今日は少し、遅くなってしまった。駅に降りる直前に時計を見ると、11時40分を指していた。
白々としている蛍光灯が、等間隔に光っている。人がまばらでがらんとしたホームは、深夜に入ろうとしているこの時間帯は、あまりにも寒くて、思わず自分で自分を抱くように腕をさすった。
エスカレーターを一段抜かしで上がり、改札をくぐる。ガラスの向こうの駅員はあくびをしていた。目が合った。一段抜かしで上がったせいか、少し息が切れる。外に出ると誰もいない。各駅停車しか止まらないこの駅は、夜10時も過ぎれば、人はほとんどいなくなる。
すぐ目の前の駐車場に向かう。駐車場のすぐ横にコンビニがある。看板が煌煌としている。その中だけは人が数人いるのが見える。ビールを買っていこうかどうかという考えが浮かぶ。今日は飲み会なのに、車で来てしまったために一滴も飲めなかった。それなのに、よくこんな時間まで付き合ったものだ。女同士の食事会は、話が途切れないので、帰るタイミングをつかみずらい。家に帰ってお風呂に入ったら、絶対に飲みたくなる。でも時間が遅いのだし、とにかく一刻も早く帰って、熱いお風呂に入りたいと思った。コンビニを無視して駐車場に入る。
この時間になると、ほとんどの車は埋まっている。よその車は朝出勤とともに駐車場を出て行き、晩になると帰ってくるようだが、私の場合は逆だ。朝ここに車を置いていき、帰るときに拾う。だから、他の所有者とは顔を合わせたことがない。隣の車は、若い人が乗りそうな青色のセダンだし、反対隣はワンボックスだ。多分、この近所のアパートの住民なんだろうと思う。私は軽ワゴンに乗っている。
キーを押しドアを開ける。エンジンを掛けるとFMの音楽が流れる。頭の中はお風呂に入ることだけを考えている。熱いお風呂熱いお風呂。寒いときはお風呂がいちばんだ。帰ったらすぐにお風呂のスイッチを入れること。早く帰って入りたい。
無意識に体が一連の動作をして、ギヤをドライブに入れようとしたら、バックミラーに、何かが映ったような気がした。夜中で真っ暗なので、気のせいだと思いたかった。ミラーに目を凝らすと何も無い。乗るときに、車の中に誰もいないかチェックするのを忘れたと思った。以前同僚が言っていたのだが、駐車場に停めた車に乗るときは、必ず中に誰もいないか確認して、乗ったらすぐにドアをロックすること、そうしないと万が一不審な者が隠れて乗っていたら、閉じ込められてしまうし、逆に車に乗ったときにすぐにロックしないと、ドアを無理やり開けられて入られてしまって危険だと。それを聞いてから、なるべくそうしようと心掛けてきたのだが、今日はお風呂のことばかり考えていてうっかりしていた。でも、そんなこと、アメリカなんかの国ならともかく、こんな日本であるのだろうか。
「ねえ。」
そう思いながらもう一度ミラーを除くと、そんな声が聞こえたような気がした。頭の中で、髪はぼさぼさで無精ひげで包丁を持った男が、咄嗟に想像された。そして包丁を私の肩越しに突き出し、金を出せ、とか○○へ行け、とか命令する、またはもっと身体的におぞましいことをされるのではないかと、それらのことが本当に一瞬の間に脳裏を駆け巡った。体が固まって動けなくなる。
恐る恐るミラーを見る。体は微動だにせず、目だけでそっとミラーを見た。
そこには、金に近い色の長い髪をした、少し浅黒の若い女の子が映っていた。
最初声が出なかった。まじまじとそこに映っている人間を確認した。髭面のぼさぼさ男ではなく、若い女。まるで知り合いの車に乗っているみたいに、そこに普通に座っていた。そのことが少し自分を落ち着かせる。その子を眺めた。そして初めて声が出た。
「ここで何してるの?!」
あまり驚いた割に、淡々とした言葉が出たことに、自分でびっくりした。でも今度は少し早口になってしまった。
「あんただれなのなんで私の車に乗ってるのどうやってのったの。」
正直変な男でないことにほっとした。わたしより若い女の子ではないか。
「ごめーん。あのさー、わるいんだけどー、ちょっとそこまで乗っけてってくんない?」
自分の車に見ず知らずの女が乗っているのも理解出来なかったが、開口一番初めて見る他人に頼みごとする女も、理解できなかった。あんた何言ってんの、と内心文句を言うと、少し余裕が出てきた。
「あなたは誰なの。なんで私の車に勝手に乗ってる訳?勝手に人の車に乗っておいて、いきなりそこまで送っていけって、失礼だと思わない?」
私はもうほとんど横向きに座っていた。ミラー越しでなく、直接その若い女に向かってしゃべっていた。
「ていうかさー、悪いと思ってんだけどー、酔っ払っててさー、間違っちゃったんだよねー。自分の車とさー。」
そう言われると、確かに酒臭いにおいがした。この寒いのにミニスカートをはいて、ひざまでの薄いタイツの上にブーツを履いている。上着は丈の短いフードのついたダウンジャケットで、その下には薄いTシャツしか着てないようだった。小さいバックからタバコを取り出した。
「悪いけどこの車禁煙だから。吸うなら外で吸ってよね。」
「あ、そう。」
悪びれもせずに女は言う。
いったいこの子は、なんで人の車に乗っているんだろう、と単純に考えた。家出少女だろうか。19かはたちくらいに見えるけれど、実は高校生とか。少なくとも高校生にはなっているだろう。言っているように酔って自分の車と間違えてしまったのだろうか。そうするとこの駐車場の車なのだろうか。
「ここの駐車場に停めてるの?」
「あれ。」
彼女は向かいの列の車を指差した。同じく軽のワゴンが停めてあった。だが色は黒のように見えるし、車種も違う。本当だろうか。思いつきで言ったのではないのか。
「本当にあの車のなの?じゃあ自分の車に乗って帰ればいいでしょう。なんで気がついたらすぐに降りなかったの?それに間違えるなら普通前に乗るでしょう。」
そうは言ったが、彼女は酒を飲んでいるらしいので、運転はさせないほうがいいだろう。これで帰りに事故にでも遭ったら困る。
「ごめん。やっぱ嘘って分かるよねー。あの車じゃないんだけどさ、前にここに車停めてたんだよ。それはホントだよ。」
私がここを借りたのは2ヶ月ほど前からだ。その前の借主が、彼女だったというのだろうか。エンジンを掛けっぱなしの車は、少し温かくなってきたけれど、早くお風呂に入りたい。
「ねえ、まああなたの話を信じるとして、でも家に帰らなければならないでしょう。どこなの家は?早くしないと電車もなくなるわよ。」
即座に時計を見ると12時を過ぎていた。
「どこなの?私交番に行って話すこともできるのよ。人の車に勝手に乗り込んでいるのって犯罪よ。」
本当に犯罪なのかどうかはわからなかったが、ちょっとイライラしてきた。私は早く家に帰りたいのだ。彼女がずっと黙っているので、さらにイライラとした気分になり、やや声を強めて言った。
「どこなの?ここから近いの?近いなら送っていくけど。歩いて帰ってと言いたいところだけれど、夜中だし女の子だし何かあると困るから。」
親切心を出してしまったことに後悔した。近いと言いながら、もしかしたら、うんと遠いところまで送らされるかもしれない。私は前方を向いてミラーで彼女を見ていたが、うなだれてそっぽを向いてうんともすんとも言わないのを見て、また体をねじって彼女を直接見た。
「どうなの?家はどこ?もしかして家出してきたの?高校生?」
顔を上げた彼女は泣いていた。涙を流すのをこらえて、じっとしていた。
「どうしたの?やっぱり家出してきたの?」
「ていうか、彼氏と喧嘩して、家飛び出してきたの。」
投げ捨てるように、少し不貞腐れて彼女は言った。
「それで?どこに行こうとしたの?」
「前付き合ってた男がー、この前のアパートに住んでてー、それであいつのとこに行こうと思ったんだけどー、いなかったていうわけ。そいつと付き合ってるときはここに車停めててー、いつもここで車乗ってたから、その時の癖でつい。」
「でも鍵が開いてなかったでしょ。どうやって車の中に入ったの。」
どうも話が腑に落ちない。後部座席に乗ってることもおかしいし、そもそもなんでドアが開いたのだ。私が鍵を閉め忘れたのか。
「鍵はなぜか開いてたのよ。それでつい、酔っ払ってたし寒いし眠いし行くとこないしで、ちょっと借りようと思ったのよ。ちょっと酔いが覚めるまで借りて、車の持ち主が帰る前に出ようと思ってたけど、なんかぐっすり寝ちゃって。そしたらあんたが帰ってきたからどうしようかと思った。」
やっぱり私がロックしてなかったのだ。一度ロックしたのに、カバンに鍵を入れる拍子にぶつかって、ロックが解除になってしまうことが、ままあるのだ。
「本当にそうなの?」
「うん。友達はみんな都合つかなくてー、彼氏のとこには戻りたくないしー、前彼はいないしー。」
喧嘩と言っても、若いからそんなことはしょっちゅうあるのだろうし、そう言われてもずっとこうしているわけにもいかない。まさか家に連れて帰るわけにもいかないし、かといって交番に突き出すほどのことでもないだろう。
「まさか、おまわりさんのとこ連れて行く気?私悪いことしてないよ。ただちょっと、酔いが覚めるまで借りようと思っただけだし。」
私の心を読んだように、急に大人しい口調になった。本当にこの子は、行くところがないのだろうか。
「喧嘩はなんでしたの?」
彼女は急に下を向いた。そしてスカートの裾を、すこしいじっていた。
「浮気。」
「彼が浮気したの?」
「違う、あたしが。」
「あのねー、それじゃあなたが悪いんでしょう。謝って彼のとこ帰りなさいよー。」
少し呆れた。相手が原因で大喧嘩をして、頭にきて家を飛び出したのかと思った。自分が悪いんじゃないか。
「違うの、確かに浮気をしたのはあたしなんだけど、でもあいつは、もっともっと今までしてるんだよ。それであんまり頭に来て、あたしも見返してやろうかと思ってちょっと遊んだだけ。」
言うとつんとした顔をして、何も見えないであろう外を見ていた。自分は悪くないといいながら、やったことに後悔をしているような感じが、しないでもなかった。
「そう。でも、とりあえず、ずっとこうしているわけにもいかないし、私も早く家に帰りたいのよ。」
「だから最初に、そこまで送っていってって言ったじゃん。」
なんで若い子って、こうもずうずうしいのだろう。浮気症の彼を持ったことに同情しようとした自分が、お人よしに思えてきた。
「あのねえ、順序が逆じゃないの?あなたの事情は知らないけれど、無断で人の車に乗り込んだのあなたでしょう。人に物頼む前に、なんか言うことあるんじゃないの?」
つい子供を叱るときの口調になってしまった。
「すみませんでした。」
「あなた携帯は持ってるの?」
「あるよ。」
若い子は咄嗟に家を飛び出しても、絶対に携帯だけは手放さないでいるのだろう。
「彼に電話しなさい。出たら私が代わるから。」
命令口調で言ってしまった。この子にイライラしながらも、なぜか同情する気持になってしまうのだった。
「だって。やだよ。あいつとはもういいんだもん。」
「あのねえ。じゃあ交番行くわよ。もう夜中なのよ。私は明日も仕事で、早く家に帰りたいのよ。なんであなたと彼のごたごたに、私が付き合わなきゃならないの。とりあえず家に帰って、それからきちんと別れたいなら別れなさい。わかった?」
彼女を見るとまたむっとした顔をしていた。でも本心は彼のもとに帰りたいのだろうと思った。ただ意地があるだけだ。
ちょっと間があいて、渋々小さいカバンから携帯を取り出した。片手ですばやくボタンを押す。
「はい。」
自分で出るのかと思っていたら、素直にこっちに渡した。意地があるから、自分からは嫌なのかもしれない。却って私がしてくれてよかったと思っているのかもしれない。
何回目かのコールで、その彼は出た。彼の名前を聞いてなかったので、なんと言おうか口ごもった。
「彼氏の名前なんていうの?」
咄嗟に聞くと「コージ。」と答えが返ってきた。
「あ、コージさん?今あなたの彼女がここにいるんだけど。彼女ね、勝手に私の車に乗り込んで困ってるから、迎えに来てくれないかしら?家はどこなの?」
唐突に話をされて、彼氏は少し戸惑ったようだった。当たり前か。見ず知らずの女がいきなり電話をしてきて、彼女を迎えに来いというのだから。
携帯の着信表示で、彼女の電話と分かったのだろう。とりあえず私の話を信じてはいるようだ。とりあえず彼女に変わって欲しいと言った。
「代わってだって。」
携帯を彼女に返す。会話の間、意識して外を向いていた彼女は、素振りは嫌々だったが、彼の反応は気になって仕方がないはずだ。
「え?。ホントだよ。マサヒロのうちの前まで来て、酔っ払ってたから前の癖で車に乗って帰ろうと思ったら、気持悪くなってー、少し寝ようと思ってー。え?ドア?だって開いてたんだもんなぜか。で、目が覚めたら知らない人が近づいてくるから、思わず後ろに隠れたんだよ。だからー、分かってるって。謝ったよ。え?近かったら送っていくって言ってくれたよ。」
彼女はちらちらと私を見ながら話している。名前を言っているところを見ると、彼は彼女の元彼を知っているのだろう。そしてこっちに視線を固定して最後は言った。「じゃ代わるよ。」
電話を差し出した。もう一度代われということか。ちょっとだけ触れた彼女の手は、びっくりするほど冷たかった。
「はい?」
彼は私が想像したよりも、もっときちんとしていた。彼女の非礼を詫び、済みませんでしたと何度も言った。そしてすぐ迎えに行きますからと言って、電話を切った。
「なんか、結構いい奴じゃないの、彼?」
私がそう言うと、きっとした顔で彼女は言った。
「そうやって人あたりがいいから、女にもてるんです。だから浮気も、しようと思えばいつでもできるし。」
そう言う彼女は、ちょっとかわいく見えた。女なんて、誰だって嫉妬するものだ。そして彼が素敵ならなおさら、悩みの種はつきないのだろう。暗くてよく分からなかったが、彼女の顔はよく見ればとてもキュートだった。化粧もそれほどきつくなく、もとの顔の造作がいいのだと思った。言葉使いは今どきの若い子だけれど、恋するのに真剣で、だからこそ嫉妬してしまうのだろう。
「でも、今だってほら、迎えに来てくれるんでしょう。別に勝手に出て行ったんだから関係ないといえばそれまでなのに。私にも散々謝ったわよ。何も彼が悪いわけでもないし、彼が謝る必要もないわけでしょう、別れた彼女のことなんて。」
彼女の顔を真正面から見て言うと、彼女も私をじっと見ていた。そして数秒何かを考えていた。酔いもだいぶ醒めてきたのだろう。私も何だか疲れて、急にまたお風呂のことを思い出した。そして彼女の冷たい手を思い出した。暖房も効いていない車の中、何十分か何時間か分からないがいたのだから、恐らく体は冷え切っているだろう。
駐車場の出口の自動販売機が目に入ったので、降りて缶コーヒーを二本買った。
「はい。」
後ろの席に手を伸ばす。彼女は細い手でそれを受け取った。長い爪に綺麗なペイントがされていた。手で包んで温めるようにしてから、彼女はそれを飲んだ。
「ありがと。」
彼女は、つぶやくような小さな声で言った。私のこの件もそうだけれど、彼のことも彼女なりに、ほっとしたのだろう。
「まあ、うまくやりなさいよ。若いんだし。」
何だか自分を年寄りのように感じた。でも、そんなことは、そんな問題は、若くてもある程度歳 がいっても、変わらないんじゃないかと思った。私の恋愛だって、そんなに順調じゃない。
私は一気にコーヒーを飲み干してしまった。遠くの方から車が一台来て、止まった。
白々としている蛍光灯が、等間隔に光っている。人がまばらでがらんとしたホームは、深夜に入ろうとしているこの時間帯は、あまりにも寒くて、思わず自分で自分を抱くように腕をさすった。
エスカレーターを一段抜かしで上がり、改札をくぐる。ガラスの向こうの駅員はあくびをしていた。目が合った。一段抜かしで上がったせいか、少し息が切れる。外に出ると誰もいない。各駅停車しか止まらないこの駅は、夜10時も過ぎれば、人はほとんどいなくなる。
すぐ目の前の駐車場に向かう。駐車場のすぐ横にコンビニがある。看板が煌煌としている。その中だけは人が数人いるのが見える。ビールを買っていこうかどうかという考えが浮かぶ。今日は飲み会なのに、車で来てしまったために一滴も飲めなかった。それなのに、よくこんな時間まで付き合ったものだ。女同士の食事会は、話が途切れないので、帰るタイミングをつかみずらい。家に帰ってお風呂に入ったら、絶対に飲みたくなる。でも時間が遅いのだし、とにかく一刻も早く帰って、熱いお風呂に入りたいと思った。コンビニを無視して駐車場に入る。
この時間になると、ほとんどの車は埋まっている。よその車は朝出勤とともに駐車場を出て行き、晩になると帰ってくるようだが、私の場合は逆だ。朝ここに車を置いていき、帰るときに拾う。だから、他の所有者とは顔を合わせたことがない。隣の車は、若い人が乗りそうな青色のセダンだし、反対隣はワンボックスだ。多分、この近所のアパートの住民なんだろうと思う。私は軽ワゴンに乗っている。
キーを押しドアを開ける。エンジンを掛けるとFMの音楽が流れる。頭の中はお風呂に入ることだけを考えている。熱いお風呂熱いお風呂。寒いときはお風呂がいちばんだ。帰ったらすぐにお風呂のスイッチを入れること。早く帰って入りたい。
無意識に体が一連の動作をして、ギヤをドライブに入れようとしたら、バックミラーに、何かが映ったような気がした。夜中で真っ暗なので、気のせいだと思いたかった。ミラーに目を凝らすと何も無い。乗るときに、車の中に誰もいないかチェックするのを忘れたと思った。以前同僚が言っていたのだが、駐車場に停めた車に乗るときは、必ず中に誰もいないか確認して、乗ったらすぐにドアをロックすること、そうしないと万が一不審な者が隠れて乗っていたら、閉じ込められてしまうし、逆に車に乗ったときにすぐにロックしないと、ドアを無理やり開けられて入られてしまって危険だと。それを聞いてから、なるべくそうしようと心掛けてきたのだが、今日はお風呂のことばかり考えていてうっかりしていた。でも、そんなこと、アメリカなんかの国ならともかく、こんな日本であるのだろうか。
「ねえ。」
そう思いながらもう一度ミラーを除くと、そんな声が聞こえたような気がした。頭の中で、髪はぼさぼさで無精ひげで包丁を持った男が、咄嗟に想像された。そして包丁を私の肩越しに突き出し、金を出せ、とか○○へ行け、とか命令する、またはもっと身体的におぞましいことをされるのではないかと、それらのことが本当に一瞬の間に脳裏を駆け巡った。体が固まって動けなくなる。
恐る恐るミラーを見る。体は微動だにせず、目だけでそっとミラーを見た。
そこには、金に近い色の長い髪をした、少し浅黒の若い女の子が映っていた。
最初声が出なかった。まじまじとそこに映っている人間を確認した。髭面のぼさぼさ男ではなく、若い女。まるで知り合いの車に乗っているみたいに、そこに普通に座っていた。そのことが少し自分を落ち着かせる。その子を眺めた。そして初めて声が出た。
「ここで何してるの?!」
あまり驚いた割に、淡々とした言葉が出たことに、自分でびっくりした。でも今度は少し早口になってしまった。
「あんただれなのなんで私の車に乗ってるのどうやってのったの。」
正直変な男でないことにほっとした。わたしより若い女の子ではないか。
「ごめーん。あのさー、わるいんだけどー、ちょっとそこまで乗っけてってくんない?」
自分の車に見ず知らずの女が乗っているのも理解出来なかったが、開口一番初めて見る他人に頼みごとする女も、理解できなかった。あんた何言ってんの、と内心文句を言うと、少し余裕が出てきた。
「あなたは誰なの。なんで私の車に勝手に乗ってる訳?勝手に人の車に乗っておいて、いきなりそこまで送っていけって、失礼だと思わない?」
私はもうほとんど横向きに座っていた。ミラー越しでなく、直接その若い女に向かってしゃべっていた。
「ていうかさー、悪いと思ってんだけどー、酔っ払っててさー、間違っちゃったんだよねー。自分の車とさー。」
そう言われると、確かに酒臭いにおいがした。この寒いのにミニスカートをはいて、ひざまでの薄いタイツの上にブーツを履いている。上着は丈の短いフードのついたダウンジャケットで、その下には薄いTシャツしか着てないようだった。小さいバックからタバコを取り出した。
「悪いけどこの車禁煙だから。吸うなら外で吸ってよね。」
「あ、そう。」
悪びれもせずに女は言う。
いったいこの子は、なんで人の車に乗っているんだろう、と単純に考えた。家出少女だろうか。19かはたちくらいに見えるけれど、実は高校生とか。少なくとも高校生にはなっているだろう。言っているように酔って自分の車と間違えてしまったのだろうか。そうするとこの駐車場の車なのだろうか。
「ここの駐車場に停めてるの?」
「あれ。」
彼女は向かいの列の車を指差した。同じく軽のワゴンが停めてあった。だが色は黒のように見えるし、車種も違う。本当だろうか。思いつきで言ったのではないのか。
「本当にあの車のなの?じゃあ自分の車に乗って帰ればいいでしょう。なんで気がついたらすぐに降りなかったの?それに間違えるなら普通前に乗るでしょう。」
そうは言ったが、彼女は酒を飲んでいるらしいので、運転はさせないほうがいいだろう。これで帰りに事故にでも遭ったら困る。
「ごめん。やっぱ嘘って分かるよねー。あの車じゃないんだけどさ、前にここに車停めてたんだよ。それはホントだよ。」
私がここを借りたのは2ヶ月ほど前からだ。その前の借主が、彼女だったというのだろうか。エンジンを掛けっぱなしの車は、少し温かくなってきたけれど、早くお風呂に入りたい。
「ねえ、まああなたの話を信じるとして、でも家に帰らなければならないでしょう。どこなの家は?早くしないと電車もなくなるわよ。」
即座に時計を見ると12時を過ぎていた。
「どこなの?私交番に行って話すこともできるのよ。人の車に勝手に乗り込んでいるのって犯罪よ。」
本当に犯罪なのかどうかはわからなかったが、ちょっとイライラしてきた。私は早く家に帰りたいのだ。彼女がずっと黙っているので、さらにイライラとした気分になり、やや声を強めて言った。
「どこなの?ここから近いの?近いなら送っていくけど。歩いて帰ってと言いたいところだけれど、夜中だし女の子だし何かあると困るから。」
親切心を出してしまったことに後悔した。近いと言いながら、もしかしたら、うんと遠いところまで送らされるかもしれない。私は前方を向いてミラーで彼女を見ていたが、うなだれてそっぽを向いてうんともすんとも言わないのを見て、また体をねじって彼女を直接見た。
「どうなの?家はどこ?もしかして家出してきたの?高校生?」
顔を上げた彼女は泣いていた。涙を流すのをこらえて、じっとしていた。
「どうしたの?やっぱり家出してきたの?」
「ていうか、彼氏と喧嘩して、家飛び出してきたの。」
投げ捨てるように、少し不貞腐れて彼女は言った。
「それで?どこに行こうとしたの?」
「前付き合ってた男がー、この前のアパートに住んでてー、それであいつのとこに行こうと思ったんだけどー、いなかったていうわけ。そいつと付き合ってるときはここに車停めててー、いつもここで車乗ってたから、その時の癖でつい。」
「でも鍵が開いてなかったでしょ。どうやって車の中に入ったの。」
どうも話が腑に落ちない。後部座席に乗ってることもおかしいし、そもそもなんでドアが開いたのだ。私が鍵を閉め忘れたのか。
「鍵はなぜか開いてたのよ。それでつい、酔っ払ってたし寒いし眠いし行くとこないしで、ちょっと借りようと思ったのよ。ちょっと酔いが覚めるまで借りて、車の持ち主が帰る前に出ようと思ってたけど、なんかぐっすり寝ちゃって。そしたらあんたが帰ってきたからどうしようかと思った。」
やっぱり私がロックしてなかったのだ。一度ロックしたのに、カバンに鍵を入れる拍子にぶつかって、ロックが解除になってしまうことが、ままあるのだ。
「本当にそうなの?」
「うん。友達はみんな都合つかなくてー、彼氏のとこには戻りたくないしー、前彼はいないしー。」
喧嘩と言っても、若いからそんなことはしょっちゅうあるのだろうし、そう言われてもずっとこうしているわけにもいかない。まさか家に連れて帰るわけにもいかないし、かといって交番に突き出すほどのことでもないだろう。
「まさか、おまわりさんのとこ連れて行く気?私悪いことしてないよ。ただちょっと、酔いが覚めるまで借りようと思っただけだし。」
私の心を読んだように、急に大人しい口調になった。本当にこの子は、行くところがないのだろうか。
「喧嘩はなんでしたの?」
彼女は急に下を向いた。そしてスカートの裾を、すこしいじっていた。
「浮気。」
「彼が浮気したの?」
「違う、あたしが。」
「あのねー、それじゃあなたが悪いんでしょう。謝って彼のとこ帰りなさいよー。」
少し呆れた。相手が原因で大喧嘩をして、頭にきて家を飛び出したのかと思った。自分が悪いんじゃないか。
「違うの、確かに浮気をしたのはあたしなんだけど、でもあいつは、もっともっと今までしてるんだよ。それであんまり頭に来て、あたしも見返してやろうかと思ってちょっと遊んだだけ。」
言うとつんとした顔をして、何も見えないであろう外を見ていた。自分は悪くないといいながら、やったことに後悔をしているような感じが、しないでもなかった。
「そう。でも、とりあえず、ずっとこうしているわけにもいかないし、私も早く家に帰りたいのよ。」
「だから最初に、そこまで送っていってって言ったじゃん。」
なんで若い子って、こうもずうずうしいのだろう。浮気症の彼を持ったことに同情しようとした自分が、お人よしに思えてきた。
「あのねえ、順序が逆じゃないの?あなたの事情は知らないけれど、無断で人の車に乗り込んだのあなたでしょう。人に物頼む前に、なんか言うことあるんじゃないの?」
つい子供を叱るときの口調になってしまった。
「すみませんでした。」
「あなた携帯は持ってるの?」
「あるよ。」
若い子は咄嗟に家を飛び出しても、絶対に携帯だけは手放さないでいるのだろう。
「彼に電話しなさい。出たら私が代わるから。」
命令口調で言ってしまった。この子にイライラしながらも、なぜか同情する気持になってしまうのだった。
「だって。やだよ。あいつとはもういいんだもん。」
「あのねえ。じゃあ交番行くわよ。もう夜中なのよ。私は明日も仕事で、早く家に帰りたいのよ。なんであなたと彼のごたごたに、私が付き合わなきゃならないの。とりあえず家に帰って、それからきちんと別れたいなら別れなさい。わかった?」
彼女を見るとまたむっとした顔をしていた。でも本心は彼のもとに帰りたいのだろうと思った。ただ意地があるだけだ。
ちょっと間があいて、渋々小さいカバンから携帯を取り出した。片手ですばやくボタンを押す。
「はい。」
自分で出るのかと思っていたら、素直にこっちに渡した。意地があるから、自分からは嫌なのかもしれない。却って私がしてくれてよかったと思っているのかもしれない。
何回目かのコールで、その彼は出た。彼の名前を聞いてなかったので、なんと言おうか口ごもった。
「彼氏の名前なんていうの?」
咄嗟に聞くと「コージ。」と答えが返ってきた。
「あ、コージさん?今あなたの彼女がここにいるんだけど。彼女ね、勝手に私の車に乗り込んで困ってるから、迎えに来てくれないかしら?家はどこなの?」
唐突に話をされて、彼氏は少し戸惑ったようだった。当たり前か。見ず知らずの女がいきなり電話をしてきて、彼女を迎えに来いというのだから。
携帯の着信表示で、彼女の電話と分かったのだろう。とりあえず私の話を信じてはいるようだ。とりあえず彼女に変わって欲しいと言った。
「代わってだって。」
携帯を彼女に返す。会話の間、意識して外を向いていた彼女は、素振りは嫌々だったが、彼の反応は気になって仕方がないはずだ。
「え?。ホントだよ。マサヒロのうちの前まで来て、酔っ払ってたから前の癖で車に乗って帰ろうと思ったら、気持悪くなってー、少し寝ようと思ってー。え?ドア?だって開いてたんだもんなぜか。で、目が覚めたら知らない人が近づいてくるから、思わず後ろに隠れたんだよ。だからー、分かってるって。謝ったよ。え?近かったら送っていくって言ってくれたよ。」
彼女はちらちらと私を見ながら話している。名前を言っているところを見ると、彼は彼女の元彼を知っているのだろう。そしてこっちに視線を固定して最後は言った。「じゃ代わるよ。」
電話を差し出した。もう一度代われということか。ちょっとだけ触れた彼女の手は、びっくりするほど冷たかった。
「はい?」
彼は私が想像したよりも、もっときちんとしていた。彼女の非礼を詫び、済みませんでしたと何度も言った。そしてすぐ迎えに行きますからと言って、電話を切った。
「なんか、結構いい奴じゃないの、彼?」
私がそう言うと、きっとした顔で彼女は言った。
「そうやって人あたりがいいから、女にもてるんです。だから浮気も、しようと思えばいつでもできるし。」
そう言う彼女は、ちょっとかわいく見えた。女なんて、誰だって嫉妬するものだ。そして彼が素敵ならなおさら、悩みの種はつきないのだろう。暗くてよく分からなかったが、彼女の顔はよく見ればとてもキュートだった。化粧もそれほどきつくなく、もとの顔の造作がいいのだと思った。言葉使いは今どきの若い子だけれど、恋するのに真剣で、だからこそ嫉妬してしまうのだろう。
「でも、今だってほら、迎えに来てくれるんでしょう。別に勝手に出て行ったんだから関係ないといえばそれまでなのに。私にも散々謝ったわよ。何も彼が悪いわけでもないし、彼が謝る必要もないわけでしょう、別れた彼女のことなんて。」
彼女の顔を真正面から見て言うと、彼女も私をじっと見ていた。そして数秒何かを考えていた。酔いもだいぶ醒めてきたのだろう。私も何だか疲れて、急にまたお風呂のことを思い出した。そして彼女の冷たい手を思い出した。暖房も効いていない車の中、何十分か何時間か分からないがいたのだから、恐らく体は冷え切っているだろう。
駐車場の出口の自動販売機が目に入ったので、降りて缶コーヒーを二本買った。
「はい。」
後ろの席に手を伸ばす。彼女は細い手でそれを受け取った。長い爪に綺麗なペイントがされていた。手で包んで温めるようにしてから、彼女はそれを飲んだ。
「ありがと。」
彼女は、つぶやくような小さな声で言った。私のこの件もそうだけれど、彼のことも彼女なりに、ほっとしたのだろう。
「まあ、うまくやりなさいよ。若いんだし。」
何だか自分を年寄りのように感じた。でも、そんなことは、そんな問題は、若くてもある程度歳 がいっても、変わらないんじゃないかと思った。私の恋愛だって、そんなに順調じゃない。
私は一気にコーヒーを飲み干してしまった。遠くの方から車が一台来て、止まった。