星を見ていた。

思っていることを、言葉にするのはむずかしい・・・。
良かったら読んでいってください。

面会時間

2007-02-25 23:51:41 | 読みきり

駅の改札を出ると、外は雨が降っていた。
もう辺りは暗くなっていて、空気は雨のせいで余計に冷たく感じた。トレンチコートの襟を少し立てる。駅前の塔についている時計を見ながら、すぐ脇のバスターミナルに向かって歩きだす。病院行きのバスが停車しているのが目に入る。傘を差すのももどかしく、バスに向かって走った。私が乗った途端に、扉が閉まる。車内はがらがらだった。二人掛けの椅子に腰掛ける。

駅前の商店街の前を通り抜けて、次第にバスは住宅街に進んでいく。窓ガラスは曇っていて、何も見えなかった。トレンチコートとカバンについた水滴をハンドタオルで拭きながら、もう一度腕の時計を見た。7時32分。20分くらいなら、面会できるだろう。

3年前に、父が亡くなった。それまで病気一つしたことがなく、持病も無かった父だったが、突然倒れてそのまま逝った。70という年齢は、死ぬのに早いのだろうか、遅いのだろうか。それは分からないけれど、私たち家族には、それは間違いなく突然の出来事だった。父から死を連想することは、何もなかった。病気には縁が無かったし、お酒も付き合い程度、煙草も吸わない、家系的に癌や心臓病で死んだものも無かった。母も私も、父がこんなに早く、しかもあっさりと逝ってしまうなんて、思ってもいなかった。

父と母は、取り立てて仲のよい夫婦という訳でもなかった。どう考えても父は大人しすぎた。母の我儘に付き合っているのも、ただ面倒だから何も言わずにふんふんと聞き流しているだけのような、そんな風に娘の私には見えた。けれども父と私は気が合った。父と私は、お互いがべったりとではなく、ちょうど上手い塩梅で距離を開けておくことができる類の人間だった。相手のことを思っているけれど、それを全面に押し出してまでアピールすることなんて、見っとも無いことだと思っていた。母は違っていた。私はこれだけあなたのことを思っている、と思ったら、それを口に出し態度に出し、相手にも強要しなければ気がすまない人間だった。だから、父も私も、その圧力の中で生活していくことに、時折疲れていた。私は社会人になって数年すると一人暮らしを始めた。思い切り息を吸って、吐いている実感がした。そして数年するとその空気も感じないほどに、私は自由になれた気がした。

父が逝った後、母は割と強かに生きてきた様な気がする。40年ほどを夫婦として一緒に過ごした、その片方が亡くなったのだから、気の落ち込みようは相当なものだろうと思ったのだが、私から見る限りでは、母はそれほどでもなかった。食事が喉を通らないなんてことはなかったし、夜眠れないということもなかっただろう。しばらくはぼんやりと数週間を過ごしていたが、人が一人死ぬということは、たくさんのしなくてはいけないことが山積されていて、まずはそれをひとつひとつクリアしていくだけで精一杯だった。しなくてはならないことのリストはうんとあって、それを私と二人でこなしていった。それが終わると、まるでそうすることが当然だと言うように、疲れたからちょっと近くまで旅行にでも行こうと、県内の温泉まで一泊旅行をした。

旅行が終わって、私はまたひとり暮らしのアパートへ帰っていった。もう母をひとりにしても大丈夫だと思った。離れているといっても電車で数駅の場所にいるのだし、何かあったらすぐ来れるのだ。それに私は、いったん離れた母の圧力の中で再び生きていくのは、今さら困難のように思われた。正直自分の部屋に帰って来たときはほっとした。父が居なくなって母のターゲットは私だけになってしまった。目配せして、阿吽の呼吸でこの気持を分かってくれる父は、今はもう居ない。

バスは幹線道路を少し走って、病院の敷地内にまで入って、入り口で止まる。カードを差し込んで受け取って、バスを降りる。夜の病院は嫌いだ。ロビーは明かりがほとんど付いていなく、私は横の夜間入口から入る。夜間入口のすぐ側に救急患者の待合椅子があり、父の時のことを思い出す。ここで待っている人達は皆不安げな面持ちで、目を合わせるのが憚られる。こうして呑気に見舞いに来ている私のほうが、数倍気が楽だ。

エレベーターに乗って5階を押す。エレベーターの横に売店があって、私はそこを見るとまた母に何かおいしいものを買ってきてやるのを忘れた、と思う。ここに来るまではここに来るだけのことを考えている。面会時間が間に合うようにと、仕事が終わるとすっ飛んで電車に乗りバスに乗り、ああ、間に合ったと思う。だからそんなの、買っている暇はないのだけれど、でも何だか、そういったことを忘れてしまう自分を冷たいと思う。エレベーターの中の鏡を見る。スーツを着てその上にコートを着て、いかにも仕事帰りだなという格好だ。そんな格好をしてくる自分も嫌になる。今日ここにくることが朝分かっているのだから、もっとラフな格好をしてくればよかったのだと、そう思う。これじゃさも忙しくて忙しくてしかたないみたいな格好じゃないか。

「こんばんは。失礼します。」
誰に言うでもなく、4人部屋である母の病室に入るときには必ずそう言う。母のベッドは奥の左。手前の人のベッドが嫌でも見えてしまうから。カーテンで仕切られているとはいえ、皆少しづつカーテンを開けてある。その隙間からちらっと顔が見えることもある。
「あら、今日も来てくれたのね。」
母はこちらに気付くと、見ていたテレビから目を離し、起き上がる。
「あ、いいよ起きなくても。今日は何もないんだけど・・ごめんね。」
私はカバン以外何も手荷物がないことを示す。母はベッドに腰掛ける。
「どう?変わりない?」
「うん、別にね。今日はCTとったけどね。」
母はそれから、一気にこの2日にあった出来事を話し出す。どんな検査をしたとか、先生はいつやってきてどんな話をしたかとか、担当の看護婦は今日は休みだったとか、気に入った看護士の子に冗談を言ったことや、シャワーに入れたことや食事の内容なんかのことを。
「まあ、御飯はまずいわねえ、相変わらず。仕方がないけどねえ。」
それから同じ部屋の人の話題やら退院していった人が外来で来た話やら何やらを。私は同室の人がきっと耳を澄まして聞いているのではないかとはらはらしながら、何も言わずにただ聞き役に徹していた。
「今日も仕事で大変だったんでしょう。平日は来なくていいのに。」
話が一息つくと、母はそう言った。でもそうしたら、5日間一回も来れないじゃないか。
「別に駅からバスが出てるから、この時間に間に合えば平気だから。洗濯もあるでしょ。」
「コインランドリーもあるけどね。だから無理に来なくてもね。」
口ではそう言うけれども、やはり家族が誰かしら来なくては、入院生活というものはたいそう淋しいものだろう。それくらいは私だって分かるのだ。

言いたいことを一気に言ってしまったら、急に話すことが無くなったらしく、母と私の間には静かな空気が横たわった。そういえば、こうして母が入院しているときのほうが、私たちは余計に会って話をしているのだ。母が元気なときは、私は実家に寄り付きもしない。来ようと思えばすぐ来れる距離だからこそなのか、それとも私が無意識に実家というものを避けているのか、こんなに話をすることなんて、ないんだ。

その時同じ部屋の入り口のベッドの方から、男性の静かな深い声が聞こえた。母の斜向かいのベッドの人の、ご主人のようだった。そのベッドの方は母よりも5,6歳年上のように見受けられる、可愛いご婦人で、母の話によるとご主人は毎日遅い時間に来て面会終了時間までいらっしゃるそうだった。
「そうか、それは辛かったねえ。そうかそうか。がんばったなあ。」
その声が耳に入ってくると、なぜか私ははっとしてしまった。ご婦人の声は体型と同じく、華奢で小さくて私の耳には入ってこなかったが、それに答えるご主人の声はよく聞こえた。その声は私のイメージする老人の男の人の声ではなく、老人の男の人の喋り方でもなく、なんというか実に魅力的に響く、本当に実感のこもった、こう言ったら生意気なようなのだけれど、長年ご夫婦を続けてこられた人の、お互いを慈しむような感情がこもっている声だった。
「ん?今朝?今朝はパンを焼いて食べたよ。ひとりで食べるのは淋しいねえ。はやく帰ってきてほしいねえ。」
奥さんのほうの会話は一切聞こえなくても、何を話しているのかよく分かった。どうしてこんなに切なく聞こえるのだろう。言いようによっては、もの凄く照れくさい言葉を、ご主人はさらりと、でも実感のこもった声で言うのであった。ご主人の声が素敵だからなのか、話し方が温かいからだろうか。こんな言い方をされたら、奥さんのほうはもっと切なくなるだろう。私は病室の端っこからカーテン越しに聞こえる会話に、涙が出そうになった。この会話をただちょっと聞いているだけで、この人たちがなんと深くて充実した夫婦生活を送ってきたのかが、分かるような気がした。

ふと母を見ると、母はまったく関係のない話をし始めた。耳の少し遠い母には、斜向かいのご夫婦の会話は聞こえていないようだった。そしてまったく違う話をしている母の顔をぼんやりと見ながら、ああ、父はもう亡くなったのだと、分かりきったことなのにたったいまそう思った。父はもういない。母にとっても、夫はもういない。私は涙が出てくるのを堪えるのに必死だった。

面会時間が終了するというアナウンスが病室に流れた。洗濯物が入った袋を貰い、私はエレベーターホールに出た。そこには斜向かいのベッドの可愛らしいご婦人と、うんと背の高いがっちりした、初老の男性がいた。私は軽くお辞儀をした。

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自然にそうなってしまっていたこと

2007-02-10 21:03:00 | 読みきり




人通りの多い道から、ちょっとそれて鳥居をくぐると、そこにはひっそりと神社があった。参道には私たち以外、ほとんど人はいない。曇り空の下、冬の空気がぴんと張り詰めている。


私は足元の砂利が、歩くたびに、ざっ、ざっと音を立てるのを聞いていた。その横で、手を伸ばせばなんとか届くけれど、でも決してぶつからない程度に距離を開けて、彼は歩いていた。二人分の、砂利を踏みしめる音がする。それ以外の音が、何もしなかった。都会の真ん中にあるこの神社は、こんもりとした木々に囲まれている。その木々が周りの騒がしさをすっかりと遮断して、この小さな世界には、まるで二人しか存在しないかのようだった。

2月中旬の東京は、とても寒かった。Pコートに、ぐるぐるとマフラーを巻いて、ジーンズの下にブーツまで履いているのに、芯から体が、冷えていきそうだった。静まり返った境内が、さらに寒さを助長するかのようだった。彼はダッフルコートを着て、やはりマフラーを巻いてジーンズを履いていた。広い境内をぐるっと散歩して、それからおみくじを引いた。けれども、それが何だったか、今ではさっぱり憶えていない。そのおみくじを木に結わえて、それからまた歩きだした。

手がとても寒かった。手袋をしていない両手は、自分でこすっても冷やっとするほど冷え切っていた。半歩前を歩く彼は、ダッフルコートの大きなポケットに、手を入れていた。私はそのポケットを、じっと見つめる。

今日までの過程を、繰り返し考える。初対面の男の人から、電話番号を聞かれることはあっても、自分からメモを差し出して、良かったら掛けて、と言われるのは初めてだった。気が付いたら、電話していた。そして、今日、こうして又会った。

両手を合わせて口元に持っていく。はあ、っと息を吹きかけても、ちっとも温まらない。私はずっと、彼のポケットを凝視している。そして、ポケットの中の手の大きさを、温かさを、想像していた。

考えていたら、もう我慢できなくなった。次の瞬間、私の右手は彼の左ポケットに入っていた。まるで自然にそうなってしまったかのように、手と手が重なった。ポケットの中は、私の想像したとおり、温かさで溢れていた。温かくて、大きな手が、ぎゅっと冷えた手を包んでくれる。

何も音はしない。でも、もう、寒くない。



photo by web-mat さん

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シャンプー

2007-02-04 01:52:50 | 読みきり
 僕がこの床屋に通うようになってから、もうかれこれ数年が経つ。いやここは、床屋ではなくて、ヘアサロンとでも言うのだろうか。髭は剃ってくれないし、普通に女の客も来るのだから、美容院と言うのだろう。最初ここに来たのは、別れた妻と結婚した当初のことだった。彼女がもともとこの美容院に通っていた。僕はいつも、髪を整え綺麗になった彼女を、車で迎えに来ていた。店の前の駐車場で、彼女が髪を切ったりパーマをかけ終わったりするのを待っていた。ガラスの扉の向こうから、店員に見送られた彼女が出てきて、それをバックミラー越しに確認すると、僕は一瞬、どきっとさせられるのだった。彼女はいつも、大胆に髪型を変えた。僕のイメージにある彼女と、ちょっと違う彼女がいつも出てきた。彼女は助手席に乗り、僕は平静を装って、静かに車をスタートさせる。ややしばらく経って、彼女は、どう、と髪の毛に軽く手を当てながら、訊ねる。いいんじゃないか、と僕はひとこと答える。けれど正直少し似合わないと思うときもある。しかし彼女は、男の好みに合わせて髪型を変えるタイプの、女ではないのだ。だから僕は、いつもそんな曖昧な返事をする。

 僕が彼女と初めて会ったとき、彼女の髪はすごく短くて、僕は瞬時に、ジーン・セバークを思い出した。すこし癖のある、真っ黒ではないが濃い茶色の、耳が見える程短い髪は、それだけでとてもセンスのいい女の子に見えた。耳には小さな、プラチナのピアスが光っていた。後で聞いて分かることだが、彼女は僕と出会う直前、男に振られ、それでそれまであった長い髪を、ばっさりと切ったばかりだったのだ。そんなことを僕は、随分と後になってから、そのヘアサロンの店長から、聞いた。

 初めて彼女がその美容院にやって来た時、彼女の髪の毛は肩よりもうんと長かったそうだ。やや癖がある柔らかい彼女の髪は、緩やかなパーマを掛けたような感じだった。小さな顔に、そのふわふわとした感じは、とてもよく似合っていただろう。僕には容易に、想像がつく。店に入って店長が「どうしましょうか。」と訊ねると、即答で「すごく短くしてください。」と彼女はきっぱりと言った。あまりにも表情が固く、話し掛けるタイミングを見出せなかった店長は、無言でハサミを動かし続けた。静かな音楽の流れる店内に、ハサミを動かす音だけが、妙に大きく響いた。ミラー越しに長さの確認をしながら、店長がカットを続けていると、彼女の瞳から、涙が、はらはらと落ちてきた。そんな客を過去にも何人か知っている店長は、その光景がまったく目に入っていないかのように、散髪の作業を続けた。彼女は、落ちてくる涙を拭いもせず、焦点をどこか遠くに合わせたまま、微動だにしなかった。
 
 カットが終わり、シャンプーも終わると、彼女はまるで、さっき涙を流した人物とは別の人のように、鏡の前に座っていた。泣いた後の瞼は少し腫れ、瞳は潤んでいた。そのせいでもともと大きい瞳が、他の顔のパーツよりも余計に目だって見えた。彼女は鏡に映った店長に向かって、にっこりと微笑み、ああ、すっきりした、とひとこと言った。
「いかがですか。随分と雰囲気変わりましたね。お似合いですよ。」
 店長は、やっと会話の糸口を見つけたとばかりに、声を掛けた。
「実はわたし、きのう彼に振られてしまったんです。それで、それで気分をさっぱりさせるために、髪を切ってやろうと思って、ここに来たんです。」
 店長は穏やかな笑みを続けながら、「そうですか。」と静かに答えた。そう言うしかないように思われた。
「すごくすっきりした。本当に、どうもありがとう。」
言いながら彼女は、自分で髪の毛の感触を確認するように、耳の上の辺りの、今までとはだいぶ長さの違う髪を、手ですくって見せた。
「シャンプーも楽ですよ。ピアスもよく映えますね。」
「そうですか。」「本当にすっきりしたわ。」
 満足そうな顔で、彼女は席を立った。それからずっと、彼女はこの店に通っている。

「こんにちは。」
 僕が店のガラス戸を開けると、アシスタントの女の子が静かに声を掛けてきた。店の道路側は一面ガラスになっていて、中の様子は丸見えだった。そして中からは、店にやって来る客がよく見える。彼女は少し遠くから、僕のことに気がついて微笑んでいた。
「今日はどうなさいますか?」
 店の会員カードと、上着を受け取りながら彼女は言う。店長は他の客のカットをしていた。
「いつもので。」
 バーで飲み物を注文するように、僕は答える。彼女は上着をハンガーに掛けると、洗髪台の方へ僕を誘導する。彼女の後ろを歩きながら、僕は彼女の、うなじの辺りを見ている。

 洗髪台に腰掛けて、椅子の動きに沿ってゆっくり仰向けになると、体の力が少し抜けるような感覚がした。アシスタントの彼女が、戸棚から薄いガーゼのハンカチを出して、顔に掛ける。ガーゼが顔にかかる間の数秒だけ、少し緊張する。ガーゼの下で目を瞑りながら、シャワーから出る水音を心地よく感じ、僕は眠ってしまいそうになる。
彼女は丁寧に、僕の髪の毛を洗う。今まで色々な床屋で、髪を洗ってもらったことがあるけれど、彼女のように洗う人はいなかった。あくまでも優しく、そっと地肌を刺激する。彼女に洗髪してもらうようになってから、女性がエステなどに行ってやみつきになる気持が、わからなくもないと思ったりするのだった。僕は半分眠っているかのような感覚になる。

 洗髪が終わり椅子が元に戻されると、僕は少し正気に戻る。
「お疲れ様でした。」
 言いながら彼女は、タオルで僕の髪の毛を、そっと拭く。それから、「こちらへどうぞ。」と言って、カットの台の左の席へ座るよう、僕を促す。
僕が椅子に座ると、彼女はカットの道具を、用意し始める。僕は椅子の周りを行ったりきたりする彼女の様子を、何気ない様子で眺めていた。彼女はなんというか、美容師という感じがしない。いや、若い、まだ見習いの美容師、という感じがしない。最近の若い女はみな痩せていて、僕の好みから言ったら、異様な痩せようだけれど、彼女は多分、今の若い子の平均的な基準から言ったら、大分ふっくらしている。いや、ふっくらと言うよりは太っていると言ったほうがいいだろう。美容業界という、ファッションセンスを問われ、常に流行の最先端を意識しなければならない業界であると思うのに、彼女はそういった、私は美容業界なんです、と言いたげな、肩肘張ったぎすぎすとしたような感じが、まったく感じられない。美容師であるのに、ちっとも荒れていない、彼女の指先を見ながらそう思う。ふっくらとした手の甲は、間接にくぼみがあって、昔あったキューピー人形を思い出す。かといってセンスがまったく無さそうという訳でもないと思う。僕は若い女の子の流行なんて、よく分からないが、動きやすいパンツ姿で、足元も常にスニーカーという出で立ちだけれど、なんとなくお洒落な感じがする。突飛な格好をしている訳でなく、なんてことない格好なのだけれども、彼女の周りからは清潔感が漂っている。髪の毛は、とんでもない色に染めている訳でも、前衛的なカットをしている訳でもない。つやのある茶色の髪を、うしろに束ねていたり、上だけ結んでいたりする。何気ない、という言葉がぴったりくるような気がする。彼女の髪は誰が切るのだろう。美容師同士で練習の為に切ったりするのだろうか。でも、この店には、店長と彼女の、ふたりしかいない。美容師は自分で自分の髪の毛を切れるものなのだろうか。

 彼女が「お願いします。」と言うと、店長がやってくる。
「いつものようにで、いいんですよね。」
「はい。お願いします。」
 店長は時々ミラーを見ながら、僕の髪をカットしだす。営業トークを、あまりしない。最初の頃は、少々こちらの出方をうかがっていたような感じがあったが、僕があまり世間話にのってこないのを理解すると、最小限の確認事項しか話しかけてこなくなった。けれども僕がなにかの話に反応すると、少しその話題について会話をやりとりするときもある。アシスタントの彼女もだけれども、この店のふたりは、ちょうどいい感じで僕を放っておいてくれる。そこに好感が持てる。

 あっという間にカットが終了する。やや頭が、軽くなった感じがする。彼女にもう一度、シャンプー台に案内される。「どうぞこちらへ。」
僕はやっぱり、前に立っている彼女の、肉付きのいいウエストのあたりをぼんやりと見ている。別れた妻のウエストを思い出し、もしかしたら2倍近くあるのではないかと、ふと思う。2倍はありすぎだろうが、両手で腰をつかむと、それで終わってしまうくらいな感じの元妻のウエストとは、かなり違うな、と思う。
先ほどの洗髪と違って、カットしたあとのシャンプーは、あっという間に終了する。もう一度カットの席に戻り、今度は彼女が、僕にドライヤーを当てる。
「今日はお休みなんですか。」
 鏡に映った僕に向かって、彼女が話し掛ける。彼女の二重になった顎を見ながら、「そうだね。」と一言答える。妻と別れた直後、僕がカットをしにここへ来たとき、同じ質問を彼女がしたことがあった。僕が同じように、そうだね、と答えると、じゃあこれから奥様とどこかへお出かけですか、と彼女は聞いてきた。「妻とはこの間、離婚したんだ。」僕がそう言うと、彼女はそれ以上何も言わなくなった。妻と僕の私的なことは、何も美容師に言うことではないだろうけれど、いちいちその後の質問を、はぐらかしたり嘘を言ったりするのが、面倒なだけだったのだ。僕は土曜や日曜には、絶対にここに来ない。彼女の休みである週末は、万が一鉢合わせするかもしれないから、やめておく。幸い僕は、平日休みが多いので、こうして普通の日の昼間に、ここにやってくる。

 鏡に映った自分の髪形を見ていると、彼女と視線がぶつかる。ほとんど笑っていないように、彼女は少しだけ微笑する。洗髪と同じような丁寧さで、彼女はあくまでも優しく、僕の髪をブローする。僕も、ほとんど分からないくらいの微笑をして、また視線をどこかに逸らす。


********


 この間髪を切ってから、2ヶ月近くが経っている。だいたい一ヶ月に一度散発しているのだが、このところ仕事が忙しく、休みがとれなかったのだ。会社の帰り、駅前からバスに乗ると、いつものヘアサロンの前を通る。たった二人でやっているこの店は、7時を過ぎると閉まっていることもある。信号が赤になると、バスはちょうど店の前に止まった。今日はまだ店は閉まっておらず、ガラス張りの店内は、蛍光灯の明かりが煌煌としていた。店長は、おそらく今日最後の客を前に、ドライヤーをあてていた。彼女の姿は見えない。信号が青になり、バスが発車しようとするとき、ふとガラスに張ってある張り紙が目についた。スタッフ募集中。詳細は店長まで。僕はよく見えるはずの店内に、彼女の姿をもう一度探した。バスが動き出した。彼女はやはり、見えなかった。今度休みが取れたら、髪を切りに行こうと思う。だがなんとなく、彼女はいないような気がする。あの店に、アシスタントは二人もいらないだろうから。僕はそんなことを思いながら、バスの外に目を向けた。

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