星を見ていた。

思っていることを、言葉にするのはむずかしい・・・。
良かったら読んでいってください。

夜、駐車場で

2007-01-20 23:02:43 | 読みきり
今日は少し、遅くなってしまった。駅に降りる直前に時計を見ると、11時40分を指していた。    

 白々としている蛍光灯が、等間隔に光っている。人がまばらでがらんとしたホームは、深夜に入ろうとしているこの時間帯は、あまりにも寒くて、思わず自分で自分を抱くように腕をさすった。

 エスカレーターを一段抜かしで上がり、改札をくぐる。ガラスの向こうの駅員はあくびをしていた。目が合った。一段抜かしで上がったせいか、少し息が切れる。外に出ると誰もいない。各駅停車しか止まらないこの駅は、夜10時も過ぎれば、人はほとんどいなくなる。

 すぐ目の前の駐車場に向かう。駐車場のすぐ横にコンビニがある。看板が煌煌としている。その中だけは人が数人いるのが見える。ビールを買っていこうかどうかという考えが浮かぶ。今日は飲み会なのに、車で来てしまったために一滴も飲めなかった。それなのに、よくこんな時間まで付き合ったものだ。女同士の食事会は、話が途切れないので、帰るタイミングをつかみずらい。家に帰ってお風呂に入ったら、絶対に飲みたくなる。でも時間が遅いのだし、とにかく一刻も早く帰って、熱いお風呂に入りたいと思った。コンビニを無視して駐車場に入る。

 この時間になると、ほとんどの車は埋まっている。よその車は朝出勤とともに駐車場を出て行き、晩になると帰ってくるようだが、私の場合は逆だ。朝ここに車を置いていき、帰るときに拾う。だから、他の所有者とは顔を合わせたことがない。隣の車は、若い人が乗りそうな青色のセダンだし、反対隣はワンボックスだ。多分、この近所のアパートの住民なんだろうと思う。私は軽ワゴンに乗っている。

 キーを押しドアを開ける。エンジンを掛けるとFMの音楽が流れる。頭の中はお風呂に入ることだけを考えている。熱いお風呂熱いお風呂。寒いときはお風呂がいちばんだ。帰ったらすぐにお風呂のスイッチを入れること。早く帰って入りたい。

 無意識に体が一連の動作をして、ギヤをドライブに入れようとしたら、バックミラーに、何かが映ったような気がした。夜中で真っ暗なので、気のせいだと思いたかった。ミラーに目を凝らすと何も無い。乗るときに、車の中に誰もいないかチェックするのを忘れたと思った。以前同僚が言っていたのだが、駐車場に停めた車に乗るときは、必ず中に誰もいないか確認して、乗ったらすぐにドアをロックすること、そうしないと万が一不審な者が隠れて乗っていたら、閉じ込められてしまうし、逆に車に乗ったときにすぐにロックしないと、ドアを無理やり開けられて入られてしまって危険だと。それを聞いてから、なるべくそうしようと心掛けてきたのだが、今日はお風呂のことばかり考えていてうっかりしていた。でも、そんなこと、アメリカなんかの国ならともかく、こんな日本であるのだろうか。

 「ねえ。」

 そう思いながらもう一度ミラーを除くと、そんな声が聞こえたような気がした。頭の中で、髪はぼさぼさで無精ひげで包丁を持った男が、咄嗟に想像された。そして包丁を私の肩越しに突き出し、金を出せ、とか○○へ行け、とか命令する、またはもっと身体的におぞましいことをされるのではないかと、それらのことが本当に一瞬の間に脳裏を駆け巡った。体が固まって動けなくなる。

 恐る恐るミラーを見る。体は微動だにせず、目だけでそっとミラーを見た。

 そこには、金に近い色の長い髪をした、少し浅黒の若い女の子が映っていた。

 最初声が出なかった。まじまじとそこに映っている人間を確認した。髭面のぼさぼさ男ではなく、若い女。まるで知り合いの車に乗っているみたいに、そこに普通に座っていた。そのことが少し自分を落ち着かせる。その子を眺めた。そして初めて声が出た。

 「ここで何してるの?!」

 あまり驚いた割に、淡々とした言葉が出たことに、自分でびっくりした。でも今度は少し早口になってしまった。

 「あんただれなのなんで私の車に乗ってるのどうやってのったの。」

 正直変な男でないことにほっとした。わたしより若い女の子ではないか。

 「ごめーん。あのさー、わるいんだけどー、ちょっとそこまで乗っけてってくんない?」

 自分の車に見ず知らずの女が乗っているのも理解出来なかったが、開口一番初めて見る他人に頼みごとする女も、理解できなかった。あんた何言ってんの、と内心文句を言うと、少し余裕が出てきた。

 「あなたは誰なの。なんで私の車に勝手に乗ってる訳?勝手に人の車に乗っておいて、いきなりそこまで送っていけって、失礼だと思わない?」

 私はもうほとんど横向きに座っていた。ミラー越しでなく、直接その若い女に向かってしゃべっていた。

 「ていうかさー、悪いと思ってんだけどー、酔っ払っててさー、間違っちゃったんだよねー。自分の車とさー。」

 そう言われると、確かに酒臭いにおいがした。この寒いのにミニスカートをはいて、ひざまでの薄いタイツの上にブーツを履いている。上着は丈の短いフードのついたダウンジャケットで、その下には薄いTシャツしか着てないようだった。小さいバックからタバコを取り出した。

 「悪いけどこの車禁煙だから。吸うなら外で吸ってよね。」

 「あ、そう。」

 悪びれもせずに女は言う。

 いったいこの子は、なんで人の車に乗っているんだろう、と単純に考えた。家出少女だろうか。19かはたちくらいに見えるけれど、実は高校生とか。少なくとも高校生にはなっているだろう。言っているように酔って自分の車と間違えてしまったのだろうか。そうするとこの駐車場の車なのだろうか。

 「ここの駐車場に停めてるの?」

 「あれ。」

 彼女は向かいの列の車を指差した。同じく軽のワゴンが停めてあった。だが色は黒のように見えるし、車種も違う。本当だろうか。思いつきで言ったのではないのか。

 「本当にあの車のなの?じゃあ自分の車に乗って帰ればいいでしょう。なんで気がついたらすぐに降りなかったの?それに間違えるなら普通前に乗るでしょう。」

 そうは言ったが、彼女は酒を飲んでいるらしいので、運転はさせないほうがいいだろう。これで帰りに事故にでも遭ったら困る。

 「ごめん。やっぱ嘘って分かるよねー。あの車じゃないんだけどさ、前にここに車停めてたんだよ。それはホントだよ。」

 私がここを借りたのは2ヶ月ほど前からだ。その前の借主が、彼女だったというのだろうか。エンジンを掛けっぱなしの車は、少し温かくなってきたけれど、早くお風呂に入りたい。

 「ねえ、まああなたの話を信じるとして、でも家に帰らなければならないでしょう。どこなの家は?早くしないと電車もなくなるわよ。」

 即座に時計を見ると12時を過ぎていた。

 「どこなの?私交番に行って話すこともできるのよ。人の車に勝手に乗り込んでいるのって犯罪よ。」

 本当に犯罪なのかどうかはわからなかったが、ちょっとイライラしてきた。私は早く家に帰りたいのだ。彼女がずっと黙っているので、さらにイライラとした気分になり、やや声を強めて言った。

 「どこなの?ここから近いの?近いなら送っていくけど。歩いて帰ってと言いたいところだけれど、夜中だし女の子だし何かあると困るから。」

 親切心を出してしまったことに後悔した。近いと言いながら、もしかしたら、うんと遠いところまで送らされるかもしれない。私は前方を向いてミラーで彼女を見ていたが、うなだれてそっぽを向いてうんともすんとも言わないのを見て、また体をねじって彼女を直接見た。

 「どうなの?家はどこ?もしかして家出してきたの?高校生?」

顔を上げた彼女は泣いていた。涙を流すのをこらえて、じっとしていた。

 「どうしたの?やっぱり家出してきたの?」

 「ていうか、彼氏と喧嘩して、家飛び出してきたの。」

 投げ捨てるように、少し不貞腐れて彼女は言った。

 「それで?どこに行こうとしたの?」

 「前付き合ってた男がー、この前のアパートに住んでてー、それであいつのとこに行こうと思ったんだけどー、いなかったていうわけ。そいつと付き合ってるときはここに車停めててー、いつもここで車乗ってたから、その時の癖でつい。」

 「でも鍵が開いてなかったでしょ。どうやって車の中に入ったの。」

 どうも話が腑に落ちない。後部座席に乗ってることもおかしいし、そもそもなんでドアが開いたのだ。私が鍵を閉め忘れたのか。

 「鍵はなぜか開いてたのよ。それでつい、酔っ払ってたし寒いし眠いし行くとこないしで、ちょっと借りようと思ったのよ。ちょっと酔いが覚めるまで借りて、車の持ち主が帰る前に出ようと思ってたけど、なんかぐっすり寝ちゃって。そしたらあんたが帰ってきたからどうしようかと思った。」

 やっぱり私がロックしてなかったのだ。一度ロックしたのに、カバンに鍵を入れる拍子にぶつかって、ロックが解除になってしまうことが、ままあるのだ。

 「本当にそうなの?」

 「うん。友達はみんな都合つかなくてー、彼氏のとこには戻りたくないしー、前彼はいないしー。」

 喧嘩と言っても、若いからそんなことはしょっちゅうあるのだろうし、そう言われてもずっとこうしているわけにもいかない。まさか家に連れて帰るわけにもいかないし、かといって交番に突き出すほどのことでもないだろう。

 「まさか、おまわりさんのとこ連れて行く気?私悪いことしてないよ。ただちょっと、酔いが覚めるまで借りようと思っただけだし。」

 私の心を読んだように、急に大人しい口調になった。本当にこの子は、行くところがないのだろうか。

 「喧嘩はなんでしたの?」

 彼女は急に下を向いた。そしてスカートの裾を、すこしいじっていた。

 「浮気。」

 「彼が浮気したの?」

 「違う、あたしが。」

 「あのねー、それじゃあなたが悪いんでしょう。謝って彼のとこ帰りなさいよー。」

 少し呆れた。相手が原因で大喧嘩をして、頭にきて家を飛び出したのかと思った。自分が悪いんじゃないか。

 「違うの、確かに浮気をしたのはあたしなんだけど、でもあいつは、もっともっと今までしてるんだよ。それであんまり頭に来て、あたしも見返してやろうかと思ってちょっと遊んだだけ。」

 言うとつんとした顔をして、何も見えないであろう外を見ていた。自分は悪くないといいながら、やったことに後悔をしているような感じが、しないでもなかった。

 「そう。でも、とりあえず、ずっとこうしているわけにもいかないし、私も早く家に帰りたいのよ。」

 「だから最初に、そこまで送っていってって言ったじゃん。」

 なんで若い子って、こうもずうずうしいのだろう。浮気症の彼を持ったことに同情しようとした自分が、お人よしに思えてきた。

 「あのねえ、順序が逆じゃないの?あなたの事情は知らないけれど、無断で人の車に乗り込んだのあなたでしょう。人に物頼む前に、なんか言うことあるんじゃないの?」

 つい子供を叱るときの口調になってしまった。

 「すみませんでした。」

 「あなた携帯は持ってるの?」

 「あるよ。」

 若い子は咄嗟に家を飛び出しても、絶対に携帯だけは手放さないでいるのだろう。

 「彼に電話しなさい。出たら私が代わるから。」

 命令口調で言ってしまった。この子にイライラしながらも、なぜか同情する気持になってしまうのだった。

 「だって。やだよ。あいつとはもういいんだもん。」 

 「あのねえ。じゃあ交番行くわよ。もう夜中なのよ。私は明日も仕事で、早く家に帰りたいのよ。なんであなたと彼のごたごたに、私が付き合わなきゃならないの。とりあえず家に帰って、それからきちんと別れたいなら別れなさい。わかった?」

 彼女を見るとまたむっとした顔をしていた。でも本心は彼のもとに帰りたいのだろうと思った。ただ意地があるだけだ。

 ちょっと間があいて、渋々小さいカバンから携帯を取り出した。片手ですばやくボタンを押す。

 「はい。」

 自分で出るのかと思っていたら、素直にこっちに渡した。意地があるから、自分からは嫌なのかもしれない。却って私がしてくれてよかったと思っているのかもしれない。

 何回目かのコールで、その彼は出た。彼の名前を聞いてなかったので、なんと言おうか口ごもった。

 「彼氏の名前なんていうの?」

 咄嗟に聞くと「コージ。」と答えが返ってきた。

 「あ、コージさん?今あなたの彼女がここにいるんだけど。彼女ね、勝手に私の車に乗り込んで困ってるから、迎えに来てくれないかしら?家はどこなの?」

 唐突に話をされて、彼氏は少し戸惑ったようだった。当たり前か。見ず知らずの女がいきなり電話をしてきて、彼女を迎えに来いというのだから。

 携帯の着信表示で、彼女の電話と分かったのだろう。とりあえず私の話を信じてはいるようだ。とりあえず彼女に変わって欲しいと言った。

 「代わってだって。」

 携帯を彼女に返す。会話の間、意識して外を向いていた彼女は、素振りは嫌々だったが、彼の反応は気になって仕方がないはずだ。

 「え?。ホントだよ。マサヒロのうちの前まで来て、酔っ払ってたから前の癖で車に乗って帰ろうと思ったら、気持悪くなってー、少し寝ようと思ってー。え?ドア?だって開いてたんだもんなぜか。で、目が覚めたら知らない人が近づいてくるから、思わず後ろに隠れたんだよ。だからー、分かってるって。謝ったよ。え?近かったら送っていくって言ってくれたよ。」

 彼女はちらちらと私を見ながら話している。名前を言っているところを見ると、彼は彼女の元彼を知っているのだろう。そしてこっちに視線を固定して最後は言った。「じゃ代わるよ。」

 電話を差し出した。もう一度代われということか。ちょっとだけ触れた彼女の手は、びっくりするほど冷たかった。

 「はい?」

 彼は私が想像したよりも、もっときちんとしていた。彼女の非礼を詫び、済みませんでしたと何度も言った。そしてすぐ迎えに行きますからと言って、電話を切った。

 「なんか、結構いい奴じゃないの、彼?」

 私がそう言うと、きっとした顔で彼女は言った。

 「そうやって人あたりがいいから、女にもてるんです。だから浮気も、しようと思えばいつでもできるし。」

 そう言う彼女は、ちょっとかわいく見えた。女なんて、誰だって嫉妬するものだ。そして彼が素敵ならなおさら、悩みの種はつきないのだろう。暗くてよく分からなかったが、彼女の顔はよく見ればとてもキュートだった。化粧もそれほどきつくなく、もとの顔の造作がいいのだと思った。言葉使いは今どきの若い子だけれど、恋するのに真剣で、だからこそ嫉妬してしまうのだろう。

 「でも、今だってほら、迎えに来てくれるんでしょう。別に勝手に出て行ったんだから関係ないといえばそれまでなのに。私にも散々謝ったわよ。何も彼が悪いわけでもないし、彼が謝る必要もないわけでしょう、別れた彼女のことなんて。」

 彼女の顔を真正面から見て言うと、彼女も私をじっと見ていた。そして数秒何かを考えていた。酔いもだいぶ醒めてきたのだろう。私も何だか疲れて、急にまたお風呂のことを思い出した。そして彼女の冷たい手を思い出した。暖房も効いていない車の中、何十分か何時間か分からないがいたのだから、恐らく体は冷え切っているだろう。

 駐車場の出口の自動販売機が目に入ったので、降りて缶コーヒーを二本買った。

 「はい。」

 後ろの席に手を伸ばす。彼女は細い手でそれを受け取った。長い爪に綺麗なペイントがされていた。手で包んで温めるようにしてから、彼女はそれを飲んだ。

 「ありがと。」

 彼女は、つぶやくような小さな声で言った。私のこの件もそうだけれど、彼のことも彼女なりに、ほっとしたのだろう。

 「まあ、うまくやりなさいよ。若いんだし。」

 何だか自分を年寄りのように感じた。でも、そんなことは、そんな問題は、若くてもある程度歳 がいっても、変わらないんじゃないかと思った。私の恋愛だって、そんなに順調じゃない。



 私は一気にコーヒーを飲み干してしまった。遠くの方から車が一台来て、止まった。



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夕凪(最終章)

2007-01-13 18:08:21 | 夕凪
階段に座って、遠くを眺めた。人はまばらだった。海岸線はあまりくっきりとは見えず、霞んでいた。日差しが差すと、海の色が少し鮮やかになった。けれど太陽はちょっと顔を出しきり、また曇ってしまった。肌寒いと感じた空気は、風にあたり続けていると、さらに冷たくなった気がして、バッグからマフラーを取り出し首に巻いた。襟元が暖かくなると少し落ち着いた。

今日家に帰ったら、判定薬を使おうと思った。今朝実行しようと思ったけれど、確実な結果が欲しいと思ったのと、今日海へ来ることを思いついたので、止めたのだった。怖かったのかもしれない。もう正直なところ、自分が妊娠しているのではという思いは、かなり決定的なような気がしてきてきた。ずっと体が重いし、頭痛もひどい。何となくではあるけれども、そういう気がしていた。勘、というものかもしれない。

私は生涯、結婚なんてするつもりはなかった。自分と家庭というものが、どうもうまく、結びつかないような気がするからだった。家庭を作る、暖かい家庭、家族、そんな言葉が自分とは不似合いな感じがした。まして子供、というのは、自分には縁がないものと思っていた。しかしまた、子供を授かるということに関しては、そこになぜか、人間の手の届かない、何かの存在を感じてもいた。世の中には子供が欲しくてどうしようもなくて、他人の精子や子宮を借りてまで、自分の遺伝子を受け継いだ人間を欲する人もいるのに、どうして子供なんて産む資格もないような、私みたいな人間に、子供ができてしまうんだろう。保母をしている、子供が大好きな従姉妹は、結婚して10年以上も子供ができない。体にどこも異常がなく、有名な不妊治療の外来に通っていたけれども、結局子供は出来なかった。それなのに私は結婚もしていなく、一生をともにすると誓った相手かどうかもまだ分からないのに、もしかしたら子供ができているのかもしれない。ここのところに、やはり、これは神様か何かの意図があるのではないかと、思わずにいられないのだった。私は特定の宗教や神を信じている訳ではないけれども、人間の手の届かない何か、の存在はあるのではないかと思うときはある。それが神、というものなのかどうかは分からない。けれども、人間の出生とか死とか病気などのことを考えると、人間を遥か上の方から見下ろしている何かの、存在はあるのではないかと思う。

私は先日俊と会ったときのことを、あれからずっと考えていた。私は今まで、生きてきて良かったなんて、思ったことはなかった。それは本当だ。記憶のいちばん古い順から自分というものを追ってきても、私はいつも孤独で、何かが足りなくて満たされなくて、そして淋しかった。自分を好きになれない自分がいて、その存在を認めることができなくて、自分の人生をどうでもいいことのように思っていた。でも、俊は、俊と出会えたことは、私の今までの人生の中で、いちばん良かったことなのかもしれない。それに私は、今回のことを俊に打ち明けて、俊に捨てられるのではないかということを密かに恐れていたけれども、そんなことはなかった。俊は最悪の事態になってもお前はひとりでないと、そう言ってくれた。それだけで私は、どれだけ救われたかわからない。

すると、俊に出会った自分というものは、今この場で生きている自分というものは、今までの自分があったからこそ存在するわけで、そうすると、今まで人生の中で起こった出来事は、そうなるべくしてなったのだと、そんな気持にもなった。私は生まれてから今までの人生を、ずっと否定的な目で見ていたけれど、小さい頃あった様々な出来事や嫌な記憶が、今のこの自分のために必然的だったことなのかもしれないと思うと、私はこう生きてきてよかったのかもしれないと、そんな気にさえなるのだった。俊は言っていた。もし生まれてくる子供が、いつか大きくなって生まれてきて良かったと、一度でも思ったなら、それでいいではないかと。そう思えるときがいつかやってくればそれでいいのだと。その意味が少し分かった気がした。

自分の人生は自分で切り開いていくものだと思うし、そんなことはわかっている。過去にあったことにとらわれずに、自分で克服して前向きに生きていかなくてはならないと、そう思う。そうなんだろうけれど、過ぎてしまった過去の事実は、覆すことはできない。例えば私が母親に捨てられたという事実は、どうしようもなかったことだ。自分の手ではどうにもならなかったことだ。父と二人で暮らしてきたことも、それは私にはどうしようもなかったことだ。でも、そのどうしようもなかったことを一生引きずって生きていくのか、そうでないかを決めるのは、それは自分次第なのではないか。私は一生、そうやって、捨てられた、という気持を持って生きていくのか、そうでないのか、それは自分自身で決めることなんだろう。

私は俊と会ってから、頭の中でかすかに思っていたことが、今ははっきりと見えた気がした。もし私に子供が出来て、その子と俊と、私で、うまく人生を生きていけたら、そのとき私は、やっと自分の過去から解き放たれるのではないかと。自分が持っている苦しい記憶を言い訳に、私はいつもそこから逃げていたのではないか。そんな過去があるのだから、私は子供を育てなくていいと、そういう言い訳をしているのではないかと、そういう気持が少し浮上し始めていた。子供にしてはいけないと、わかっているのならしなければいいだろうと、俊はこともなげに言った。当たり前のことだった。そんなことも、私は分からずにいた。自分にされた嫌なことは、しなければいい、それだけのことだ。私は自分の過去というフィルターで、自分で自分を見えなくしてしまっている。過去にあったことは過去にあったことで、これから起こることが必ずしも過去と同じことの繰り返しとは限らない。少なくとも私はそうしてはならないと、自分で自覚している。

私は持ってきたステンレスのボトルを取り出して、コーヒーをひとくち飲んだ。眩暈がしそうだった。でも、頭は痛くなかった。ぐるぐると渦巻いていた何かが、水の奥底に吸い込められて、消えていくようだった。これで私は、罪を犯さなくてもいいような気がした。ひどい人間にならなくていいような気がした。私はカバンの中から携帯を取り出して時計を見た。12時55分だった。この時間なら、電話しても大丈夫だろう。俊の携帯に、電話を掛ける。2度鳴って俊は出た。
「ごめんね昼休みに。でもすぐ終わるから。」
俊はどこか、外にいるようだった。声の後ろは少しだけざわざわしていた。
「なに?」
「ただ声が、聞きたかっただけ。何も用はないの。」
私は俊の仕事時間内には、電話をしたことがなかった。用もないのに電話をすることは、珍しいことだった。
「どうしたんだ?まさか。」
「ううん。今日の夜やってみるけど。」
俊は結果が出たのだと思ったのだろう。私は紛らわしい電話をしてしまったようだ。
「もう決めたの。もしそうなっても、私は頑張ってみる。俊がそばにいてくれれば、変なことはしない。」
「そうか。」
私は涙が出てきた。でも、悲しいからでも、悔しいからでもなかった。多分、安心したからだった。
「じゃあまた。ごめんね。」
「夜かけるよ。またな。」
電話を切った。
涙を拭いて顔を上げると、少し陽が差していた。海はいつの間に静かになって、小さな波が控えめに寄せては返していた。私は立ち上がって、お尻の砂を払った。

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夕凪(13)

2007-01-03 04:58:01 | 夕凪
 駅に着くと、料金表を見て280円分の切符を買った。
 平日の昼少し前の駅には、人はそれ程いなくてのどかな雰囲気だった。隣の大きな駅からでもよかったが、こちらの方がのんびりしていて、いいと思った。
 改札を抜けると、ホームにもまばらにしか人がいなかった。子連れの主婦がいて、高齢のおばさんがいて、スーツを着た会社員がいた。電車は、あと10分くらいしないと、来ないようだった。
 私はぼんやりしながら、ホームの向こう側を見つめた。駅前には一棟だけ大きなマンションが建っているくらいで、他に高い建物はなかった。ロータリーが目の前に見える。ロータリーの周りを大きく伸びた木々が囲んでいたが、それらはもうとっくに色づいて、少しずつ落ち始めていた。空は薄い青色だったが晴れていて、うっすらと雲が浮かんでいた。空気は乾燥して、澄んでいた。綿の短いコートの下にセーターを着ていた私は、外の空気がちょうどいい温度に感じられた。今ここにいるとそれほど寒くはないが、海岸のほうへ行ったら少し寒いのだろうかと思う。カバンの中にマフラーを入れてきたので、寒かったら首に巻けばいいだろう。

今朝目を覚ました時、急に海に行きたいと思った。波の音を聞きながら、ぼんやりと海を眺めて、自分の心の中をまっすぐに見つめてみたいと思った。子供の頃、自分がどうしていいか分からなくなったとき、必ず海に逃げたように、あそこへ行けば心が落ち着くのではないかと思った。バイトがたまたま休みだったので、今日すぐに行こうと決めた。父が仕事に出かけてから帰ってくるまでに戻ればいいのだ。朝沸かしたコーヒーをステンレスの小さなボトルに詰めて、チョコレートバーを持って家を出た。

私が本当に行きたかったのは、あのブランコのある、海の際に作られた小さな公園だった。あそこで、落ちてくる夕陽を眺めながら、ブランコに乗っていたかった。けれどあんなところに行ったらすぐに親戚に見つかってしまう。小さな田舎の町では、すぐに、玲ちゃん来てるわよ、とばれてしまうだろう。あそこまで行って親戚の家に顔を出さないのもおかしいだろうし、そうすると面倒だった。もう1年か2年くらい、あの海辺の親戚の住む町へは訪れていなかった。
 
私の家からいちばん近い海に、これから向かう。電車で一本で行くことが出来る。夏は海水浴客で混雑しているのだろうが、この時期はきっと閑散としているだろう。それに今日は平日だった。もう寒くなった海には、ほとんど人もいないのではないかと思った。

電車に乗ると、ボックスの空いている席に座った。私の前にはお年寄りの女性が座っていた。窓から弱い日差しが差し込んでくる。それでも少し、眩しかった。遠くの家々を見ていると、目の上を景色が流れていった。流れる景色を、瞳が追いついていけずに、眩暈が起きそうな感覚になった。目を閉じる。目を閉じて電車の、ゴトンゴトンという音を聞いていると、そのリズムが心地よく居眠りをしそうになる。そうして少し、記憶が飛んでしまった。

はっと目を覚ますと、あと数駅で目的の駅というところだった。気がつくと私の隣には小さな男の子が座っていて、その前にはその子の母親が座っていた。海のある駅のすぐ近くに水族館があるので、きっとそこに行くのだろうと、会話から伺えた。3歳くらいの男の子は、以前その水族館で実際に魚を触ったということを母親に話して聞かせていた。
「ぼくね、まえあそこでおさかなにね、いいこいいこしてあげたよね。」
「そうだったね。どんなお魚だったっけ?」
「えいはね、にゅるにゅる。さめはね、ざっらざっら。」
私はその子の話を聞いて、いかにもぬるぬるしたエイの表面と、いかにもザラザラした鮫の肌を想像した。鮫なんてそんな魚、触ることが出来るのかしら。エイだってあんなに大きいのに。でも大きいけれど大人しい魚なのかしら。私がそんなことを考えていると、「さめの赤ちゃんかわいかったね。」という声が聞こえたので、ああ、子供のか、と思った。私はそんなことを考えながらその男の子の横顔を、じっと見つめていたらしい。私が視線を前に戻そうとした瞬間、母親と目が合った。母親はきっと私をじっと観察していたらしく、ばつが悪かったのか、こちらに向かってにっと微笑んだ。私もつられて、微笑み返した。

水族館の話を聞いていたら、水族館にも行きたくなってしまった。水族館の大きな水槽の前で、きらきらと流れる魚たちをぼーっと眺めるのも好きなのだった。群れを作って一定の方向に泳いでいく魚は、ずっと見ていても飽きなかった。なぜか心が、落ち着いた。以前俊と二人で、千葉にある水族館に行ったことがあった。大きなマグロの水槽があって、私は飽きることなくその前に座ってその大きな水槽を眺めていた。あまり混んでいなかったので、そこでかなり長い時間見ていることができたけれども、俊は内心ちょっと飽きていたようだった。それでも一応、つきあって見ていてくれた。

私がそんなことを思い出しているうちに、電車は終点の海のある駅に到着した。ホームに出ると、かすかに海の匂いがするような気がした。そして少し寒さが増している気がした。

改札を出ると、海岸線を走る国道に出る。歩道をそのまま、海伝いに歩いた。やはり、この開放感がたまらない。今日の空は、青空というほどのはっきりとした空ではなかったし、海の色も青くなくどんよりとしていたが、それでもこの風景が好きだと思った。風がほんの少し冷たく感じてきたので、コートのボタンを留めた。海岸に下りる階段があったので、そこで降りる。柔らかい砂が、スニーカーにめり込んだ。歩きにくいなと思いながら、ゆっくりと波の近くまで進んだ。際まで近づくと、ゴミの多さにうんざりさせられたが、近くで済ませてしまったのだから仕方がないと思いつつ、沖の方を見つめた。曇っていて、海と空の境界が、あいまいだった。波は高くはないが、まったく凪いでいる訳でもなかった。

しばらくの間、波が引いたり押し寄せたりする様子を、眺めていた。波の泡が、まるでレースの縁取りのように、なだらかな線を書いてすぐに消えていく。まるで砂の中に、波が吸い取られていくようだった。何度も何度も同じように繰り返す水の動きを、じっと目で追っていた。その間、何も考えていなかった。ただ見ていただけだった。私の前を、黒い大きな犬が横切った。その後ろから飼い主と思われる男の人が、また横切った。私は我に返った。波が押してくるぎりぎりのラインを歩きながら、私は何をしに一人でここまで来たのだろうと思った。考えるため?考えるって何を?もし子供が出来たらってこと?俊と結婚するということ?

道路沿いのコンクリートが階段状になっていたので、そこまで下がって、2段目に座る。少し遠くなって、波の音はほんの少し小さくなった。

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