浮世絵は、奥行きの乏しい平面的な画法で描かれたものが主流であったが、西洋画の遠近法を取り入れることで、日本独自の風景画が生まれた。
人物画の背景だった風景が、主体性を持ち風景画として独立し、江戸文化の重要な一形式になったのは、葛飾北斎の功績が大きく、そして歌川広重で完成した。
また、鍬形斎や幕末から明治の前半に活躍した五雲亭貞秀らは、主に景勝地を、鳥瞰図法を用いて緻密に描いた。
そして、大正から昭和にかけて、この江戸風景画から学び、乗り越えようとした絵師がいた。
「大正の広重」こと吉田初三郎である。
北斎、広重は、風景画を描く視線を庶民の眼の高さに置いて、庶民生活や旅情をテーマにし、豊かな自然や「名所」を描いた。いわば日常の一こまが対象であり、それを表す視点は“人の眼”の高さだった。
これに対し初三郎は、工業化が進展する大正から昭和にかけて、拡大する鉄道や船舶等の商業資本から依頼を受け、対象になる「観光地」を描いた。
このため、庶民の新たな眼の高さを模索した。この結果、江戸風景画のテーマとは大きく異なり、自然と、鉄道や船舶等の人工物の調和から生みだされる観光地の新たな魅力をテーマにした。
このテーマに基づき“鳥の眼”の高さから眺めながら、広大な地域全体を把握できる独自の図法をあみだした。
吉田初三郎は、北斎から広重で完成した江戸風景画の型を破ったのである。
画面、金沢八景(横浜市金沢区)は、江戸時代、水戸藩主徳川光圀が招いた明の僧・心越禅師が、能見堂(現在の能見台)から見た景色を故郷の瀟湘八景になぞらえて漢詩にして詠み、八景(瀬戸、釜利谷、寺前、州崎、屏風ヶ浦、野島、称名寺等)として「金沢八景」と命名したことが由来となっている。
浮世絵師・歌川広重の『金沢八景』は、彼の代表作の一つであり、その他多くの浮世絵師が名所絵として描いたことで広く知られるようになった。
一帯は風光明媚な入り江が続く景勝地であったが、近年都市開発の余波を受け、湾岸は、ことごとく埋め立てられたため、往事の面影を偲ぶことは難しい。