23日は金曜日なはずだった。翌日の土曜日でもいいのではないかと思ったけれど、だんなは土曜日に何か用事があるようだったので金曜日にした。心の中で、ああ、9年なのだ、と思った。9年。10年なら、と思ったが9年なのだから特に余計な贈り物や何かはしなくてもよいだろう。東京のほうにまで出て行って、どこか気の利いた店を探して予約をしてみても良いかなと考えたけれど、店を検索しているうちに面倒臭くなってしまった。それで結局、地元にあるいつもの店に予約を入れた。高級フレンチでも居酒屋でもどうでもいいと思っている彼の食事態度を見ていると、店にこだわって探したりするのが馬鹿らしくなってしまう。
先に言ってきたのはだんなの方だった。結婚記念日、どうする。私はなんとなく今年も結婚記念日がやってくるとは思っていながらも、それが暗黙の了解で毎年の恒例行事となっていることを分かっていながらも、あえて口には出さなかった。もうそれは形だけのものだったから。少なくとも私にとっては。1年目、2年目、3年目くらいまでは本当にそういったことが楽しいと思えた。ああ、2年前のあの日、私は結婚したのだったわ、と懐かしく思ったりした。それから5年目のときは、お互いにプレゼントを交換した。私は彼に時計を贈り、彼は私に安いけれども一応ダイヤのペンダントをくれた。今考えると、それらの行為はいかにもという感じがしてどこか陳腐に思えるけれど、その時は自分が結婚というものを決断しそれを何年も継続してきていることに対してのある程度の感慨のようなものがあった。それからさらに4年が過ぎたわけだけれど、もう私は、そういった結婚に対してのセンチメンタルのようなものはほとんど持っていない。私が結婚生活を継続しているのはそれが習慣になってしまっているから。でも、大抵の人にとって、そういう風に結婚生活は過ぎてゆくのかもしれない。
じゃあ、仕事終わったらメールするから。そう言ってだんなは出て行った。私も。私は答えた。だんなはどこの店を予約したのかも聞かなかった。どこの店かというのは、彼にとってどうでもいいのだろう。時々思う、どちらかの携帯の電池が切れて連絡できなかったらどうするのだろうかと。職場にいるときはいいが、出てしまっていたらどうするのだろう。私の携帯の電話番号を暗記しているのだろうか。そう思いながらも私はあえてそれを口にしない。諦めて帰ってくるだけのことなんだろう。そして私も予約をキャンセルして家に帰る。特に彼をなじることも無く、もう、仕方ないわね、の一言で終わってしまうのかもしれない。明日出かける予定があるんだけど、あまり遅くはならないだろう?そう一言付け加えてだんなは言った。予定があるから、と彼は言った。予定。私は深く聞かないけれど、仕事ではない何かの予定。そうなの。食事したら帰るだけだから、大丈夫よ、と私は何ともない感じで返す。
職場に出勤し、コーヒーメーカーのそばで自分のカップを準備していると、隣の係の上司が近づいてきた。おはよう。一言そう言うと、目と口元がにっこりと笑った。私はこの人の目が好きだ。顔の皮膚が柔軟なのか笑うとやわらかく大きな皺が口の横にできる。私はその皺の感じも好きだ。その皺を見ていると犬みたいだと思う。そしてその皺が優しそうな雰囲気を醸し出しているように思う。髪も、この年代にしては珍しくナチュラルに少し余計に伸びていて、そこを好ましく思う。私はガラスの丸いポットから自分の分と彼の分のコーヒーを注ぐ。そうしている間に、彼が、来週の水曜日はどうかな、と言う。ちいさな声で。私は台にこぼれたコーヒーの染みを布巾で拭きながら、いいですよ。と答える。それがまるで何か他のことを聞かれたみたいに。淡々と。じゃあ7時に。それだけ言って彼は自分の席に戻っていく。
それから来週の水曜日まで、下手したら彼と口を聞くことはないかもしれない。違う係だし仕事の関連もない。用がないのだ。あるとすれば、こうしてコーヒーを注ぎにここに来るときだけ。この機械がこのフロアにはここにしかないから。たまたまここに来て鉢合わせになり、一言二言会話を交わす。ただそれだけの間柄だったのだ。ある時何かの行事でたまたま話をしたことがあった。仕事の打ち上げか何かの立食パーティーのような席で。浮かれている人達の列から外れている人の中に彼がいた。僕は飲まないんだよ。無礼講状態で乱れている人たちをよそ目に、静かにオレンジジュースを飲んでいた。そうですか。お酒は嫌いなんですか?いや、好きだよ。でもこういう場では一切飲まないんだ。そうなんですか。そういう態度に好感が持てた。珍しい。それから何が好きで何が嫌いかの話になった。本当はワインが好きなんだ。私も。焼酎は嫌い。私も。和食は好き。私も。実はスパゲッティを作るのが得意かな。簡単だから。そうなんですか。私も得意かも。おいしい店があるんだけれど。今度行って見る?それで私たちはある日食事に行くことになった。すごく自然に、何のやましさもないような感じで。
今日仕事は退屈だった。私は何度も時計を見ては時間の経つのが遅いと感じていた。来週やるはずの仕事の準備までもしてしまった。掛かってくる電話も少ない。事務所の中は静かで今日は定時で帰れそうな気配が漂っている。5時半になると机の上を片付けロッカールームに向かった。
あら、今日は早いわね。どこかこれから行くの?ロッカールームに行くと隣で着替えている他の部の年上の女性が声を掛けてくる。はい。今日結婚記念日なんで、食事に。あらいいわねえ。素敵ね。そのワンピースも素敵よ。彼女は私の黒のワンピースをちらと横目で見ながら言った。私は自分たちの結婚記念日のことなんて言わなくても良かったことだと思う。まあそれは、たわいもないことだけれど。何年目なの?彼女が化粧を直しながら聞いてくる。9年目です。ああ、そんなに経つのねえ。早いわねえ。彼女とは特に親しくはないが同じ会社に長くいるのだから私が結婚したことも知っている。じゃあ、楽しんできてね。そう言って彼女はバッグを持って部屋を出て行った。私も化粧を直す。一応家にただ帰るわけではないのだからと、いつもよりは念入りに直した。バッグから大き目のピアスも出してつける。胸元には一応、5年目の結婚記念日でだんながくれたペンダントをつけている。私がこうしていつもよりお洒落をしてきても、多分だんなは気づきもしないのだろう。彼はいつものようにいつものスーツを着て、そういえば朝何を着ていたか私はまったく見ていなかったが、来るのだろう。そもそも店がどこかさえ聞いていかないのだから、そんなことは一切考えていないのだろう。
40分遅れてきただんなは、目の前でビールを飲んでいる。フレンチなんだけれど、ビール。まあ好きなものを食べて飲めばいいのだろうけれど。私はスパークリングワインのぽつぽつと浮かんでくる泡を眺めつつ向かいに座っただんなをちらちらと見ている。ご機嫌な顔をしている。コースでいいじゃん、と言うので面倒臭く適当なコースを頼んでしまった。最初に運ばれてきた前菜の盛り合わせを、3口で食べてしまうと次の料理までの時間が余ってしまいだんなはビールをがぶがぶと飲む。私のも食べる?一応聞くと、いいよ、大丈夫、と答える。だんなは仕事のことを絶え間なく喋っている。私は適当にその時々で多少言葉を変えながら、相槌を打つ。へえ、そうなの、それで、ふうん、大変ね。彼も私が真剣に聞いているかどうかなんて、あまり関係がないようにとめどなく喋っている。話すことで彼の中のちょっとしたストレスが解消されるのであろうか。私がどう思うかとかは関係なく、話すことに意味があるのかもしれない。
彼のお皿の中に、さやインゲンの炒めた物と仔牛の煮込みが残っている。嫌いなものは絶対に食べず、好きなものを最後に取っておく。子供みたいだ。私はもうほとんど満腹状態に近いお腹に、無理してお肉を切り分けて入れる。だんなはもうパンを4回くらいお代わりしているかもしれない。それでも足りなさそうな感じだ。私は自分のお皿からお肉の半分を切り分けて、だんなのお皿に移す。もうお腹いっぱいで。でもデザート食べたいからと言って。
向かいの席のだんなの話を聞いてだんなの顔を眺めながら、私はこの間隣の係の上司と食事に行ったときのことを思い出していた。フレンチだった。肩の凝らない、カジュアルな店。私たちはコースをいつも取らない。お酒と、軽く食べるものを数品、好きなものだけチョイスして頼む。前菜やサラダばかり頼むときもある。そして必ずデザートを頼む。飲むのも好きだけれど甘いものも彼は好きなのだ。そして最後にコーヒーを飲む。彼とどこかへ行くときは、私は本当に食べることを楽しんでいる。彼はたくさんのことを私に話す。彼と同じ年の仲のよい奥さんのことや、二人の年頃の娘たちのことや飼っているラブラドールレトリバーのことや趣味のことなど。その中にまったく不健全さは感じられなく、私は純粋に話を聞くのを楽しむ。運ばれてきたお皿から料理を取り分けて食べる。お酒と、食べ物と、それがおいしいと感じながら食べることに幸せを感じられるところが、私たちは似ている。カラオケにも行かない。がぶがぶとお酒だけ飲んで泥酔もしない。食べることが目的でたまに会い、向かい会って目を見ながら話をする。でもその中に、後ろめたさは一切ない。私たちは携帯の番号さえ教えあっていない。アドレスも。いつもあのコーヒーサーバーのところでひとことふたこと会話を交わし、日時を決め、そして当日確実にそこで会う。健全な時間に別れ、それぞれの家に帰る。
もういっぱいビールを頼んでいいかな、だんなが言う。頼めば。そんないちいち聞かなくても。だんなは手を挙げるとウェイターが近寄ってくる。ビールを。ご飯まだ物足りない?私は一応聞く。いや、もういいよ。デザートも来るし。来年は違うところへ行こうか。焼肉屋さんとか。わたしはふざけて言う。いいね、焼肉屋。そうだな。だんなは満更でもないような口ぶりで言う。私は焼肉屋なんて別に普段行けばいいんだから、と内心思う。デザートが運ばれてくると私はうっとりと眺めて、まず目で楽しむ。それからどこから食べようかと思う。そうこうしているうちにだんなは一口食べ、お前にやるよ、これ、と言ってデザートのお皿をこちらへよこす。ビール飲んじゃったからさ。私はもうこれ以上入らない。そんなに食べれないよ。私は答える。アイスクリームがだらりととけてソースのように皿に広がる。だんなはもう、喋ることがないのかひとり静かにビールを飲んでいる。
週が明け水曜日がやってくる。やはりあれから隣の係の上司とは一度も会話を交わしていない。フロアを横切ったときに、ちらと見たけれどどうも今日は朝からいないようだ。私は考える。今日のことは覚えているのだろうか。急に出張にでもなったのか。
夕方ほぼいつもの時間に仕事は終わり、7時までには余裕があった。ゆっくりと着替えてから待ち合わせに向かおうと思う。隣のロッカーの人が、あら、今日も素敵な洋服着てるわね、と私に声を掛ける。すごく似合っているわ。さらっと私の全身を見て言う。ありがとう。私は答える。自分で無意識にお気に入りの洋服を着てきたことに気づく。どこか出掛けるの?彼女は続けて聞いた。私はどきりとする。いえ。特に。反射的にそう答える。彼女の家とはまったく反対方向だし、待ち合わせの場所はあまり皆がいかないような駅だから会うことはないのだろうと思う。別に見られても、何もやましいことなんてないけれど、と思い直す。
待ち合わせの場所に着く。目印に何をモチーフにしているかわからないが像が立っている。その脇に時計があって、その下には同じように待ち合わせをしている人が多数いる。通り過ぎる人たちをぼんやりと眺める。たくさんの人が目の前を通り過ぎて、流れていく。ずっとそうして見ていたら、めまいがしそうになった。オブジェの横の時計を見る。20分過ぎた。自分の腕の時計を見る。20分過ぎている。そしてまた、顔を上げて遠くを見る。今日だんなは飲み会があると言っていた。どこで?咄嗟に聞いた。会社の近くの居酒屋。私は素っ気無く、そう。と答えた。ここから遠い場所だ。私も食事会があって遅くなるから。ちょうどいいわね。私は言う。そうか。それ以上深くはお互いに聞かない。だんなは素直に、飲み会のときは飲み会と言い、ほかの用事のときは予定があって、と言う。私が深く聞かないのを承知している。仕事の絡みの用事なんだと思っている振りをする。大変ね。色々。そうだな。それでお互いその話は終わりになる。
不意に私の目の前を人影が遮った。ごめん。隣の係の上司がやってきた。少しばつのわるそうな茶目っ気のある顔でこちらを見た。客観的にその顔を見てかわいいと思う。少年みたい。でも忘れてなかったんだと思う。あの日今度の水曜ね、と言ったきり。そして今日は水曜だ。私は意外に自分がほっとしているのに気が着いた。何食べようか。会うとまず必ずこう言う。何食べようか。今日はちょっと軽めのもので。私は彼に、この前の金曜日、結婚記念日で食事に行ったことを告げる。そうか。おめでとう。もう9年にもなるんだね。でも9年まえ私たちはまったく違うセクションで仕事をしていて、知り合ってもいなかった。なんだか結婚しているって雰囲気ないな。彼は言う。そうですか。子供がいないからですかね。私は正直にそう言う。若いからかな。何気なく言ったみたいだが、何を基準に若いと言っているのだろうと少し思う。
テーブルの上にワインと、プロシュートとチーズの盛り合わせ、ムール貝のワイン蒸しが並んでいる。狭い店内はカウンター席がほとんどと、数席テーブルがある。照明がほどよく落ちて静かにクラシックが流れている。カウンターに二人で並んで座りながら、ムール貝を手でつまんで食べる。ちらと横を見るとこちらを見て微笑んでいる。おいしいですよ、これ。私は少し首を向こうに向けて言う。たくさん食べな。子供に言うように彼が言う。誰かが何かを注文するとにんにくの匂いやソースの匂いやらが漂ってくる。静かすぎでもなく、話声が聞こえないくらいうるさいわけでもない。それにカウンターに隣同士で座っていると顔をくっつければささやき声だってよく聞こえる。今日は水曜日だからワインをあまり飲むのはやめよう。そう思いながらもおいしいものを食べているとワインが進んでいく。私は飲むと少しだけ饒舌になる。今日はあまり食べられない、と言いながらパスタを頼む。カニのパスタ。魚介類ってどうしてこんなに美味しいエキスが出るのだろう。フォークを口に運びながら思う。ちょっと鮮度が落ちると異様な匂いに変わっていくのに、料理に染みこんでいるこの独特の旨みや香りは何とも言えず食欲をそそる。ムール貝をつまんだ指は、いつもでも貝の匂いがついている。その指を舐める。
彼は家族の話をしている。下の娘さんが大学のどの学科に進んだとか、出掛けるときはいつも奥様と一緒だとかいう話をしている。私は普通に相槌を打つ。そうなんですか。そして時々適切な質問をする。それからふと、私のことを奥さんに話したことはあるのだろうかという疑問が湧く。でもその疑問は口にはしない。自分の若い部下で地方出身者の子がいるので、家に呼んで食事をした等と言う話もする。私のことも、じゃあ今度、家に遊びに来ればいい等と言うかもしれない、とほんの少し思うが、それはまずないだろうと思い直す。私は相変わらず彼の口の周りのやわらかそうな皺を観察し、そのまま視線を移して目を見る。目が合って笑う。楽しいですか。不意にそんなことを聞いてしまう。そうだね。なんだか落ち着くね。そう彼は返す。
私たちはやはり2時間ほどで行儀よくその店を出る。お手洗いに寄って丁寧に化粧直しをして出てくると、彼は出口で携帯メールを打ちながら待っていた。今から帰る。駅に着いたら迎えに来てくれ。そういう文面が浮かんできた。彼は悠然と携帯をポケットにしまう。私はそれを見ていなかった風ににっこりと微笑み、お待たせしました、と言う。私はメールもしない。だんなは私より遅く帰ってくるだろう。
人気blogランキングへ
先に言ってきたのはだんなの方だった。結婚記念日、どうする。私はなんとなく今年も結婚記念日がやってくるとは思っていながらも、それが暗黙の了解で毎年の恒例行事となっていることを分かっていながらも、あえて口には出さなかった。もうそれは形だけのものだったから。少なくとも私にとっては。1年目、2年目、3年目くらいまでは本当にそういったことが楽しいと思えた。ああ、2年前のあの日、私は結婚したのだったわ、と懐かしく思ったりした。それから5年目のときは、お互いにプレゼントを交換した。私は彼に時計を贈り、彼は私に安いけれども一応ダイヤのペンダントをくれた。今考えると、それらの行為はいかにもという感じがしてどこか陳腐に思えるけれど、その時は自分が結婚というものを決断しそれを何年も継続してきていることに対してのある程度の感慨のようなものがあった。それからさらに4年が過ぎたわけだけれど、もう私は、そういった結婚に対してのセンチメンタルのようなものはほとんど持っていない。私が結婚生活を継続しているのはそれが習慣になってしまっているから。でも、大抵の人にとって、そういう風に結婚生活は過ぎてゆくのかもしれない。
じゃあ、仕事終わったらメールするから。そう言ってだんなは出て行った。私も。私は答えた。だんなはどこの店を予約したのかも聞かなかった。どこの店かというのは、彼にとってどうでもいいのだろう。時々思う、どちらかの携帯の電池が切れて連絡できなかったらどうするのだろうかと。職場にいるときはいいが、出てしまっていたらどうするのだろう。私の携帯の電話番号を暗記しているのだろうか。そう思いながらも私はあえてそれを口にしない。諦めて帰ってくるだけのことなんだろう。そして私も予約をキャンセルして家に帰る。特に彼をなじることも無く、もう、仕方ないわね、の一言で終わってしまうのかもしれない。明日出かける予定があるんだけど、あまり遅くはならないだろう?そう一言付け加えてだんなは言った。予定があるから、と彼は言った。予定。私は深く聞かないけれど、仕事ではない何かの予定。そうなの。食事したら帰るだけだから、大丈夫よ、と私は何ともない感じで返す。
職場に出勤し、コーヒーメーカーのそばで自分のカップを準備していると、隣の係の上司が近づいてきた。おはよう。一言そう言うと、目と口元がにっこりと笑った。私はこの人の目が好きだ。顔の皮膚が柔軟なのか笑うとやわらかく大きな皺が口の横にできる。私はその皺の感じも好きだ。その皺を見ていると犬みたいだと思う。そしてその皺が優しそうな雰囲気を醸し出しているように思う。髪も、この年代にしては珍しくナチュラルに少し余計に伸びていて、そこを好ましく思う。私はガラスの丸いポットから自分の分と彼の分のコーヒーを注ぐ。そうしている間に、彼が、来週の水曜日はどうかな、と言う。ちいさな声で。私は台にこぼれたコーヒーの染みを布巾で拭きながら、いいですよ。と答える。それがまるで何か他のことを聞かれたみたいに。淡々と。じゃあ7時に。それだけ言って彼は自分の席に戻っていく。
それから来週の水曜日まで、下手したら彼と口を聞くことはないかもしれない。違う係だし仕事の関連もない。用がないのだ。あるとすれば、こうしてコーヒーを注ぎにここに来るときだけ。この機械がこのフロアにはここにしかないから。たまたまここに来て鉢合わせになり、一言二言会話を交わす。ただそれだけの間柄だったのだ。ある時何かの行事でたまたま話をしたことがあった。仕事の打ち上げか何かの立食パーティーのような席で。浮かれている人達の列から外れている人の中に彼がいた。僕は飲まないんだよ。無礼講状態で乱れている人たちをよそ目に、静かにオレンジジュースを飲んでいた。そうですか。お酒は嫌いなんですか?いや、好きだよ。でもこういう場では一切飲まないんだ。そうなんですか。そういう態度に好感が持てた。珍しい。それから何が好きで何が嫌いかの話になった。本当はワインが好きなんだ。私も。焼酎は嫌い。私も。和食は好き。私も。実はスパゲッティを作るのが得意かな。簡単だから。そうなんですか。私も得意かも。おいしい店があるんだけれど。今度行って見る?それで私たちはある日食事に行くことになった。すごく自然に、何のやましさもないような感じで。
今日仕事は退屈だった。私は何度も時計を見ては時間の経つのが遅いと感じていた。来週やるはずの仕事の準備までもしてしまった。掛かってくる電話も少ない。事務所の中は静かで今日は定時で帰れそうな気配が漂っている。5時半になると机の上を片付けロッカールームに向かった。
あら、今日は早いわね。どこかこれから行くの?ロッカールームに行くと隣で着替えている他の部の年上の女性が声を掛けてくる。はい。今日結婚記念日なんで、食事に。あらいいわねえ。素敵ね。そのワンピースも素敵よ。彼女は私の黒のワンピースをちらと横目で見ながら言った。私は自分たちの結婚記念日のことなんて言わなくても良かったことだと思う。まあそれは、たわいもないことだけれど。何年目なの?彼女が化粧を直しながら聞いてくる。9年目です。ああ、そんなに経つのねえ。早いわねえ。彼女とは特に親しくはないが同じ会社に長くいるのだから私が結婚したことも知っている。じゃあ、楽しんできてね。そう言って彼女はバッグを持って部屋を出て行った。私も化粧を直す。一応家にただ帰るわけではないのだからと、いつもよりは念入りに直した。バッグから大き目のピアスも出してつける。胸元には一応、5年目の結婚記念日でだんながくれたペンダントをつけている。私がこうしていつもよりお洒落をしてきても、多分だんなは気づきもしないのだろう。彼はいつものようにいつものスーツを着て、そういえば朝何を着ていたか私はまったく見ていなかったが、来るのだろう。そもそも店がどこかさえ聞いていかないのだから、そんなことは一切考えていないのだろう。
40分遅れてきただんなは、目の前でビールを飲んでいる。フレンチなんだけれど、ビール。まあ好きなものを食べて飲めばいいのだろうけれど。私はスパークリングワインのぽつぽつと浮かんでくる泡を眺めつつ向かいに座っただんなをちらちらと見ている。ご機嫌な顔をしている。コースでいいじゃん、と言うので面倒臭く適当なコースを頼んでしまった。最初に運ばれてきた前菜の盛り合わせを、3口で食べてしまうと次の料理までの時間が余ってしまいだんなはビールをがぶがぶと飲む。私のも食べる?一応聞くと、いいよ、大丈夫、と答える。だんなは仕事のことを絶え間なく喋っている。私は適当にその時々で多少言葉を変えながら、相槌を打つ。へえ、そうなの、それで、ふうん、大変ね。彼も私が真剣に聞いているかどうかなんて、あまり関係がないようにとめどなく喋っている。話すことで彼の中のちょっとしたストレスが解消されるのであろうか。私がどう思うかとかは関係なく、話すことに意味があるのかもしれない。
彼のお皿の中に、さやインゲンの炒めた物と仔牛の煮込みが残っている。嫌いなものは絶対に食べず、好きなものを最後に取っておく。子供みたいだ。私はもうほとんど満腹状態に近いお腹に、無理してお肉を切り分けて入れる。だんなはもうパンを4回くらいお代わりしているかもしれない。それでも足りなさそうな感じだ。私は自分のお皿からお肉の半分を切り分けて、だんなのお皿に移す。もうお腹いっぱいで。でもデザート食べたいからと言って。
向かいの席のだんなの話を聞いてだんなの顔を眺めながら、私はこの間隣の係の上司と食事に行ったときのことを思い出していた。フレンチだった。肩の凝らない、カジュアルな店。私たちはコースをいつも取らない。お酒と、軽く食べるものを数品、好きなものだけチョイスして頼む。前菜やサラダばかり頼むときもある。そして必ずデザートを頼む。飲むのも好きだけれど甘いものも彼は好きなのだ。そして最後にコーヒーを飲む。彼とどこかへ行くときは、私は本当に食べることを楽しんでいる。彼はたくさんのことを私に話す。彼と同じ年の仲のよい奥さんのことや、二人の年頃の娘たちのことや飼っているラブラドールレトリバーのことや趣味のことなど。その中にまったく不健全さは感じられなく、私は純粋に話を聞くのを楽しむ。運ばれてきたお皿から料理を取り分けて食べる。お酒と、食べ物と、それがおいしいと感じながら食べることに幸せを感じられるところが、私たちは似ている。カラオケにも行かない。がぶがぶとお酒だけ飲んで泥酔もしない。食べることが目的でたまに会い、向かい会って目を見ながら話をする。でもその中に、後ろめたさは一切ない。私たちは携帯の番号さえ教えあっていない。アドレスも。いつもあのコーヒーサーバーのところでひとことふたこと会話を交わし、日時を決め、そして当日確実にそこで会う。健全な時間に別れ、それぞれの家に帰る。
もういっぱいビールを頼んでいいかな、だんなが言う。頼めば。そんないちいち聞かなくても。だんなは手を挙げるとウェイターが近寄ってくる。ビールを。ご飯まだ物足りない?私は一応聞く。いや、もういいよ。デザートも来るし。来年は違うところへ行こうか。焼肉屋さんとか。わたしはふざけて言う。いいね、焼肉屋。そうだな。だんなは満更でもないような口ぶりで言う。私は焼肉屋なんて別に普段行けばいいんだから、と内心思う。デザートが運ばれてくると私はうっとりと眺めて、まず目で楽しむ。それからどこから食べようかと思う。そうこうしているうちにだんなは一口食べ、お前にやるよ、これ、と言ってデザートのお皿をこちらへよこす。ビール飲んじゃったからさ。私はもうこれ以上入らない。そんなに食べれないよ。私は答える。アイスクリームがだらりととけてソースのように皿に広がる。だんなはもう、喋ることがないのかひとり静かにビールを飲んでいる。
週が明け水曜日がやってくる。やはりあれから隣の係の上司とは一度も会話を交わしていない。フロアを横切ったときに、ちらと見たけれどどうも今日は朝からいないようだ。私は考える。今日のことは覚えているのだろうか。急に出張にでもなったのか。
夕方ほぼいつもの時間に仕事は終わり、7時までには余裕があった。ゆっくりと着替えてから待ち合わせに向かおうと思う。隣のロッカーの人が、あら、今日も素敵な洋服着てるわね、と私に声を掛ける。すごく似合っているわ。さらっと私の全身を見て言う。ありがとう。私は答える。自分で無意識にお気に入りの洋服を着てきたことに気づく。どこか出掛けるの?彼女は続けて聞いた。私はどきりとする。いえ。特に。反射的にそう答える。彼女の家とはまったく反対方向だし、待ち合わせの場所はあまり皆がいかないような駅だから会うことはないのだろうと思う。別に見られても、何もやましいことなんてないけれど、と思い直す。
待ち合わせの場所に着く。目印に何をモチーフにしているかわからないが像が立っている。その脇に時計があって、その下には同じように待ち合わせをしている人が多数いる。通り過ぎる人たちをぼんやりと眺める。たくさんの人が目の前を通り過ぎて、流れていく。ずっとそうして見ていたら、めまいがしそうになった。オブジェの横の時計を見る。20分過ぎた。自分の腕の時計を見る。20分過ぎている。そしてまた、顔を上げて遠くを見る。今日だんなは飲み会があると言っていた。どこで?咄嗟に聞いた。会社の近くの居酒屋。私は素っ気無く、そう。と答えた。ここから遠い場所だ。私も食事会があって遅くなるから。ちょうどいいわね。私は言う。そうか。それ以上深くはお互いに聞かない。だんなは素直に、飲み会のときは飲み会と言い、ほかの用事のときは予定があって、と言う。私が深く聞かないのを承知している。仕事の絡みの用事なんだと思っている振りをする。大変ね。色々。そうだな。それでお互いその話は終わりになる。
不意に私の目の前を人影が遮った。ごめん。隣の係の上司がやってきた。少しばつのわるそうな茶目っ気のある顔でこちらを見た。客観的にその顔を見てかわいいと思う。少年みたい。でも忘れてなかったんだと思う。あの日今度の水曜ね、と言ったきり。そして今日は水曜だ。私は意外に自分がほっとしているのに気が着いた。何食べようか。会うとまず必ずこう言う。何食べようか。今日はちょっと軽めのもので。私は彼に、この前の金曜日、結婚記念日で食事に行ったことを告げる。そうか。おめでとう。もう9年にもなるんだね。でも9年まえ私たちはまったく違うセクションで仕事をしていて、知り合ってもいなかった。なんだか結婚しているって雰囲気ないな。彼は言う。そうですか。子供がいないからですかね。私は正直にそう言う。若いからかな。何気なく言ったみたいだが、何を基準に若いと言っているのだろうと少し思う。
テーブルの上にワインと、プロシュートとチーズの盛り合わせ、ムール貝のワイン蒸しが並んでいる。狭い店内はカウンター席がほとんどと、数席テーブルがある。照明がほどよく落ちて静かにクラシックが流れている。カウンターに二人で並んで座りながら、ムール貝を手でつまんで食べる。ちらと横を見るとこちらを見て微笑んでいる。おいしいですよ、これ。私は少し首を向こうに向けて言う。たくさん食べな。子供に言うように彼が言う。誰かが何かを注文するとにんにくの匂いやソースの匂いやらが漂ってくる。静かすぎでもなく、話声が聞こえないくらいうるさいわけでもない。それにカウンターに隣同士で座っていると顔をくっつければささやき声だってよく聞こえる。今日は水曜日だからワインをあまり飲むのはやめよう。そう思いながらもおいしいものを食べているとワインが進んでいく。私は飲むと少しだけ饒舌になる。今日はあまり食べられない、と言いながらパスタを頼む。カニのパスタ。魚介類ってどうしてこんなに美味しいエキスが出るのだろう。フォークを口に運びながら思う。ちょっと鮮度が落ちると異様な匂いに変わっていくのに、料理に染みこんでいるこの独特の旨みや香りは何とも言えず食欲をそそる。ムール貝をつまんだ指は、いつもでも貝の匂いがついている。その指を舐める。
彼は家族の話をしている。下の娘さんが大学のどの学科に進んだとか、出掛けるときはいつも奥様と一緒だとかいう話をしている。私は普通に相槌を打つ。そうなんですか。そして時々適切な質問をする。それからふと、私のことを奥さんに話したことはあるのだろうかという疑問が湧く。でもその疑問は口にはしない。自分の若い部下で地方出身者の子がいるので、家に呼んで食事をした等と言う話もする。私のことも、じゃあ今度、家に遊びに来ればいい等と言うかもしれない、とほんの少し思うが、それはまずないだろうと思い直す。私は相変わらず彼の口の周りのやわらかそうな皺を観察し、そのまま視線を移して目を見る。目が合って笑う。楽しいですか。不意にそんなことを聞いてしまう。そうだね。なんだか落ち着くね。そう彼は返す。
私たちはやはり2時間ほどで行儀よくその店を出る。お手洗いに寄って丁寧に化粧直しをして出てくると、彼は出口で携帯メールを打ちながら待っていた。今から帰る。駅に着いたら迎えに来てくれ。そういう文面が浮かんできた。彼は悠然と携帯をポケットにしまう。私はそれを見ていなかった風ににっこりと微笑み、お待たせしました、と言う。私はメールもしない。だんなは私より遅く帰ってくるだろう。
人気blogランキングへ