(5)
会社の最寄り駅に到着すると、読んでいた小説を鞄にしまった。通勤で使っている電車内では、いつも本を読んでいるが、今日はまったく集中することができなかった。そのせいで追っている文章を何度も読み返した。何度も読んだのに、何が書いてあったのか、考えてみてもどうしても思い出せない。
昨晩の彼との会話を、もういちど頭の中で反芻してみる。あの時彼が、母親と会ってくれと強硬に主張していたなら、もしくは私が、お母様に会ってもいいが結婚までは考えられない、と言ったことに関して、彼が私を裏切り者のように言ったならば、私はもう、彼とは別れようと決意しただろう。けれども昨日の彼は、いつもよりは寛容で、少し大人の余裕すら感じられた。あのような反応が返ってきたことで、却って私は彼から自由になれた様な気がしていた。結婚というものに縛られない交際、それを宣言し受託されたのも同じことだと思った。彼が帰った後、彼と一緒に生活することをぼんやりと想像してみた。容易に想像することができたけれども、それは結婚生活というよりも、ただの共同生活という気がした。結婚というものが、好きな者同士が離れられずに一緒になるという単純な理由でなく、あらたな家庭を作る、ということがその意義として重要視される制度ならば、それは今の私にはまだ現実味のないものだった。彼と一緒に毎日を暮らすことは、それなりに楽しだろうし、きっと優しい彼ならそれほどの苦労もなく人生を歩んでいけると容易に予想ができるが、例えば子供を作る、ということを考えると、私は彼の子供なんて欲しいのだろうか、と思った。欲しくないということは、それほど彼のことを、人生の中で必要としていないのではないだろうかと思えるのだ。要するに愛している、というまでには達していないのではないか、と思った。本当に愛している人となら、自分からそういう気分になるのではないか。それは女の、単なる感傷のようなものなのか、実際にそんなことを、ドラマじゃあるまいし思う人なんているのだうか、とも思うのだが、それはきっと、そういう人が現れたら分かることなのかもしれない。
私はどうしてこんなに醒めているのだろう、と自分で自分を冷ややかに見つめてみた。結局私は、きっとそこまで、彼のことを思っていないのだ、という結論にいつも達する。でもそのことを、はっきりとは彼に言えないし、自分でも、結婚すると決意するに至るような愛情、というものがどんなものなのか、良く分かっていないのも確かだった。それとも・・・。私は自分の心の中に、考えようと思ってもいないのに、勝手に浮かんできてしまうあることがあるのを感じていた。でもそれを考えるのは、馬鹿げていると思って、そのことに気がつかないように無意識にしている自分も分かっていた。自分の思い込みだけで、想像の羽を広げるのは、自由なことだと思うが、それを現実に直面している事案と比較して考えるのはおかしいと、そう思うからだった。
「おい。」
不意に後ろから声がした。会社の主任の彼だった。朝のせいか、いつもより爽やかな印象だった。たった今頭の中で考えていたことを、まるで見透かされたかのように、数秒間こちらを見つめていた。それで、急に恥ずかしい気分になった。実際に頬が熱くなるのを感じた。
「おはようございます。今日は早いですね。」
慌てて挨拶をしてごまかした。いつもは足早に通り過ぎる並木道を、少しだけゆっくりした速度で歩いた。周りの人が、私たちをどんどん追い越していく。
「朝から元気ないな。」
彼はいつも、悠然と歩いているように見える。大きな歩幅で、ゆっくりと歩いているように見えるのだ。
「そうですか。元気ですよ。」
「男と喧嘩したか。」
ぎくりとした。彼が不意に現れたことで、完全にいつものペースを失っている私は、こんな発言にまたも顔が赤くなりそうだった。彼がこういう話をすることは、滅多にないことだった。この間の昼食で、見合いの一歩手前のような話を上司にされたとき、彼がいます、と言ったことを、聞いてないようで聞いていたのだなと思った。
「いえ・・・」
まさか昨日あったことや今朝たったいま頭の中で展開していたことを赤裸々に話すわけにもいかず、私は言葉を濁した。
やや下を向いて歩いている私の視界には、右を歩く彼の、二の腕から鞄を持つ手の辺りが見えていた。ごつごつとした左指には、当たり前だけれど結婚指輪がしてあるのが確認できた。
「結婚する時の決めてって、なんなんでしょうねえ。」
私は別に、答えを求めて言ったのではなかったが、なぜかこういう言葉が口から出てしまった。まして自分のこととして言ったのではなく、あくまで一般論として疑問に思うという意味で、それがつぶやきのように口からこぼれ出ただけだった。けれどもいったん口から出た言葉は、取り消すことができず、言ってしまった以上その反応が気になった。
「さあな。」
一言彼は言った。はぐらかされたと思った。「俺も知りたいね。」
彼のことに関しては、一を聞いたら百ぐらいことを想像をしてしまう私は、この言葉の意味することを頭の中で考えていた。これは一体、どういうことなんだろう。けれども、見えない彼の私生活と、あくまで私の想像でしかない彼の結婚生活からは、この言葉の意味なんて、見出すことはできなかった。また私は、この次の言葉をどう繋げたらいいかを、見失いそうになった。
「お前はいいな。」
車道の車が勢いよく走っていて、その言葉は半分しか聞こえなかったけれど、多分、彼はそう言ったのだ。私はますます、頭の中が混乱した。歳を取ると、若いというだけで、若くていいね、とよく言われるように、既婚者から見たら単なる独身であるというだけのことで、いい、ということなのか。それとも既婚者となると世間やら何やら色々とあるけれど、独身の私は能天気でいいということなのか。とにかく、どういった意味で言っているのか、さっぱり分からなかった。分からないのだから、どういった返答をしていいのかも分からず、「そうですか。」と曖昧な顔をしながら、曖昧な返事をした。
「お前みたいなのと結婚したら、いいんじゃないか。」
目の前の信号は赤だったので、そこで少し立ち止まった。立ち止まったので、彼はこちらをちょっと向いて、少し微笑んだ。数秒だった。私は何も考えることが、できなかった。
会社の最寄り駅に到着すると、読んでいた小説を鞄にしまった。通勤で使っている電車内では、いつも本を読んでいるが、今日はまったく集中することができなかった。そのせいで追っている文章を何度も読み返した。何度も読んだのに、何が書いてあったのか、考えてみてもどうしても思い出せない。
昨晩の彼との会話を、もういちど頭の中で反芻してみる。あの時彼が、母親と会ってくれと強硬に主張していたなら、もしくは私が、お母様に会ってもいいが結婚までは考えられない、と言ったことに関して、彼が私を裏切り者のように言ったならば、私はもう、彼とは別れようと決意しただろう。けれども昨日の彼は、いつもよりは寛容で、少し大人の余裕すら感じられた。あのような反応が返ってきたことで、却って私は彼から自由になれた様な気がしていた。結婚というものに縛られない交際、それを宣言し受託されたのも同じことだと思った。彼が帰った後、彼と一緒に生活することをぼんやりと想像してみた。容易に想像することができたけれども、それは結婚生活というよりも、ただの共同生活という気がした。結婚というものが、好きな者同士が離れられずに一緒になるという単純な理由でなく、あらたな家庭を作る、ということがその意義として重要視される制度ならば、それは今の私にはまだ現実味のないものだった。彼と一緒に毎日を暮らすことは、それなりに楽しだろうし、きっと優しい彼ならそれほどの苦労もなく人生を歩んでいけると容易に予想ができるが、例えば子供を作る、ということを考えると、私は彼の子供なんて欲しいのだろうか、と思った。欲しくないということは、それほど彼のことを、人生の中で必要としていないのではないだろうかと思えるのだ。要するに愛している、というまでには達していないのではないか、と思った。本当に愛している人となら、自分からそういう気分になるのではないか。それは女の、単なる感傷のようなものなのか、実際にそんなことを、ドラマじゃあるまいし思う人なんているのだうか、とも思うのだが、それはきっと、そういう人が現れたら分かることなのかもしれない。
私はどうしてこんなに醒めているのだろう、と自分で自分を冷ややかに見つめてみた。結局私は、きっとそこまで、彼のことを思っていないのだ、という結論にいつも達する。でもそのことを、はっきりとは彼に言えないし、自分でも、結婚すると決意するに至るような愛情、というものがどんなものなのか、良く分かっていないのも確かだった。それとも・・・。私は自分の心の中に、考えようと思ってもいないのに、勝手に浮かんできてしまうあることがあるのを感じていた。でもそれを考えるのは、馬鹿げていると思って、そのことに気がつかないように無意識にしている自分も分かっていた。自分の思い込みだけで、想像の羽を広げるのは、自由なことだと思うが、それを現実に直面している事案と比較して考えるのはおかしいと、そう思うからだった。
「おい。」
不意に後ろから声がした。会社の主任の彼だった。朝のせいか、いつもより爽やかな印象だった。たった今頭の中で考えていたことを、まるで見透かされたかのように、数秒間こちらを見つめていた。それで、急に恥ずかしい気分になった。実際に頬が熱くなるのを感じた。
「おはようございます。今日は早いですね。」
慌てて挨拶をしてごまかした。いつもは足早に通り過ぎる並木道を、少しだけゆっくりした速度で歩いた。周りの人が、私たちをどんどん追い越していく。
「朝から元気ないな。」
彼はいつも、悠然と歩いているように見える。大きな歩幅で、ゆっくりと歩いているように見えるのだ。
「そうですか。元気ですよ。」
「男と喧嘩したか。」
ぎくりとした。彼が不意に現れたことで、完全にいつものペースを失っている私は、こんな発言にまたも顔が赤くなりそうだった。彼がこういう話をすることは、滅多にないことだった。この間の昼食で、見合いの一歩手前のような話を上司にされたとき、彼がいます、と言ったことを、聞いてないようで聞いていたのだなと思った。
「いえ・・・」
まさか昨日あったことや今朝たったいま頭の中で展開していたことを赤裸々に話すわけにもいかず、私は言葉を濁した。
やや下を向いて歩いている私の視界には、右を歩く彼の、二の腕から鞄を持つ手の辺りが見えていた。ごつごつとした左指には、当たり前だけれど結婚指輪がしてあるのが確認できた。
「結婚する時の決めてって、なんなんでしょうねえ。」
私は別に、答えを求めて言ったのではなかったが、なぜかこういう言葉が口から出てしまった。まして自分のこととして言ったのではなく、あくまで一般論として疑問に思うという意味で、それがつぶやきのように口からこぼれ出ただけだった。けれどもいったん口から出た言葉は、取り消すことができず、言ってしまった以上その反応が気になった。
「さあな。」
一言彼は言った。はぐらかされたと思った。「俺も知りたいね。」
彼のことに関しては、一を聞いたら百ぐらいことを想像をしてしまう私は、この言葉の意味することを頭の中で考えていた。これは一体、どういうことなんだろう。けれども、見えない彼の私生活と、あくまで私の想像でしかない彼の結婚生活からは、この言葉の意味なんて、見出すことはできなかった。また私は、この次の言葉をどう繋げたらいいかを、見失いそうになった。
「お前はいいな。」
車道の車が勢いよく走っていて、その言葉は半分しか聞こえなかったけれど、多分、彼はそう言ったのだ。私はますます、頭の中が混乱した。歳を取ると、若いというだけで、若くていいね、とよく言われるように、既婚者から見たら単なる独身であるというだけのことで、いい、ということなのか。それとも既婚者となると世間やら何やら色々とあるけれど、独身の私は能天気でいいということなのか。とにかく、どういった意味で言っているのか、さっぱり分からなかった。分からないのだから、どういった返答をしていいのかも分からず、「そうですか。」と曖昧な顔をしながら、曖昧な返事をした。
「お前みたいなのと結婚したら、いいんじゃないか。」
目の前の信号は赤だったので、そこで少し立ち止まった。立ち止まったので、彼はこちらをちょっと向いて、少し微笑んだ。数秒だった。私は何も考えることが、できなかった。