにおいがした。この寒いのにミニスカートをはいて、ひざまでの薄いタイツの上にブーツを履いている。上着は丈の短いフードのついたダウンジャケットで、その下には薄いTシャツしか着てないようだった。小さいバックからタバコを取り出した。

 「悪いけどこの車禁煙だから。吸うなら外で吸ってよね。」

 「あ、そう。」

 悪びれもせずに女は言う。

 いったいこの子は、なんで人の車に乗っているんだろう、と単純に考えた。家出少女だろうか。19かはたちくらいに見えるけれど、実は高校生とか。少なくとも高校生にはなっているだろう。言っているように酔って自分の車と間違えてしまったのだろうか。そうするとこの駐車場の車なのだろうか。

 「ここの駐車場に停めてるの?」

 「あれ。」

 彼女は向かいの列の車を指差した。同じく軽のワゴンが停めてあった。だが色は黒のように見えるし、車種も違う。本当だろうか。思いつきで言ったのではないのか。

 「本当にあの車のなの?じゃあ自分の車に乗って帰ればいいでしょう。なんで気がついたらすぐに降りなかったの?それに間違えるなら普通前に乗るでしょう。」

 そうは言ったが、彼女は酒を飲んでいるらしいので、運転はさせないほうがいいだろう。これで帰りに事故にでも遭ったら困る。

 「ごめん。やっぱ嘘って分かるよねー。あの車じゃないんだけどさ、前にここに車停めてたんだよ。それはホントだよ。」

 私がここを借りたのは2ヶ月ほど前からだ。その前の借主が、彼女だったというのだろうか。エンジンを掛けっぱなしの車は、少し温かくなってきたけれど、早くお風呂に入りたい。

 「ねえ、まああなたの話を信じるとして、でも家に帰らなければならないでしょう。どこなの家は?早くしないと電車もなくなるわよ。」

 即座に時計を見ると12時を過ぎていた。

 「どこなの?私交番に行って話すこともできるのよ。人の車に勝手に乗り込んでいるのって犯罪よ。」

 本当に犯罪なのかどうかはわからなかったが、ちょっとイライラしてきた。私は早く家に帰りたいのだ。彼女がずっと黙っているので、さらにイライラとした気分になり、やや声を強めて言った。

 「どこなの?ここから近いの?近いなら送っていくけど。歩いて帰ってと言いたいところだけれど、夜中だし女の子だし何かあると困るから。」

 親切心を出してしまったことに後悔した。近いと言いながら、もしかしたら、うんと遠いところまで送らされるかもしれない。私は前方を向いてミラーで彼女を見ていたが、うなだれてそっぽを向いてうんともすんとも言わないのを見て、また体をねじって彼女を直接見た。

 「どうなの?家はどこ?もしかして家出してきたの?高校生?」

顔を上げた彼女は泣いていた。涙を流すのをこらえて、じっとしていた。

 「どうしたの?やっぱり家出してきたの?」

 「ていうか、彼氏と喧嘩して、家飛び出してきたの。」

 投げ捨てるように、少し不貞腐れて彼女は言った。

 「それで?どこに行こうとしたの?」

 「前付き合ってた男がー、この前のアパートに住んでてー、それであいつのとこに行こうと思ったんだけどー、いなかったていうわけ。そいつと付き合ってるときはここに車停めててー、いつもここで車乗ってたから、その時の癖でつい。」

 「でも鍵が開いてなかったでしょ。どうやって車の中に入ったの。」

 どうも話が腑に落ちない。後部座席に乗ってることもおかしいし、そもそもなんでドアが開いたのだ。私が鍵を閉め忘れたのか。

 「鍵はなぜか開いてたのよ。それでつい、酔っ払ってたし寒いし眠いし行くとこないしで、ちょっと借りようと思ったのよ。ちょっと酔いが覚めるまで借りて、車の持ち主が帰る前に出ようと思ってたけど、なんかぐっすり寝ちゃって。そしたらあんたが帰ってきたからどうしようかと思った。」

 やっぱり私がロックしてなかったのだ。一度ロックしたのに、カバンに鍵を入れる拍子にぶつかって、ロックが解除になってしまうことが、ままあるのだ。

 「本当にそうなの?」

 「うん。友達はみんな都合つかなくてー、彼氏のとこには戻りたくないしー、前彼はいないしー。」

 喧嘩と言っても、若いからそんなことはしょっちゅうあるのだろうし、そう言われてもずっとこうしているわけにもいかない。まさか家に連れて帰るわけにもいかないし、かといって交番に突き出すほどのことでもないだろう。

 「まさか、おまわりさんのとこ連れて行く気?私悪いことしてないよ。ただちょっと、酔いが覚めるまで借りようと思っただけだし。」

 私の心を読んだように、急に大人しい口調になった。本当にこの子は、行くところがないのだろうか。

 「喧嘩はなんでしたの?」

 彼女は急に下を向いた。そしてスカートの裾を、すこしいじっていた。

 「浮気。」

 「彼が浮気したの?」

 「違う、あたしが。」

 「あのねー、それじゃあなたが悪いんでしょう。謝って彼のとこ帰りなさいよー。」

 少し呆れた。相手が原因で大喧嘩をして、頭にきて家を飛び出したのかと思った。自分が悪いんじゃないか。

 「違うの、確かに浮気をしたのはあたしなんだけど、でもあいつは、もっともっと今までしてるんだよ。それであんまり頭に来て、あたしも見返してやろうかと思ってちょっと遊んだだけ。」

 言うとつんとした顔をして、何も見えないであろう外を見ていた。自分は悪くないといいながら、やったことに後悔をしているような感じが、しないでもなかった。

 「そう。でも、とりあえず、ずっとこうしているわけにもいかないし、私も早く家に帰りたいのよ。」

 「だから最初に、そこまで送っていってって言ったじゃん。」

 なんで若い子って、こうもずうずうしいのだろう。浮気症の彼を持ったことに同情しようとした自分が、お人よしに思えてきた。

 「あのねえ、順序が逆じゃないの?あなたの事情は知らないけれど、無断で人の車に乗り込んだのあなたでしょう。人に物頼む前に、なんか言うことあるんじゃないの?」

 つい子供を叱るときの口調になってしまった。

 「すみませんでした。」

 「あなた携帯は持ってるの?」

 「あるよ。」

 若い子は咄嗟に家を飛び出しても、絶対に携帯だけは手放さないでいるのだろう。

 「彼に電話しなさい。出たら私が代わるから。」

 命令口調で言ってしまった。この子にイライラしながらも、なぜか同情する気持になってしまうのだった。

 「だって。やだよ。あいつとはもういいんだもん。」 

 「あのねえ。じゃあ交番行くわよ。もう夜中なのよ。私は明日も仕事で、早く家に帰りたいのよ。なんであなたと彼のごたごたに、私が付き合わなきゃならないの。とりあえず家に帰って、それからきちんと別れたいなら別れなさい。わかった?」

 彼女を見るとまたむっとした顔をしていた。でも本心は彼のもとに帰りたいのだろうと思った。ただ意地があるだけだ。

 ちょっと間があいて、渋々小さいカバンから携帯を取り出した。片手ですばやくボタンを押す。

 「はい。」

 自分で出るのかと思っていたら、素直にこっちに渡した。意地があるから、自分からは嫌なのかもしれない。却って私がしてくれてよかったと思っているのかもしれない。

 何回目かのコールで、その彼は出た。彼の名前を聞いてなかったので、なんと言おうか口ごもった。

 「彼氏の名前なんていうの?」

 咄嗟に聞くと「コージ。」と答えが返ってきた。

 「あ、コージさん?今あなたの彼女がここにいるんだけど。彼女ね、勝手に私の車に乗り込んで困ってるから、迎えに来てくれないかしら?家はどこなの?」

 唐突に話をされて、彼氏は少し戸惑ったようだった。当たり前か。見ず知らずの女がいきなり電話をしてきて、彼女を迎えに来いというのだから。

 携帯の着信表示で、彼女の電話と分かったのだろう。とりあえず私の話を信じてはいるようだ。とりあえず彼女に変わって欲しいと言った。

 「代わってだって。」

 携帯を彼女に返す。会話の間、意識して外を向いていた彼女は、素振りは嫌々だったが、彼の反応は気になって仕方がないはずだ。

 「え?。ホントだよ。マサヒロのうちの前まで来て、酔っ払ってたから前の癖で車に乗って帰ろうと思ったら、気持悪くなってー、少し寝ようと思ってー。え?ドア?だって開いてたんだもんなぜか。で、目が覚めたら知らない人が近づいてくるから、思わず後ろに隠れたんだよ。だからー、分かってるって。謝ったよ。え?近かったら送っていくって言ってくれたよ。」

 彼女はちらちらと私を見ながら話している。名前を言っているところを見ると、彼は彼女の元彼を知っているのだろう。そしてこっちに視線を固定して最後は言った。「じゃ代わるよ。」

 電話を差し出した。もう一度代われということか。ちょっとだけ触れた彼女の手は、びっくりするほど冷たかった。

 「はい?」

 彼は私が想像したよりも、もっときちんとしていた。彼女の非礼を詫び、済みませんでしたと何度も言った。そしてすぐ迎えに行きますからと言って、電話を切った。

 「なんか、結構いい奴じゃないの、彼?」

 私がそう言うと、きっとした顔で彼女は言った。

 「そうやって人あたりがいいから、女にもてるんです。だから浮気も、しようと思えばいつでもできるし。」

 そう言う彼女は、ちょっとかわいく見えた。女なんて、誰だって嫉妬するものだ。そして彼が素敵ならなおさら、悩みの種はつきないのだろう。暗くてよく分からなかったが、彼女の顔はよく見ればとてもキュートだった。化粧もそれほどきつくなく、もとの顔の造作がいいのだと思った。言葉使いは今どきの若い子だけれど、恋するのに真剣で、だからこそ嫉妬してしまうのだろう。

 「でも、今だってほら、迎えに来てくれるんでしょう。別に勝手に出て行ったんだから関係ないといえばそれまでなのに。私にも散々謝ったわよ。何も彼が悪いわけでもないし、彼が謝る必要もないわけでしょう、別れた彼女のことなんて。」

 彼女の顔を真正面から見て言うと、彼女も私をじっと見ていた。そして数秒何かを考えていた。酔いもだいぶ醒めてきたのだろう。私も何だか疲れて、急にまたお風呂のことを思い出した。そして彼女の冷たい手を思い出した。暖房も効いていない車の中、何十分か何時間か分からないがいたのだから、恐らく体は冷え切っているだろう。

 駐車場の出口の自動販売機が目に入ったので、降りて缶コーヒーを二本買った。

 「はい。」

 後ろの席に手を伸ばす。彼女は細い手でそれを受け取った。長い爪に綺麗なペイントがされていた。手で包んで温めるようにしてから、彼女はそれを飲んだ。

 「ありがと。」

 彼女は、つぶやくような小さな声で言った。私のこの件もそうだけれど、彼のことも彼女なりに、ほっとしたのだろう。

 「まあ、うまくやりなさいよ。若いんだし。」

 何だか自分を年寄りのように感じた。でも、そんなことは、そんな問題は、若くてもある程度歳 がいっても、変わらないんじゃないかと思った。私の恋愛だって、そんなに順調じゃない。



 私は一気にコーヒーを飲み干してしまった。遠くの方から車が一台来て、止まった。



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美しい雪

2006-12-09 16:47:17 | 読みきり
静かな病室に、クリスマスソングがオルゴール音で小さく流れている。もうこの曲を、何度聞いただろうかと思った。午前中の回診が終わったら、昼食までやることがない。部屋の中は一定の空気が保たれていて、寒くも暑くもないけれど、外の景色を見るだけで、今日は寒い日なのだと、分かった。どんよりと曇って、お日様が出ていない。

点滴の管を見つめていると、なんとも言えない不安が湧いてくる。このままこうしてじっと安静にしていて、きちんと赤ちゃんは生まれてくるのだろうか。あと一ヶ月安静が必要だということだけれど、臨月になる前に生まれてしまうんではないかと、そう思った。先生が言っているように、自分でも子供が私のお腹の中の、ずっと下の方にいることが分かる。

今日も誰もここには来ないだろう。まだ妊娠7ヶ月目だというのに、急に入院することが決まったので、職場以外の友人は私がここにいることを知らない。だんなは今日も仕事が遅いだろうから、きっと来ないだろう。母は昨日来たけれど、今日は用事があると言っていた。

小さな音量で流れる、ジングルベルを聞きながら、街のイルミネーションのことを思う。今ごろはあちこちクリスマスの彩りできれいになっていることだろう。私はまだ、当分ここから出られない。出たらすぐに子供が生まれるだろう。そうしたら早々外になんか出かけられないだろうと思う。

生まれてくる子供の準備を、何もしていない。産着を揃えたりベビーベッドやベビーカーを買ったり名前を考えたり。名前は候補が色々あったけれど、もう何だかどれにしていいやら、分からなくなってしまった。こうしてあまりにも考える時間があるものだから、却って煮詰まらない。性別もあえて聞かないようにしているので、どちらだか分からない。けれど絶対に男の子だと思う。女の子のお母さんになることは想像できるが、自分が男の子の母親になるなんて、全く想像ができない。それに男の子の母親なんて、苦手だと思ってしまう。それなのに、何の根拠がないにも関わらず、このお腹の中の子は絶対に男だと思う。

寝てしまうと夜眠れなくなるので、なるべく眠りたくはない。入院するまでは、一日寝転んで本でも読んでいたいものだと思っていたけれど、さすがに食事洗面トイレ以外のすべての時間を読書に当てられる生活が長く続くと、それにも少し飽きが来る。それに、点滴の方の腕が使えないので、厚い本や雑誌を支えていると結構疲れる。

うとうとした。ほんの数分間か、数十分。もうすぐお昼だと思った。脇にある小さな窓を見ると、雪が降ってきた。どんよりした暗い空から、紙ふぶきのように雪が降る。殺風景な、何の変哲もない住宅街と森とマンションが見える外の景色が、とても美しいものに思えた。はらはらと、とめどなく落ちてくる雪を、飽きずに眺めた。

そのとき突然、頭の中に美しい雪、という字が浮かんだ。決めた。私の子供は、美しい雪。もし女の子が生まれたら、この名前にしよう。多分この名前を付けた状況を、小さく流れるオルゴールの音を、外で美しく舞っている雪を、私はきっと、忘れないだろう。

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2006-10-15 01:50:21 | 読みきり
 ドアを開けると、雨が降っていた。

 ドアを押さえながら、彼は何も言わなかった。ただ私が、ここから出て行くのを待っていた。私がここから出て行ったら、ドアを閉めなくてはいけない、それでただ、待っているだけだ。

 外の空気は冷え切っていた。少し前に秋が、始まったばかりだというのに、まるで冬のような寒さだった。あまりの空気の冷たさに、まだ開いているドアの内側に、戻りたい衝動に駆られた。

「私にもう一度、チャンスはあるの?」

 勇気を振り絞って、小声で聞いた。それを言うには自尊心とか、そんなものはないも一緒だった。私にあったのは、ただ、今日のことがなかったことだったらいい、それだけだった。

「ないな。」

 少しの躊躇もせず、ひとこと彼はそう言った。そして私ではなく、私の後ろの、軒から落ちている雨の雫を眺めていた。私がここから出て行くことより、雨のゆくえが心配なような、そんな視線だった。

「さよなら。」

 他に言うべきことばが見つからなかった。いつものように、またね、と言ってそしてキスして別れる、そんなことはもう、二度とできないのだ。

「大丈夫?」

 それが心から出た言葉かどうか分からないけれど、彼はそう言った。恐らくそれは、ただ単に、今その言葉を言ったほうが、いいと思ったから言ったのだろう。私はちっとも、大丈夫じゃなかった。けれども大丈夫ではない原因は、この大丈夫と聞いている本人にあるのだから、大丈夫じゃないと答えることは、滑稽なことだと思った。そしてその言葉の響きが、今まで幾度となく言われた過去の、大丈夫、とまったく同じに聞こえたので、それで、もう、耐えられなくなってしまった。傘を広げた。後ろを向いたまま、じゃあ、と言って歩き出した。
 
 後ろを振り返るのは止めようと思った。アパートが並ぶ狭い路地を、ひっそりと歩いた。何度ここに来ただろうか。この狭い路地を、何度こうして通っただろうか。休日の夕方は、いつもなら子供が自転車に乗ったり走ったりして遊んでいるのだが、雨の今日は、人っ子ひとりいなかった。涙で顔が濡れている私は、誰もいないことに安堵して、そして、差している傘のせいで顔を隠して歩けることに、ほっとした。

 Tシャツにカーディガンを羽織った私は、両手で体を包むようにして、雨の中を歩いた。朝家を出るときは、こんなに空気は冷たくなかった。どうしてこんなに、急に寒くなったのだろう。

 今何時なのかと思った。彼の口から、もう終わりにしようという発言があって、そして彼の胸の中で泣いていたのが、何十分のことだったのか何時間だったのか、よく分からなかった。別れ話を持ち出された男の、胸の中で泣くというのは、おかしいなことだったのかもしれない。プライドもなにもあったものではない。でも私達の中では、それが自然に行なわれた。それが彼の、優しさなのか冷たさなのかわからなかった。それでも私は、そうしたかった。突然の宣告で関係が終わってしまうなら、その泣いた数時間の猶予で心の整理が少しでもできるのなら、それでよかったのかもしれない。ともかく私は、今の今まで彼の胸の中で延々と泣いていたのだ。

 あたりはまだそれほど暗くはなかったので、6時か7時くらいかと思われた。私は、今初めて時計を腕にしているのを思い出したかのように、時間を見た。6時過ぎだった。今日は彼と会ってくると言って家を出てきたのに、こんなに早く帰ったら、両親に何かあったと訝れるだろう。そう思うと、まっすぐ家に帰る気になれなかった。

 街の中の、何もかもが目に入って、そして何もかもが目に入らない、そんな感じだった。視界としては目に入っているのに、それが何かを感知できないでいるのだった。何も感じなかった。ただ、最近の彼の行動と発言ばかりが、ビデオテープを巻き戻して再生しているみたいに、頭の中に思い出されるのだった。そして総合的に考えてみると、それはすべて今日のことの前兆だったのだと思った。

 電話ボックスが目に入る。傘を閉じて、半分濡れた体を入れた。雨の音が、箱の上からぼたぼた落ちてくるのが響いた。先ほどより雨足がひどくなり、側面のガラスの上を、雨粒が当たって流れ落ちていく。しばらく呆然と雨を見ていた。ボックスの中は少しだけ暖かい気がした。外の世界から遮断された、シェルターにいるようだった。流れる雨で視界が悪いのか、涙のせいなのか、外の景色がかすんで良く見えなかった。

 カードを入れる。動物病院で働いている友達に電話を掛ける。呼び出し音が続いた。20回くらいの呼び出し音で、さすがにいないのだと気がついた。祝日はお休みだと思ったけれど、彼と会っているのかもしれない。それから、会社員の友達に電話を掛ける。お母様が出た。出掛けて帰りが遅くなるということだった。遠距離恋愛をしている彼女は、帰りがいつも遅いのだった。それから、少し考える。あまり掛けたくはなかったけれど、誰かと話しがしたかった。泣きつく先を、探していたのかもしれない。彼のいない京子の番号に掛けてみた。2,3回の呼び出し音の後、本人が出た。

「もしもし。」
「あ、マキ?元気?どしたの?」

 彼女は普通に話していた。当たり前だと思った。彼女は普通なのだから。

「あのね、」

 私は彼女のひと声を聞いて、一気に涙が出てきた。それはもう、しゃくり上げて泣いている状態に近かった。

「どうしたの。泣いてるの?」

 トーンを変えずに、彼女は言った。いつも冷静な彼女の、いつもの話し方なのだけれど、この時はひどく冷たく聞こえた。

「あのね、」

 私は相変わらずあのね、しか言えなかった。それ以外の言葉を、忘れてしまったかのようだった。涙と一緒に鼻水が出てきたので、構わずにすすり上げる。しゃくりあげていた泣き方は嗚咽のようになってきた。さっきあれほど泣いたのに、一体この涙はどこからでてくるのだろうと思った。

「何かあったのね。彼?」

 あくまで冷静だった。

「そう。」「振られちゃった。」

 ちょっと間があった。どういう言葉を発していいのか、考えているようだった。この一瞬の間に、私は電話をする相手を間違ったと思った。

「そう。それは残念だったね。」

 それはまるで、ショッピングセンターで福引を引いて、はずれが出たときに言うような調子だった。彼氏のいない彼女には、きっとこの気持が分からないのだろうと、私は思った。

「ごめん。会えたら会いたいと思ったけど、やっぱりいい。ごめんね電話して。」

 そういうと電話を切った。切り間際に彼女が何か言いかけたのが受話器から聞こえた気がしたけれど、構わず置いてしまった。


 1週間後、前々から予定していた飲み会があった。

 あの日からほとんど沈黙を保っていた私は、当然断るつもりだったのだが、直前だったので代わりの人が見つからず、人数合わせのため仕方なく出席することにした。

「それに、少しは気が紛れるかもしれないからさ。」

 その飲み会を主催した、ゆり子はそう言った。彼女は私のいちばんの相談相手なので、今まで付き合った人や片思いの人など、全てを知っている。勿論今回のことも、あの日の夜中に電話をして、一晩中話した。ずっと私の話を、親身になって聞いてくれた。そして慰めてくれた。私はそれで、だいぶ救われた気持になった。私より数倍も経験豊富で、恋に前向きなゆり子は、早く次を見つけろと言った。


 当日、一次会はよくある気軽な雰囲気の居酒屋で行なわれた。男女合わせて8人だった。大勢の人が参加する飲み会があまり好きではないので、このくらいがちょうどいいと思った。お酒を飲んだせいか、この2,3日よりもずっと楽な気分になった。それでも、盛り上がる友達と相手の男の人たちを、自分には関係ないグループのような目で見詰ていたのも確かだ。

 私が彼と出会ったのも、ある飲み会だったなと思った。帰り道が同じ方向になって、降りる駅も偶然一緒だったと気付いて、それで電車の、隣同士に座った。それから、お決まりのように電話を教えあった。今のように携帯やメールのない時代だったから、それは今のアドレス交換よりは、軽くはできなかったと思う。少なくとも当時の私には、軽軽しくできないことだった。

 二次会になった。カラオケに行くことになった。居酒屋にいる間、何から何まで彼との思い出に結び付けてしまっていた私は、もうこれ以上耐えられそうになかった。帰ろうと思った。家に帰って思い切り泣きたいと思った。誰もいないところで、泣いてすっきりしたいと思っていた。表面上は普通の表情を装っていた私は、そんな心情を露ほども知らない参加者の男のうちの一人に、ぜひ一緒にと、ぐいぐい腕を引っ張られて、仕方なく付き合うことになってしまった。途中まで私のことを気遣っていたゆり子も、酔いが廻ってきてはしゃいでいたので、私は益々陽気に振舞わなくてはと思った。

 色々な人が歌う歌に、心の中では回想にふけっていたけれど、体だけは合わせていた。体は自動的に、拍手したり手拍子したりしていた。誰かが、ある曲を入れた。最初の部分で、すぐにその曲と分かった。彼とドライブするときに、よく聞いていた曲だ。私が好きだと言ったので、よく掛けてくれていた。途端に、涙が出てきた。バラードの曲なので、皆静かに聞いていた。そのせいで、私の涙に、隣に座っていた男が気付いた。

「大丈夫ですか?」

 覗き込むように、小声でささやいた。その大丈夫ですか、に単なる言葉以上の暖かみを感じた私は、ふっとすべてを、言ってしまいたい衝動に駆られた。でも、それはあまり好感の持てることではないと思った。

「猫が、」

 なぜか私の頭に、とっさにこんなことが思い浮かんだ。

「飼っていた猫が、死んでしまって、それで実は私は、今喪中なんです。」

 隣に座った男は、一瞬困惑した顔をして、そのあとふっと、微笑したように見えた。

「そうですか。それはお気の毒に。」

 自分で我ながら、これはいい口実だと思った。辛気臭い顔していても、これなら言い訳になるだろう。男に振られたなんて言ったら、それこそ隙が、ありすぎだ。

「何歳でしたか?」
「え?」

 それから男は、妙に詳しく猫のことを訊ねてきた。死んだ原因から猫の種類から性格まで。適当に答えていたが、話の途中で、ふと、この人は動物病院に勤めているのだと気がついた。ゆり子の同僚なのだった。とっさに猫と言ってしまったが、私は猫を飼ったことがなかった。犬にしておけばよかったのだ。バラードの曲が終わって、トイレに立とうとしたゆり子に、隣の席の男が話し掛ける。

「彼女、飼っていた猫が死んでしまったんだって。それで喪中なんだってね。」
「え?」

 私が猫なんか飼ってないことを知っているゆり子は、ん?という顔をした。そして一瞬考えてから、あー、猫ね、と大袈裟に言った。

「そうそう、そうだったわね。オス猫。かっこいいオス猫だったわねえ。3歳半のね、オス猫がねえ、どこかへ行っちゃったのよねえ。」

 彼女は咄嗟に、私の嘘に気がついてそう言ったようだった。けれど私は、さっき猫が10歳で老衰したと言ったのだった。ゆり子は私と彼の付き合ってた期間を、3歳半と言ったのだろう。

 隣の男は、にやっと笑った。そして、カクテルの入ったグラスを少し傾けて、じゃあ、猫にお清め、と言った。







 今日も雨が降っている。雨の日は、もっと寝坊を、していようと思う。猫が布団から出て行った。猫のいた足元に、暖かさが残っている。彼女は3歳になる、白い猫だ。

「おはよう。」

 あの時隣にいた男は、いま私の隣にいる。そして今日の雨は、暖かい雨だ。



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