星を見ていた。

思っていることを、言葉にするのはむずかしい・・・。
良かったら読んでいってください。

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細い月

2006-11-26 20:42:28 | つぶやき
あなたにとっては、ちっとも特別でない、人生の何百何千何万とある日の中の、たったの一日。でも私にとっては、きっと絶対に、忘れない一日。

よく晴れた空も、眩しい西日も、山の色づいた木々も、雪の被った山も、そして夜の空に浮かぶ三日月も、忘れないでいようと思う。

数時間の幸福な気分も。その前の落ち着かなさも。その後の寂しさも。


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夕凪(12)

2006-11-23 03:01:13 | 夕凪
家に帰りついたのは、12時20分前だった。音を立てずに玄関を開けると、父はもう寝ているようで、家の中は静まり返っていた。
 それほど飲んでいたわけではないが、体が重く感じて仕方なかった。部屋に入るとそのままベッドに倒れこんで、うつ伏せになった。目を瞑る。頭がぐるぐると、軽く回っていた。そのままの体勢で、しばらくじっとしていた。目から涙が出てきた。
 俊に会ってみたら、物事はやはり、もう少しいい方向に向かうのではという気がしてきた。自分ひとりで、きっぱりと決断し頼らない方法で、と思っていたのに、俊が自分の味方だと確認できたためか、少し気持が楽になった気がした。そして今まで俊のことを、ちっとも頼っていなかった、信頼していなかったような気がして、そんな自分がとてつもなく嫌な人間に思えた。
 頭の隅に判定薬のことを考える。早くあれを使って、白黒はっきりさせたい。まだ使うのは早いだろうか。生理予定後一週間と書いてあるけれど、もう使ってもいいのだろうか。今日このまま何の変化もなかったら、明日使ってみようかと思う。でもやっぱり、少し早すぎるかもしれない。やってみて何の反応もなかったら、また薬局に行って買うのかと思うと、それもまた気が重かった。そう考えると、もう数日待ったほうがいいのかもしれない。
 
 眠りから醒めた私は、体温を測っていた。ピピピ、という電子音が、ずっと鳴っている。計り終わった合図だと思い、体温計を脇から取り出した。40度。その熱の高さに、少し驚いた。これじゃ高温期の体温よりずっと高い。風邪を引いたのだろうか。だが40度の割に、体がちっとも熱くないと思った。思いながら、まだ体温計の電子音が鳴っているとぼんやり思う。
 体温計はずっと鳴っている。なんでこんなにしつこく鳴っているのかと思った。止めるボタンを探すけれど、見当たらない。電子音が鳴っているはずなのに、手に持っているのは昔の水銀の体温計だと気付いた。どうりでボタンがないはずだ、と思う。私の思考回路は、水銀の体温計と電子音を、どうしても繋げることができない。なんで鳴っているのだろう。
 そのうち、その音は聞きなれたある音だと思った。目覚まし時計だ。それから数秒考えて、次の瞬間飛び起きた。咄嗟に時計を止めて時間を見る。7時近かった。

 あわてて台所に行くと、父が味噌汁を作っていた。台所には、味噌汁の匂いと、磯の匂いがした。ワカメの匂いだ。父は私がいなくても、こうしてきちんと食事を作れる。だが滅多にすることはない。
「飲んで帰って寝坊か。しょうがないな。」
 今日は機嫌がいい。父は飲んだ次の日寝坊をしたり遅刻をしたりすることを、絶対に許さない人だ。
「ごめんなさい。あとは私やるよ。」
 手を洗いながらそう言ったが、もう父は、自分の分の味噌汁をお椀によそって、食べ始めるところだった。
「何時に帰って来たんだ?」
 父の顔はテレビのニュースのほうに向いていた。
「11時半ころ。」
「そうか。」
 どうせ父は10時ころ寝てしまうのだから、12時を過ぎても分からなさそうだと思いつつ、毎回きちんと12時前に帰ってくるのだった。
 無性にコーヒーが飲みたくなる。味噌汁の匂いが、嫌で仕方がない。吐き気がしそうだ。吐き気で急に思い出したかのように、トイレに行ってみる。下半身の微妙な変化を感じていないものの、もしかしたらと思ったが、やはり何の変化も無かった。
 
 昨晩俊と会って、思いのほか自分が前向きに考えられたことで、少し思いつめていたものが軽くなった気がしたが、一夜明けてこうして何の確信もないのが分かると、また思考はマイナスな方に向かっているような気がした。そして頭の中は、同じ回路でぐるぐると廻っていく。今まで考えたことが何度も浮上し、同じ杞憂を抱き、そして同じ疑問、不安にたどり着く。なんのしっかりとした根拠もなく、そんな心配を、しかもそれは、自分自身の人生ではなく、まだ分からない、これから生まれてくるかもしれない一人の人間にとっての杞憂であるはずなのに、今こうして心配していても、仕方のないことだらけなのにと思う。
 俊の言うとおりかもしれない。生まれてくる子が、生まれてこなければよかったなんて、思うかどうかも分からない。自分の母親が自分に与えた試練を、私は自分の子供には、きっと与えないだろう。いやそれは、母親が与えた試練ではないかもしれない。神様が、少しでも子供のことを考えて子供を生み育てるように、私に与えた試練かもしれない。それなら何で、すべての人々にそうしたことをさせないのだろう。
 
 私は台所にかすかに漂う磯の匂いを感じていた。子供の頃、父の仕事が忙しいと、私は親戚の家を転々としていた。父の親戚は海辺の辺鄙な町に住んでいた。父の実家と、兄弟は、皆漁師をしていた。女の兄弟も、漁師の家に嫁に行っていた。
 夜が明ける前に、おじさんたちは漁に出かけてしまう。寝ていると襖の向こうで何かがさがさと慌しく支度をしているのが分かった。朝起きると、丸い座卓を囲んで、おばあさんやおばさん、従姉妹たちと朝御飯を食べた。私は子供の頃も、きっと朝に弱い子だったのだろう。食卓に出される御飯や魚や磯の香りがする味噌汁が、吐き気を催させた。気持ち悪いから食べられない、とは言えず、だまってそれらを、口に押し込んだ。漁師の家の、御飯はいつも大盛りで、しきりにあれ食べろこれ食べろと勧められた。私はそれらを黙って食べ、あとでトイレで吐いた。
 ほとんど子供の相手をしなかった父の居る家でも、私にとっては帰りたい家に違いはなかった。親戚の家も、2,3日は我慢できたが、それ以上になると、帰りたくて仕方がなかった。同い年の従姉妹がいる家は良かったが、年の離れた従兄弟しかいない家は最悪だった。私はその家の中で、どう振舞っていいのか分からなかった。年の離れた従兄弟は、怖かったし、どんな風に口を利いていいのか分からなかった。早く帰りたいと思っても、父がお迎えに来てくれないことには、帰れなかった。あまりに長くなると、おばさん同士で、どこで次面倒見ようかというような話をしているのが分かった。そんな時、私は逃げ出したくなった。今なら電車で、2時間もあれば帰ることが出来るが、子供の頃は、そんなこと出来ないほど遠い場所だと思っていた。それに当然お金なんて持たされていなかった。自分は邪魔な人間なんだと、不必要な人間なんだと、そういう思いが徐々に湧いてきた。自分だけ、この人達の中で、ひどく場違いな、歓迎されてない人間に思えた。

 夕方、おばさん達が夕飯の支度で忙しくなると、私はすぐ近くに海を眺めに行った。その頃は子供が一人で海辺で遊んでいたからと、誰も危ないとか危険と言う者なんていなかった。それとも、私がそういう立場だったからそんなこと気に留める人もいなかったのかもしれない。
 祖母の家の、道路一本隔てて、すぐに海があった。浜を降りても、狭い岩場があるだけの海岸は、地元の人でさえ誰もいなかった。道路と岩場の間に小さな造船所があり、そこの脇を通るといつもシンナーのような、塗装の薬品のような匂いがした。その横に小さな公園があった。公園の端のすぐ下が海なのに、簡単な柵がしてあるだけで、特に高い柵がしてある訳でもなかった。ブランコが、海の方に向かって設置してあった。私はそのブランコに乗るのが好きだった。夕方そこから、素晴らしくきれいな夕日が見えた。地元の子供が、そこで遊んでいるときもあったが、大抵それほど、人はいなかった。
 ブランコに乗りながら、色々なことを考えた。最後には、私がこうして、いとこの家を転々としているのは、やはりお母さんがいないからだと思った。母が家出をした元々の原因なんて、今の私は勿論、当時の私にも分からなかったが、だが、父の所為だとは全く思いもしなかった。諸悪の根源は家を出た母親にあると、そう思っていた。私にお母さんさえいれば、私はどこにも行かないで、自分の家にいられるのに、自分のお友達と自分の家の近くの公園で遊べるのにと、そう思った。どうしてお母さんは、出て行ってしまったのだろう。どうして私を連れていってくれなかったのだろう、その疑問がどうしても解消できなかった。
 ブランコから見える夕日は、最初は普通の空なのに、段々と空と海にグラデーションがついてきて、あっという間に真っ赤になっていく。その変化を見ているのが、とても好きだった。好きだったけれど、それを見ていると、ますます家に帰りたくなった。早くお父さんが、迎えに来てくれればいいと思った。迎えに来てくれなかったらどうしようと、新たな不安が生じて、そのうちに涙が溢れてくるのだった。辺りがすっかり、夕日の赤に染まって、涙はそのせいで、あまり見えないはずだった。夕日が終わって、さらに暗くなると、海は昼間とは違う、もっと怖いものに変化していた。昼間はそれほど、気にならなかった波の音が、もっと大きな音になって、耳に入ってくるのだった。青く見えた海水も、黒くなり、夕陽が沈むときは波もなかったようなのに、急に波が荒々しくなったような気もした。そうすると怖くなって、祖母の家に帰った。

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夕凪(11)

2006-11-18 09:34:34 | 夕凪
 店を出た私たちは、駅までの道をぶらぶらと歩いた。酔った体に、外の空気は心地よく感じられた。それほど飲んでいなかったはずだが、瞼が重く感じて、体はふわふわとしていた。
「そんなに飲んで大丈夫なのか?」
 俊がこちらを伺って、言った。俊と繋いだ手は、とても暖かく感じた。
「私が?それとも・・・?」
 もし妊娠していたら、お酒なんか飲んでしまって大丈夫なのだろうか。少し自棄になっていた私は、急に心配になってきた。
「お前がだよ。」
 繋いだ手に、一瞬だけぎゅっと力を入れて、俊は笑って言った。勿論、今の私のひとことで、それ以外のことも心配になってきたかもしれない。
「平気。そんなに飲んでないから。」
首を伸ばして俊の顔を見上げた。そしてにっこりと、少し大袈裟に微笑み返した。私は酔うと、なんだか機嫌が良くなる。いつもは表情の変化に乏しいとよく言われるが、お酒を飲んだときは、自分でも顔の表情が豊かになるのが分かった。
「私のいとこに、ちょっと前赤ちゃんが生まれたんだけどね、確か彼女は母乳で育ててるけど、よくビール飲んでるわ。タバコも吸ってるし。でもタバコは良くないよね。」
ずっとこのまま、俊と手を繋いで歩きたいと思った。このまま、ずっと、寄り添って歩いていっても、大丈夫な気がした。
「お前、勝手なことするなよ。」
もうすぐ駅につく頃、真面目な顔して俊がそう言った。俊の顔を見ていると、私はなんとも言えない気分になった。この優しい、表情が好きだった。目を見ているだけで癒されるような、少し下がり気味の目が、好きだった。この人は、私を捨てたりは、多分しないだろうと、この顔を見ていると思うのだった。
「うん。」
「あとで体に何かあったら、困るだろう。」
立ち止まって、じっと目を捕らえられた。俊が言葉のうえだけで言っているのではないことが感じられた。
「そうだね。」
私は、最悪の事態は避けられるのではないかと言う気がしてきた。物事はもっと単純に、シンプルに進むのではないかと、そういう気がしてきた。子供ができた、俊は結婚してもいいと言っている、私は俊が好きだ、それだけで、方向は決まってくるのではないかという感じがした。それから後のことは、気の持ちよう、努力、そんなもので補うしかないのだと、そんな考えに傾いてきた。
「子供がいても、幸せになれる?子供も、生まれてきてよかったと思うと思う?」
「当たり前だろう。」
びっくりした顔で、そう言われた。私の質問は、多分彼にとってとんちんかんなのだろう。でも、大事なことは、生まれてきた子供が生まれてきて幸せだと感じることではないのだろうか。
「そっか。」
「お前はそう、思わなかったのか?生まれてきて良かったと、思ったことないのか?」
俊は率直にそう思ったから聞いたのだろう。でも、こんなこと、真正面から聞かれたことなんて、今まで一度もなかった。
「なかったかな・・・」「でも、俊と出会えて良かったな。」
「それならいいじゃないか。今そう思うのなら、それでいいじゃないか。」
私は前を向いていた俊の、横顔を見つめた。ああ、そういう考えもあるのだと、たった今気付いたように、俊の横顔を見つめながら思った。俊と出会えたことは、生まれてきたからこそ出会えたわけで、生まれてこなかったら、当たり前だけれど俊と出会うこともなかった。そういうことなんだと、目から鱗が落ちた気分だった。
「もし子供ができたとしても、少なくとも俺とお前はそれをよかったことだと思っているだろう。生まれてきたら、子供を酷い目に合わせようなんて、思っていないだろう。子供が生まれてその子がどう思うかなんて、俺たちには分からないよ。その子がどう思って生きていくなんて、今から分からないよ。でもな、その子が大きくなっていつか、生まれてきて良かったと思うときが一度でもあれば、それでいいんだと思うよ。うまく言えないけれど。」
俊の言葉は、分かったような分からないような心持がした。けれど、この人は、ただ何の悩みもなく、生きている人でないような感じがした。私が物事を悲観的な方向へ考えるとしたら、まったく別の方向に物事を捉える人なのだと思った。そして、そういう人が傍らにいるのなら、私はなんとかやっていけるかもしれないと、希望のようなものが湧いてきた。
「私はね、自分が子供を酷い目に合わせるんじゃないかと、それが心配なの。子供が、私から生まれなければ良かったと、思うんじゃないかと、それが心配なの。私みたいな思いを、させたくないの。」
また俊は、繋いだ手をぎゅっと握った。
「そう思わせたくないと分かってるなら、そうしなきゃいいだけだろう。」
俊はこうして、私の心の中の、こんがらがった紐を、するすると解いていく。私が延々と逡巡していたことを、いとも簡単に方向付けしてしまうのが、不思議でならなかった。
「そうか。」
「お前は考えすぎだよ。それは心配なことはたくさんあるよ。誰だって子供を生む前は、そんなこと思うだろうし、分からないことだらけなんだからな。でも、最初から何も不安のない奴なんていないし、自分でしたくないと分かっていることは、しなければいいだけなんだよ。」
やっぱり、お前は考えすぎだと、言われた。その通りかもしれない。
「まあでも、まだそうと決まった訳じゃないし。お前ひとりじゃない。」
また予想どうりの言葉が出た。でも、私は、ひとりじゃないのだ。それが分かっただけで、充分じゃないか。
「そうだね。」「まだ分からないし。こんな話してるのが、あとで馬鹿みたいと思うかもしれないしね。」
私はまた、にっこりと笑った。こんなに心が軽くなるなんて、今日俊と会う前は思ってもいなかった

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夕凪(10)

2006-11-11 19:32:14 | 夕凪
 以前に何度か来たことのある、部屋が小さく区切られている居酒屋に入った。入り口で靴を脱ぎ、ほの暗い明かりの中、3畳ほどに仕切られた部屋に通された。話をするには人目が気にならないので、この店が気に入っている。始めに俊はビールを、私は梅酒を注文した。

「静かに話せるところって、何か話しでもあるのか?」
 上着を脱いで座敷に座りながら、俊はそう訊ねた。俊とは、向かい合わせに座らずに、直角になるように座った。向かい合わせに座ると、なんだか遠い気がして嫌なのだ。用意されているお皿をずらして、いつもこうして座る。私の右横に、俊がいる。
「うん・・・。」
 私は無性に酔っ払いたい気分になった。料理が来る前に、あっという間に梅酒のロックを飲んでしまうと、次に日本酒を頼んだ。俊はまだ、一杯目のビールを飲んでいる。俊の横顔を覗き込むようにして、私はぼそっと呟いた。
「生理が来ないの。」
一瞬間を置いてから、「って、まさか。」と少し慌てた様子で言いながら、俊の目が私の目を捉えた。顔と顔が、触れ合いそうなぐらい近くにあった。
「こないだ大丈夫な日だったっけ?」
 俊は少し上目遣いになりながら、考えていた。あなたが考えてもそんなの分かるわけないでしょう、と思いつつ、「微妙。」と答える。
「もしできたら、どうする?」
 単刀直入に、聞いた。でもこのトーンだと、深刻さは伝わらないだろうと、思う。
「まだ分からないんだろう?どれだけ遅れてるんだ?」
「一日。」
 なんだ、という表情が見て取れた。やはり、彼は物事をいい方いい方に考えている人間なのだ。
「でも、この間は失敗したでしょう。そうじゃないときはいくら生理が遅れたって、まったく心配してないけれど、この間はちょっとまずかったよ。」
 この間は、内心大丈夫かな、とは思っていたが、何もない素振りでいつもの通りに別れたのだった。それで俊は、あのとき、何か問題があったとは、まったく思っていなかったようだった。

「もしできたら、結婚して責任とってくれる?」
 そんなことを言うつもりはなかったのに、なぜか言いたい気持になった。わざと真面目な顔で、きつく言ってみた。俊は少し間を置いて、「もしできたら、しょうがないんじゃないか。」と真剣振った顔して言った。その少し芝居がかった態度が、私の気に障った。
「本当にそんな気あるの?別にいいよ。もしそうだったら、私は私で自分で考えて決断するから。」
 言いながらお猪口のお酒をぐいと飲んだ。それは俊に言っているせりふではなく、自分に言っているようだった。
「決断するってお前、まさか、堕ろすのか?」
 即座に俊が反応した。
「だったら何?それは罪だからやめろと言うの?なら結婚してくれるの?それとも産んだ子供引き取って育ててくれるの?」

 私は急に、腹立たしい気持になった。妊娠して、お腹がでかくなるのも私。堕胎したとして体が傷つくのも私。産んだとして痛い思いをして、子供に縛られるのも私。それなのに、何ひとつ痛い思いも、傷も、負わない男に限って、こうして正義を振りかざすのが、私には偽善に思えるのだった。もともと、そういう原因を作ったのはあなたじゃないかと、目の前にいる俊が、急に憎い存在に思えてきた。私はちっとも、俊とそういう行為をすることを、楽しいと思ってやったことはなかった。ただ、俊が、求めるからそれに応えてきただけだ。それなのに、何かがあったら、問題を抱えるのは、すべて私なのだ。けれど、その責任は、自分にあるのは重々わかっている。そういうリスクが嫌なら、断固拒否するか、徹底した防御策を講じていればよかったのだ。そうできなかった自分が、いけなかっただけだ。

「子供を育てるって、大変なことなのよ。俊は自分が父親になるなんて、考えたことあるの?」
 俊は私が父子家庭であることは勿論知っていたが、細かい経緯は話したことがなかった。母が私を捨てたとは、言っていなかった。私が子供嫌いなのは普段の行動でわかっているようだったが、何故私が子供を嫌いなのか、また子供を持つことに対してなぜこれほどの恐怖を抱いているか、そこまでは当然知る由もなかった。
「俺は結構子供好きだよ。よく親戚の子とか、小さいときは面倒みてやったしなあ。弟の
面倒も、よく見たよ。」

 彼には4つ離れた弟がいた。俊の家庭は、私から見たら羨ましいほどの普通の平和な家庭だった。温和なご両親と、彼と弟。お母さんは数回しかお会いしたことがないけれど、優しい表情をした、品のいい方だった。お父さんにはお会いしたことがないが話に聞いている限りでは、うちの父とは大違いの雰囲気がした。家庭を大事にしていながら、仕事でも重要な位置にいる、そんな印象があった。よく俊や弟とも、話をするらしかった。弟も去年就職したばかりの清潔感のある明るい子だった。私からみると、どこからどこまで、きちんとしたご家庭、という感じがした。

「私はまったく自信がないの。子供を産んで、その子をきちんと育てていけるかなんて、まったく自信ない。だからもし産むのなら、結婚してくれて側にいてくれないと、だめかも。一人で産んで育てるなんて、私にはできない。」
「そうなったら、結婚すればいいじゃないか。お前ひとりで決めることじゃないだろう。」
 そう言いながらも、そうなったらどうしようという、迷いみたいなものが表情に見て取れた。俊はなんとか優しい顔を保っていたが、彼自身たった今言われたこの問題に対して、今どうこう言うことなんてできないという正直な気持が、顔に表れていた。

「私はね、」
 言うつもりはなかったのに、勝手に口が喋りだした。
「私は3歳のとき、母親に捨てられたの。買い物をして家を出たきり、帰ってこなかった。私にはよく分からないけれど、生まれてきて無条件に頼って甘えることができる、唯一の存在が母親だと思うの。その母親に捨てられたって、その思いは多分一生引きずると思うの。今もこうして引きずっている。私は自分も同じことをしてしまうんではないかと思っているし、人を、誰も、信用することができない、冷たい人間なのよ。だから子供を、たとえ自分で産んだ子供だとしても、その子を愛せるかどうかなんて、まったく自信がない。」

 私が突然こんな話をし出すと、俊は言葉に詰まったようだった。何と言っていいのか分からず、途方に暮れているようだった。それが私にも伝わってきて、私はこんなこと話すべきではなかったのかもしれないと、思った。

「思い出すと、突然泣きたくなる。私は生まれてこなければよかったと、そう思って、死んでしまいたくなる。その気持にはまると、そこから、ずっとずっと抜け出せなくて、どうしていいか分からなくなる。そんな女と一緒に暮らすのって、耐えられる?そして、そんな思いを、自分の子供にだけはさせたくないの。産むからには、絶対に望まれて生まれてこなくてはいけないと思うの。」

 私は俊に、こんなことを話したことはなかった。確かに私は、情緒が不安定なところもあったし、時にむっつりと黙り込んでろくな会話もしないこともあったが、俊はそんな私も、そっとしておいてくれたし、適度に放っておいてくれるところが、私には心地よかった。今まで何度も、精神科にでも行ってカウンセリングなどを受けてみようかと思ったりしたことがあったが、これくらいの悩みなんて誰でもあるのかもと思うと、それは自分の過剰な被害意識かもしれないと思った。何より自分を悲劇の主人公に仕立てるのは嫌だった。

「そうか。」「色々つらい思いをしたんだな。」
 その言葉に、私は目から涙が溢れてくるのを感じた。そして頬を伝っていくのがわかった。お酒を飲んだせいかもしれない。気分が昂ぶっているのが、自分でも分かった。
「ごめん。」
 なぜだか分からないけれど、謝っていた。
「私は俊とは、つり合わないかもしれない。俊にはもっと、明るく、朗らかな人がいいかも。」
 俊は少し顔を上にあげて、天井を見るような仕草をした。そしてもう一度私の目に視線を戻すと、「あのなあ、」と言いかけた。
「どうしてそうなるんだよ。俺は別に、お前と結婚したって、いいと思ってるよ。ただ、もう少し先だと思っていたけれど、ゆくゆくはそうなるんだと、思っていたよ。」

 涙が止まらなかった。私は、どうして俊のことさえ、信用することができないのだろう。
「ただ、今日のことは、ちょっとびっくりしたし、よく考えなきゃだめだろう。」
 俊は私の顔を挟んだ。そして頭ごと自分の胸元に引き寄せた。
「自分ひとりで決めようなんて思うな。それは俺たちふたりの責任だろう。」
 私はほっとしたのかもしれない。本当はそう言って欲しかったのかもしれない。その言葉に静かに泣いていたはずが、次第にしゃくりあげてくるのを、押さえることができなかった。

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夕凪(9)

2006-11-07 17:34:40 | 夕凪
 バイトが終わると、俊との待ち合わせ場所に向かった。駅前のデパート入口にある、大きなからくり時計の下で、俊の姿を探した。まだ来ていない。待ち合わせの時間はあと5分ほどだが、彼はいつも大抵10分くらい待ち合わせに遅れるのだった。

 今日俊と会ったら、私は今回の事を話す覚悟でいた。今日一日生理が来るのではないかと、トイレに入るたびに期待をしたが、なんの変化もなかった。体はだるく、頭の奥はぼんやりとして、腰も重かったが、それは生理前の諸症状なのかそれとももうひとつの原因のものなのか、自分では判断できなかった。色々な事を考えてばかりいるために、精神的な原因で頭が痛いだけかもしれないとも思った。

話をしても、俊はそれほど深刻にはならないだろうというのは、容易に予想ができた。自分でも、あと一週間後の、判定薬を使った結果が出てから話してもいいのではと思っている部分もあった。けれども、自分の中だけで悶々と思っていることに、もう限界を感じていた。もし、判定薬で陽性と出た場合、俊は結婚しようと言うのだろうか。それほどの期待は抱いていなかったし、自分自身でも、このまま俊と結婚していいものかという迷いがあった。だが、結婚しなかったら、自分ひとりで産み、育てていく自信はあるのかと言えば、自信など何もなかった。シングルマザーとなるということは、自分の家庭環境を思い描けば、まったくいいところがないことは目に見えていた。まして私は、経済的に自立していない。今の職も定まっていないのに、子供を産み育てるだけの経済的基盤など、まったくないも同然だった。これから子供を産もうとする、身ごもった女なんて雇ってくれるところはあるのだろうか。子供を産んだあと、就職すればいいのだろうか。父親は、まるで当てにはならない。私が結婚もしないで妊娠したとなったら、家を出て行けと言うだろう。女一人で子供を産んで育てるということは、想像するだけで相当の覚悟が必要なはずだ。そして、そのうち自分に余裕が全くなくなって、私は子供に当たってしまうのかもしれない。その先に待っているものは、考えたくもないような恐ろしいことだった。すると、消去法でいくしかないのだろうか。結婚して共同で子供を育てる決意もなく、シングルで育てる基盤もないのならば、残るは堕胎するしかないのだろうか。

それはしかし、犯罪と同等のことではないのだろうか。自分の知り合いで、堕胎した人を何人か知っていた。親戚のある人はその後普通に結婚したが、そのことが原因かどうかは分からないが、もう十数年経つのに子供が出来なかった。体はどこにも異常がないのに子供ができないということは、それが罰だからではないかと、親戚の中で言う者もいた。医学的にはそういったことは関係ないのかもしれないが、現実にその後子供ができない現状を見て、周りの者がそう思わずにはいられないという背景には、堕胎をしたということが、罪のあることだと、暗黙にそう思われているということなのだろうと思った。私は自分の体がどうにかなるとか、その後子供が出来ないかもしれないとか、そんなことはどうだって良かった。ただ、そうすることが、やはり罪のあることなのかと、それは人間として許されることなのかと、そういうことの結論を、考えても考えてもで導き出せないということが、決断できない理由だった。大きくなった母親のお腹で、丸まっている胎児を殺すのは、当然の罪だろう。胎児として最初の段階の、粒のような人の原型でも、それは同じなんだろう。同じなんだろうけれど、でも違う、その発想は自分に都合いい言い訳なんだとも思った。どんなに小さくても、人は人で、それはやはり人殺しと同等なのだろう。間違いなく罪なことなのだろう。子供が「授かった」ものなのなら、それを勝手な理由で殺してしまうのは、神への冒涜にもなるのだろう。では、こんな私に子供が「授かった」のだとしたら、それは神様があえて私に、子供を授けたという意味なのだろうか。自分のお腹を痛めた子供を捨てた、母親の血筋を受け継いでいるかもしれないこんな私に、あえて子供を授けるという意味とは、一体なんなのだろうか。

頭上にあるからくり時計の人形が、くるくると回り音楽が鳴り出した。周辺の者が一瞬顔をあげ、そしてすぐに戻す。子供だけが、熱心にその回る様子を見ていた。若いお父さんに抱かれた男の子が、首が痛くないのかと思うくらいに上を見つめている。子供の手には、風船のつながったひもが、結いてつながれていた。その横で母親が何か笑いながら子供にささやいて立っていた。

「おい。」
聞き慣れた声に、はっと我に返った。俊がそこに立っていた。
「どうした、なんか考え事してたみたいだけど。」
俊はいつもの、細い目をして静かに笑っていた。どうしてこの人は、こんな笑顔をしているのだろう。この顔を見たら、私は何もかも喋って、今抱えているこの悩みを共有したい衝動に駆られた。 
「うん。ちょっとね。」
曖昧な返事をした。俊にすべてを話して、結果俊が自分から離れていくことが、もしかしたら怖いのだろうか。俊はもし子供が出来たら、あの風船の男の子の父親みたいに、なるのだろうか。
「どこ行こうか。」
私よりも首ひとつ背の高い俊が、こちらを覗き込むようにして聞いた。
「お酒が飲みたいな。でも、静かに話せるところがいい。」
とても飲みたい気分だった。言った瞬間、万が一の時のために、お酒もやめたほうがいいかも、という考えが脳裏にちらついたが、薬じゃないから構わないか、と勝手にそう思った。

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夕凪(8)

2006-11-04 16:20:55 | 夕凪
 目覚ましが鳴る。この数日で習慣となった検温をする。今朝も頭痛が取れていなかった。36.9度。どうなんだろう、この数値は。何となく下半身に微妙な変化も感じたので、もしかしたらと期待しトイレに入るが、何も変わったことは無かった。
 今日は生理の予定日だった。今日来ないからどうということではないが、何となく今日来るのではないかという予感がした。腰も重いし、昨日の日中もひどく眠かった。間違いなく生理前の体調と同じだった。
 
今日はバイトが無いのだが、バイトがあっても無くても、規則的に6時半には起きている。父の朝食を準備しなくてはならないからだ。
 だしを取って、味噌汁を作る。お豆腐とワカメを入れて、味噌を溶かしていると、吐き気がしそうだった。朝の味噌汁の匂いが好きだという人がいるが、私はこの、朝起きて嗅ぐ味噌汁の匂いが苦手だった。特にワカメとの組み合わせが駄目だった。磯の匂いがすると、吐き気がするのだ。だが、父は朝は御飯でないと駄目なのだ。味噌汁の傍らコーヒーメーカーをセットする。たちまち、芳しい匂いが台所に立ち込める。
「今日は休みか。」
 父がぽつりと言った。もともと私は、自分のほうから話すタイプではないのだが、最近益々父との会話は必要最小限になってきている。
「今日は夜出かける。御飯は支度しておくから。」
 今日は俊と会う予定の日だった。
「あいつか。」
 父は俊のことを、あいつ、と言う。
「そう。」
 父はこちらを見ずに、テレビのニュースの画面を見ていた。 
「今日中には帰ってこいよ。」
「うん。分かってる。」
 
この歳になって門限があるなんて、恥ずかしくて人にはあまり言えない。だが社会人になってからは、それでも少し緩くなって、12時までに帰れば文句は言われなくなった。バイト先のパートさんの娘のように、彼と同棲している人なんてごろごろいるのに、帰る時間を決められているなんて、と思う。だが、父に言っても分かってもらえはしないだろうと諦めている。時間を勝手に破ってしまってもよいのだが、父とごたごたするのが面倒臭いので、しないだけだ。

父の御飯は3分ほどで終わってしまった。父は隣の部屋に行って、新聞を読み出した。
私は出来上がったばかりのコーヒーを飲みながら、つけっぱなしにされたテレビを見ていた。御飯は食べたくないがお腹は空いているので、バナナを食べる。テレビでは3歳の子供が、母親から食事を与えられず餓死したというニュースを流していた。母親は離婚後同棲していた男がいたが、二人で日常的に虐待をしていた疑いがあると報じていた。以前に児童相談所で一度注意をされたが、それから警察への通報がされたかどうかなどの問題点があったと指摘している。数人いるキャスターたちは、この手の事件の度に無念さを感じるということや、児童相談所と警察の連携の問題点や、一度児童相談所で見ていながら何故食い止められなかったのかということを発言していた。

児童虐待などのニュースがあると、私は被害にあった子供をまず可愛そうだと思うと同時に、自分の中に、この母親のような残虐な部分があるのではないかと、そのことを疑ってしまう。児童虐待をする人は、自分も虐待されていたケースが多いと、何かの本で読んだが、その母親が子供のときも、もしかしたら同じようなことをされる環境にあったのかもしれない。それにこの母親は、子供ができてから結婚したようなタイプなのかもしれない。年齢を見てもまだ若い。子供を育てる自覚や愛情が足りてないのに、子供ができたために勢いで結婚してしまったのかもしれない。それで子供に十分な愛情を持てなかったのだろうか。もともと望んで出来たわけではない子供の育児に、自分が責任であるのにそれを放棄してしまったのだろうか。

子供は生まれたら、無条件で愛されるものだと、大抵の人は思うだろう。けれども、そうとは限らないのかもしれない。例え母性の足りない人でも、自分で生んだ子供は可愛いと思うだろうというのは、幻想なのかもしれない、そんなことさえ思う。自分が産んだ子供が、それが例え100%望んで出来た子供ではなくても、可愛いと思えるのが当然ならば、世の中に子供の虐待なんて悲惨なことはなくなる。子供を捨てたり、育児放棄ということもなくなる。だが、そう思えない人が存在するのが現実なのだ。それなら、産む決意をする前に、堕胎するという手段もあるのだろう。あやふやな決意のもとに軽い気持で子供を産んで、その上虐待して死なせたり捨てたりするくらいなら、まだ堕胎したほうがましではないのか。それは言い方を変えれば、人殺し、ということになるのかもしれない。だが、人と言うけれど、受精したばかりの段階で、それを人と呼べるのだろうか。虐待を受けたり暴力を受けたり、人としての正当な扱いを受けられなかった子供達は、どんな気持だっただろう。情けなさ、悔しさ、痛さ、辛さ、絶望、そんな言葉では言い表せられないように思う。生まれてきて意思も感覚も感情もある子供を殺すのと、人となる最初の段階の胎児を殺すのとでは、まったく違うと思うのは私だけだろうか。

私は自分を産んだほとんど記憶にない母親を思うとき、なぜ産まないでいてくれなかったのかと、いつも思った。産んでくれなければ、つらい思いをしなくて済んだのだと、そう思った。それでも私は、まだまだ辛いとは言えないのだろう。親に暴力を振るわれたり、食事も与えられなかったりなど、まるで人として、人格を無視した扱いを受けるということは、私にはなかったから。そういう被害を受けた子供達は、どんな気持でいるのだろう。そう思うと、子供を産んで育てるというのは、固い決意のもと、絶対に子供を不幸な目に合わせないという決心の上に、しなければならないことなのではないかと思う。

私がテレビの画面から目を逸らすと、何時の間にか父は仕事に出かけていた。包んでいなかったお弁当は、何時の間にか持って行ったようだった。

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夕凪(7)

2006-11-03 06:34:34 | 夕凪
 客がレジに並んだので、パートさんは話を中断した。毎日のようにここに立っていると、不特定多数のように見える客の中に、常連というか定期的に立ち寄る一定数の人がいるのに気付く。また客層の流れも、一日の中で微妙に違った。私はほとんど昼間から夕方のシフトが多いのだが、午前中は主婦や子供連れ、昼時はおにぎりやお弁当を買う会社員など、午後になると営業の途中の会社員、夕方になると子供や学生、そして夜になると会社帰りの人が多かった。レジ前にいる親子は、この近所に住んでいるらしく、昼間の時間に何度か見かけた。大抵はジュースやお菓子など、一点だけを買っていった。
 「はい、おねがいします、っておばちゃんに言って。」
 母親に言われて、3歳くらいに見える男の子が、ペットボトルをカウンターの上に、背伸びするように置いた。
 「あらいい子ね~。はいありがとね~。」
パートさんはカウンターから乗り出すように身をかがめて、その子の頭をなでた。彼女は子供が好きらしかった。こういう客に対して、いつもこのような対応をする。私はそんな態度ができることに感心してしまう。私は逆に、空いているときはともかく、混んだときにこうされると少しむかむかとした。子供に商品を持たせたりわざわざお金を払わせたりしている人の横で、次に並んだ客が、大抵はサラリーマンや男の学生なのだが、イラついた表情をして待っているのをよく分かっていた。お店やさんごっこは家の中でやってくれと、内心思った。
「ママあけてー。はやくー。」
 まだ母親が財布にお釣りを閉まっているの間、子供は母親にくっつくようにしてペットボトルを持ち上げた。
「ちょっと待ってなさい。公園に行ってからでしょう。ここじゃだめ!」
 母親は、子供が背伸びするように差し出したボトルを、さっと取り上げると肩に下げたトートバッグにねじ込んだ。
「いまのむの!のどかわいた!」
 次の人のレジをしながら、私はその様子を横目で見ていた。子供は母親の肩から下げたカバンに、ジャンプするようにジュースを狙っていた。だが母親が手を引っ張って、引きずるように歩かせた。
「ほら行くよ!」
「のどかわいたんだもん!ちょーだい!」
 叫ぶように子供は言った。店内を出ても、子供はずっとちょうだいを連発していた。
 
母親と子供の後ろ姿をちらっと見ながら、子育てとはあの状態が毎日毎日続くことなのだなと、考えた。私はたったこの一場面だけでもイライラするのに、世の中の母親はよく我慢できるなと、思った。私は自分が子供を持ったら、ストレスで毎日イライラとするのは目に見えていた。自分が子供を嫌いな原因が、子供というのが、子供というだけで何を言っても許されるという存在であり、何をしても無条件に愛される存在であると言うのが、私には我慢ならないことだからだった。子供というのはそういうものだし、それが子供の特権であり子供の特徴なのは分かっているのだが、世の中の母親たちのように、自分の子供の傍若無人ぶりを、当然のように受け止めてやるような、そんな器量が私には備わっていないのだと、そう思った。私には子供のときから、子供であったのに自分だけが子供ではないような、そんな奇妙な感覚があった。自分の友達なんかを見ていて、その子供の振る舞いや我儘振りを、なんでこんなに我儘が言えるのだろうとか、どうしてこんなに好き勝手にできるのだろうと思い、まるで理解することができなかった。そしてそんな友達の態度を、嫌悪していたし見下しもしていた。レジに並んだ子供に抱いたような感情を、自分が子供でいたときから持っていたのだった。

 また自分が子供のときを考えると、母親代わりの祖母は常に何かにイライラしていたのを覚えている。私は決してあのレジにいた子供のように、駄々をこねたり自分の主張をストレートに表す子供ではなかったし、ましてや悪戯なんてしたこともないような大人しい子供だったが、なぜか毎日怒られてばかりいた。しかしそれは、私に非があって怒られていたというよりも、祖母の機嫌のせいで怒られていたというのも、次第に分かっていった。何かの理由で祖母が不機嫌になると、その矛先が私に向いていた。私は祖母の口から、家を出た母親の悪口や父親の金銭面や女性関係に関する愚痴のようなもの、またあからさまに私に向けた心無い言葉、それらのものが容赦なく出てくるのを黙って聞いていた。私は子供だったが、大人である祖母の、傍若無人ぶりを我慢していた。そして次第に、そういう人間を心底嫌うようになった。だが自分がその立場になって、必ずしも寛容な態度でいられたかどうかと問われたら、まったく自信はない。だから私は、子供を育てる自信が、まったくないのだ。子供という存在をどうしても好きになれないことと、子供を育てる器量がない、その二つは他人には知りようもないが、自分の中には、隠しても隠しようがなく存在する事実だった。
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夕凪(6)

2006-11-01 02:57:53 | 夕凪
バスを降りバイト先であるコンビニまで歩く。今日は天気がよかった。水色の空に、薄い雲がところどころに散らばっていた。風は少し冷たいが日差しがあるので、歩くと少し暑いくらいだった。この天候の良さに比べて、私の体は、まるで鉄の重りがぶら下がっているように重く感じられた。絶えず頭がぼんやりとして、だるい。このまま生理が来なかったら、今度は吐き気が始まるのだろうか、と頭の隅で思った。このだるさは生理前のだるさなのか、それとも別の原因のものなのだろうか。そんなことばかり考えていると、自分の体の感覚が信じられるような信じられないような、もっと大袈裟に言うと自分が信じられないような気がした。自分の体の中で、何かが起こっているのかもしれないと、そのことに対する恐怖心もあった。だが、これから起こりうる体の変化より先に、このことを俊に話さなくてはいけない、そう思ってもいた。明日は俊と会う約束になっている。その時話したほうがいいだろうか。彼はどういう反応を示すのだろうか。恐らく、否定的な反応だろうと思った。もしくは、決定的な事実が確認出来るまでは、楽観的に、いい方に考えようと言うだろう。まだそうと決まったわけじゃないのだから、気にするなと、そういう答えが返って来る様な気がした。俊は私に対して優しいことは間違いないが、時に優柔不断なところがあった。何かを選択したり決定しなくてはならないとき、いつも私の意見を優先させた。優先させると言ったら聞こえはいいが、いつも私に決断させるのだった。そういう時、私はどこか物足りなさを感じていた。私は物事を悪い方悪い方に考える、何事につけても最悪な場面を想定しがちだった。まだ起こってもないことを、あれこれ想像し、その予想に落胆し慄き、そして失望した。何事にも、期待というものを抱かなくなっていた。それは、期待を裏切られた時、自分を防御するためかもしれなかった。期待を裏切られるくらいなら、最初から期待しないほうがましだと、そういう諦念のような考えが物心ついた頃から根付いていた。そう言う風に、小さい頃から生きてきた。そんな私が、俊のように深く考えずに楽観的なものごとの見方をしているのを見ると、何か不安のような、またその反面羨ましさのようなものを感じずにはいられなかった。そして大抵の場合は、俊の考えているように物事は進行していくのだった。私の杞憂は、いつも徒労に終った。そんな私を見て、お前は考えすぎだよと、俊は口癖のように言った。

 今日はパートの50代のおばさんと二人で仕事についた。この人は悪い人ではないのだが、話し好きなのが参ってしまう。自分の娘さんが私より少し年下とあって、私を娘の友達か何かのような感覚で扱った。今日も少し客足が途絶えると、しきりに話をしてくるのだった。今も散々娘の話をしている。愚痴のように聞こえるが、実は自慢なのだろうかといつも思うのだった。
「一緒に暮らしてるくせに結婚する気はないのよねえ。今の若い子ってそうなのかしらねえ。同じじゃないのかしらね、一緒に住むのと世帯持つのって。」
「そうですねえ。」
 私は適当に相槌を打つ。
「どうなの?玲ちゃんは、彼氏と一緒に住もうとか、思わない?」
パートさんは、時々ここまで迎えにくる、俊の存在を知っていた。
「いえ、父がうるさいですからね。家出るなんて言ったら、殺されちゃいますよ。」
 冗談でなく、父は本当にそうしかねない人だった。
「ああ、でもそうねえ。お父さん男手ひとつで育てた娘を、よその男にやりたくはないわよねえ。まして同棲なんか、させたくないわねえ。」
 私に母親がないのも、会話の端々で何となく知っているようだった。しかし、私が父子家庭だと知ると、大体の人が、まるでそれがキーワードのように、男手ひとつで育てた、と言うのだった。そしてそれが当たり前のように、男手ひとつで育てた娘イコール溺愛、というイメージに、なっているらしかった。
「私は家を出たいんですけどね。」
 ぽつりと本音を言ってしまった。
「あらでも、お父さんそれじゃ寂しいわよー。おうちのことだって、男ひとりでは中々ねえ。」
 ここでもお決まりの言葉が出る。お父さん寂しいわよと。実際のところ父は寂しくなんか無いと思った。娘がいなくても、勝手に自分の人生を生きる人だと思っていた。若いときから、父はそういう風に生きてきて、それを当然と考えていた。家族より自分の会社や会社の付き合いや、自分のやりたいことを優先している人なのだ。父が私を必要としているのは、それは家事をやる人間が家に必要だからなのではないかと思っていた。それから、保守的な考えの人なので、結婚せず家を出るのは論外だと思っているようだった。勿論、娘なのだから、そこに少しの愛情もあるとは思うが、それは世間で抱いている大切な一人娘とその父、というイメージとは、程遠いのではないかと思った。
「まあでもねえ、うちの娘なんて勝手に家を出て男と暮らしているけれど、都合のいい時ばっかり頼ってくるしねえ。いつまでも子供なんだから仕方がないわよねえ。」
 パートさんは、口では仕方ないわよねえ、と言いながら、それを楽しいことのように話した。実際苦でも何でもないのだろうと思った。この人から娘さんの話を聞くと、私はいつも自分に母親の存在がないことを、思い知らされた。年頃の娘さんとパートさんの、無防備に交わされる会話の内容を聞いていると、自分の味わったことのない、母と娘の関係というものを想像してしまうのだった。口調とは裏腹に、そこには他人の入ることのできない、深い愛情を感じずにはいられないかった。そして、例えば父とは絶対話さないような会話を、年頃の娘さんとパートさんは、ごく普通の会話として日頃話しているというのが驚きだった。そしてそんな存在を、やはり羨ましいと思った。父親だって親に間違いはないのだが、父と私の間には、パートさんと娘さんの間のような、何と言ったらいいか、同盟関係のような関係は結ばれていないような気がした。同じ親子、という間柄でも、女同士とそうでないのとは、決定的に何か違うような感じがした。若しくは、母親というのが、その子供にとって何か特別な存在であるのかもしれなかった。だがそれは、私には終生分からないであろう感覚なのだと思った。

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