アイロンを借りるためにフロントまで出向くと、もうチェックアウトし始めた人たちが何組かいてロビーはやや混雑していた。フロントには二人の従業員がいたが両方ともチェックアウト客を相手にしていたので、切りのいい所で声を掛けようと暫くの間待っていた。
「先ほどは大丈夫でしたか?」
不意に声を掛けられた。振り向くと先ほどのコーヒーの男性が立っていた。紺色のセーターにフィールドコートを着て立っている男性は、昨日のフォーマルスーツの人とは別人の人のように見えた。意外に若いのかもしれない。
「はい。大丈夫でした。」
私はさっきと同じように大丈夫を繰り返していた。こうして正面に立って見ると、かなり大柄な人のようだった。やはり心配そうな顔をしてこちらを覗いていた。
「もうチェックアウトなさるんですか?」
男性は私の全身をざっと見てそう質問した。
「いえ。アイロンを借りようと思って。まだ帰らないです。」
「あの本当にクリーニング代を出させてください。かなり染みがついてしまって、落ちないでしょうあれじゃあ。」
私がアイロンと言ったので何かやはり悪いと思ったようで、また彼はそう申し出た。
「ああ、いいんです。普段着のズボンなんで。本当に別に気になさらないでください。」
コーヒーの男性は私の姿をじっと無言で数秒見つめていた。どうしたらいいものかと思案しているようだった。
「帰りはどうやってお帰りになるんですか?バスで?」
「そうですね。バスで駅まで出て、そこから電車で。」
「失礼ですが、」
男性は私ではなく私の後ろのほうを見ているような目で「お一人でいらしているのですか?」と聞いてきた。
特にここで隠しても仕方がないので「ええ。」とだけ答える。
「よろしければ、駅までお送りしますよ。」
しばらく躊躇しているようだったが意を決したように男性は言った。
私はそんなことを言われるなんて予想もしていなかったので、「ええ、でも。」と曖昧な返事をしてしまった。この人は先ほどのコーヒーの件で、どうしても何か償いをしたいのだろうと思った。この人が悪いわけではないのだが、あの染みを見てしまったらやはり悪いという気になるのだろう。私としても、もしあの服がお気に入りの高価なものだったら、あーあ、という気にもなるのだろうが、部屋着として持ってきた安物のズボンなのだから、そこまで悪いと思われることでもなかった。
「ああ、ケンちゃんやっとその方見えたのね。」
その時フロントの奥から、着物姿のふっくらとした品のいい女性が出てきて、その男性に声を掛けた。このホテルのおかみのようだった。
「先ほどは大丈夫でしたか。お着替えはあったのかしら?」
おかみと思われる女性は続けて私に向かってそう言った。
「はい。あの、アイロンをお借りできますか。」
私は当初の目的をここで思い出した。
「あらお洋服ね。クリーニングにお出ししましょうか?すぐやる様に言って1時間ほどできっと出来ますよ。」
おかみはにこにこと私とケンちゃん、と呼ばれた男性の両方を見ながら言った。この男性はおかみと知り合いなのだろうか、と思っているとまた続けてしゃべり出した。
「この方うちの息子のお友達なんですよ。何だかすごくお客様のこと気にしていらして。ここで待っていたらチェックアウトの時お見えになるからじゃあ待っていたらと言ったんですけどね。」
私はそんなに話が大きくなっていることに恥ずかしくなってしまって「そんな。たいした染みでもないんで、そんな気になさらなくても・・・。」と男性とおかみの両方に言った。
「あの本当にアイロンだけお借りできますか。すぐお返しするので。」
私がそう言うとケンちゃんと呼ばれた男性は「じゃあ、駅までお送りします。それ位のことで申し訳ないんですが。せめて。」ときっぱりと言った。
おかみはまたにこっとして「そうね、そうして差し上げたら。バスはなかなか来ないし、今日はあいにくの雨ですしねえ。この方、車の運転は上手だから大丈夫ですよ。」と言った。
私は知らない人の車で送ってもらう、ということに何となく抵抗を感じていたものの、ホテルのおかみの知り合いだということが分かったためか、それともこの人の、なんとなく人を安心させる感じのする風貌と声の調子のためか、これは承諾してもいいんではないかという気持ちに傾いた。だがやはり知らない人ということに多少の不安もあるのだった。私がどうしようかと躊躇し無言でいると、「では、アイロンはお部屋にお持ちしますね。」と言っておかみはまたフロントの奥に消えた。
「ロビーでお待ちしていますので。」
ケンちゃんという男性は一言言うと、ほっとした表情をして荷物の置いてある奥の長いソファに戻っていった。
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「先ほどは大丈夫でしたか?」
不意に声を掛けられた。振り向くと先ほどのコーヒーの男性が立っていた。紺色のセーターにフィールドコートを着て立っている男性は、昨日のフォーマルスーツの人とは別人の人のように見えた。意外に若いのかもしれない。
「はい。大丈夫でした。」
私はさっきと同じように大丈夫を繰り返していた。こうして正面に立って見ると、かなり大柄な人のようだった。やはり心配そうな顔をしてこちらを覗いていた。
「もうチェックアウトなさるんですか?」
男性は私の全身をざっと見てそう質問した。
「いえ。アイロンを借りようと思って。まだ帰らないです。」
「あの本当にクリーニング代を出させてください。かなり染みがついてしまって、落ちないでしょうあれじゃあ。」
私がアイロンと言ったので何かやはり悪いと思ったようで、また彼はそう申し出た。
「ああ、いいんです。普段着のズボンなんで。本当に別に気になさらないでください。」
コーヒーの男性は私の姿をじっと無言で数秒見つめていた。どうしたらいいものかと思案しているようだった。
「帰りはどうやってお帰りになるんですか?バスで?」
「そうですね。バスで駅まで出て、そこから電車で。」
「失礼ですが、」
男性は私ではなく私の後ろのほうを見ているような目で「お一人でいらしているのですか?」と聞いてきた。
特にここで隠しても仕方がないので「ええ。」とだけ答える。
「よろしければ、駅までお送りしますよ。」
しばらく躊躇しているようだったが意を決したように男性は言った。
私はそんなことを言われるなんて予想もしていなかったので、「ええ、でも。」と曖昧な返事をしてしまった。この人は先ほどのコーヒーの件で、どうしても何か償いをしたいのだろうと思った。この人が悪いわけではないのだが、あの染みを見てしまったらやはり悪いという気になるのだろう。私としても、もしあの服がお気に入りの高価なものだったら、あーあ、という気にもなるのだろうが、部屋着として持ってきた安物のズボンなのだから、そこまで悪いと思われることでもなかった。
「ああ、ケンちゃんやっとその方見えたのね。」
その時フロントの奥から、着物姿のふっくらとした品のいい女性が出てきて、その男性に声を掛けた。このホテルのおかみのようだった。
「先ほどは大丈夫でしたか。お着替えはあったのかしら?」
おかみと思われる女性は続けて私に向かってそう言った。
「はい。あの、アイロンをお借りできますか。」
私は当初の目的をここで思い出した。
「あらお洋服ね。クリーニングにお出ししましょうか?すぐやる様に言って1時間ほどできっと出来ますよ。」
おかみはにこにこと私とケンちゃん、と呼ばれた男性の両方を見ながら言った。この男性はおかみと知り合いなのだろうか、と思っているとまた続けてしゃべり出した。
「この方うちの息子のお友達なんですよ。何だかすごくお客様のこと気にしていらして。ここで待っていたらチェックアウトの時お見えになるからじゃあ待っていたらと言ったんですけどね。」
私はそんなに話が大きくなっていることに恥ずかしくなってしまって「そんな。たいした染みでもないんで、そんな気になさらなくても・・・。」と男性とおかみの両方に言った。
「あの本当にアイロンだけお借りできますか。すぐお返しするので。」
私がそう言うとケンちゃんと呼ばれた男性は「じゃあ、駅までお送りします。それ位のことで申し訳ないんですが。せめて。」ときっぱりと言った。
おかみはまたにこっとして「そうね、そうして差し上げたら。バスはなかなか来ないし、今日はあいにくの雨ですしねえ。この方、車の運転は上手だから大丈夫ですよ。」と言った。
私は知らない人の車で送ってもらう、ということに何となく抵抗を感じていたものの、ホテルのおかみの知り合いだということが分かったためか、それともこの人の、なんとなく人を安心させる感じのする風貌と声の調子のためか、これは承諾してもいいんではないかという気持ちに傾いた。だがやはり知らない人ということに多少の不安もあるのだった。私がどうしようかと躊躇し無言でいると、「では、アイロンはお部屋にお持ちしますね。」と言っておかみはまたフロントの奥に消えた。
「ロビーでお待ちしていますので。」
ケンちゃんという男性は一言言うと、ほっとした表情をして荷物の置いてある奥の長いソファに戻っていった。
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