「土佐は鬼国に候」
といわれたのは空海よりもあとのことだが、おそらく阿波人が、自分の国の南に横たわるという室戸のおそろしさを想像していったことなのだろう。
「その先端はどうなっている」
と、空海は阿波人にきいたにちがいない。
「最御崎(ほつみさき)と申します」
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室戸の三角錐がしだいに狭くなってその尖端のほつともなればはや地骨が風浪にさらされて断崖になりはるかに海中に突き出ている。大地はそこで終わり、あとは水と天空があるのみである、と阿波人がいった。
「地の涯(はて)か」
空海がもとめていたのはそこであったようにおもえる。
(司馬遼太郎著『空海の風景』より)
『三教指帰』の中で空海は、世俗の栄達の道を捨て大学を自主退学した後、山野を流浪する修行を積んだ場所として二つの地名を特定している。
「阿国」(徳島)の「大瀧の嶽」であり「土州」(高知)の「室戸の崎」である。
この二つの地は、彼にとって、生涯忘れられない修行の地となる。