星を見ていた。

思っていることを、言葉にするのはむずかしい・・・。
良かったら読んでいってください。

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このまま

2006-10-30 06:45:44 | つぶやき
このまま私は、消えて無くなってしまうのだろうか。

かくれんぼをしていて、ずっと息をひそめて隠れていて、最初は、うまく隠れていることに得意になっていたのに、最後には相手はかくれんぼのことを忘れていたというように、このまま、静かに、相手に気付かれないまま、終わってしまうのだろうか。

忘れられてしまったのかと、不安になりながら、何か落ち着かなく、私はどうしていいのか分からなくなる。

最初から、かくれんぼなんかしていなかったのだと、気付いて、愕然とするのかもしれない。

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夕凪(5)

2006-10-30 00:31:20 | 夕凪
(5)
 
 なかなか眠れなかったと思っていたのに、寝たらすぐに朝が来てしまったようだ。目覚ましの音に目を覚ますと、ベッドの脇に置いた体温計を手に取った。今更計っても意味がないとは思いながらも、あの日から計っている。ずっと高いままだと、その可能性があるらしかった。そのままの姿勢で計る。ブザーが鳴った。36度6分。体温なんて風邪の時以外に計ることがないのだが、この数値はそれほど高いとは思えなかった。私は見た目は体温の低そうな人間に見られるが、そうでもない。体温計を持ったまま、そのまま暫く目を閉じた。もう頭痛はどこかへ行っていたが、なんとなく頭はだるかった。

 起きてすぐにトイレに行った。もしかしたら、と半ば祈るように期待したが、なんの変化もなかった。来なくてはいけないものは来ていなかった。明日が予定日なのだが、それほどいつもぴったりと来るわけではない。でも、早いときだってあるのだから、もう来たとしてもおかしくなかった。壁に貼ってある、カレンダーを見つめる。先月のことを、思い出してみる。どう考えても、もうそろそろ来てもいい日だった。目がカレンダーの日付から、動かせなくなってしまった。トイレの中で、そうして何もしないで、数分間を過ごしてしまった。

 自宅の近くのバス停で、駅に向かうバスを待っていた。私の横に、ベビーカーを傍らに停めた若い女の母親が並んでいた。そこにはまだ生まれて間もない赤ん坊が寝ていた。子供嫌いの私は、普段子供には目もくれないのだが、今日はなぜか、その子から目が話せなかった。私がその子をじーっと見ていると、私の隣に並んでいた老婦人が、「ねえ、可愛いわねえ。」と私に同意を求めるように呟いた。
「そうですね。」
 私は、この場にふさわしいであろう返事をした。でもそんなことは少しも思っていなかった。赤ん坊の可愛さの基準というものが、私にはよく分からないのだが、私にとってその赤ん坊は、どう見ても可愛いとは思えなかった。というより、可愛いとか可愛くないとか、そういう気持を起こさせないのだった。それはただの、赤ん坊であって、それに対して特に感想を持つほどでもなかった。老婦人はその子に向かって、にこにこしたり顔をしかめたりして、百面相さながらの顔付きをしていた。赤ん坊は、そのコロコロと変わる顔を見て、足をばたばたさせて喜んでいた。私は、私が心の中でこんな気分でいるのを悟られるのを恐れるかのように、それを見てただ微笑んでいた。
 
バスが来た。若い母親は子供をベビーカーから出して、脇にさっと抱えた。そして片手でベビーカーを瞬時に畳んだ。片手に乳児を抱え、肩にベビーカーを背負ってバスの階段を上がるのは、少し難儀なようだった。私がそう思っているところに、先ほどの老婦人が、ほら、と言ってベビーカーを母親の肩から下ろして、代わりに持ってやった。一瞬のことだった。でもそれは、とても自然だった。私は、自分がその母親のすぐ後ろにいたのに、そういう心配りが出来ないことを、少し恥じた。私には、そういう優しさが足りていない。
 
 バスに乗ると、座席に座った母親は、子供を膝の上に抱っこした。その目は、じっと赤ん坊に注がれていた。赤ん坊も、じっと母親の顔を見ていた。母親は、膝の上の、自分の子供にしか聞こえないような小さな声で、何かを話し掛けていた。それに反応して、赤ん坊がにっと笑う。言葉が分かる年齢でもないだろうから、言葉に反応している訳ではなくて、きっとそれは、母親の笑顔につられて笑っているのではと思った。母親と子供の間に、完璧に遮断された世界が出来上がっているように思えた。きっとあの赤ん坊の世界には、母親しかいないのだろう。母親がすべてなのだ。母親が、安心でき守られていると実感できる土壌。赤ん坊は母親の笑顔しか、目に入っていない。また母親も、なんとも言えない平和な表情を浮かべて、子供を見入っていた。母親にとっても、また子供がすべてのように思えた。

 私はなぜか、膝の上に抱かれている、見ず知らずの赤ん坊に、嫉妬のような感情を持ってしまった。あんな風に見つめられ、抱かれている子供は、何と幸せなことか。そして、あの母親は、どうしてあれほど慈悲深い表情をしているのだろう。あの落ち着いた包み込むような微笑が、あのように自然に出てくるのは、何故なんだろう。自分の子供というのは、それほど絶対的な存在なのだろうか。無条件に安心を与えることができる、唯一の存在なのだろうか。そう考えると、それは自分が持っていなかったものだと思った。それでも私は、自分の産んだ子供と、そのような関係を結べるのだろうか、そう思わずにいられなかった。

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夕凪(4)

2006-10-26 03:46:33 | 夕凪
 湯船には自分の体が、白く浮かんでいた。じっと腹部のあたりを見ていると、その部分が大きくなってくるかもしれないということは、とても想像できないことだった。と同時に、自分の体が、何か自分の体ではないような、3日前の私とまったく同じ私であるのに、それ以前とは違う入れ物になっているような、そんな錯覚もした。勿論これと言って具体的に体の感覚に変化があったわけではなかった。ただ、自分の体を、こんな風に過剰に意識したことが、今までなかっただけなのかもしれないと思った。

 湯船から上がって、髪を洗う。次に体を洗う。頭痛が少しも和らがないので、そのことにイライラしながら、雑に洗った。体の各部分を洗っていると、私は先ほどのイメージから遠ざかることができずに、自分の下半身から子供が生まれることを想像していた。あんなものが自分の体の中に存在し、そして出てくるということを考えると、それは恐怖以外の何者でもなかった。自分の分身のようなものが、自分の体内に一定期間存在し、この世に産み落とされる、そんなことを頭の中に思い描くと、それはグロテスクな、気味の悪いことにしか思えなかった。なぜ女は、あれほどの恐怖の体験を喜ばしいことのように語るのだろうか。それがどうしても理解できなかった。生まれたての赤ん坊は、どれくらいの大きさなのだろうか。どんなに小さく考えても、それは産む時死ぬほど痛いのだろうとしか、想像できなかった。

 それから自然と、自分を産んだ人間のことを考えていた。それほどの思いをして産んだ子供を、どうして捨てることができたのだろうか?それは物心ついてからの、答えの出ない疑問だった。腹を痛めて産んだ子供なのだから可愛いはずだ、という言い方をよくされるけれど、それは自分と、自分の母親のことに照らし合わせてみると、少しも信用できない言い方だった。世間一般によく言われるように、腹を痛めた子供が可愛いのならば、自分を産んだ人は自分を捨てた訳はなかった。産んで捨てたのならば、産んでくれないほうが良かった。私の考えはいつもそこに辿り着いた。育てる気持が無かったのなら、産む前に始末するという方法だってあったはずだ。そういう選択をせずに、産んで育てる決心をしたのだったら、どういった理由があろうと死ぬ気で育ててくれるべきだったのだ。飼っている犬や猫を、面倒だからと捨ててしまうように、私は捨てられたのだと、そういう思いが拭いきれなかった。今まで通り抜けてきたさまざまな体験や惨めな経験を思うと、私を産んでくれなければ、こんなに苦しまなくて済んだのにと、そう思わずにはいられなかった。

 私は父から直接聞いたわけではなかったが、親戚の人の噂やなにかで、私を産んだ母親が家を出たのは、父の酒癖が悪かったためと聞いていた。酒を飲んで暴力を振るったのだと、それに耐えられずに家を飛び出したのだと、そういうことを何となく知っていた。だが私の知る限り、父が酒を飲んで暴力を振るっているのを、見たことが無かった。どれほど深酒をしても、翌朝にはしゃきっとして現場に出て行く、そういう父親しか知らなかった。それに、もしその話が本当のことだとしても、そんな父親のもとに、腹を痛めて産んだわが子を、残していくことができたのかという疑問が残った。それは子供を暴力夫のもとに置き去りにしたということではないか。自分がそれに耐えられないのに、子供は耐えられると思っていたのだろうか。自分は逃げるのに子供は置いてけぼりで良かったのだろうかと、そういう風にしか思えなかった。逃げるのなら、私を連れて逃げてほしかった。なぜ私は置いていかれたのか、私の存在は自分の母親にとって何だったのだろうか、その疑問はこれまで何度も何度も浮かんできたことだった。そしてそれは、いくら考えても答えが出なかった。それを知っているのは、私を捨てた本人だけなのだ。そう思っている反面、その母親に対しては、何の感情も持っていなかった。記憶の中のたったの一場面しか登場しないその人は、自分にとって他人も一緒だった。まだ会った事のない、未知の人間のなかの一人と、同じ存在だった。会ったこともない人間を、憎いとか嫌いだとか思わないように、自分を産んだ人間に対して、恨みのようなものは持っていなかった。ただ私ならそうしないし、私はあの人のようには絶対にならない、そう思うだけだった。

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夕凪(3)

2006-10-25 00:17:20 | 夕凪
 食事の後片付けが終わると、割れそうな頭をどうにもできずに、ベッドに横になった。がんがんする。仰向けになって、首の下にタオルを挟んだ。眠りたい。ドアの向こう側で、父の見ているテレビの声が、かすかに聞こえた。目を瞑って、何も考えず眠ることだけを思う。何を喋っているのか分からないくらいの、音がする。それをじっと聞いていた。

 エレベーターに乗って、すごく深い地下を降りていくように、すーっと体が、落ちていく感覚がした。途中で止まった。私は眠る最中なのだと、自分で思った。そのうちに、またうつらうつらとして、私の体はさらに地下深くに降りていくようだった。また記憶が遠くなる。このまま落ち続けたらいいのにと、思った。

 わたしは目を覚ました。そこは暗くて、一瞬何も見えなかった。よく目を凝らすと、いつもの寝ている部屋だと分かった。目は開いていたが、体がまったく動かない。雨戸の閉めていない窓の、薄いカーテン越しに、外も同じように真っ暗なのが分かった。じっと耳を澄ましてみる。お父さんのいる、気配がしない。テレビの音もしなかった。それに、電気のあかりも、漏れていなかった。お父さんは、またどこかへ行ったのだと、その時思った。

 この家のなかに、わたし一人だけしかいない、それに気がついた時、急に恐怖が襲ってきた。玄関は閉まっているのだろうか。それに、誰かが隠れていないだろうか。誰か来たらどうしたらいいだろう。わたしは頭の中で不安を引き起こす様々な要素を考えながらも、体を動かすことができなかった。もし誰かが来ても、逃げることができないと思った。そのとき車が駐車場に入る音がして、西側の窓からヘッドライトの光が入り、部屋の壁に当たった。ああ、お父さんが帰ってきた、すぐにそう思った。けれどもお父さんが、家に入る気配がしない。耳を澄ましていると、お隣の家の、玄関のかぎがガチャっと開く音が聞こえた。静かな夜に、その音は意外に大きく響いた。

 お父さんじゃなかった、そう思うと、落胆よりも恐怖が襲ってきた。目を開けているのが怖くて、わたしは布団を頭から被った。寒い。誰も来ないように、早くお父さんが帰ってくるようにと、願った。外からまた、黄色いヘッドライトの光が差した。あっ、と思う間もなく、その光は通り過ぎた。お父さんじゃなかった。どうして帰ってこないのだろう。早く帰ってきて。早く。

 はっと目が醒めた。私は幼い頃の、夢を見ていた。体が固くなり、頭はさらに重くなっていた。ひどく疲れた。寒いのに体に汗が滲んでいた。夢の中で聞こえなかったテレビの音は、かすかに聞こえていた。父がまた、うたた寝をしているのかもしれないと思った。壁の時計を見ると、1時間ほど眠っていたようだ。暖かいお風呂に入ろうと、鉛のように重く感じる体を、のっそりと起こした。

 湯船に入ると、浴槽の淵に頭を乗せて、上を向いた。首の下に熱いタオルを巻いて、敷く。暖かさに、そこから頭の痛みが、取れていくようだった。
 先ほどの夢のことを考えていた。父は幼い私を家に一人残し、よく飲みに行っていた。寝入ってしまえば、朝まで起きないと思っていたのだろう。でも私は、あんな風に度々目を覚ますことがあった。あんな風に、窓から入るヘッドライトの光を、どれほど待ちわびていただろう。幼い頃、いい加減な時分まで、私は車の黄色いライトの光を見ると、泣きたい気分に襲われた。物音しない真っ暗い部屋の中で、たった一人でいるというのは、3、4歳の幼児には恐怖にも近かった。淋しいとか、そう言ったレベルでなく、恐怖だった。それなのに、私は、父親にそのことを告げることができなかった。私がもっと恐れていたのは、父親に捨てられることだった。私が我儘を言って、父に捨てられてしまうということは、もっと恐ろしいことだった。だから朝になると、何事もなかったように、きちんと起きて顔を洗った。私は常に、捨てられることを恐れていたのだ。

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夕凪(2)

2006-10-23 11:44:39 | 夕凪
「ただいま」
 玄関を開けると、家の中には誰もいないのが分かっていながら、小さく呟いた。自分の部屋に入って、そのままごろんとベッドに仰向けになった。日曜日俊と会ってから、ずっと頭痛が続いていた。もしかしたら妊娠してしまうかも、という考えから、どうしても離れることができずに、何時間もネットを繋いで、今自分がどういう状況なのかを必死に把握しようとした。そのせいかもしれない。頭痛が続いているからなのか、気分が悪く吐き気もする。最初まさか、と思ったがつわりになるには時期が早すぎるのだと色々調べて分かってはいた。頭痛による吐き気だろうと思う。
 
 色々と調べていると、妊娠した可能性のあったときから3日くらいの間に飲めば、妊娠を回避できるピルというものがあるらしかった。明日の朝病院に行けば、まだ間に合う。けれどそういうものを扱っている病院は数少なく、この辺にはないらしかった。バイトも休まなければならないし、第一、私は産婦人科というところに行ったことが一度もなかった。父親から保険証を持ち出すのも、憂鬱だった。きっと根掘り葉掘り訊かれるに違いないのは、目に見えていた。
 
 先ほど買ってきた判定薬の、説明文を取り出して仔細に読んだ。何度読んでも生理予定日を一週間ほど過ぎないと正確な判断は出来ないと書いてある。まだ一週間以上もあった。今これを使っても、なんの意味もないのだろう。中身をまた箱にしまい、クローゼットの奥に隠した。父は私の部屋にはほとんど立ち入らないが、万が一ということがある。こんなもの見つかったら、殺されるかもしれない。
 
 あまりの頭痛の酷さに、どうしていいのか分からなかった。台所に行き、引き出しを開け、バファリンを取り出した。コップに水を注いだところで、はっと思った。万が一子供が出来ていたら、こんなものを飲んだらまずいのだろう。多分妊娠中は薬を飲んではいけないのだ。私は水の入ったグラスを、じっと見つめた。そこを見つめていれば、心が落ち着くかのように、じっと見つめた。このまま力が抜けて、ふっと体が沈んでいきそうな気がした。けれど私の体は、そんなにやわに出来ていなくて、私はそこに立ち尽くしていた。それからコップの中の、水をごくりとひとくち飲んだ。とにかく一眠りしなくては、この頭痛は治らないのだろうと思う。時計を見る。あと1時間もすると父が帰ってくるだろう。寝ている暇はないと思った。

 どうにも重い頭を抱えながら、冷蔵庫を覗く。簡単に作れるものにしようと思う。帰りにスーパーでお刺身でも買ってくればよかったと、後悔する。私は何も、食べたくなかった。お父さんの分だけ、と思うが、やはり何か勘ぐられると思うと、気は進まないがいつも通りきちんと二人分を作った。ご飯の支度があらかた済むと、お風呂を沸かしておく。土建業を営む父は、ご飯の前に先に風呂に入り、きれいになってから晩酌をするのが習慣だった。

 父が帰ってくる。私は見ていたテレビから離れて、お魚を焼く準備をした。意識的にそうしたわけではないが、父の顔をあまり見たくなかった。お風呂から出て晩酌を始めた父は、少し上機嫌な口調で、私に聞いた。
「仕事は見つかったのか?」
 ご飯を口に入れようとしていた私は、そのままお茶碗を見ながら、まだ、とだけ答えた。前の仕事は、父の仕事上での付き合いのある人の、小さな会社だった。その事務員として働いていたが、この不況で会社は経営が厳しくなり、私はいわばリストラされた形だった。父親の目の届く範囲で仕事をすることに、窮屈な思いを抱いていた私にとって、それはたいした打撃でもなく、それどころか、ちょうどいい転機だった。それからバイトしながら、次のまともな職を探しているのだが、なかなかこれという仕事が見つからなかった。派遣社員で働いてもいいとも思っていたが、昔かたぎの父は、正社員で雇ってもらえるところを探せと、うるさかった。そうしながら、何となく今の生活になって、数ヶ月が過ぎていた。
 短く答えた割に、何もそれ以上は追求されず、父はテレビで報道番組を見ていた。父の晩酌のコップと、つまみの入った皿を残して、片付けを始める。

 私がもし、俊と結婚するということになったら、父はここで一人で暮らすのだろうか。今までこうしてやっていた仕事は、例えばご飯の支度をしたりトイレの掃除をしたりとかは、父が自分でするのだろうか。そんなことは考えたこともなかった。一緒に住んでいた祖母が無くなってから、こうした家事全般を私がするようになり、高校生の頃は、なんで主婦でもない私が、これほど家事に追われなくてはならないんだろうと、思ったりした。お父さんが再婚でもして、やさしい女の人が家に来て、家事をやってくれたらいいのに、と、そんなことを考えたこともあった。けれども父と付き合っていた人は、家庭とはそぐわないような水商売の人のときもあったし、また一時期同居していた父よりずっと年下の人もいた。でもなぜか、籍を入れて正式に結婚するということには、ならなかった。私がいたからかもしれない。なんとなくそう思っている。私がいなかったら、父はどこかの誰かと、再婚していたのかもしれなかった。

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夕凪(1)

2006-10-21 20:11:28 | 夕凪
 「おつかれさまでした。」
仕事の交代時間になると、店の緑色のエプロンを急いで外し、ロッカーにあるカバンをつかんだ。今日こそは、駅までの途中にあるドラッグストアに寄ってから、帰るつもりだった。店を出て足早に歩く。バス通りをそのまま真っ直ぐに歩くと、10軒ほど先にドラッグストアがあった。いつもよく利用するので、大体何がどこにあるかは分かっている。けれども、今日探そうとしているものは、普段買うようなものではないので、どこにあるのか分からなかった。薬屋としては広い店内をうろつきながら、どの辺にあるのだろうと検討をつける。生理用品の棚か、なければ体温計のある棚か。探していたものは体温計の方の棚にあった。じっとその棚の前に立って、どれを買ったらいいのか箱を手にとってみる。パッケージの説明文を読みながら、ふと、この店で誰かにばったり会ったりしたら嫌だなと思った。アルバイトしているコンビニから、ここはすぐ近い。パートのおばさんたちも近所に住んでいるようだし、それによくコンビニに来る客に、会うかもしれなかった。
 まだ生理の予定日ではなかった。だが、いったん頭に浮かんできた不安は、打ち消すことができなくて、もう半分決定されたことのように、思いこんでいた。この前の日曜日に俊と会った直後、その考えがすぐ思い浮かんだ。あの日の私は、色々なことに疲れていて、ぼんやりとしていた。今まで一度だって失敗したことがなかったのに、うっかりしてしまった。ことが終わったとき、今日は安全な日なのかどうかと咄嗟に考えた。かといって、毎日基礎体温を測っているわけでもなく、そんな目安はあてにはならないと充分わかっていた。おそらく最も危険と思われる期間ではないようだったが、そういった女の体の周期を書いたものを読むと、まったく安全という日は、ないのも一緒なのだった。可能性は、いつだってあるのだ。
 数種類ある判定薬の、何箱かのパッケージをざっと読む。どれも同じだ。そのうちのひと箱を隠すようにレジまで持って行った。誰にも知っている人に会わないようにと願っていたが、誰にも会わなかった。レジで商品を受け取る間、ああ、このレジ係は私をどう思っているのだろうと思った。そういうことになって困っている女と思うか、それとも子供が欲しくて仕方の無い既婚者で、これをどきどきしながら買っていると、思っているかもしれない。私はなるべく店員と顔を合わせないように俯き加減に、お釣りを受け取った。

 この数日間、私の頭の中は、もし妊娠をしていたら、という考えで一杯だった。私は子供が好きではない。結婚さえしていない。友達の中にはできちゃった結婚している子もいるにはいたが、彼女は子供が好きだし、何より相手に心底惚れていたのだから、躊躇なくこれ幸いと結婚に踏み切った。そういう例は、私にとってまったく参考にならない。俊と結婚し、家庭を築き、子供を育てていく。それは容易に想像できることではあったが、私は自分が家庭を持つということに対して、まったく自信がないのだった。幸せ一杯の、平凡な家庭、というものが、自分からは遠く離れた、関係のない、非現実的なことでしかないと思っていた。私は、もしかしたらいい奥さんには、なれるかもしれない。けれども私はいい母親にはなれないと思っているし、自分の子供を幸せにしてやるという自信も、まったく無かった。結婚はしても、子供を作らなくていいという男がいたら、結婚してもいいかもしれないとは思う。私は、私を愛してくれる人がいたら、それで充分だ。子供なんていらない。けれど、そんなむしのいい人が、この世にいるのだろうかといつも思った。付き合って半年になる俊は、とてもいい人だ。いい人、という表現が、ぴったりとくる、そんな人だ。私は彼といると、もしかしたら私にも普通の結婚ができるかもしれない、という気さえする。けれども、彼は、私にはあまりにも眩しすぎて、あまりにも普通の人に思えて、そのことが却って私の心に暗雲を発生させる。そんな漠然とした不安から、きっといつか別れなくてはならない人だと、思っている。彼だけと一緒にいるのはいいけれども、彼との間に子供ができたら、と思うと、私はまったく自信がない。彼が私より、もしかしたら子供の方を愛してしまうかもしれないということも、私にとって耐えられないことのようにも思えた。

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遠くへ行かないで

2006-10-16 06:37:24 | つぶやき
その人がどこか遠くへ消えてしまうことを考えると、私は息ができなくなる。

存在を確認できるのは、目の前にいて、そして触れているときだけ。どんなに嬉しい言葉をかけられても、それが自分の目の前に存在する、その体から発声される声でなければ、私は信じることが、できないのかもしれない。

あなたがここにいない時、私はあなたが、どこか遠くへ、私の知らないどこかの場所へ、消えてしまうのではないかという不安に、いつもいつも怯えている。

私はあなたを、縛ることが出来ないことも、あの人は自由だということも、よく分かっているのに。

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2006-10-15 01:50:21 | 読みきり
 ドアを開けると、雨が降っていた。

 ドアを押さえながら、彼は何も言わなかった。ただ私が、ここから出て行くのを待っていた。私がここから出て行ったら、ドアを閉めなくてはいけない、それでただ、待っているだけだ。

 外の空気は冷え切っていた。少し前に秋が、始まったばかりだというのに、まるで冬のような寒さだった。あまりの空気の冷たさに、まだ開いているドアの内側に、戻りたい衝動に駆られた。

「私にもう一度、チャンスはあるの?」

 勇気を振り絞って、小声で聞いた。それを言うには自尊心とか、そんなものはないも一緒だった。私にあったのは、ただ、今日のことがなかったことだったらいい、それだけだった。

「ないな。」

 少しの躊躇もせず、ひとこと彼はそう言った。そして私ではなく、私の後ろの、軒から落ちている雨の雫を眺めていた。私がここから出て行くことより、雨のゆくえが心配なような、そんな視線だった。

「さよなら。」

 他に言うべきことばが見つからなかった。いつものように、またね、と言ってそしてキスして別れる、そんなことはもう、二度とできないのだ。

「大丈夫?」

 それが心から出た言葉かどうか分からないけれど、彼はそう言った。恐らくそれは、ただ単に、今その言葉を言ったほうが、いいと思ったから言ったのだろう。私はちっとも、大丈夫じゃなかった。けれども大丈夫ではない原因は、この大丈夫と聞いている本人にあるのだから、大丈夫じゃないと答えることは、滑稽なことだと思った。そしてその言葉の響きが、今まで幾度となく言われた過去の、大丈夫、とまったく同じに聞こえたので、それで、もう、耐えられなくなってしまった。傘を広げた。後ろを向いたまま、じゃあ、と言って歩き出した。
 
 後ろを振り返るのは止めようと思った。アパートが並ぶ狭い路地を、ひっそりと歩いた。何度ここに来ただろうか。この狭い路地を、何度こうして通っただろうか。休日の夕方は、いつもなら子供が自転車に乗ったり走ったりして遊んでいるのだが、雨の今日は、人っ子ひとりいなかった。涙で顔が濡れている私は、誰もいないことに安堵して、そして、差している傘のせいで顔を隠して歩けることに、ほっとした。

 Tシャツにカーディガンを羽織った私は、両手で体を包むようにして、雨の中を歩いた。朝家を出るときは、こんなに空気は冷たくなかった。どうしてこんなに、急に寒くなったのだろう。

 今何時なのかと思った。彼の口から、もう終わりにしようという発言があって、そして彼の胸の中で泣いていたのが、何十分のことだったのか何時間だったのか、よく分からなかった。別れ話を持ち出された男の、胸の中で泣くというのは、おかしいなことだったのかもしれない。プライドもなにもあったものではない。でも私達の中では、それが自然に行なわれた。それが彼の、優しさなのか冷たさなのかわからなかった。それでも私は、そうしたかった。突然の宣告で関係が終わってしまうなら、その泣いた数時間の猶予で心の整理が少しでもできるのなら、それでよかったのかもしれない。ともかく私は、今の今まで彼の胸の中で延々と泣いていたのだ。

 あたりはまだそれほど暗くはなかったので、6時か7時くらいかと思われた。私は、今初めて時計を腕にしているのを思い出したかのように、時間を見た。6時過ぎだった。今日は彼と会ってくると言って家を出てきたのに、こんなに早く帰ったら、両親に何かあったと訝れるだろう。そう思うと、まっすぐ家に帰る気になれなかった。

 街の中の、何もかもが目に入って、そして何もかもが目に入らない、そんな感じだった。視界としては目に入っているのに、それが何かを感知できないでいるのだった。何も感じなかった。ただ、最近の彼の行動と発言ばかりが、ビデオテープを巻き戻して再生しているみたいに、頭の中に思い出されるのだった。そして総合的に考えてみると、それはすべて今日のことの前兆だったのだと思った。

 電話ボックスが目に入る。傘を閉じて、半分濡れた体を入れた。雨の音が、箱の上からぼたぼた落ちてくるのが響いた。先ほどより雨足がひどくなり、側面のガラスの上を、雨粒が当たって流れ落ちていく。しばらく呆然と雨を見ていた。ボックスの中は少しだけ暖かい気がした。外の世界から遮断された、シェルターにいるようだった。流れる雨で視界が悪いのか、涙のせいなのか、外の景色がかすんで良く見えなかった。

 カードを入れる。動物病院で働いている友達に電話を掛ける。呼び出し音が続いた。20回くらいの呼び出し音で、さすがにいないのだと気がついた。祝日はお休みだと思ったけれど、彼と会っているのかもしれない。それから、会社員の友達に電話を掛ける。お母様が出た。出掛けて帰りが遅くなるということだった。遠距離恋愛をしている彼女は、帰りがいつも遅いのだった。それから、少し考える。あまり掛けたくはなかったけれど、誰かと話しがしたかった。泣きつく先を、探していたのかもしれない。彼のいない京子の番号に掛けてみた。2,3回の呼び出し音の後、本人が出た。

「もしもし。」
「あ、マキ?元気?どしたの?」

 彼女は普通に話していた。当たり前だと思った。彼女は普通なのだから。

「あのね、」

 私は彼女のひと声を聞いて、一気に涙が出てきた。それはもう、しゃくり上げて泣いている状態に近かった。

「どうしたの。泣いてるの?」

 トーンを変えずに、彼女は言った。いつも冷静な彼女の、いつもの話し方なのだけれど、この時はひどく冷たく聞こえた。

「あのね、」

 私は相変わらずあのね、しか言えなかった。それ以外の言葉を、忘れてしまったかのようだった。涙と一緒に鼻水が出てきたので、構わずにすすり上げる。しゃくりあげていた泣き方は嗚咽のようになってきた。さっきあれほど泣いたのに、一体この涙はどこからでてくるのだろうと思った。

「何かあったのね。彼?」

 あくまで冷静だった。

「そう。」「振られちゃった。」

 ちょっと間があった。どういう言葉を発していいのか、考えているようだった。この一瞬の間に、私は電話をする相手を間違ったと思った。

「そう。それは残念だったね。」

 それはまるで、ショッピングセンターで福引を引いて、はずれが出たときに言うような調子だった。彼氏のいない彼女には、きっとこの気持が分からないのだろうと、私は思った。

「ごめん。会えたら会いたいと思ったけど、やっぱりいい。ごめんね電話して。」

 そういうと電話を切った。切り間際に彼女が何か言いかけたのが受話器から聞こえた気がしたけれど、構わず置いてしまった。


 1週間後、前々から予定していた飲み会があった。

 あの日からほとんど沈黙を保っていた私は、当然断るつもりだったのだが、直前だったので代わりの人が見つからず、人数合わせのため仕方なく出席することにした。

「それに、少しは気が紛れるかもしれないからさ。」

 その飲み会を主催した、ゆり子はそう言った。彼女は私のいちばんの相談相手なので、今まで付き合った人や片思いの人など、全てを知っている。勿論今回のことも、あの日の夜中に電話をして、一晩中話した。ずっと私の話を、親身になって聞いてくれた。そして慰めてくれた。私はそれで、だいぶ救われた気持になった。私より数倍も経験豊富で、恋に前向きなゆり子は、早く次を見つけろと言った。


 当日、一次会はよくある気軽な雰囲気の居酒屋で行なわれた。男女合わせて8人だった。大勢の人が参加する飲み会があまり好きではないので、このくらいがちょうどいいと思った。お酒を飲んだせいか、この2,3日よりもずっと楽な気分になった。それでも、盛り上がる友達と相手の男の人たちを、自分には関係ないグループのような目で見詰ていたのも確かだ。

 私が彼と出会ったのも、ある飲み会だったなと思った。帰り道が同じ方向になって、降りる駅も偶然一緒だったと気付いて、それで電車の、隣同士に座った。それから、お決まりのように電話を教えあった。今のように携帯やメールのない時代だったから、それは今のアドレス交換よりは、軽くはできなかったと思う。少なくとも当時の私には、軽軽しくできないことだった。

 二次会になった。カラオケに行くことになった。居酒屋にいる間、何から何まで彼との思い出に結び付けてしまっていた私は、もうこれ以上耐えられそうになかった。帰ろうと思った。家に帰って思い切り泣きたいと思った。誰もいないところで、泣いてすっきりしたいと思っていた。表面上は普通の表情を装っていた私は、そんな心情を露ほども知らない参加者の男のうちの一人に、ぜひ一緒にと、ぐいぐい腕を引っ張られて、仕方なく付き合うことになってしまった。途中まで私のことを気遣っていたゆり子も、酔いが廻ってきてはしゃいでいたので、私は益々陽気に振舞わなくてはと思った。

 色々な人が歌う歌に、心の中では回想にふけっていたけれど、体だけは合わせていた。体は自動的に、拍手したり手拍子したりしていた。誰かが、ある曲を入れた。最初の部分で、すぐにその曲と分かった。彼とドライブするときに、よく聞いていた曲だ。私が好きだと言ったので、よく掛けてくれていた。途端に、涙が出てきた。バラードの曲なので、皆静かに聞いていた。そのせいで、私の涙に、隣に座っていた男が気付いた。

「大丈夫ですか?」

 覗き込むように、小声でささやいた。その大丈夫ですか、に単なる言葉以上の暖かみを感じた私は、ふっとすべてを、言ってしまいたい衝動に駆られた。でも、それはあまり好感の持てることではないと思った。

「猫が、」

 なぜか私の頭に、とっさにこんなことが思い浮かんだ。

「飼っていた猫が、死んでしまって、それで実は私は、今喪中なんです。」

 隣に座った男は、一瞬困惑した顔をして、そのあとふっと、微笑したように見えた。

「そうですか。それはお気の毒に。」

 自分で我ながら、これはいい口実だと思った。辛気臭い顔していても、これなら言い訳になるだろう。男に振られたなんて言ったら、それこそ隙が、ありすぎだ。

「何歳でしたか?」
「え?」

 それから男は、妙に詳しく猫のことを訊ねてきた。死んだ原因から猫の種類から性格まで。適当に答えていたが、話の途中で、ふと、この人は動物病院に勤めているのだと気がついた。ゆり子の同僚なのだった。とっさに猫と言ってしまったが、私は猫を飼ったことがなかった。犬にしておけばよかったのだ。バラードの曲が終わって、トイレに立とうとしたゆり子に、隣の席の男が話し掛ける。

「彼女、飼っていた猫が死んでしまったんだって。それで喪中なんだってね。」
「え?」

 私が猫なんか飼ってないことを知っているゆり子は、ん?という顔をした。そして一瞬考えてから、あー、猫ね、と大袈裟に言った。

「そうそう、そうだったわね。オス猫。かっこいいオス猫だったわねえ。3歳半のね、オス猫がねえ、どこかへ行っちゃったのよねえ。」

 彼女は咄嗟に、私の嘘に気がついてそう言ったようだった。けれど私は、さっき猫が10歳で老衰したと言ったのだった。ゆり子は私と彼の付き合ってた期間を、3歳半と言ったのだろう。

 隣の男は、にやっと笑った。そして、カクテルの入ったグラスを少し傾けて、じゃあ、猫にお清め、と言った。







 今日も雨が降っている。雨の日は、もっと寝坊を、していようと思う。猫が布団から出て行った。猫のいた足元に、暖かさが残っている。彼女は3歳になる、白い猫だ。

「おはよう。」

 あの時隣にいた男は、いま私の隣にいる。そして今日の雨は、暖かい雨だ。



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ごあいさつ

2006-10-11 06:37:13 | ごあいさつ・おしらせ
ここに立ち寄って読んでいただいた方、ありがとうございました。

今回初めてこの長さの小説を書きました。自分の中でなぜか、原稿用紙100枚くらいのものを書けるようになりたい、という思いが漠然とあって、そのくらいの長さまでがんばってみようと思っていました。

実際にブログに載せると、もう後に戻れないという焦りのような緊張感のようなものが襲ってきて、けれども同時に、毎日仕事に行く前や帰って来てから、続きを考える作業や文章を考えたり打ったりする作業が、苦しくもあり楽しくもあり、そんな複雑な心境を体験しました。

自分で毎日読んでいると、客観的にどのように思われるのかというのが、さっぱり分からなくなり、お恥ずかしいばかりです。急ぐ必要はないのになぜか焦ってしまい、見苦しい点や間違い等たくさん見受けられると思われます。

またPCに詳しくないので、読みやすい画面、というものがさっぱり作れなくて(途中でここに来ていただいても、一回目にジャンプできるとか)申し訳ございません。

もしよろしければご感想、ご指摘、等など頂けたら幸いです。また同じように創作している方や小説を書いていらっしゃる方等、コメントを残していただけたら嬉しいです。


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知り合ったときには・・・(最終章)

2006-10-10 19:57:41 | 知り合ったときには・・・
(最終章)

 どこかへ行こうという彼の言葉に、私は自分のアパートへ来てほしいという旨を伝えた。最寄駅を降り、いつもの道を歩きながら、いつもの見慣れた風景がこうも違って見えることに驚いた。でも頭の中では、こうなるべくしてこうなったのだとも思っていた。私はずっと前から、こうなることを期待し、そして予想していたのではなかったのかと、今気がついた。アパートはいつこのような事態が発生しても良かったかのように、小奇麗に整頓されていたし、付き合っている男は誰もいない。自分の圏外に存在して、ただ呆然と眺めていただけの人を、今、こうして自分の領域に招き入れている、そんな感覚があった。ただ単に、不倫という言葉を連想してしまうという理由からホテルを避けたかっただけでなく、自分のテリトリーに招き入れ、そうすることで少しでも自分にいい方向に事が運べばと無意識に思っていたために、私は敢えて彼を家に引き寄せたのかもしれなかった。

 自分の住処に帰ってきて、少し緊張が解けせいか、こういう展開になったのが今日突然のことで、しかも通常の恋愛における過程を一気に省いてここまでたどり着いたというのに、彼とはまるで初めての感じがしなかった。ただ、そうなるべくしてなったのだと、そのような感じが終始していた。自分が日常を暮らしているこの狭い部屋に、彼がこうして立っているということが、非現実的なようでいて、また逆に、当然こうなるはずだったのだと、まるで既に分かっていたことのようにも思われた。私は自分でも、驚くくらい落ち着き払った態度で彼に接し、そして信じられないくらいに貪欲だった。私の知らない彼の空白部分を埋め尽くそうと、全身で彼を理解しようとしていた。頭の中に既に記憶している彼の外見や顔を、もっと内側から理解したいと思った。もっと精密に観察しそして体で記憶しようと、目は懸命に彼を見つめ、体の各部分は敏感に何かを捉えようとしていた。普通ならそのようなときは目を閉じると思われる場面でさえも、じっと目を見開いて彼を見つめていた。まるでそうしないと、目を瞑った隙に彼が消えてしまうのではないか、そんなような気がして仕方がなかった。

 彼が帰るとき、私は玄関で見送りながら、「また、会うことはできますか?」と自信なく訊ねた。もしかしたら、これが最初で最後かもしれない、そういう覚悟も出来ていた。彼が今日どれほどお酒を飲んだか分からないが、酒の勢いでそうしたのかもしれない。それとも私が会社でずっとずっと見つめていたのを分かっていたのなら、そのことにうんざりしていたのかもしれない。それを今日で終わりにしてくれという意味だったのかもしれない。私は、あらゆる予想を頭の中で並べ立てた。こうなったことに後悔はしないし、たった一回きりだったとしても仕方がないことだと分かっている。ただ、彼はどのようなつもりで私を抱いたのか、それだけをどうしても知りたいと思った。つまり彼の気持を、私は知りたかったのだ。 

 彼はまだドアを開けていない玄関の内側で、ぎゅっと私を抱きしめた。そして彼の顎の下にある私の髪の、匂いを嗅いでいた。ほんのさっき、触りたい衝動に駆られた彼の顔が、まだここにあるのだと実感し、その思いに胸が締め付けれらた。
「機会があったら、また会おう。」
 それだけ言って、彼は出て行った。私は、執行猶予を与えられた気分だった。

 数日後に、予定通り、彼はそう簡単には行くことができない場所に、転勤となった。私は、もしかしたらもうこれで、機会、は二度と訪れないのかもしれないと、自分に言い聞かせた。彼と一回り程歳の離れた私は、敢えて押さえた行動をとることで、彼に大人の女と見てもらいたかったのかもしれない。心の奥底では、感情はさらに深く激しくなって、遠くに行ってしまうという事実を、どうしても飲み込めないでいる自分と、もう二度と会えないのかもしれないという不安に、予想以上に慄いている自分がいた。けれども、そこまで深く激しい感情を持ってしまったことを、自分自身でも充分すぎるほど分かっていたために、内面の感情をそのまま出さないこと、無理な要求はしないこと、そのことを常に自分に言い聞かせた。半ば勢いで自分の部屋に彼を誘ってしまったあの日、それでも彼は、奥様と別居することはできても、すぐに自由の身にはなれないことを何度も強調した。そういうものを要求するのなら、最初から止めたほうがいい、そう何度も私に言った。そしてすぐには体にも触らなかった。私は、あの時、自分の神経が興奮状態にあったのを否定はできないが、自分でさえ、彼をどうしたいのかなんて、まったく分かっていなかった。そんな先のことなんか、分からないというのが正直な感想だった。以前付き合っていた彼と別れたときから、私は結婚の意義というものに対して疑問を持っていたし、そんなことよりも、まず自分の感情を信じるしかないというのが、正直なところだった。彼と結ばれたことで自分がどう変わっていくのかも、その時の私には皆目検討はつかなかった。

 彼が地方に単身赴任になる直前に、こうして事態が急展開したことを、今でも本当に偶然の幸運だったと感謝したくなる。次の、機会、はそう遠くないうちに訪れた。そして彼が単身赴任をしているということで、私たちの関係は、急速に、より密接なものになった。単身赴任先で会うことで、私は彼の家庭の存在を一層気にしなくて済んだ。転勤する前は、距離の大きさが不利になると思っていたが、実際には好都合なことばかりだった。以前のように会社の事務所で毎日のように彼を見つめることは出来なくなったが、もっと密接な繋がりができあがった以上、私はそのことを密かに思い、そしてそれを温めて持っていることができたのだった。

 単身赴任の任期が切れて、彼がまた本社勤務になってからも、私たちは私のアパートで同じように機会を作っていた。私は、その数年の間に、不安定な状況の中にいながらも自分の感情を安定させる術を、すっかり身につけていた。彼はもう少し、ある理由から奥様と離婚はできないようだったが、私にとってそんなことはどうでも良かった。私が求めていたものは、結婚や家庭という安定ではなく、ただ彼そのものだったのだから。私はただ、彼を好きになり彼を欲しかっただけなのだ。他には、何もいらない。でも私は、今でも彼に会うたびに思うのだ。これでもう、最後かもしれないと。


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知り合ったときには・・・(11)

2006-10-10 09:46:14 | 知り合ったときには・・・
(11)

 自分に好意を持って寄ってきた女を、そのままいい雰囲気に持ち込んで事を済ます、大人の男である彼にとって、そんなことは朝飯前だっただろう。実際私は、そうなるのだろうと思っていた。そうなるのを望んでいる自分も確かにあったし、そうなったとしても私はそれでいいと思っていた。
 
「お前みたいなやつと結婚したら、案外いいのかもな。」
 私を見ながら、ぽつりとそう言った。いつかもそんなことを呟いたのを聞いた気がした。この人はもしかしたら、結婚生活が順調に行っていないのではないかと、ふと思った。そして結婚指輪のない手を、もう一度確認するように盗み見た。
「結婚なんて、まだ考えてもないです。」
 それは本当だった。目の前にいる彼に、こうしてどうしようもない思いを抱いていながらも、それがこの人と結婚したいという願望には、直結していないのだった。それは無意識に、結び付けてはいけないと、脳が判断しているだけなのかもしれない。けれども、彼のその言葉と、今これから、もしかしたら事が起こるのかもしれないという予感の前に、私はもしこの人の子供が出来たらということを、突然思いついてしまった。その思いつきに、私は自分自身で驚いて、彼を正視することができなくなった。私は俯きがちになりながら、彼の胸とテーブルの上のあたりを見つめた。それから、既に脳にインプットされた彼の顔の各パーツを思い出し、そのパーツにそっくりな顔をした赤ん坊を、慈しそうに眺めている自分を想像した。それは今この状況では、あまりにもリアルで、私はその想像に恥ずかしくなるばかりだった。
「俺はもう、女房とは別居しているも同然なんだよ。だけど、離婚することはできないよ。」
 なんとなく思っていたことが、やはり、という気持に変わった。この人は奥様と、あまりうまくいっていない。それで指輪も、外されている。奥様とうまくいっていないということが、私の心の隅に少しだけ存在していた罪悪感を、さらに軽いものにした。
「私は・・・」
彼は、なんだい、と言うように静かな顔をこちらに向けた。
「私は、こう言っても嘘みたいに聞こえるかもしれませんが、主任さんを奥様から奪ってそして結婚したいなんて、そんなことはこれっぽっちも考えてもいないのです。ただ、ずっとずっと事務所でそばで見ていて、それからどうしようもないくらいに好きになることを止められなくて、それで転勤されてしまうと知って、もう一生会えないのかもしれないと、そう思っただけです。」
 一気に言って、自分でこうもすらすらと想っている本人を目の前にして話すことができることに、驚いてしまった。私は、いつから恋に対して、こうも積極的になったのだろうか。
「俺もお前は気になっていたんだよ。」「お前は他の、若い奴とはなんだか違う。」
 私は伏せていた目を上げて、彼を正面から見た。そうしてじっと顔を見たら、言われた言葉の真意が確認できるとばかりに、じっと見つめた。彼は穏やかな目をして黙っていた。天にも昇る気持を、一瞬味わったあと、もしかしたら、私をその気にするために大袈裟に言った言葉かもしれないと、ふとそんな気持が湧いてきた。私は、彼の口から出てくる言葉によって、乱気流に巻き込まれた飛行機のように、感情を激しく上下させられていた。そして気持を整理する余裕も無く、こんな言葉が口から飛び出してしまった。
「やらないで後悔より、やってしまった後悔のほうが、いいんです。」
「やったほうがいいのか。」
言いながら彼は、ははっと笑った。しまったと思った。その意味の、やる、と取られてしまったのだと悟った。私はただ、彼に対して思いを告げないで、その後悔をするくらいなら、後はどうなっても行動に出たほうがいいと、そう言いたかっただけなのだ。
「行こう。」
そう言って彼は伝票を手に、席を立った。私は、覚悟を決めた。


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知り合ったときには・・・(10)

2006-10-08 23:50:56 | 知り合ったときには・・・
(10)

 彼の単身赴任を伴う異動内示は、それを知った時の私には無慈悲な宣告のように聞こえたが、その後の展開を思えば、それは私に降りかかった幸運だったのだと思う。コーヒー店のあと、私は彼を自分のアパートへ誘った。普段あまり積極的な行動をするほうではないのに、あの時なぜあれ程大胆な行動に出られたのか、自分でも分からない。切羽詰った状況に置かれると、こんな私でもあれほどの行動ができるのだと思った。私は彼の転勤の話を聞いて、永久に彼に会えないような錯覚に陥っていた。同じ職場にいて毎日のように顔を合わせ、喋り、仕事という同じ目標を共有していた上司や同僚が、職場が変わると、ただの、過去に同じ部署で一緒に仕事をしたことのある人、になってしまうように、私が彼にとって、かつて一緒に仕事をしたことがある、大勢の女子社員の中のひとり、になってしまうことに、耐えられないと思った。
 
 このまま彼と、行き着くところまで行ってもいい、そんな考えが急速に浮上し頭の中を占領した。私は、たとえそれが一回きりのことになっても、絶対に後悔しないという自信があった。そうなったことを悔やむなら、勇気を持って行動にでなかったことのほうを悔やむだろう、そう思った。以前付き合っていた彼と別れてからは、私には何も遠慮する人はいなかった。私はひとりで、そして自由だった。彼が既婚者であるということが、それまでの積もった感情を破裂させないための、ブレーキのようなものとなっていたが、その時はそんなこと、どうでもいいと思った。彼が既婚者かそうでないかは、私の思いには関係ない、そう思った。その時の私は、初めて誰かを欲するというのは、こういうことなんだと知った。今目の前にいる彼の、頬に触れたいと思った。それから唇に触れたいと思った。それからのことはあまり考えていなかった。ただ、今、この手で触れることが出来たら、そう思った。

「ずっとその目に追いかけられていたな。」「お前のその目に。」
私は、顔の他の部分よりも、目に自信があった。決してぱっちりとした愛くるしい目とは言えないし、整った美しい瞳ではないと充分分かっているのだが、私の目は鋭くて、力があるとよく人に言われた。それは単に、目が悪いせいでじっと見つめてしまうからなのかもしれない。私は言われながらも、彼の目から視線を逸らさなかった。
「分かっていたのですか?」
彼が瞬きをした。ゆっくりしたので、それはスローでカメラのシャッターを切ったかのように、私には感じられた。
「あんな風に見つめられて、気がつかない訳ないだろう。」
「すみません。」
なぜ謝るのだと、自分で思いながらも、少しだけ恥ずかしくなった。
「俺を好きになっても、どうしようもないじゃないか。それにお前には付き合っている奴がいるだろう。」
「いないです。」「とっくに別れました。」
 彼は困ったような顔をした。その表情を見ていると、私は自分が、随分と子供のように扱われているのではと思った。
「いつもいつも、私の頭の中を占領している、そんな人がいるのです。別れた彼に対しては、その人に対して持っているほどの、思いを持つことができなかったのです。それで・・・。それでその人とはお別れしました。」
「そんな人っていうのが、俺なのか。」
「はい。」
「もっと若い奴がたくさんいるだろう。それに、よりによって女房にガキまでいる男相手にしなくても。」
私は視線を少しずらして、彼の空になったグラスの水滴と、中で重なって入っている氷とを見つめた。それから、そのグラスを持つ彼の手を眺めた。その手を数秒か数十秒見つめていると、結婚指輪がないことに気付いた。そしてそんなことに、私は勇気付けられたような気がした。
「私が主任さんを好きになったとき、奥様やお子様がいるのを、知らなかったのです。そしてそのことを知った後も、奥様がいるとかお子様がいるということで、気持を止めることができなかったのです。」
素直に思ってることが、すらすらと口から出てしまった。言いながら、私は今から、何を期待しているんだろうと、自分で自分を信用できない気分だった。ここまで気持を話してしまったからには、もう成り行きにまかせるしかない、そう思った。

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知り合ったときには・・・(9)

2006-10-07 06:46:48 | 知り合ったときには・・・
(9)

 地下鉄を一駅分だけ乗り、ターミナルの駅で降りた。地下の連絡通路は、溢れるように人でごった返していた。主任の彼の後を、はぐれないように歩く。人の波に流されるように、前に進んだ。通路を抜け外に出ると、表の通りからひとつ路地に入り、古い感じのビルの階段を上った。目立たないコーヒー店があった。

 彼の後に続いて店に入る。店内は程よく照明が落ちていて、落ち着いた雰囲気だった。ジャズが小さな音量で流れ、一人でいる客か二人でいる客がほとんどのようだった。大きな声で話すものもいない、静かな店内だった。ウェイターがくると、彼はアイスコーヒーを、私はカフェオレを注文した。

 コーヒーでも飲もうか、と自分から誘っておきながら、彼はコーヒーを飲みながら煙草をくゆらせて、ほとんど自分から喋らなかった。彼と私の間に、ジャズが静かに流れた。音楽のせいかこの店内の雰囲気のせいか、私はこの沈黙に、それほど焦ることはなかった。それどころか沈黙にまかせて、目の前の彼をたまに伺いながら、思う存分自分の考えに浸っていた。窓際に座った私たちは、ほとんど人も通らない路地の様子を、焦点の合わない目でぼんやりと眺めていた。彼は何を考えているのだろうかと思った。今までは、こうして、たまにランチに行ったりお茶に行ったりして二人になることはできたけれども、もうそんな機会はないのだと、実感はまったくないが、頭がそう納得しようとしていた。

「転勤されたら、もうお会いすることもないんですね。」
いくらなんでも、何か話さなくてはと、こんな言葉が口をついた。彼は窓に向かっていた目をこちらに向け、「そんなことないだろう。」とひとこと言った。
「同じ会社にいるのだから、またいつかどこかで会うこともあるだろうよ。」
 私は、いつもならすぐに逸らしてしまう視線を、このときはじっと見た。もうこのお顔も、見れなくなってしまうと思った。毎日会社の事務所で、彼の行動のすべてを見ていた私は、今目の前にいる彼が、たとえ目の前からいなくなっったとしても、どんな姿をも思い出すことができると思った。遠くから見た背格好や頭の形や顔の輪郭、コーヒーカップを持つごつごつした手や時計をしたがっしりした腕、まつげの長さやほくろの位置、そして大きくて意外に愛くるしい眼鏡の奥の瞳まで、外から見えるほとんどを記憶をしていた。けれども、中身は、何も分からずじまいだと思った。彼がどんなこと考えているか、それから彼のもっと細かい体の部分は、想像するしかなかった。
「そうですか。」「でも、もう、同じ部署になることは、多分ないですよね。」
まだ目はそのままだった。あまり視線を合わせて話をしない彼も、まだこちらを見ていた。仕事中の近寄りがたい目でもなく、あの何とも言えない細い目でもなく、何か私に言いたいことがあるかのような、少し真面目な表情だった。その目を見ていると、私は自分の想像が、自分勝手に自分のいいように進んで行くのを、止めることができなかった。彼と私は、数秒か数十秒、無言で見詰め合っていた。私はこのとき、一気に心臓がぎゅっとなるのを感じた。息をするのが苦しく感じられた。そして、彼に対して初めて、理性でなく、本能的な体の欲求が湧いてくるのを感じた。今目の前にいる彼に、触れたいと思った。
「わたし、」
勝手に口が喋りだした。そして止められなかった。
「私、ずっとずっと見ていました。主任さんから、どうしても目を離すことができなくて、ずっと見ていました。」
彼は何も言わず、私のほうを向いてそのまま私を眺めていた。
「一緒にお仕事ができて、本当に良かったと思います。色々なことを近くで勉強させていただいた気がします。気が利かないのであまりお役に立てなかったかもしれませんが。」
 私は無意識に、発言にブレーキをかけ、軌道修正をしていた。言ってから、ずっと見ていたのは好きだからでなく、仕事振りを見習うためだとも、取ってもらえるだろうと思った。
「見ていたのか。」
 彼が少し笑った。私の発言をどう取られたのか分からないが、彼は余裕だった。リラックスしていた。笑ってそのすぐ後、あの柔らかい、細い目になって、こちらを見ていた。もしかしたら彼は私が事務所でずっと見つめていたことを、分かっていたのかもしれない、と咄嗟に思った。そう思うと、一気に恥ずかしさが全面に押し出され、私は顔が火照ってくるのを感じた。
「中村は、俺のことが好きなのか?」
 私は体が硬直して、動かなくなった気がした。あまりに突然な彼の発言に、動揺してどこに視線をぶつけていいのか、分からなくなった。それでそのまま、彼の顔を凝視していた。こんな単刀直入な質問は、想定外だった。不意を突かれた、と思った。そして次に、からかっているだけかもしれない、とも思った。彼は穏やかに笑っていた。私はアイスクリームを食べたあの日のことを思い出した。この表情に、きっと私は取憑かれたのだ。

私は多分、切羽詰まっていたのだろう。もうこの機会を逃すと、永久に彼とは会えなくなるかもしれない、そういう心境に達していたのだろう。この世の果てまで行ってしまうわけではないのに、配置換えでまたいつか一緒に仕事ができる可能性も無きにしも非ずなのに、もう永遠に、二度と、彼とは会うことが出来なくなるのだと、そういう妄想に取り憑かれていたのだった。そしてこのとき瞬時に、私はこの人を今捕まえないと、永久に近寄ることは出来なくなってしまうと、そんな考えが脳裏をよぎった。
「初めてお会いしたときに、好きになってしまったんです。」
ストレートに、正直に言うしか、方法が見つからなかった。大人の駆け引きのような会話も、想いをこめつつ控えめに言う言い方も、そのときの私は持ち合わせていなかった。言いながら、自分が安っぽい芝居か何かの、セリフを言っているような気分になった。私はそこら辺に転がっているような、いわゆる不倫をしたい訳ではないのだと自分に言い聞かせた。それなのに、こんなことを言ってしまっている自分がいた。彼が既婚者で子供もいることは、十分分かりきっているのに、そのことが私の感情に常にブレーキをかけ、本人はもとより周囲に悟られてはならないという注意力へと繋がっていたはずなのに、このときは、そのタガが、何故だか一気に崩れてしまったのだった。


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知り合ったときには・・・(8)

2006-10-05 22:09:01 | 知り合ったときには・・・
(8)
 
 春になった。年度末、慌しく仕事をしている最中に、主任の彼が地方の支店に転勤になることを、社内メールで知った。新しく立ち上げる部署の関係で、どうしても必要な人事のようだった。新しい部署のために、試験的とはいえ立ち上げられた係なのだから、そのうち正式な何かしらの人事があるとは予想はしていたが、それが現実となった。薄々分かっていたこととはいえ、私は絶望的な気分になった。今まで表に出すことはできなかったけれど、毎日抱えて積もりにつもった感情を、どうしたらいいのかと途方に暮れた。彼は単身赴任ということだった。まだお子さんも小さいのに、ご本人もご家族も大変だなと思った。私は彼のことを、こんなに内心で惹かれてはいたものの、例えば彼の奥様やお子さんに対して、嫉妬のような感情を持つということは、どういう訳かほとんど無かった。会社にいるときの彼が、家庭というものを彷彿させない態度でいたということや、まったく所帯じみた感じのない人だったというのもあるのかもしれない。私が望んでいたものは、誰かから彼を奪うとか、そういう感じではなかった。だから彼の周りのものはあまり気にならなかった。私の思いは、ただ、少しでも、近づきたいとか、内面を理解できたらとか、そんなものだった。

 もうあと彼の転勤まで数日というある日、同じ部署内で送別会が開かれた。私がここに転勤してきてから、ちょうど2年が経っていた。あの時と違って、彼の席は私の隣ではなく、もっと向こうの、上座の円卓だった。私は出入り口付近の席に座っていた。隣に座った経理担当の先輩が、よく飲みながらしきりに私に話し掛ける。私はそれを、とても鬱陶しく感じた。この人はなんでこんなくだらないことを延々と喋っているのだろう。今度来る上司がどんな人かなんて、どうでもいいではないか。私は適当に相槌を打った。相槌を打ちながら、時々遠くにある、彼の席のほうをちらちらと伺った。彼はかわるがわるやって来る上司や同僚や後輩から、お酌を受けていた。お酒は飲まない性質なのに、あんなに飲んで大丈夫だろうかと思った。会の間中、私は彼の席にお酌にいく隙をうかがっていたが、やっと人が途切れたと思って席を立つと、お開きの合図がかかってしまった。

 会が終わり、お酒に強い人達は2次会へと流れていった。私は、こんな気分のままでこれ以上耐えられないと思い、適当な理由をつけて家へと帰ろうと思った。彼のほうをちらっと見ると、2次会に行かされるようだった。お酒が好きでないのに、今回ばっかりは主役なのだから、仕方ないのだろうと思った。がやがやと騒がしいレストランのロビーを抜け、お手洗いに寄ってから帰ろうと、廊下の突き当たりにある洗面所に向かった。お手洗いの入り口で、主任の彼が後から歩いてきていたのに気がついた。
「お疲れ様です。大丈夫ですか?」
 次々とお酌をされていたのを思い出し、何気なく口にした。
「何が?」
「いえ、お酒が。あまり好きではないと前に仰っていたから。」
 彼はお酒のせいか、少し顔に締まりがないように見えた。でもそのお陰で、普段の近寄りがたい雰囲気が、だいぶ薄れていた。
「そうだな。好きじゃないけど、そんなに弱くもないよ。」
「そうですか。」「今日はお酌にもいかず、すみません。」
 言いながら頭の中で、2次会に行く人がロビーで彼を待っているのではと思った。
「帰るのか?」
 少しどきっとした。私が思っていることを見透かしているのかと思ってしまう。
「申し訳ないのですが。あまり体調が良くなくて。私あまり飲めないし。」
「そうか。」「俺もそんなに乗り気じゃないんだけど・・・。」
 その時後ろから、2次会に行く人のひとりがやはりトイレにやって来て、彼に話し掛けた。それを合図のように私は女子用に入った。

 化粧室でなぜか念入りにメークを直したあと、外に出て駅の方に向かって歩く。地下鉄に乗って、そこから乗り換えればいいと思った。春の夜の、少し暖かくなった空気からは、なんとも言えない、胸が空しくなるような気配を感じとることが出来た。秋の寂しさとはまた違う、もっとそわそわした感じ。それは異動の季節特有の、別れを予感させる感傷的な気分のせいだとは分かっていた。彼の異動する所は、ちょっとやそっとでは行けない距離の場所だった。飛行機や新幹線を使わないと行き来できない。だが少し考えて、それが何なのだろうと思った。私にとってはすぐ隣の支店に転勤になろうが、本社に転勤になろうが、海外に行こうが、地球の裏側まで行こうが、そんなの関係のないことだった。もっと大袈裟に言ってしまえば、地方に転勤になろうが、この世からいなくなってしまおうが、会えないという点だけに関して言えば、まったく違いがないのだった。私の日常生活の圏内から出て行ってしまえば、それはほとんど会うことが出来ないことを意味していた。例えば隣の会社のオフィスにいたって、彼とは会うことなんてまずないのだ。仕事という繋がりがなくなってしまえば、彼と私がかろうじて関係するものは、他には何もないのだった。それを考えると、私は急に自分がおめでたい馬鹿女のような気がしてきた。一体そんな、もろい関係のために、どうして私は毎日毎日、一喜一憂しているのだろう。駅に着いた。ホームの白い線を見つめながら、私は自分で自分の中にあるこの思いを、どう扱ったらいいのか、分からなくなってしまった。しかし、当然のことながらどうすることもできなかった。ただ、何も考えていないかのように、しているしかなかった。
「おい。」
 声がした。彼だった。なぜここにいるのだろうと思った。彼は2次会に行ったのではなかったのか。
「帰るのか。」
 そう言う彼の顔はほんのりと赤くなっていて、そのせいで普段よりも少し老けて見えた。
「あれ、どうしたんですか主任。主役なのに、いいんですか2次会行かなくて。」
 彼は騒ぐ酒の席が嫌いだし、無駄な付き合いをしない人だとは、普段の行動でなんとなく理解していたので、そう驚くことでもなかった。
「あんまり、あの騒ぎは好きじゃないから、いいんだよ。」「コーヒーでも飲みに行こう。酒はやだな。」
 一瞬冗談なのか本当に言っているのかの、判断がつかなかった。どう返事をしようかと躊躇していると、「地下鉄降りたらでいいな。」と勝手に決めている風だった。


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知り合ったときには・・・(7)

2006-10-05 02:10:41 | 知り合ったときには・・・
(7)

 主任の彼のことを密かに思っていることは、付き合っている彼に対して少しの後ろめたさはあったものの、逆はというと、そんなことを考えたこともなかった。そもそも私が一方的に思っているだけのものだったし、その思いを半ば無視しようとしている自分もあった。身動きの取れない立場、好きになってもしかたがない関係、と、その先を考えようともしなかった。ある所まで想像することはできても、その行き着く先なんてどうなのだか想像できかねた。思い浮かぶのは陳腐なよくある不倫話や、修羅場のようなものだった。自分がそういう立場に立つということは、到底考えられないものだった。すでに誰かに所有されている人の、その所有権をめぐって争うなんてことは、どう考えても私には出来ないし、自分がそこまで女女した行動を取るとは思えなかった。

 彼と別れたあの日、自分のアパートへ帰りつくと、私は自分が、それほどきつくなく縛られていた何かが緩められたような、何かから解放された感じを受けた。と同時に、自分の寄りかかることのできるものがまるでない、不安定さもあるような気がした。秋も深まった11月の夜は、冬とは違った寂しいような薄ら寒さが感じられた。あまりの静けさに、テレビをつける。何かの番組が映った。私はじっと画面を見つめた。画面から目が離せなかった。でも何をやっているのか、さっぱり理解できなかった。お笑いの番組のようだった。でも笑うことが出来なかった。映像は私の瞳の表面にただ映っているだけで、音声は私の頭の上をただ流れていた。私の脳の裏には別の映像が写っていた。今日彼と会ってから別れるまでの一部始終と、その会話が流れていた。記憶されたばかりのそのことを頭から呼び出しなぞっていると、やはりこれでよかったのだと思った。それからもう、そのことは思い出さないようにした。ただ少し、彼は大丈夫だろうかと思った。冷静だし、なりふり構わずというタイプではない彼のことだから、きっとこの後、関係を修復しようという提案なんてしてこないだろう。今日ですべてが終わったと思っただろう。彼にはもっといい女がいるはずだ。でも、そんなことはこちらの都合のいい言い訳なのだとも思う。彼に対する誠意と言いながら、それが本当に誠意だったのかは、未だに分からない。それは彼が決めることだ。ただ、あのままの状態でぬるま湯につかるように、いつまでもずるずるとしている訳にもいかなかった。

 職場の彼のことは、相変わらず惹かれていた。仕事での接触が多くなればなるほど、私は益々彼の仕事ぶりや垣間見える彼独自の考え方に、触発されたり尊敬の念を抱いたりした。それと比例するように、彼と自分の間に横たわる大きな溝を感じずにはいられなかった。私の感情の波は、彼との間を行ったり来たりしていた。凪のように静かな時もあれば、どうすることもできない立場を思い知らされて激しくうなることもあった。私がしなくてはならなかったことは、その波打つ感情を、絶対に彼や周囲に知られないようにすることだった。私情を仕事に持ち込むのを特に嫌っていた彼なのだから、なおさらだった。

 そんな風にして、1年ほどは過ぎていった。仕事もそこそこ忙しかったし、彼と別れた私は、自分のことだけに時間を割いていたので、それまでしようと思って投げ出していたことを始めたりしていた。図書館に行って代わる代わる本を借りてきて読んだり、興味のあった習い事に通ったり、行きたいと思っていた遠い場所へ一人で出掛けたり、ダイエットだと言いながら無闇に公園や街中を歩いたりした。心の奥底で、誰かを思っていることを、密かに楽しみ、そして悪いことだと思いながら、その反面そのことを打ち消すように何かをしていなければ落ち着かなかった。でも、それは、今思えば自分をごまかしていたにすぎなかったのかもしれない。本当にしたかったことは、そういうことではないのだと、自分でも心の奥底の、深いところではわかっていたのだ。けれど、私は、誰にも内にあるその感情を打ち明けることはできなかったし、またしようとも思わなかったので、自分勝手に都合よくその思いを、ある時はいちばん大事だと思ったり、またある時はそんなもの無いのも同じことだと思ったりした。その半面、相手の気持はどうであれ、この今持っている思いを、何の憚りもなく、おおっぴらに表したり感じたりできたら、どんなにいいのだろうと思ったりもした。

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