星を見ていた。

思っていることを、言葉にするのはむずかしい・・・。
良かったら読んでいってください。

天使が通り過ぎた(31)

2008-05-27 20:26:45 | 天使が通り過ぎた
 私がカクテルを何杯かと、健一さんがビールを何本か飲んだ頃、私は随分と久しぶりに自分がくつろいで陽気な気分でいることに気がついた。たったこれくらい飲んだくらいで、酔っ払うほどでもないのに。
 「私、本当を言うと、あの時、健一さんに駅まで送って頂いて車を降りたとき、 どうしてアドレスを聞いておかなかったんだろうって、すごく後悔したんです。」
言いながら、それほど自分では酔っていないと思っていたけれど、口は軽くなっているなあと感じた。
 「僕もそう思った。」
 健一さんは穏やかな顔でそう言った。私は少し、意地悪な質問をしたくなってしまった。
 「もしかしたら、わざわざこの日を狙ったのですか?クリスマスイブなら、誘いに乗るかなあと。」
 「いや。特にそんなつもりはなかったのだけれど。香織さんから電話が架かってくるなんて、正直思わなかったから。それにもっと早く何か送ろうと思っていたけれど、ちょっと忙しかったので、クリスマスの物なのに、ぎりぎりになってしまって。」
 私はそんなことはどうでもいいのかもしれないと思った。どんな経過であれ、今日こうして楽しい時間を持てたのは私にとってはよいことだったのだから。
 「女の人って、どうなのかな。仕事で忙しいとか、そういうことって理由にならないんだよね。」
 「え?」

 それから健一さんは、長い話を始めた。もっと若いときに付き合っていた人が、自分が長期に海外出張して放ったらかしにしていたら、ノイローゼのようになってしまって自殺未遂をしたこと。私と仕事のどっちが大事なの、とヒステリックに詰め寄られたこと。
 「僕は、女の人の心理っていまいちよく分からないのだけれど、彼女は僕が彼女か仕事のどちらかを取るのってことは、他に選択肢がないことのように思っていたみたいなんだ。僕は今より若くて、正直その頃は仕事のほうが大事だと思っていた。彼女のことは好きだったし、それなりに大事にしていたつもりだったけれど、仕事は仕事、恋愛は恋愛で、どちらかを選択する、なんて意識はまったくなかった。どちらも別のこととして存在しているものと思っていた。でも、彼女は、多分恋愛がすべてだったんではないかなあと思うんだ。」
 話を聞きながら、それはまるで少し前の自分に言われているように思えた。
 「ああ。でも彼女の気持ちは、分かるかもしれないです。」
 私のからっぽのグラスを見て、「おかわりは?」と健一さんは尋ねた。
 「私も健一さんと同じやつ飲んでみたいな。」
 先ほどから健一さんの飲んでいる、テキーラのグラスを店員さんがボン、と叩く飲み物がとても気になっていた。
 「大丈夫なのかな?」
 「大丈夫。」
 万が一泥酔したら、タクシーでここから帰ろう、と頭の隅で思った。
 「恋愛に対する依存度が、女のほうが高いのかもしれませんね。」
 お酒を飲んでいるせいか、私はいつもよりずっと饒舌だった。
 「そうみたいだね。」
 「頭では分かっているの。仕事で忙しいんだろうなあ、とか。仕事と私どちらが大事なんて、そんなことは馬鹿げていると。それに仕事に燃えている男の人って、素敵だと思うわ。多分恋愛にうつつを抜かしている腑抜けた男よりも、仕事に一生懸命な男の人のほうが格好いいと思う。でも、そう分かっているんだけれども、恋愛をしているときの精神構造って、そうじゃないのよね。何を差し置いても、その人と会うことしか考えていないっていうか。まず第一番に、何よりも先にその人のことを考えている。常に。毎日普通に生活しているし、仕事もちゃんとしているし、家族ともコミュニケーションきちんととっているし、友達とも付き合うし、でも、それでも意識のいちばん最初には、好きな男の人のこと、考えている。」
 私は話しながら、なんで健一さんにこんなことべらべら喋っているのだろうと、半ば客観的にそう思った。健一さんはそんな私を見て、やはりニコニコと微笑んでいた。

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本を読む楽しみ

2008-05-23 04:29:50 | つぶやき
 最近、昔読んだ本を無性にもう一度読みたくなることがよくある。私が本を読むようになったのは中学3年のときであるから、子供の頃から本の虫だった人よりあまりたくさんの本は読んでいないと思う。中学3年のとき、作家の簡単な紹介をしてある冊子か何かの、太宰治の欄を見て「生涯で三度自殺を試みた」という一文にとても興味を持った。中学生の頃の私は死ぬことばかりを考えていて、生涯で三度自殺を試みた人の文章はどんなものであるか読んでみたくなった。

 そしてその年の夏休みは、太宰治の本を端から端まで読んだ。太宰を好きになった人と同じように、どっぷりとはまってしまった。私は小説を、どう読むべきなのかどう鑑賞すべきなのかは良く分からない。ただ読んで感じているだけだと思う。だから、それだけ読んで理論的な感想やどこをどう好きなのかということを順序だてて言うことはできないが、とにかく好きになってしまった。

 私の読書の仕方はかなり偏っているので、満遍なく名作を読んでいるわけでもないし、教養として読んでおかなくてはならないような類の本もたぶんほとんど読んでない。それに記憶力がすこぶる悪いので読んだ端から忘れる。読んでいるときは夢中になって先へ先へと進むけれど、そして読み終わったあとには数日間その世界に浸っているけれど、時間が経つと内容は忘れてしまうものが多い。私が記憶に残っているものはよどど何か心を動かされたものに違いない。

 若い時の読書は、話を読み進むためだけに読んでいて実はよく内容を分かっていなかったのではないか、とこの年になった今よく思う。だから今読んだらかなり違う印象を受けるのではないか。また最近他人のブックレビューやその他にも昔読んだ本を思い出す機会がそこそこあって、本棚をひっくり返してみたくてうずうずしていた。本の量は本棚一台?分しかないのだが、その前に(だんなの)大量の荷物が置いてあって探せなかったのだ。

 そして今日、だんながやっと部屋の整理をしてくれたので本棚を覗くことができた。探していた本はほとんど発見された。すごく嬉しい。探していて分かったけれど、やはりかなり買って読んだことを忘れている本が結構あった。同じ本が二冊あったりした。難解で途中で諦めたらしくしおりが真ん中あたりではさんである本が数冊。内容がつまらなかったらしく同じくしおりが途中ではさんであるのが数冊。

 発見に至った中で、すごく読みたいと思っていたのが
・エレンディラ(G.ガルシア=マルケス)
・凍りついた女(アニー エルノー)(「シンプルな情熱」を探していたのになかった)
・ノルウェーの森 上・下(村上春樹)
・濹東綺譚(永井荷風)
・小説家(小林紀晴)
・フランソワーズ・サガンの本
だった。再読なのにどういう感じを受けるのかを考えると、すごくわくわくする。

 自分が、こんなに拙い文章でも、一応文章を書くのが好きだと言う自負があるので、自分の好きだと思う作家の文章はもっともっと読みたいと思う。


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天使が通り過ぎた(30)

2008-05-17 10:29:57 | 天使が通り過ぎた
 予想していた通り、クリスマスイブのこの日、ちょっと雰囲気の良い店はどこも予約客や順番待ちの列でいっぱいだった。何軒かの店を諦めたあと、以前何度か来た店を思い出し行ってみるとちょうどそれほど込んでいなかった。メキシコ料理の店だった。
「健一さん、タコスとか好きですか?」
 賑やかな店内をちらと覗きながら、私は聞いてみた。
「テキーラ?大丈夫ですよ。」
 私たちは運良く、たまたま席が空いた窓際の席に通された。20階建ての最上階にあるこの店からは、街を彩る煌びやかな夜景が見渡せた。
「きれいね。」
 ありきたりな言葉を呟いた。だがこの店は何度か来たことがあったけれども、広い窓からの景色は、何度見ても夜は特になかなか見ごたえがあった。

 店内は若い人のグループや陽気に騒ぐ外国人達や家族連れやもちろんカップルもいた。クリスマスのしっとりしたムードではなく、南米料理屋らしく明るく賑やかな雰囲気だった。タコスやトルティーヤやアボガドのサラダなどを一通り頼むと、とりあえず乾杯をした。
「じゃあ、また会えたことに。そして香織さんが元気だったことに。」
 健一さんはそう言うと、瓶のまま来たビールを少し持ち上げて私のカクテルのグラスにカチンとぶつけた。
「乾杯。」
 今日急に会うという展開になって、少し不安や戸惑いがあったものの、こうして向かいあって座っていると、まるで今までずっと友人かなにかの知り合いでいたような感じがしてきた。もう緊張感はなく、私はすっかり健一さんといるペースに馴染んでいった。
 「香織さんは、あの時の香織さんとは別人のようですね。」
 トルティーヤのチップスをつまみながら、健一さんはまじまじと私を見て言った。
 「そうですか?」
 私は不意に、あのとき健一さんが、あなたが自殺をしなくてよかったと呟いたのを思い出した。
 「そういえば、私が自殺するんじゃないかと思った、って言ってましたよね。そんなに私は死にそうな顔をしていたんでしょうか?」
 健一さんはしばらく考え込んでいるかのように間を置いて、それから言った。
 「そうですね。なんというか、魂が抜けてたっていうか。」
 私は笑いそうになった。確かにあの時の私は、心ここにあらずで、通彦を未練がましく思うことでいっぱいいっぱいだったのだ。
 「でも今日の香織さんは、かなり吹っ切れたような感じがに見えますが。」
 健一さんがこちらを向いた。店内の薄暗い照明のせいか、陰影のついた顔つきは先ほどの印象とは少し違って見えた。もしかしたらこの人は、優しそうという第一印象に隠れてしまっているけれど、かなり整った顔をしているのかもしれないと思った。
 「そうですね。もう、あの時のように、自分が不幸のどん底にいるとは思っていないから。」
 確かに、あれからずっと引き篭もりがちで、お世辞にも社交的とはいえない自分をもて余し気味だったけれど、あの時の気分に比べたら、もう私は吹っ切れていると言ってもよかった。
 「なんだかこうして、楽しいと思って出掛けるのが、すごく久しぶりで。」
 私は感じていることをそのまま言った。
 「楽しいと思ってくれているのですね。それはよかった。」
 健一さんがその部分を繰り返したので、そういえば人見知りな自分が、こうして初対面も同然の人と打ち解けているというのが珍しいことだと改めて思った。
 「健一さん、ほんとうに今日は予定がなかったのですか?正直びっくりしました。もう二度と会うことはない方だと思っていたから。」
 私は正直に言った。あの日駅で降ろしてもらったとき、もう二度と、会うことはないと思ったのだ。
 「僕もそう思っていました。」「でも何でしょうね、僕はとても、話下手なんですよ。でも、香織さんと一緒だったあの僅かな時間は、僕にとって珍しく居心地の悪いものではなかったんですよ。」
 
 私たちは話をしながらもどんどん食べた。暖房がかなり効いていたのもあって、冷たい飲み物は進んだし、お上品に食べなくてもよい料理は私たちを余計にリラックスさせたのかもしれない。私は健一さんが、以前付き合っていた女のひとに、あなたはつまらないと言われた、と言ったことを思い出した。なぜそんなことを憶えていたのかといえば、自分とまったく同じだと思ったからだった。そして今健一さんが言ったことは、またしても自分がぼんやりと感じていたことと同じことだと思った。

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天使が通り過ぎた(29)

2008-05-11 14:54:16 | 天使が通り過ぎた
 健一さんとの待ち合わせの駅に電車が到着すると、駅前の木樹に施されたイルミネーションが白く輝いているのが見えた。職場から数駅の場所なのだが、家と職場をただ往復するだけの毎日を送っていた最近の私は、この場所のイルミネーションが今年はこれ程華やかになっているとは知らなかった。年々豪華になっている気がする。

 改札前は待ち合わせをする人でごった返していた。こんなに大勢の人の中から、たった一度会ったきりの健一さんを見つけることができるのだろうかと、少々不安になってきた。ざっと見回してもそれらしい人は居なかった。まだ待ち合わせには10分ほどある。人を掻き分けて改札前の端から端までを一回りした。柱の周りで待ち人を探している人達は携帯でメールをチェックしたりきょろきょろとしたりしていた。あちらの柱からこちらの柱に戻ってくると、ひょろりとした背格好の白髪まじりの人を見つけた。健一さんに違いなかった。

 私が近づいていくとあと5メートルほどのところで健一さんは私に気が付いた。相変わらず穏やかな顔をしていた。スーツの上にダッフルコートを着ているせいか、この間の時よりもいくらか若く見えた。健一さんと目が合うと何故か照れくさくなって、曖昧な顔をしながらそばに寄っていった。

 「こんばんは。」
 「こんばんは。」
 私たちは同時に挨拶をした。多分、端から見たら私たちは普通のカップルに違いなかった。
 「お久しぶりです。シュトーレン、ご馳走様でした。わざわざ送って頂いてありがとうございました。」
 健一さんはニコニコとしていた。その顔を見ていると私がここに来るまでに少しだけ抱いていた緊張感は解消していった。
 「お元気そうですね。だいぶお詫びが遅くなってしまって、申し訳ありませんでした。」
 ゆっくりと健一さんは言った。 
「そんなお詫びなんて。あの時雨の中を送って頂いたし、それにお茶もご馳走になってしまったじゃないですか。」
 私は慌てて返した。あの旅行のことが随分と昔のことのように思われ、またほんのこの間のことのようにも思われた。旅行先でいっとき会ったきり、二度と会うこともないと思っていた人を、こうして前にしているのが非現実的な感じがした。
 「行きましょうか。」
 何となく歩き始めたけれども、こんな日はどこもいっぱいであるに違いなかった。

 駅から10分程あるくと外資系のホテルやショッピングモールが並ぶ一角に出るので、そこに向かう大勢の人の流れに混じって歩いた。途中すぐ先に小さな遊園地があり、観覧車がきらきらと光の色を変え点滅させながらゆっくりと回転していた。その横で回転ブランコがイルミネーションの残像を残して流れるように回っている。こんな日は多分若いカップルがたくさんいてはしゃいでいるのだろう。職場から近いこの辺りはよく仕事の帰りに通彦と来たことがあった。観覧車や乗り物は最初の1,2回はどきどきしながら乗ったけれども、それからはあまり乗り物には乗らず、もっぱら夜景を楽しんだり空いているベンチに腰掛けて海を眺めたりして時間を過ごした。夏の花火大会のときに来たこともある。あの時ももの凄い人でごった返していた。人込みの中を、浴衣を着た私と通彦は手を繋いで歩いた。うだるような暑さと、慣れない下駄のせいで足が痛くなったのもあり、ロマンティックとは程遠かった。けれども、あの時はそれでもとても幸福だと思っていた。あの頃の通彦は最後の通彦とは違って、もっと柔らかで楽しくてそして優しかった。でもそれは、通彦と別れた秋から、さほど前のことではなかったのだと、考えながら思った。そんな通彦との思い出ばかりがある場所を、健一さんと歩いている、そう考えると何か不思議な心持がした。

「すごい人だ。やっぱり今日はね、仕方がないね。」
 健一さんはそう呟いて遠くを見た。でも口調とは裏腹になかなか楽しそうな顔付をしていた。
「そうね。クリスマスだから。こういうところ来たくなるんでしょうね。」
 今年はこんな場所には縁がないと思っていた。こんな日に、例え女同士でこの辺りを歩いても、それは何だか場違いな感じがしないでもなかった。それに女友達は皆、今日は彼と会っているはずなのだ。
 「あの、変なことを聞いてもいいでしょうか?」
 「いいですよ。」 
私は軽い気持ちで、思いついたことを特に下心もなく聞いてしまった。
 「あの、健一さんは付き合っている方はいないの?つまり・・」
 「つまり、こんな日に暇にしているからですか?」
 ずばりと健一さんは言った。
 「そう、ですね。世間の人はきっと今日はデートで忙しいでしょうから。」
 私は言ってから、馬鹿げた質問をしたと思った。
 「まあ、別に今日がクリスマスイブだからと、さして関係もないのですが。今日が「恋人と会う日」て制定されている訳でもないですしね。」
 健一さんはこちらを見ていたずらそうに笑っていた。
 「いえ、そういう方がいらっしゃるなら、こんな日に私と会っている場合ではないんではないかと、そう思って。」
 「僕はひとりですよ。」「もう随分とね。」
 その言葉を聞いてなぜかほっとしてしまった。でもこの時は、ほっとした自分の気持ちに気づいていなかった。


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天使が通り過ぎた(28)

2008-05-09 02:07:46 | 天使が通り過ぎた
 呼出し音は4回鳴った。もしかしたら登録されていない電話番号には出ないのかも、と思い始めた頃「もしもし」という声がした。久しぶりに聞く落ち着いた低いその声は、間違いなく健一さんの声だった。
「もしもし。桜井です。桜井、香織です。」
 私は健一さんが自分を認識できないかもしれない、と思いフルネームで名前を言った。自分をフルネームで名乗ることなど日常ほとんどないので、それは少し滑稽に響いたように思えた。それにもしかしたらフルネームを言ったところでぴんと来ないかもしれない、とも思った。
「ああ。香織さんですね。」
 そんな私の考えは関係なかったかのように、健一さんはまるで普段からよく私と電話をしているみたいに自然な反応で応対した。
「お久しぶりです。今お仕事大丈夫ですか?」
 私は久々の、しかもたった一度会っただけの人に電話を掛けているという緊張感で、どうして私はこの人に電話を掛けてしまったのだろうと思った。
 「大丈夫ですよ。お元気でしたか?」
「私は元気です。あの、メール読みました。それで健一さん、今どちらにいらっしゃるんですか?」
 私はあの一人旅行をしたときの、健一さんの車に乗った遠い場所を思い出していた。だが今この電話をしている健一さんは、ほんの数駅先の場所にいるようだった。健一さんの話を聞いていると、あの静かな落ち着いた顔が頭に浮かんだ。
「そうですか。」
私はいったい何を確認しようとしているのだろう、と自分で思った。私が言い淀んでいると健一さんが続けて言った。
「香織さん、今日はこんな日でお忙しくないのですか?近くに来たので、もしお暇ならと思って、あんなお誘いをしてしまいましたが。」
 私はこの声を聞いて、たった一度しか会ったことのない、しかもほぼ知らないも同然の人であるのに、こんなに懐かしさを感じるのは何故だろうと思った。緊張は健一さんの短い言葉で溶けてしまって、私はまるで旧知の友人に電話をしているような気分になった。
「いえ私も、こんな日なのに暇なのです。お恥ずかしいですが。」
「お恥ずかしい、ですか。」
 言いながら健一さんは笑った。
「では、こんな夜に暇な者同士、久しぶりにお会いしましょうか。7時半にどうでしょうか?」
 続けて健一さんは待ち合わせの詳しい場所を言った。
「分かりました。お誘いありがとうございました。」 
「こちらこそ。ご丁寧に電話をいただいて。ありがとう。」
少しの間沈黙が漂った。
「じゃあまた、あとで。」
「あとでまた。」
また同時に言った。私の口からは、何となく笑みがこぼれた。

先ほどまでの気分とは裏腹に、こんな日に急に出掛けることが決まった私は、まるでデートに出掛ける前みたいに、浮き立った気分で外出の支度を始めた。すっぴんに近かった化粧をし直し、きちんとマスカラをしてシャドウを塗った。着ていくワンピースにアイロンを掛け皺を伸ばした。何も塗っていない爪をコーティングし、久しぶりに気に入ったピアスを着けた。今日という日が、数ある他の日のうちの一日であったなら、さほど気にせずに家を出たのだろう。だが今日はクリスマスイブだった。それでここ数ヶ月引き篭もり同然でいた自分が、久しぶりに外出の楽しみを思い出したようだった。こんなに出掛ける準備を入念にするのは暫くなかったことだった。

「香織、出掛けるの?」
部屋と洗面所を行ったり来たりしている私に、母が声を掛けた。
「そう。友達が急に出てこないかって誘ってきて。」
それだけしか言わなかった。健一さんが友達かどうかはこの際関係なかった。母は下駄箱からロングブーツを出している私を横目で見ながら「そうなの。」と一言だけ言った。姿見で全身をチェックしている私を、母は何も言わず穏やかな顔で眺めていた。何か言いたげだったのだろうが、引き篭もっているよりこんな日に出掛ける娘を健全だと思ったのだろう。玄関を出るとすでに外は暗くなっていて、空気は昼間より一層冷たくなっていた。だが、私は何となく暖かい気分で満たされていた。

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