駅の改札を出ると、外は雨が降っていた。
もう辺りは暗くなっていて、空気は雨のせいで余計に冷たく感じた。トレンチコートの襟を少し立てる。駅前の塔についている時計を見ながら、すぐ脇のバスターミナルに向かって歩きだす。病院行きのバスが停車しているのが目に入る。傘を差すのももどかしく、バスに向かって走った。私が乗った途端に、扉が閉まる。車内はがらがらだった。二人掛けの椅子に腰掛ける。
駅前の商店街の前を通り抜けて、次第にバスは住宅街に進んでいく。窓ガラスは曇っていて、何も見えなかった。トレンチコートとカバンについた水滴をハンドタオルで拭きながら、もう一度腕の時計を見た。7時32分。20分くらいなら、面会できるだろう。
3年前に、父が亡くなった。それまで病気一つしたことがなく、持病も無かった父だったが、突然倒れてそのまま逝った。70という年齢は、死ぬのに早いのだろうか、遅いのだろうか。それは分からないけれど、私たち家族には、それは間違いなく突然の出来事だった。父から死を連想することは、何もなかった。病気には縁が無かったし、お酒も付き合い程度、煙草も吸わない、家系的に癌や心臓病で死んだものも無かった。母も私も、父がこんなに早く、しかもあっさりと逝ってしまうなんて、思ってもいなかった。
父と母は、取り立てて仲のよい夫婦という訳でもなかった。どう考えても父は大人しすぎた。母の我儘に付き合っているのも、ただ面倒だから何も言わずにふんふんと聞き流しているだけのような、そんな風に娘の私には見えた。けれども父と私は気が合った。父と私は、お互いがべったりとではなく、ちょうど上手い塩梅で距離を開けておくことができる類の人間だった。相手のことを思っているけれど、それを全面に押し出してまでアピールすることなんて、見っとも無いことだと思っていた。母は違っていた。私はこれだけあなたのことを思っている、と思ったら、それを口に出し態度に出し、相手にも強要しなければ気がすまない人間だった。だから、父も私も、その圧力の中で生活していくことに、時折疲れていた。私は社会人になって数年すると一人暮らしを始めた。思い切り息を吸って、吐いている実感がした。そして数年するとその空気も感じないほどに、私は自由になれた気がした。
父が逝った後、母は割と強かに生きてきた様な気がする。40年ほどを夫婦として一緒に過ごした、その片方が亡くなったのだから、気の落ち込みようは相当なものだろうと思ったのだが、私から見る限りでは、母はそれほどでもなかった。食事が喉を通らないなんてことはなかったし、夜眠れないということもなかっただろう。しばらくはぼんやりと数週間を過ごしていたが、人が一人死ぬということは、たくさんのしなくてはいけないことが山積されていて、まずはそれをひとつひとつクリアしていくだけで精一杯だった。しなくてはならないことのリストはうんとあって、それを私と二人でこなしていった。それが終わると、まるでそうすることが当然だと言うように、疲れたからちょっと近くまで旅行にでも行こうと、県内の温泉まで一泊旅行をした。
旅行が終わって、私はまたひとり暮らしのアパートへ帰っていった。もう母をひとりにしても大丈夫だと思った。離れているといっても電車で数駅の場所にいるのだし、何かあったらすぐ来れるのだ。それに私は、いったん離れた母の圧力の中で再び生きていくのは、今さら困難のように思われた。正直自分の部屋に帰って来たときはほっとした。父が居なくなって母のターゲットは私だけになってしまった。目配せして、阿吽の呼吸でこの気持を分かってくれる父は、今はもう居ない。
バスは幹線道路を少し走って、病院の敷地内にまで入って、入り口で止まる。カードを差し込んで受け取って、バスを降りる。夜の病院は嫌いだ。ロビーは明かりがほとんど付いていなく、私は横の夜間入口から入る。夜間入口のすぐ側に救急患者の待合椅子があり、父の時のことを思い出す。ここで待っている人達は皆不安げな面持ちで、目を合わせるのが憚られる。こうして呑気に見舞いに来ている私のほうが、数倍気が楽だ。
エレベーターに乗って5階を押す。エレベーターの横に売店があって、私はそこを見るとまた母に何かおいしいものを買ってきてやるのを忘れた、と思う。ここに来るまではここに来るだけのことを考えている。面会時間が間に合うようにと、仕事が終わるとすっ飛んで電車に乗りバスに乗り、ああ、間に合ったと思う。だからそんなの、買っている暇はないのだけれど、でも何だか、そういったことを忘れてしまう自分を冷たいと思う。エレベーターの中の鏡を見る。スーツを着てその上にコートを着て、いかにも仕事帰りだなという格好だ。そんな格好をしてくる自分も嫌になる。今日ここにくることが朝分かっているのだから、もっとラフな格好をしてくればよかったのだと、そう思う。これじゃさも忙しくて忙しくてしかたないみたいな格好じゃないか。
「こんばんは。失礼します。」
誰に言うでもなく、4人部屋である母の病室に入るときには必ずそう言う。母のベッドは奥の左。手前の人のベッドが嫌でも見えてしまうから。カーテンで仕切られているとはいえ、皆少しづつカーテンを開けてある。その隙間からちらっと顔が見えることもある。
「あら、今日も来てくれたのね。」
母はこちらに気付くと、見ていたテレビから目を離し、起き上がる。
「あ、いいよ起きなくても。今日は何もないんだけど・・ごめんね。」
私はカバン以外何も手荷物がないことを示す。母はベッドに腰掛ける。
「どう?変わりない?」
「うん、別にね。今日はCTとったけどね。」
母はそれから、一気にこの2日にあった出来事を話し出す。どんな検査をしたとか、先生はいつやってきてどんな話をしたかとか、担当の看護婦は今日は休みだったとか、気に入った看護士の子に冗談を言ったことや、シャワーに入れたことや食事の内容なんかのことを。
「まあ、御飯はまずいわねえ、相変わらず。仕方がないけどねえ。」
それから同じ部屋の人の話題やら退院していった人が外来で来た話やら何やらを。私は同室の人がきっと耳を澄まして聞いているのではないかとはらはらしながら、何も言わずにただ聞き役に徹していた。
「今日も仕事で大変だったんでしょう。平日は来なくていいのに。」
話が一息つくと、母はそう言った。でもそうしたら、5日間一回も来れないじゃないか。
「別に駅からバスが出てるから、この時間に間に合えば平気だから。洗濯もあるでしょ。」
「コインランドリーもあるけどね。だから無理に来なくてもね。」
口ではそう言うけれども、やはり家族が誰かしら来なくては、入院生活というものはたいそう淋しいものだろう。それくらいは私だって分かるのだ。
言いたいことを一気に言ってしまったら、急に話すことが無くなったらしく、母と私の間には静かな空気が横たわった。そういえば、こうして母が入院しているときのほうが、私たちは余計に会って話をしているのだ。母が元気なときは、私は実家に寄り付きもしない。来ようと思えばすぐ来れる距離だからこそなのか、それとも私が無意識に実家というものを避けているのか、こんなに話をすることなんて、ないんだ。
その時同じ部屋の入り口のベッドの方から、男性の静かな深い声が聞こえた。母の斜向かいのベッドの人の、ご主人のようだった。そのベッドの方は母よりも5,6歳年上のように見受けられる、可愛いご婦人で、母の話によるとご主人は毎日遅い時間に来て面会終了時間までいらっしゃるそうだった。
「そうか、それは辛かったねえ。そうかそうか。がんばったなあ。」
その声が耳に入ってくると、なぜか私ははっとしてしまった。ご婦人の声は体型と同じく、華奢で小さくて私の耳には入ってこなかったが、それに答えるご主人の声はよく聞こえた。その声は私のイメージする老人の男の人の声ではなく、老人の男の人の喋り方でもなく、なんというか実に魅力的に響く、本当に実感のこもった、こう言ったら生意気なようなのだけれど、長年ご夫婦を続けてこられた人の、お互いを慈しむような感情がこもっている声だった。
「ん?今朝?今朝はパンを焼いて食べたよ。ひとりで食べるのは淋しいねえ。はやく帰ってきてほしいねえ。」
奥さんのほうの会話は一切聞こえなくても、何を話しているのかよく分かった。どうしてこんなに切なく聞こえるのだろう。言いようによっては、もの凄く照れくさい言葉を、ご主人はさらりと、でも実感のこもった声で言うのであった。ご主人の声が素敵だからなのか、話し方が温かいからだろうか。こんな言い方をされたら、奥さんのほうはもっと切なくなるだろう。私は病室の端っこからカーテン越しに聞こえる会話に、涙が出そうになった。この会話をただちょっと聞いているだけで、この人たちがなんと深くて充実した夫婦生活を送ってきたのかが、分かるような気がした。
ふと母を見ると、母はまったく関係のない話をし始めた。耳の少し遠い母には、斜向かいのご夫婦の会話は聞こえていないようだった。そしてまったく違う話をしている母の顔をぼんやりと見ながら、ああ、父はもう亡くなったのだと、分かりきったことなのにたったいまそう思った。父はもういない。母にとっても、夫はもういない。私は涙が出てくるのを堪えるのに必死だった。
面会時間が終了するというアナウンスが病室に流れた。洗濯物が入った袋を貰い、私はエレベーターホールに出た。そこには斜向かいのベッドの可愛らしいご婦人と、うんと背の高いがっちりした、初老の男性がいた。私は軽くお辞儀をした。
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