階段に座って、遠くを眺めた。人はまばらだった。海岸線はあまりくっきりとは見えず、霞んでいた。日差しが差すと、海の色が少し鮮やかになった。けれど太陽はちょっと顔を出しきり、また曇ってしまった。肌寒いと感じた空気は、風にあたり続けていると、さらに冷たくなった気がして、バッグからマフラーを取り出し首に巻いた。襟元が暖かくなると少し落ち着いた。
今日家に帰ったら、判定薬を使おうと思った。今朝実行しようと思ったけれど、確実な結果が欲しいと思ったのと、今日海へ来ることを思いついたので、止めたのだった。怖かったのかもしれない。もう正直なところ、自分が妊娠しているのではという思いは、かなり決定的なような気がしてきてきた。ずっと体が重いし、頭痛もひどい。何となくではあるけれども、そういう気がしていた。勘、というものかもしれない。
私は生涯、結婚なんてするつもりはなかった。自分と家庭というものが、どうもうまく、結びつかないような気がするからだった。家庭を作る、暖かい家庭、家族、そんな言葉が自分とは不似合いな感じがした。まして子供、というのは、自分には縁がないものと思っていた。しかしまた、子供を授かるということに関しては、そこになぜか、人間の手の届かない、何かの存在を感じてもいた。世の中には子供が欲しくてどうしようもなくて、他人の精子や子宮を借りてまで、自分の遺伝子を受け継いだ人間を欲する人もいるのに、どうして子供なんて産む資格もないような、私みたいな人間に、子供ができてしまうんだろう。保母をしている、子供が大好きな従姉妹は、結婚して10年以上も子供ができない。体にどこも異常がなく、有名な不妊治療の外来に通っていたけれども、結局子供は出来なかった。それなのに私は結婚もしていなく、一生をともにすると誓った相手かどうかもまだ分からないのに、もしかしたら子供ができているのかもしれない。ここのところに、やはり、これは神様か何かの意図があるのではないかと、思わずにいられないのだった。私は特定の宗教や神を信じている訳ではないけれども、人間の手の届かない何か、の存在はあるのではないかと思うときはある。それが神、というものなのかどうかは分からない。けれども、人間の出生とか死とか病気などのことを考えると、人間を遥か上の方から見下ろしている何かの、存在はあるのではないかと思う。
私は先日俊と会ったときのことを、あれからずっと考えていた。私は今まで、生きてきて良かったなんて、思ったことはなかった。それは本当だ。記憶のいちばん古い順から自分というものを追ってきても、私はいつも孤独で、何かが足りなくて満たされなくて、そして淋しかった。自分を好きになれない自分がいて、その存在を認めることができなくて、自分の人生をどうでもいいことのように思っていた。でも、俊は、俊と出会えたことは、私の今までの人生の中で、いちばん良かったことなのかもしれない。それに私は、今回のことを俊に打ち明けて、俊に捨てられるのではないかということを密かに恐れていたけれども、そんなことはなかった。俊は最悪の事態になってもお前はひとりでないと、そう言ってくれた。それだけで私は、どれだけ救われたかわからない。
すると、俊に出会った自分というものは、今この場で生きている自分というものは、今までの自分があったからこそ存在するわけで、そうすると、今まで人生の中で起こった出来事は、そうなるべくしてなったのだと、そんな気持にもなった。私は生まれてから今までの人生を、ずっと否定的な目で見ていたけれど、小さい頃あった様々な出来事や嫌な記憶が、今のこの自分のために必然的だったことなのかもしれないと思うと、私はこう生きてきてよかったのかもしれないと、そんな気にさえなるのだった。俊は言っていた。もし生まれてくる子供が、いつか大きくなって生まれてきて良かったと、一度でも思ったなら、それでいいではないかと。そう思えるときがいつかやってくればそれでいいのだと。その意味が少し分かった気がした。
自分の人生は自分で切り開いていくものだと思うし、そんなことはわかっている。過去にあったことにとらわれずに、自分で克服して前向きに生きていかなくてはならないと、そう思う。そうなんだろうけれど、過ぎてしまった過去の事実は、覆すことはできない。例えば私が母親に捨てられたという事実は、どうしようもなかったことだ。自分の手ではどうにもならなかったことだ。父と二人で暮らしてきたことも、それは私にはどうしようもなかったことだ。でも、そのどうしようもなかったことを一生引きずって生きていくのか、そうでないかを決めるのは、それは自分次第なのではないか。私は一生、そうやって、捨てられた、という気持を持って生きていくのか、そうでないのか、それは自分自身で決めることなんだろう。
私は俊と会ってから、頭の中でかすかに思っていたことが、今ははっきりと見えた気がした。もし私に子供が出来て、その子と俊と、私で、うまく人生を生きていけたら、そのとき私は、やっと自分の過去から解き放たれるのではないかと。自分が持っている苦しい記憶を言い訳に、私はいつもそこから逃げていたのではないか。そんな過去があるのだから、私は子供を育てなくていいと、そういう言い訳をしているのではないかと、そういう気持が少し浮上し始めていた。子供にしてはいけないと、わかっているのならしなければいいだろうと、俊はこともなげに言った。当たり前のことだった。そんなことも、私は分からずにいた。自分にされた嫌なことは、しなければいい、それだけのことだ。私は自分の過去というフィルターで、自分で自分を見えなくしてしまっている。過去にあったことは過去にあったことで、これから起こることが必ずしも過去と同じことの繰り返しとは限らない。少なくとも私はそうしてはならないと、自分で自覚している。
私は持ってきたステンレスのボトルを取り出して、コーヒーをひとくち飲んだ。眩暈がしそうだった。でも、頭は痛くなかった。ぐるぐると渦巻いていた何かが、水の奥底に吸い込められて、消えていくようだった。これで私は、罪を犯さなくてもいいような気がした。ひどい人間にならなくていいような気がした。私はカバンの中から携帯を取り出して時計を見た。12時55分だった。この時間なら、電話しても大丈夫だろう。俊の携帯に、電話を掛ける。2度鳴って俊は出た。
「ごめんね昼休みに。でもすぐ終わるから。」
俊はどこか、外にいるようだった。声の後ろは少しだけざわざわしていた。
「なに?」
「ただ声が、聞きたかっただけ。何も用はないの。」
私は俊の仕事時間内には、電話をしたことがなかった。用もないのに電話をすることは、珍しいことだった。
「どうしたんだ?まさか。」
「ううん。今日の夜やってみるけど。」
俊は結果が出たのだと思ったのだろう。私は紛らわしい電話をしてしまったようだ。
「もう決めたの。もしそうなっても、私は頑張ってみる。俊がそばにいてくれれば、変なことはしない。」
「そうか。」
私は涙が出てきた。でも、悲しいからでも、悔しいからでもなかった。多分、安心したからだった。
「じゃあまた。ごめんね。」
「夜かけるよ。またな。」
電話を切った。
涙を拭いて顔を上げると、少し陽が差していた。海はいつの間に静かになって、小さな波が控えめに寄せては返していた。私は立ち上がって、お尻の砂を払った。
今日家に帰ったら、判定薬を使おうと思った。今朝実行しようと思ったけれど、確実な結果が欲しいと思ったのと、今日海へ来ることを思いついたので、止めたのだった。怖かったのかもしれない。もう正直なところ、自分が妊娠しているのではという思いは、かなり決定的なような気がしてきてきた。ずっと体が重いし、頭痛もひどい。何となくではあるけれども、そういう気がしていた。勘、というものかもしれない。
私は生涯、結婚なんてするつもりはなかった。自分と家庭というものが、どうもうまく、結びつかないような気がするからだった。家庭を作る、暖かい家庭、家族、そんな言葉が自分とは不似合いな感じがした。まして子供、というのは、自分には縁がないものと思っていた。しかしまた、子供を授かるということに関しては、そこになぜか、人間の手の届かない、何かの存在を感じてもいた。世の中には子供が欲しくてどうしようもなくて、他人の精子や子宮を借りてまで、自分の遺伝子を受け継いだ人間を欲する人もいるのに、どうして子供なんて産む資格もないような、私みたいな人間に、子供ができてしまうんだろう。保母をしている、子供が大好きな従姉妹は、結婚して10年以上も子供ができない。体にどこも異常がなく、有名な不妊治療の外来に通っていたけれども、結局子供は出来なかった。それなのに私は結婚もしていなく、一生をともにすると誓った相手かどうかもまだ分からないのに、もしかしたら子供ができているのかもしれない。ここのところに、やはり、これは神様か何かの意図があるのではないかと、思わずにいられないのだった。私は特定の宗教や神を信じている訳ではないけれども、人間の手の届かない何か、の存在はあるのではないかと思うときはある。それが神、というものなのかどうかは分からない。けれども、人間の出生とか死とか病気などのことを考えると、人間を遥か上の方から見下ろしている何かの、存在はあるのではないかと思う。
私は先日俊と会ったときのことを、あれからずっと考えていた。私は今まで、生きてきて良かったなんて、思ったことはなかった。それは本当だ。記憶のいちばん古い順から自分というものを追ってきても、私はいつも孤独で、何かが足りなくて満たされなくて、そして淋しかった。自分を好きになれない自分がいて、その存在を認めることができなくて、自分の人生をどうでもいいことのように思っていた。でも、俊は、俊と出会えたことは、私の今までの人生の中で、いちばん良かったことなのかもしれない。それに私は、今回のことを俊に打ち明けて、俊に捨てられるのではないかということを密かに恐れていたけれども、そんなことはなかった。俊は最悪の事態になってもお前はひとりでないと、そう言ってくれた。それだけで私は、どれだけ救われたかわからない。
すると、俊に出会った自分というものは、今この場で生きている自分というものは、今までの自分があったからこそ存在するわけで、そうすると、今まで人生の中で起こった出来事は、そうなるべくしてなったのだと、そんな気持にもなった。私は生まれてから今までの人生を、ずっと否定的な目で見ていたけれど、小さい頃あった様々な出来事や嫌な記憶が、今のこの自分のために必然的だったことなのかもしれないと思うと、私はこう生きてきてよかったのかもしれないと、そんな気にさえなるのだった。俊は言っていた。もし生まれてくる子供が、いつか大きくなって生まれてきて良かったと、一度でも思ったなら、それでいいではないかと。そう思えるときがいつかやってくればそれでいいのだと。その意味が少し分かった気がした。
自分の人生は自分で切り開いていくものだと思うし、そんなことはわかっている。過去にあったことにとらわれずに、自分で克服して前向きに生きていかなくてはならないと、そう思う。そうなんだろうけれど、過ぎてしまった過去の事実は、覆すことはできない。例えば私が母親に捨てられたという事実は、どうしようもなかったことだ。自分の手ではどうにもならなかったことだ。父と二人で暮らしてきたことも、それは私にはどうしようもなかったことだ。でも、そのどうしようもなかったことを一生引きずって生きていくのか、そうでないかを決めるのは、それは自分次第なのではないか。私は一生、そうやって、捨てられた、という気持を持って生きていくのか、そうでないのか、それは自分自身で決めることなんだろう。
私は俊と会ってから、頭の中でかすかに思っていたことが、今ははっきりと見えた気がした。もし私に子供が出来て、その子と俊と、私で、うまく人生を生きていけたら、そのとき私は、やっと自分の過去から解き放たれるのではないかと。自分が持っている苦しい記憶を言い訳に、私はいつもそこから逃げていたのではないか。そんな過去があるのだから、私は子供を育てなくていいと、そういう言い訳をしているのではないかと、そういう気持が少し浮上し始めていた。子供にしてはいけないと、わかっているのならしなければいいだろうと、俊はこともなげに言った。当たり前のことだった。そんなことも、私は分からずにいた。自分にされた嫌なことは、しなければいい、それだけのことだ。私は自分の過去というフィルターで、自分で自分を見えなくしてしまっている。過去にあったことは過去にあったことで、これから起こることが必ずしも過去と同じことの繰り返しとは限らない。少なくとも私はそうしてはならないと、自分で自覚している。
私は持ってきたステンレスのボトルを取り出して、コーヒーをひとくち飲んだ。眩暈がしそうだった。でも、頭は痛くなかった。ぐるぐると渦巻いていた何かが、水の奥底に吸い込められて、消えていくようだった。これで私は、罪を犯さなくてもいいような気がした。ひどい人間にならなくていいような気がした。私はカバンの中から携帯を取り出して時計を見た。12時55分だった。この時間なら、電話しても大丈夫だろう。俊の携帯に、電話を掛ける。2度鳴って俊は出た。
「ごめんね昼休みに。でもすぐ終わるから。」
俊はどこか、外にいるようだった。声の後ろは少しだけざわざわしていた。
「なに?」
「ただ声が、聞きたかっただけ。何も用はないの。」
私は俊の仕事時間内には、電話をしたことがなかった。用もないのに電話をすることは、珍しいことだった。
「どうしたんだ?まさか。」
「ううん。今日の夜やってみるけど。」
俊は結果が出たのだと思ったのだろう。私は紛らわしい電話をしてしまったようだ。
「もう決めたの。もしそうなっても、私は頑張ってみる。俊がそばにいてくれれば、変なことはしない。」
「そうか。」
私は涙が出てきた。でも、悲しいからでも、悔しいからでもなかった。多分、安心したからだった。
「じゃあまた。ごめんね。」
「夜かけるよ。またな。」
電話を切った。
涙を拭いて顔を上げると、少し陽が差していた。海はいつの間に静かになって、小さな波が控えめに寄せては返していた。私は立ち上がって、お尻の砂を払った。