星を見ていた。

思っていることを、言葉にするのはむずかしい・・・。
良かったら読んでいってください。

「幕が上がる」

2015-08-23 11:18:29 | 
 娘が公立高校入試に失敗し私立高校に行くことになったが、その受験した公立高校が演劇に強い高校だった。中学生の時、とある劇場の演劇ワークショップに通っていた娘はその高校に入学したら当然演劇部に入り小説に書かれているような高校生活を送るのだろうと思っていた。でも落ちてしまったのだが、実際に通うことになる私立高校は弱小演劇部で入るかどうか迷っていた。そんな中学卒業直後の卒業旅行に連れていくときに、この本を買った。旅の道中でこれを読んで、娘もそうしたら読んでくれるかもしれないと思ったからだ。

 だが3月に行った旅行のときも結局一ページも読まなかったし(道中は結局娘としゃべってしまい、旅館ではお酒を飲んで寝てしまった)、その後もなぜか手に取る気分にならなかった。娘は弱小演劇部は活動をほとんどしてなくてつまらなそうだという理由で他の部に入った。
 

 私は演劇に興味のある子供を持つただの保護者なので、演劇のことには詳しくないし内部事情も良くわからない。ただたまに子供のワークショップの練習を見に行ったり発表を見に行ったりした時から得た感想では、演劇に興味のある子は頭がいい、ということだ。うちの子は別にしてだが。演出家の言ったことをすぐに理解してそれを何らかの形に表現することができるのを見ていてすごいなあ、と率直に思った。

 この本は弱小演劇部がなぜか全国大会に出てしまう話なのだが、カリスマ的な指導者が現れ、個性の強い役者が転入してきて、という、やっぱりな、っていうものはあるけれど、でも子供たちが演劇にだんだんと燃えてきていろいろと考え最終的には自分たちで上まで進んでいくという話である。作者が作者だけに演劇論というか演出論、のようなものが時々出てきて、演劇のことをよく知らない私には興味深かった。これは絶対に娘に読ませたいと思いちょうど夏休みでもあり読んだら、と言ったが読む気配なし。まあ親から読めと言われたものはかえって読みたくないのであろう。

 主人公の演出担当の部長が、最初はただの一部員だったのがどんどんと頼もしくなり、また周りの大人や他の部員の影響を受けながら演出について深く考えるようになり素晴らしい劇を作っていく過程が、前に私が「演劇やる高校生って意外にすごいなあ」と思ったのと同じように引き込まれていった。また大学受験を目前に控えた息子がいる母親としては、小説の中にもそういう背景がありなかなかリアルだなあと思った。

 小説中で主人公の母親が、本当は、親はいい大学に行ってほしいというよりも、何か夢中になるものを探してほしいと思っているものだ、というようなセリフがあったのだが、まあ100パーセントその通りでもないのだが、夢中になる何かを学校生活でも人生でも探してほしいと願っているのは間違いないのだ、とものすごく共感できた。結局、夢中になれる何かを捕まえる人生のためには学業をがんばり充実した大学生活を送ってほしいというのが本心である。

 娘がもし公立に受かっていたらこのような学校生活を送っていたのかなとも思ったが、当の娘は今軽音部に入っている。主人公の母親が、本当は軽音部に入ってほしかったのよね、と娘に言うのであるが、うちとは逆なのだな、なんだが偶然だなと思った。結構娘は軽音部で楽しそうである。大会に勝ち抜くほどのうまさはないけれど、それなりに一生懸命に打ち込んでいる。

 夏休みがもうすぐ終わる。
 
 
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「愛着障害」

2015-08-16 15:21:21 | 
私は子供の頃からひどく人見知りで、3、4歳の頃は自営業をしている父のところに客が来ただけでべそをかいていた。家族でない男の人というのがものすごく怖かった記憶がかすかにある。小学校はあまり人間関係に神経質になった記憶はないが、ただ泣き虫だったのでちょっとしたことでからかわれたりいじめられたりするとすぐ泣いていた。中学生の頃は友達がまったく作れなかった。友達はいたにはいたがその後ずっと付き合いを続けるほどの人間関係には発展しなかった。同じ年頃の人と話すのが苦手で、人の輪の中に入っていけなかったのだ。女の子はまだしも男の子と話なんて絶対にできなかった。高校生になると周りに性格の良い子が比較的いたのと、わりと個性の強い子達がいて年齢的にもそれぞれ個性を認められる年ごとになったせいか、のんびりとした交友関係と学校生活を送れた気がする。社会人になってからは、基本的に学生のようにぎちぎちとした人間関係ではないのであまり気にしないようになった。ただ男の同僚、上司と話すのはやはり苦手で避けたいと思っても避けるわけにはいかずずっと苦手意識を引きずっていた。

 結婚し子供ができると、結婚相手との親戚、友人との付き合いがあり、また子供の学校関係やら地域の付き合いやらを避けては通れない。今はどうか知らないが、一時期、ママ友デビュー、とかそういう言葉もあり、他のお母さん同士の付き合いをしなくてはならないのかとか非常に悩んだ時期もあったが、幸い仕事をしていて朝から晩まで家にいないので、その点の付き合いは最小限で済んだ。子育ての悩みは同じ職場の同じような年齢の子供がいる同僚がたくさんいたので、そこで共有やら解決のヒントなどはもらった。

 そうこうしているうちに、私は自分の持っている人嫌い、人付合い嫌い、というのはほとんど克服できたのではないかと思っていた。けれど最近(というかもう数年も悩んでいるが)私はどうしようもない欠陥をやはり抱えているのだということに気が付いた。気が付いたというかやはり治っていなかったんだ、と再認識させられたのだ。

 この間娘と旅行に行くときに電車の中で本を読もうと本屋に寄った。そこで「愛着障害」という本を買った。愛情、という言葉じゃなく愛着。愛着って、とぱらぱらとページをめくった。愛着障害という言葉は初めて聞いたが私の人付き合いの下手さの根本の問題と思えたものが書いてある気がした。読んでみるとやはりそれは当たっていた。愛着障害とは要するに母親との関係が幼少のころうまくいかなかった人が抱える障害で、人との距離の取り方が分からない等の行動に大人になっても悩まされるという障害らしい。発達障害と似ているし医師でも区分けが付かないこともあるらしいが、発達障害が遺伝によるものが大きいとすれば愛着障害は環境によるものが原因だということである。

 本の内容は自分がこれまで自分なりに人間関係で悩む根源はどこにあるのだろうと考え続けた挙句に、ああ母に捨てられたことに原因があるのだ、とは分かっていて、でもそのことをどうすることもできないからそんなことを気にしても仕方ないのだ、と思っていた私にとっては分かり切ったものだった。やっぱり、と再確認しただけのこと。でも本を読んでいる途中で、こういった類の本て読んだからとじゃあ問題解決になるのかしら、と思いながら読み進めていると解決方法みたいのが乗っていた。しかしそれもすべて私の人生でやってきたことばかりだった。だから自分で人間関係の悩みを大方解決できたと感じたこともまんざら自分の気のせいではないことも理解できた。

 ただ、本にも書いてあったが、職場などそれほど深い人間関係を必要としない場合にはそれほど苦労しないのだそうだ。逆に仕事の役割に没頭することで人間関係の難しさを回避しているのだとも書いてあった。なるほど。一番困るのは、夫婦や恋人など深い人間関係になると愛着障害の症状(というのかな)が深刻になり、避けて通れないのだそうだ。

 私はそこが一番納得できた部分だった。そうなんだ。やはり私はそこで躓いているんだと。ちぐはぐな会話をしてしまうのも、人の気持ちが分からないと言われるのも、気を使っているのに全く自己中と思われるのも、たぶんその障害のせいなのだろうと。
 

 しかしだからと言って、私はそういう理由で人との距離が測れないんですよ、と開き直るわけにもいかない。原因、理由、対策、が分かっているのならあとは実践するだけなのであるが、どうしても肝心な人に対しては肝心な行動が取れない。こんな年になってこんなことで悩むなんてと思うが、このもどかしさは同じような悩みを持つ人にしか分からないのかもしれない。

 文章を書くことは、非常にこの障害に対しては役にたつらしい。自分が向き合った過去を思い出しその気持ちを整理して文章に書くことがいいことであるらしい。結構私はこの場所で過去にそういう文章を書いているのでそれが知らずうちに役立っていたのかもしれない。あとは子供を育てることとか老いた母の面倒を見ることとか。

 前置きが長くなってしまったけれど、もっと文章を書くようにしよう、と決めたのだけれどだれてしまった週末でした。

 
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