(最終章)
どこかへ行こうという彼の言葉に、私は自分のアパートへ来てほしいという旨を伝えた。最寄駅を降り、いつもの道を歩きながら、いつもの見慣れた風景がこうも違って見えることに驚いた。でも頭の中では、こうなるべくしてこうなったのだとも思っていた。私はずっと前から、こうなることを期待し、そして予想していたのではなかったのかと、今気がついた。アパートはいつこのような事態が発生しても良かったかのように、小奇麗に整頓されていたし、付き合っている男は誰もいない。自分の圏外に存在して、ただ呆然と眺めていただけの人を、今、こうして自分の領域に招き入れている、そんな感覚があった。ただ単に、不倫という言葉を連想してしまうという理由からホテルを避けたかっただけでなく、自分のテリトリーに招き入れ、そうすることで少しでも自分にいい方向に事が運べばと無意識に思っていたために、私は敢えて彼を家に引き寄せたのかもしれなかった。
自分の住処に帰ってきて、少し緊張が解けせいか、こういう展開になったのが今日突然のことで、しかも通常の恋愛における過程を一気に省いてここまでたどり着いたというのに、彼とはまるで初めての感じがしなかった。ただ、そうなるべくしてなったのだと、そのような感じが終始していた。自分が日常を暮らしているこの狭い部屋に、彼がこうして立っているということが、非現実的なようでいて、また逆に、当然こうなるはずだったのだと、まるで既に分かっていたことのようにも思われた。私は自分でも、驚くくらい落ち着き払った態度で彼に接し、そして信じられないくらいに貪欲だった。私の知らない彼の空白部分を埋め尽くそうと、全身で彼を理解しようとしていた。頭の中に既に記憶している彼の外見や顔を、もっと内側から理解したいと思った。もっと精密に観察しそして体で記憶しようと、目は懸命に彼を見つめ、体の各部分は敏感に何かを捉えようとしていた。普通ならそのようなときは目を閉じると思われる場面でさえも、じっと目を見開いて彼を見つめていた。まるでそうしないと、目を瞑った隙に彼が消えてしまうのではないか、そんなような気がして仕方がなかった。
彼が帰るとき、私は玄関で見送りながら、「また、会うことはできますか?」と自信なく訊ねた。もしかしたら、これが最初で最後かもしれない、そういう覚悟も出来ていた。彼が今日どれほどお酒を飲んだか分からないが、酒の勢いでそうしたのかもしれない。それとも私が会社でずっとずっと見つめていたのを分かっていたのなら、そのことにうんざりしていたのかもしれない。それを今日で終わりにしてくれという意味だったのかもしれない。私は、あらゆる予想を頭の中で並べ立てた。こうなったことに後悔はしないし、たった一回きりだったとしても仕方がないことだと分かっている。ただ、彼はどのようなつもりで私を抱いたのか、それだけをどうしても知りたいと思った。つまり彼の気持を、私は知りたかったのだ。
彼はまだドアを開けていない玄関の内側で、ぎゅっと私を抱きしめた。そして彼の顎の下にある私の髪の、匂いを嗅いでいた。ほんのさっき、触りたい衝動に駆られた彼の顔が、まだここにあるのだと実感し、その思いに胸が締め付けれらた。
「機会があったら、また会おう。」
それだけ言って、彼は出て行った。私は、執行猶予を与えられた気分だった。
数日後に、予定通り、彼はそう簡単には行くことができない場所に、転勤となった。私は、もしかしたらもうこれで、機会、は二度と訪れないのかもしれないと、自分に言い聞かせた。彼と一回り程歳の離れた私は、敢えて押さえた行動をとることで、彼に大人の女と見てもらいたかったのかもしれない。心の奥底では、感情はさらに深く激しくなって、遠くに行ってしまうという事実を、どうしても飲み込めないでいる自分と、もう二度と会えないのかもしれないという不安に、予想以上に慄いている自分がいた。けれども、そこまで深く激しい感情を持ってしまったことを、自分自身でも充分すぎるほど分かっていたために、内面の感情をそのまま出さないこと、無理な要求はしないこと、そのことを常に自分に言い聞かせた。半ば勢いで自分の部屋に彼を誘ってしまったあの日、それでも彼は、奥様と別居することはできても、すぐに自由の身にはなれないことを何度も強調した。そういうものを要求するのなら、最初から止めたほうがいい、そう何度も私に言った。そしてすぐには体にも触らなかった。私は、あの時、自分の神経が興奮状態にあったのを否定はできないが、自分でさえ、彼をどうしたいのかなんて、まったく分かっていなかった。そんな先のことなんか、分からないというのが正直な感想だった。以前付き合っていた彼と別れたときから、私は結婚の意義というものに対して疑問を持っていたし、そんなことよりも、まず自分の感情を信じるしかないというのが、正直なところだった。彼と結ばれたことで自分がどう変わっていくのかも、その時の私には皆目検討はつかなかった。
彼が地方に単身赴任になる直前に、こうして事態が急展開したことを、今でも本当に偶然の幸運だったと感謝したくなる。次の、機会、はそう遠くないうちに訪れた。そして彼が単身赴任をしているということで、私たちの関係は、急速に、より密接なものになった。単身赴任先で会うことで、私は彼の家庭の存在を一層気にしなくて済んだ。転勤する前は、距離の大きさが不利になると思っていたが、実際には好都合なことばかりだった。以前のように会社の事務所で毎日のように彼を見つめることは出来なくなったが、もっと密接な繋がりができあがった以上、私はそのことを密かに思い、そしてそれを温めて持っていることができたのだった。
単身赴任の任期が切れて、彼がまた本社勤務になってからも、私たちは私のアパートで同じように機会を作っていた。私は、その数年の間に、不安定な状況の中にいながらも自分の感情を安定させる術を、すっかり身につけていた。彼はもう少し、ある理由から奥様と離婚はできないようだったが、私にとってそんなことはどうでも良かった。私が求めていたものは、結婚や家庭という安定ではなく、ただ彼そのものだったのだから。私はただ、彼を好きになり彼を欲しかっただけなのだ。他には、何もいらない。でも私は、今でも彼に会うたびに思うのだ。これでもう、最後かもしれないと。

どこかへ行こうという彼の言葉に、私は自分のアパートへ来てほしいという旨を伝えた。最寄駅を降り、いつもの道を歩きながら、いつもの見慣れた風景がこうも違って見えることに驚いた。でも頭の中では、こうなるべくしてこうなったのだとも思っていた。私はずっと前から、こうなることを期待し、そして予想していたのではなかったのかと、今気がついた。アパートはいつこのような事態が発生しても良かったかのように、小奇麗に整頓されていたし、付き合っている男は誰もいない。自分の圏外に存在して、ただ呆然と眺めていただけの人を、今、こうして自分の領域に招き入れている、そんな感覚があった。ただ単に、不倫という言葉を連想してしまうという理由からホテルを避けたかっただけでなく、自分のテリトリーに招き入れ、そうすることで少しでも自分にいい方向に事が運べばと無意識に思っていたために、私は敢えて彼を家に引き寄せたのかもしれなかった。
自分の住処に帰ってきて、少し緊張が解けせいか、こういう展開になったのが今日突然のことで、しかも通常の恋愛における過程を一気に省いてここまでたどり着いたというのに、彼とはまるで初めての感じがしなかった。ただ、そうなるべくしてなったのだと、そのような感じが終始していた。自分が日常を暮らしているこの狭い部屋に、彼がこうして立っているということが、非現実的なようでいて、また逆に、当然こうなるはずだったのだと、まるで既に分かっていたことのようにも思われた。私は自分でも、驚くくらい落ち着き払った態度で彼に接し、そして信じられないくらいに貪欲だった。私の知らない彼の空白部分を埋め尽くそうと、全身で彼を理解しようとしていた。頭の中に既に記憶している彼の外見や顔を、もっと内側から理解したいと思った。もっと精密に観察しそして体で記憶しようと、目は懸命に彼を見つめ、体の各部分は敏感に何かを捉えようとしていた。普通ならそのようなときは目を閉じると思われる場面でさえも、じっと目を見開いて彼を見つめていた。まるでそうしないと、目を瞑った隙に彼が消えてしまうのではないか、そんなような気がして仕方がなかった。
彼が帰るとき、私は玄関で見送りながら、「また、会うことはできますか?」と自信なく訊ねた。もしかしたら、これが最初で最後かもしれない、そういう覚悟も出来ていた。彼が今日どれほどお酒を飲んだか分からないが、酒の勢いでそうしたのかもしれない。それとも私が会社でずっとずっと見つめていたのを分かっていたのなら、そのことにうんざりしていたのかもしれない。それを今日で終わりにしてくれという意味だったのかもしれない。私は、あらゆる予想を頭の中で並べ立てた。こうなったことに後悔はしないし、たった一回きりだったとしても仕方がないことだと分かっている。ただ、彼はどのようなつもりで私を抱いたのか、それだけをどうしても知りたいと思った。つまり彼の気持を、私は知りたかったのだ。
彼はまだドアを開けていない玄関の内側で、ぎゅっと私を抱きしめた。そして彼の顎の下にある私の髪の、匂いを嗅いでいた。ほんのさっき、触りたい衝動に駆られた彼の顔が、まだここにあるのだと実感し、その思いに胸が締め付けれらた。
「機会があったら、また会おう。」
それだけ言って、彼は出て行った。私は、執行猶予を与えられた気分だった。
数日後に、予定通り、彼はそう簡単には行くことができない場所に、転勤となった。私は、もしかしたらもうこれで、機会、は二度と訪れないのかもしれないと、自分に言い聞かせた。彼と一回り程歳の離れた私は、敢えて押さえた行動をとることで、彼に大人の女と見てもらいたかったのかもしれない。心の奥底では、感情はさらに深く激しくなって、遠くに行ってしまうという事実を、どうしても飲み込めないでいる自分と、もう二度と会えないのかもしれないという不安に、予想以上に慄いている自分がいた。けれども、そこまで深く激しい感情を持ってしまったことを、自分自身でも充分すぎるほど分かっていたために、内面の感情をそのまま出さないこと、無理な要求はしないこと、そのことを常に自分に言い聞かせた。半ば勢いで自分の部屋に彼を誘ってしまったあの日、それでも彼は、奥様と別居することはできても、すぐに自由の身にはなれないことを何度も強調した。そういうものを要求するのなら、最初から止めたほうがいい、そう何度も私に言った。そしてすぐには体にも触らなかった。私は、あの時、自分の神経が興奮状態にあったのを否定はできないが、自分でさえ、彼をどうしたいのかなんて、まったく分かっていなかった。そんな先のことなんか、分からないというのが正直な感想だった。以前付き合っていた彼と別れたときから、私は結婚の意義というものに対して疑問を持っていたし、そんなことよりも、まず自分の感情を信じるしかないというのが、正直なところだった。彼と結ばれたことで自分がどう変わっていくのかも、その時の私には皆目検討はつかなかった。
彼が地方に単身赴任になる直前に、こうして事態が急展開したことを、今でも本当に偶然の幸運だったと感謝したくなる。次の、機会、はそう遠くないうちに訪れた。そして彼が単身赴任をしているということで、私たちの関係は、急速に、より密接なものになった。単身赴任先で会うことで、私は彼の家庭の存在を一層気にしなくて済んだ。転勤する前は、距離の大きさが不利になると思っていたが、実際には好都合なことばかりだった。以前のように会社の事務所で毎日のように彼を見つめることは出来なくなったが、もっと密接な繋がりができあがった以上、私はそのことを密かに思い、そしてそれを温めて持っていることができたのだった。
単身赴任の任期が切れて、彼がまた本社勤務になってからも、私たちは私のアパートで同じように機会を作っていた。私は、その数年の間に、不安定な状況の中にいながらも自分の感情を安定させる術を、すっかり身につけていた。彼はもう少し、ある理由から奥様と離婚はできないようだったが、私にとってそんなことはどうでも良かった。私が求めていたものは、結婚や家庭という安定ではなく、ただ彼そのものだったのだから。私はただ、彼を好きになり彼を欲しかっただけなのだ。他には、何もいらない。でも私は、今でも彼に会うたびに思うのだ。これでもう、最後かもしれないと。
