星を見ていた。

思っていることを、言葉にするのはむずかしい・・・。
良かったら読んでいってください。

よその島

2023-04-30 09:51:25 | 

歳を取ると自分の年代に近い人が主人公の小説を読みたいなとちょっと思うようになってきた。なぜだろう。同じくらいの人たちがどんなか気になるからだろうか。

 

井上荒野さんは好きな小説家の1人だけど、そんなに沢山は読んでない。「切羽へ」を読んだ時はすごいのを書く人だなあと思った。読んで島の風景と方言がまるで映画を見たような感覚になったのを覚えている。

 

「よその島」を本屋で手に取って、裏の紹介文を読んで、あ、これも年齢の上の人達の話だ、とすぐレジに持って行き電車で読み始めた。70代の夫婦とその友人の70代男性が島に移住し余生を過ごす話。

 

ミステリーのように始まって、でもこの作者はミステリー作家じゃないからミステリーじゃないんだろうなと思いながら読んだ。同じ話を登場人物3人の視点が入れ替わって語られ進んでいくのだけれど、途中であれ、何かさっきと違うな、っていうのが出始めて、その食い違いは後半に行くほど大きくなる。あれ私の読み間違いかな?とページを戻り確認するがやはり違う。いや本なんか出版するとき何度も校正するだろうし編集者が矛盾に気付かないことないし、あ、あれかな記憶って後から改竄されたり思い込みで事実とは違う風に都合よく記憶されたりするから、そういうことかな、等色々考えながら読み進んだ。

 

最後まで私も気付かなかったけれど、年齢を考えたらあり得る事かと、物語の内容は現実的ではないけれどその記憶の食い違いの原因には現実味があった。

 

切羽へ、もそうだけれどこれも島の話。私は島の生活というのはよく分からないけれど、もっともっと小さい島を想定していて、そのことが余計に非現実感があったのかもしれない。でも読んでると主人公の1人は作家で島のカルチャーセンターで講師をするし、島にビルがある、って描写があったからそんなに小さな島じゃないのだろう。(勿論架空の島なんだけど)

 

最後、これは泣く小説じゃないのに、主要登場人物全員が集まり夕食を取るシーンでちょっとうるっと来た。脳梗塞で記憶の無くなった母を思い出してしまったからかな。

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歴史に疎い

2021-09-20 09:31:30 | 

私は歴史に疎いので随分前からもっと歴史の勉強をしなくてはと思っていた。元夫は歴史オタクで家の本棚は戦国時代の本と三国志と戦争関係の本しか無かった。私の本棚は逆に小説や写真集や美術系の本、絵本などだったが、私は自分に興味の無いものはまったく見向きもしないので当時旦那の本を読む気にはならなかった。

 

しかし歴史を知らないのはやはりだめだと歳をとるごとに痛感して、歴史音痴にも分かる本、みたいのを検索して読んでみたりしたがやはり元々苦手意識があるからかいまいち楽しくなく長続きしない。子供でも興味を持つらしいと漫画日本史なるものを全巻大人買いしてみたが数巻でやはり読み進められない。

 

時代の古い方からではなく、親近感の持てる江戸時代くらいから挑戦してみたらいいんじゃないか、と色々探した。浮世絵とか好きだし江戸文化や江戸時代の生活には物凄く興味がある。そして「幕末入門(中村彰彦)」と言う本を読んでみた。まあそのずいぶん前に「江戸時代のすべてがわかる本」という図鑑みたいな本や何冊か江戸時代や戦国時代関係の本を買ったのだが、もっとこう、小説みたいにのめり込んで読める方がいいんじゃないかと考えたのだが何か時代小説に拒否反応が出てしまう。

 

でこの幕末入門を読んだら少し理解できて、他のいい本ないかなと検索していたらyoutubeに流されて敦ちゃんのyoutube大学に辿り着いた。正直あまり良いイメージが無くて、もともとyoutubeもあまり見ないので興味も無かったのだが、何となく見たらグイグイ引き込まれて(私が見たのは新撰組の動画)めちゃくちゃ面白く分かりやすかった。食わず嫌いじゃないけど、あんなに面白い人と思わなかった。

 

で、そのあと「幕末史(半藤一利)」を続けて読んだ。この人の本は前に昭和史、を読んだことがあり読みやすいだろうと思って買ったのだが、(しかし良く確認したら以前読んだ昭和史は「渡辺昇一の昭和史」だった…)、これは物凄く楽しく読めた。幕末から明治に掛けての激動の時代が非常に分かりやすく私のような歴史音痴にも理解できた。江戸時代って随分昔みたいだけど明治はそんなに昔な気がしない。子供の頃、母が使っていたマグカップに、明治100年、と書かれていたのを思い出した。明治制定を記念して作られたものなのだろう。私が生まれた頃は明治になってから100年くらいしか経っていなかったのだ。私の祖母も明治生まれだったし。そう考えるとその直前まで武士の世界があり丁髷、切腹などが当たり前の世界でそれはそんなに昔ではないのだなと思った。いかに明治という時代は急激に世の中が変わり今の国の元が作られていったのか、が分かった。

 

これから司馬遼太郎さんの本でも読んでみようかなと言う気になってきた。食わず嫌いは克服しないと。

 

 

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「幕が上がる」

2015-08-23 11:18:29 | 
 娘が公立高校入試に失敗し私立高校に行くことになったが、その受験した公立高校が演劇に強い高校だった。中学生の時、とある劇場の演劇ワークショップに通っていた娘はその高校に入学したら当然演劇部に入り小説に書かれているような高校生活を送るのだろうと思っていた。でも落ちてしまったのだが、実際に通うことになる私立高校は弱小演劇部で入るかどうか迷っていた。そんな中学卒業直後の卒業旅行に連れていくときに、この本を買った。旅の道中でこれを読んで、娘もそうしたら読んでくれるかもしれないと思ったからだ。

 だが3月に行った旅行のときも結局一ページも読まなかったし(道中は結局娘としゃべってしまい、旅館ではお酒を飲んで寝てしまった)、その後もなぜか手に取る気分にならなかった。娘は弱小演劇部は活動をほとんどしてなくてつまらなそうだという理由で他の部に入った。
 

 私は演劇に興味のある子供を持つただの保護者なので、演劇のことには詳しくないし内部事情も良くわからない。ただたまに子供のワークショップの練習を見に行ったり発表を見に行ったりした時から得た感想では、演劇に興味のある子は頭がいい、ということだ。うちの子は別にしてだが。演出家の言ったことをすぐに理解してそれを何らかの形に表現することができるのを見ていてすごいなあ、と率直に思った。

 この本は弱小演劇部がなぜか全国大会に出てしまう話なのだが、カリスマ的な指導者が現れ、個性の強い役者が転入してきて、という、やっぱりな、っていうものはあるけれど、でも子供たちが演劇にだんだんと燃えてきていろいろと考え最終的には自分たちで上まで進んでいくという話である。作者が作者だけに演劇論というか演出論、のようなものが時々出てきて、演劇のことをよく知らない私には興味深かった。これは絶対に娘に読ませたいと思いちょうど夏休みでもあり読んだら、と言ったが読む気配なし。まあ親から読めと言われたものはかえって読みたくないのであろう。

 主人公の演出担当の部長が、最初はただの一部員だったのがどんどんと頼もしくなり、また周りの大人や他の部員の影響を受けながら演出について深く考えるようになり素晴らしい劇を作っていく過程が、前に私が「演劇やる高校生って意外にすごいなあ」と思ったのと同じように引き込まれていった。また大学受験を目前に控えた息子がいる母親としては、小説の中にもそういう背景がありなかなかリアルだなあと思った。

 小説中で主人公の母親が、本当は、親はいい大学に行ってほしいというよりも、何か夢中になるものを探してほしいと思っているものだ、というようなセリフがあったのだが、まあ100パーセントその通りでもないのだが、夢中になる何かを学校生活でも人生でも探してほしいと願っているのは間違いないのだ、とものすごく共感できた。結局、夢中になれる何かを捕まえる人生のためには学業をがんばり充実した大学生活を送ってほしいというのが本心である。

 娘がもし公立に受かっていたらこのような学校生活を送っていたのかなとも思ったが、当の娘は今軽音部に入っている。主人公の母親が、本当は軽音部に入ってほしかったのよね、と娘に言うのであるが、うちとは逆なのだな、なんだが偶然だなと思った。結構娘は軽音部で楽しそうである。大会に勝ち抜くほどのうまさはないけれど、それなりに一生懸命に打ち込んでいる。

 夏休みがもうすぐ終わる。
 
 
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「愛着障害」

2015-08-16 15:21:21 | 
私は子供の頃からひどく人見知りで、3、4歳の頃は自営業をしている父のところに客が来ただけでべそをかいていた。家族でない男の人というのがものすごく怖かった記憶がかすかにある。小学校はあまり人間関係に神経質になった記憶はないが、ただ泣き虫だったのでちょっとしたことでからかわれたりいじめられたりするとすぐ泣いていた。中学生の頃は友達がまったく作れなかった。友達はいたにはいたがその後ずっと付き合いを続けるほどの人間関係には発展しなかった。同じ年頃の人と話すのが苦手で、人の輪の中に入っていけなかったのだ。女の子はまだしも男の子と話なんて絶対にできなかった。高校生になると周りに性格の良い子が比較的いたのと、わりと個性の強い子達がいて年齢的にもそれぞれ個性を認められる年ごとになったせいか、のんびりとした交友関係と学校生活を送れた気がする。社会人になってからは、基本的に学生のようにぎちぎちとした人間関係ではないのであまり気にしないようになった。ただ男の同僚、上司と話すのはやはり苦手で避けたいと思っても避けるわけにはいかずずっと苦手意識を引きずっていた。

 結婚し子供ができると、結婚相手との親戚、友人との付き合いがあり、また子供の学校関係やら地域の付き合いやらを避けては通れない。今はどうか知らないが、一時期、ママ友デビュー、とかそういう言葉もあり、他のお母さん同士の付き合いをしなくてはならないのかとか非常に悩んだ時期もあったが、幸い仕事をしていて朝から晩まで家にいないので、その点の付き合いは最小限で済んだ。子育ての悩みは同じ職場の同じような年齢の子供がいる同僚がたくさんいたので、そこで共有やら解決のヒントなどはもらった。

 そうこうしているうちに、私は自分の持っている人嫌い、人付合い嫌い、というのはほとんど克服できたのではないかと思っていた。けれど最近(というかもう数年も悩んでいるが)私はどうしようもない欠陥をやはり抱えているのだということに気が付いた。気が付いたというかやはり治っていなかったんだ、と再認識させられたのだ。

 この間娘と旅行に行くときに電車の中で本を読もうと本屋に寄った。そこで「愛着障害」という本を買った。愛情、という言葉じゃなく愛着。愛着って、とぱらぱらとページをめくった。愛着障害という言葉は初めて聞いたが私の人付き合いの下手さの根本の問題と思えたものが書いてある気がした。読んでみるとやはりそれは当たっていた。愛着障害とは要するに母親との関係が幼少のころうまくいかなかった人が抱える障害で、人との距離の取り方が分からない等の行動に大人になっても悩まされるという障害らしい。発達障害と似ているし医師でも区分けが付かないこともあるらしいが、発達障害が遺伝によるものが大きいとすれば愛着障害は環境によるものが原因だということである。

 本の内容は自分がこれまで自分なりに人間関係で悩む根源はどこにあるのだろうと考え続けた挙句に、ああ母に捨てられたことに原因があるのだ、とは分かっていて、でもそのことをどうすることもできないからそんなことを気にしても仕方ないのだ、と思っていた私にとっては分かり切ったものだった。やっぱり、と再確認しただけのこと。でも本を読んでいる途中で、こういった類の本て読んだからとじゃあ問題解決になるのかしら、と思いながら読み進めていると解決方法みたいのが乗っていた。しかしそれもすべて私の人生でやってきたことばかりだった。だから自分で人間関係の悩みを大方解決できたと感じたこともまんざら自分の気のせいではないことも理解できた。

 ただ、本にも書いてあったが、職場などそれほど深い人間関係を必要としない場合にはそれほど苦労しないのだそうだ。逆に仕事の役割に没頭することで人間関係の難しさを回避しているのだとも書いてあった。なるほど。一番困るのは、夫婦や恋人など深い人間関係になると愛着障害の症状(というのかな)が深刻になり、避けて通れないのだそうだ。

 私はそこが一番納得できた部分だった。そうなんだ。やはり私はそこで躓いているんだと。ちぐはぐな会話をしてしまうのも、人の気持ちが分からないと言われるのも、気を使っているのに全く自己中と思われるのも、たぶんその障害のせいなのだろうと。
 

 しかしだからと言って、私はそういう理由で人との距離が測れないんですよ、と開き直るわけにもいかない。原因、理由、対策、が分かっているのならあとは実践するだけなのであるが、どうしても肝心な人に対しては肝心な行動が取れない。こんな年になってこんなことで悩むなんてと思うが、このもどかしさは同じような悩みを持つ人にしか分からないのかもしれない。

 文章を書くことは、非常にこの障害に対しては役にたつらしい。自分が向き合った過去を思い出しその気持ちを整理して文章に書くことがいいことであるらしい。結構私はこの場所で過去にそういう文章を書いているのでそれが知らずうちに役立っていたのかもしれない。あとは子供を育てることとか老いた母の面倒を見ることとか。

 前置きが長くなってしまったけれど、もっと文章を書くようにしよう、と決めたのだけれどだれてしまった週末でした。

 
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久しぶりにどきどきした

2014-08-24 20:21:48 | 
この間出掛けたときに、電車で読む本を駅の本屋で買った。表紙が目に飛び込んできたのだ。アンリ・ルソーの、あのジャングルのような独特の絵、「楽園のカンヴァス」。何かの文学賞を取った有名な作品らしいのだが知らなかった。作者も知らなかった。

読み始めたら、久しぶりに先を読むのが楽しくて楽しくて仕方ない小説だと思った。主人公のキュレターの男性が、子供の頃アンリ・ルソーの「夢」という作品を初めて見たときに衝撃を受けた描写にとても惹きつけられた。冒頭美術館監視員だった女主人公が作品と向き合う心境を描写した部分も同じように惹きつけられた。

私もルソーが好きで、子供の頃学校の図書室にすごく大きな作家別の画集があって、ルソーの巻をじっくりと見たことがあったのをこの少年の場面で思い出した。その頃は(今もほとんどないが)画家に関しての知識が全くなく、ピカソとかゴッホなどと同じ類の画家というよりは、絵本の絵を描く人の類と思っていた。でも他にこんな絵を描く人を見たことがない、圧倒的に他の絵と違う、というようなことを思ったのを憶えている。

私はやはり、南国シリーズというか、熱帯の植物が描かれている作品が好きだ。どうしてこの人はジャングルの絵を描くのだろう、と不思議になる。葉っぱの一枚一枚が細かく、細部まで丁寧に書いてある。小説の中でも、ルソーが自分のアトリエで南国の絵に囲まれて息が詰まりそうになる、というような感じの描写があったけれど、本当に絵を見てるだけで南国の暑くて煮詰まった空気のようなものを感じる気がする。しかも私は本物の作品を見ているわけではないのに。

昔独身の頃に買ったルソーの画集があったことを思い出し、本棚を探す。表紙はルソーだけれど思っていたのと違うのが出てきた。昔バーンズコレクション、という展覧会に行って、そのときルソーの本物の作品を見ていたんだ。すっかり忘れていた。そのカタログが出てきた。それから探していたルソーの画集がやはりあった。小説の中に出てきた作品をそれらで見直してみる。小説を読んでいるときは何となく、あんな絵だったけかな、と想像していたのが確認できた。

小説では展覧会や美術館の業界の裏事情のような描写もたくさんあってそれらも興味深かった。世界的に有名な作品や貴重な作品は、なかなか日本で見ることは出来ないし、運のようなものなのだろう。だからもし見れる機会があったら絶対に逃さずに作品に会いにいくべきなんだ、そう思えた。このところ時間的余裕が若干だけれど出てきたのでなるべく美術館に行こう、と思っていた矢先、良い作品に出会えた。小説全体に渡り、アンリ・ルソーへの愛が感じられる作品だと思う。

週末に子供と一泊ホテルにお泊りをしたのだが読みかけを持って行った。あっと言う間に読み終わってしまった。読み終わって、ああ終わっちゃった、と残念になる小説を久々に読んだ。


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大阪

2014-03-02 16:16:33 | 
この間出掛けたとき、電車に長い間乗るのでその暇つぶしにと本屋に寄った。とりあえず何でもいいからと思いつきで「夫婦善哉」を買った。ある人のブログでこの小説を絶賛している書評を見たのが頭の隅に残っていて、その人の趣味としては意外だなあと思ったのだ。

以前大阪に行ったときに、法善寺横丁のこの夫婦善哉、という店があったのを思い出す。その時はこの小説を知らなかったのでどうとも思わなかったのだが、今でも実在する店や場所がたくさん出てくるらしい。

読んだら一気にこの世界に入ってしまった。この主人公蝶子が魅力的だからなのだろう。読んでいてこんな馬鹿男さっさと捨ててしまえ、と何度も思うのだが、そしてこの男はまったく魅力的には思えないのだ蝶子は捨てないのだ。

でも読み終わって思った。もう、好きで好きでしかたないのだ。

離婚をした私には何とも言えないが、きっと自分が好きで好きで仕方ないと思う人と一緒になったら、どんな苦労も背負えていけるのだろう。だから耐えていけるのだと。どんなことがあっても顔を見るともうやはり何事も許してしまえるのだと。

大阪弁て、何の特徴もない言語である神奈川の私にはとても魅力的に映る。英語を流暢に話せる人と同じくらい羨ましく思う。大阪弁講座、というのがあったら絶対やってみたい。やはりこの大阪の町と風俗の描写と大阪弁のおかげでいっそう情味あふれる話になっているのだろうと思った。

大阪は一度しか行ったことがないんだけど、すごく面白い街だったと思っている。また行ってみたいし色々なものを食べてみたい場所だなあと思う。
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やっと本を読む気になってきた

2014-01-19 11:57:36 | 

昨年は何だかんだと忙しく、本を読むことをあまりしなかった。というかここ数年、通信教育のテキスト関係を読むのが精いっぱいでそれ以外のあんまり本を読んでない。

お正月休み、本当に何もしなく体を休めた。体の休養は心にも良い影響を与えるのか年末の私の超ネガティブ思考はだんだん無くなり、年始には以前のように体がうまく動いて仕事もぱきぱきとできるようになった。

通信教育ももう終わるし、個人的な事情で空き時間、とういうのだろうか暇が少しできてきた。するとあんなに年末ちょっとした活字を読むのさえ面倒だったのが本を読みたいという気になってきた。

それでこの半月のあいだに4冊目になった。

「国防」石破茂 民主党政権時に書かれたもので今とは状況が結構変わっているけれども、私みたいな政治音痴、軍事音痴の人向けに書かれてあるのかなと思われる。冷戦終結、9.11など世界が大きく変わっているのに日本人の防衛感覚がそれほど変わっていないのがいけないのだと思った。

「迷わない」櫻井よし子 櫻井よし子さんのテレビやHPで色々と勉強させてもらっているので最新のエッセイということで興味を持った。発言力、行動力、国際感覚を持ったパワフルな女性なのに穏やかな語り口、日本女性らしいしなやかさを持った素敵な人だとひそかに憧れている人です。

「聖書を語る」佐藤優・中村うさぎ これは暇つぶしのために何となく買って読んだものだったけれど、いい意味で期待を裏切る面白さだった。カルヴァン派の「天国のノート」という考え方の話や、「春樹とサリンジャー」の解釈が興味深かった。中村うさぎさんの本は読んだことがないが、イメージが覆される。小説や聖書をもっと深く読まなければ、と思った。

「ふしぎなキリスト教」橋爪大三郎・大澤真幸 まだ読みかけです。「聖書を語る」で天国のノート説ではないけれど、神様があらかじめ決めたことだったなら・・・とか考えれば考えるほど分からないことだらけな聖書の世界についての本を読みたいと思ったので。

今年はもっと本を読もう。

 

 

 

 

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卵のふわふわ

2011-01-15 19:31:17 | 
宇江佐真理さんと言う人の小説を初めて読んだ。時代小説をまったく読まないので宇江佐さんという作家を知らなくて、たまたま本屋で宇江佐さんのエッセイを買って(知りもしない作家のエッセイを買うなんておかしいけど)、今度は小説も読んでみたいと思った。

各章には料理の名前のタイトルがついていて、その料理が話の中に小道具として出てくる。話そのものは、奉行所の役人の妻が子宝に恵まれず、また夫ともそっけない関係が続いていて自分は夫にふさわしくないと思い始める。やがて実家に帰ってしまい離縁まで考える。が最後には家に戻ってきて元の鞘に収まり子宝にも恵まれる、という話である。夫の父である舅が食い道楽な人であり、それで食べ物の話がよく出てくる。

舅、姑はとても人が良く嫁を大事にしていて戻ってきてくれ、と言うくらいなのだが、主人公は夫婦間の問題は夫婦でしか解決できないとかたくなに離縁しようと思っている。夫が自分に冷たいのは、夫が自分と結婚する前に結婚が反故になった女の人を忘れられないからではないかと思ったり、子供ができないことで自分が役に立たないからだと思う。

男はきっと、特に昔の男はそう簡単に優しくなんか振舞わないのだろうと思うし、優しい気持ちは持っていても、そういう素振りは見せないのだろう。子宝に恵まれないというのも、現代と共通の悩みかもしれないが、昔はもっともっと嫁を切羽詰まらせる悩みだったのだろうと思う。

だが主人公が悩むのは、どうしてこんなに心が繋がらないのだろう、ということなのだ。自分に結婚話が来た時、密かに好きだったその人の妻になれると即座に返事をしたくらい、ずっと憧れていた人だったのに、好きで好きで仕方がないのに、心が通い合わないのはどうしてだろう、と。

別居をした後で夫と会った時に、主人公がそれまでの気持ちを吐露してしまう場面がある。ふたりでいるときも、ひとりでいるときよりずっと寂しかった、と言うのだ。

この部分を読んで、何だか気まぐれに取った読んだこともない作家の本が、自分の心の中とこんなにシンクロするるのはどうしてなんだろうと不思議に思った。本を読んでいると、そういう気分になることがよくある。

小説の主人公はハッピーエンドだったけれど、現実の私はどうだろう。







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出会い

2010-04-30 00:30:08 | 
先月まで、子供の習い事の終わるのを待っている間の定番は、本屋に行ってぶらぶらするかドトールに行ってコーヒー飲みながら本を読むか、だった。3月の頭に、いつも行かないブックオフにたまたま行って、「聖書の謎を解く」という本を偶然に買った。
今日は、やはり時間つぶしのために本屋に行き、特に読みたい本もなかったけれど何となく「わたしが・棄てた・女」という本を買った。

新約聖書を初めて読んだとき、正直自分の持っているキリストのイメージとはだいぶ違ったように思えた。キリスト教について何の予備知識もない私の持っていたキリストのイメージは「博愛主義・慈愛に満ち溢れている」というものだった。その後加藤隆先生のお話を聞く機会があって何故キリスト教が世界的な宗教になったかということや、4つの福音書の違いなどが少し分かった。でも、「聖書の謎を解く」を読んで、さらに4つの福音書の違いについて細かく分かり、キリストは本当にいたのではないかと思うようになった。それまでは実在しなかったのではないかと思っていたから。

そして今日一気に「わたしが・棄てた・女」を読んだ。電車の中で泣きそうになった。私が何となく素朴に疑問に思っていたことを、主人公のミツが代弁してくれているようだった。ただ私は彼女のように純粋ではないけれど。

偶然に買った2冊の本。不思議な気持ちになる。
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やっと

2010-02-15 21:02:54 | 
通信教育の試験が終わったので、これでおおっぴらに本を読めると思う。(と言うほど、試験前真面目に勉強はしていないのだけれど・・・)

もう数カ月前に買ってまだ読み終わっていない「日本奥地紀行」という本がすごく面白い。イザベラ・バードという英国人女性が、1878年に日本の東北と北海道を旅した時の日記を本にしたもの。イザベラ・バードという旅行家の名前は知っていたのだけれど本を書いていたのは知らなくて、たまたま本屋をぶらぶらとしていたらこの本を発見してそしてつい買ってしまった。

外国人の、未知の国日本に向ける視線は、現代に生きる私とさほど変わらないんじゃないかと思う。100年以上前の日本の、田舎に住む普通の人の暮らしぶりというのが良く分かる。時代劇とか歴史の本とか民俗資料館などを見るよりかは、余程外国人によって書かれたこの本を読んだ方が昔の日本の庶民の暮らしが実感できる気がする。

読んでいて何回も何回も書かれているのが、蚤が多くて困るということ。それから農民たちが着の身着のままでいることや、日本の湿気と雨にうんざりしていることなど。道路が整備されていないのだから日本は戦艦なんかをたくさん作るよりインフラ整備をしたほうがいいと書かれていたり、外国人を珍しがっている好奇の目にうんざりしながらも、決して日本人の性質を悪く書いていなく、むしろ好意的に書いている。女が一人で堂々と旅行出来る国は日本ぐらいであろうとも書いている。

私たちが今外国に行っても何もかもが珍しく感じるのだから、100年前情報もあまりない時代に英国から日本に来たということは、本当に何もかもが物珍しく新鮮に映ったであろうと思う。そして物凄く好奇心のある人だったに違いないと思う。そのため描写も結構細かく、例えば新橋駅で汽車から200人の乗客が一斉に出て来た時の下駄の音は凄まじいという場面など、あまり今まで想像したことがなかったなあと思う。馬に荷物を載せて日光、群馬、新潟を経て東北へ向かうのだが、その大変さは想像以上だったろうと思う。

先日また本屋をぶらぶらとしていたら、「100年前の世界一周」という写真集が目に入った。イザベラ・バードが日本を旅したほんの20年後くらいの頃日本を旅したドイツ人が撮った写真が載っている。写真のところだけ小1時間ほど立ち読みしたけれど結局買ってしまった。ちょうどイザベラ・バードに夢中になっていたので物凄く興味深いと思った。写真は色付けがしてあって、まさかその時代にカラー写真があったのだろうかと思ったけれど、やはり後から色付けしたものらしい。この間テレビでやっていたけれど、白黒の微妙な陰影の違いで、元の色が何色か分かり、それを元に色を再現するという技術を紹介していたので、きっとそうして色を付けたのだろうと思う。その写真集には日本だけでなく同時代の他の国(著者であり写真を撮ったドイツ人が旅した国々)の写真もあるのだが、色がついているというだけで、とても新鮮というか、どきどきする感じがする。写真と一緒に文章もかなり載っているのだけれど、まだそちらは読んでいない。

最近あらゆることに歴史というのは関係していて、またその重要性というのを感じるのだけれど(歴女、と呼ばれる人などもいて、歴史好きの人は羨ましいですが)、歴史音痴な私は何か興味を持つものから入っていかないとだめなのかもしれない。でも、こういう本や写真集は大好きなのです。

こんなに読むのを楽しく感じる本は、久しぶりかもしれない。
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「むずかしい愛」

2009-01-25 20:39:19 | 
これもあるきっかけで読んだ本。イタロ・カルヴィーノというイタリアの作家。まったく知らなかった。ちょっと調べてみたら児童文学ぽいものや、SFみたいなものも書いていたようだ。いろいろな手法を試みて小説を書いた人らしい。

私が読んだのはこの短編集だけなので、いったいどういう作家なのかはよく分からないが、この中の「ある夫婦の冒険」というのが、よかった。

夜勤から帰った夫と、これから仕事に行く妻の、すれ違うひと時を書いているのだが、特にこれといったことも起きず、本当に平凡な夫婦の平凡な一日のスケッチなのだが、もう私のお気に入りの一遍になってしまった。

日常の、ささやかな出来事やそこにまつわる感情などを、丁寧にすくって書き出すとこういう風になるのだろう。取り立ててセリフもないのだが、その日常の描写からふたりの関係と二人の間に流れる愛情のようなものが静かに滲み出てくる感じ。

こんな小説を書けたらいいな、と思う。

まったく本編とは関係ないけれど、登場人物の名前が(当たり前だけれど)みんな聞きなれないイタリアの名前なので、私って今までイタリアの小説ってひとつも読んだことがなかったんだなあと、初めて気付いた。
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「嵐が丘」

2009-01-24 14:30:50 | 
あるきっかけで最近読んだ。以前一度読んだことがあると思っていたのだけれど、出だしを少し読んで読んでなかったことに気がついた。私が読んだつもりになっていたのは、もしかしたら漫画の「ガラスの仮面」に劇中劇として登場するから、ストーリーを知った気になっていたのかもしれない。

姉妹であるシャーロット・ブロンテの「ジェーン・エア」は好きな本のひとつなので、同じようなイメージを抱いていたらまったく違った。こう言ってはなんだけれども、これだけ酷い話と主人公(ヒースクリフ)なのにこれだけ読み継がれているのは何故だろうと思った。でも登場人物の好ましさと文学的な良さというのはまた別ものなのだろうと思う。

読んでとても暗くなるし、作品のイメージも暗いのだけれど、自分と魂が一体だと思えるほど愛している相手が存在する、というところに羨ましさのようなものを感じた。それだけ激しく愛しあえる相手に生涯出会えるの人はそれほどいないだろう。

100年以上前の昔、こんな物語を書いた女性作家、すごいなあと思う。
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「墨東綺譚」

2008-12-05 17:37:06 | 
今日は久しぶりの平日休み。子供は学校に行っていないのでひとりぶらぶらと出かけようと思っていましたが、風が強く、昼近くには雨が降り出しまるで嵐のようになってしまい、一日家に閉じこもっていました。

最近ほとんど人のブログは見ていないのですが、ふと、ずいぶん前にずっと訪れていた人のブログを思い出しそっと覗いてみました。その人の恋の行方が気になったのです。久しぶりにその方のページを読んだら涙が出てきてしまいました。私は簡単に感情移入してしまう。

やっと「濹東綺譚」読み終わりました。以前一度読んでいたはずなのに全く記憶に残っていない。それとも読んだと思っていたのに読んでいなかったのかもしれません。

大正から昭和にかけての東京の周辺の様子が実に細かく説明されています。方向音痴の私は文章を読んでいてもどっちがどっちだか分らなくなってくるのですが、当時の町の様子や生活の様子など細かく描写されているのです。主人公とお雪が初めて会う場面、雨が降り出した中、主人公の傘の中にいきなりお雪が入ってくるところなどは、私はその時代をまったく知らないのに情景がはっきりと目に浮かぶようでした。会話のやりとりもいい感じだなあと思いました。昔の言葉ってどうしていいのでしょうね。お雪の場合は娼婦なのでそういう世界の人の言葉なのかもしれないけれど、江戸の人の会話という感じです。

永井荷風は自分は明治生まれでやはり大正生まれの人間とは違うのだ、と時代の変わりようを憂いていますが、まったく今も昔も変わりがないのだなと思いました。粋、とか情緒、というものが今の日本は存在しないように思うし、そういうものがあった時代を私はうらやましく思っているのですが、だからなのか自分が知っている時代でもないのに、なぜか懐かしい、という気がしてきてしまうのでした。

最近小説を読むと、どこがどういう風に良かったのだろうかと少しは考えてみるのですが、いい小説とかいい書き方っていうのは全く分からないのですけれど、読んで情景が鮮やかに目に浮かぶもの、登場人物の微妙な感情や心の揺れのようなものが読んで感じることができるもの、というのが私は好きかもしれない。そしてそういう文章を書きたいと思っています。

薄いのに、やっと読み終わった。





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「無意識はいつも君に語りかける」

2008-04-13 02:47:44 | 
子供に付き合って本屋に立ち寄った。タイトルに引かれ一冊の本を手に取った。

「無意識はいつも君に語りかける」

何気なくぱらぱらと読み出した。平積みで目立つ場所にあったし、デザインからして今流行っているようなスピリチュアル系の本だろうかと思うと買おうとは思わない類の本なのだが冷やかし半分で眺める。

私にしては珍しく5分くらい立ち読みした。そしてこれは買っても良いと思った。
愛は植物を育てることに似ている、にしてもそうだが、最初の方のどのページを読んでも、今の自分の心に静かに刺さってきた。

愛とは信頼。愛とはほどよい距離。
不安は猜疑心。不安は支配欲。
愛を支配や所有で置き替えることはできない。


幸福のポイントは意識内の対話をやめること。それがすべての鍵である。


自分を好きになるということは、他人に優しい自分に出会うということ。



自分を取り巻く状況を打破するには、自分が変わらなければならない、そう強く感じているし、ネガティブな思考ではなくポジティブに、と頭では分かってはいるのだが、私は自分の頭の中の堂々巡りから抜け出せない。
まず、その自分との対話から抜け出さなければならないんだろう。もっと意識の次元を、広く高く。

内的会話をやめ、心の静寂に耳を傾けること。


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