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-空から見るからこそ見えてくるものがある-

太平洋沿岸を飛ぶ (33) - 室戸・阿南海岸

2010-02-20 | 四国


四国の地勢は、四国山脈をもって東西の背骨としている。南は翼をひろげたように太平洋を抱きこみ、その東の一翼が室戸である。室戸は無数の山嶺が巻貝の殻の起伏のように息せき切ってかさなり、しかも全体が巨大な三角の錘状をなし、その三方が急傾斜をなして海へ落ちこんでゆくさまはおそろしいばかりであり、とても人の棲むところとはおもえない。しかも、阿波と土佐とは隣国でありながら阿波から入る真ぐな道はなかった。
「浜づたいで行くわけには参らないか」
と、空海は土地の者にきいたにちがいない。土地の者はあきれて、
「鳥ならでは、とても」
と、答えたであろう。海岸はほとんどが断崖か岩礁でたえず激浪がとどろき、とても人の通過をゆるさない。結局は山路になるが、谷のほとんどが東西に走っているために谷伝いもできず、尾根をえらんでゆくにも密林でおおわれているためにいちいち斧をふるって葛を断ち、鎌をもって枝を払いつつゆかねばならず、一丁をゆくにも一日以上もかかる日があるかもしれない。
(司馬遼太郎著『空海の風景』より)



「弘法大師」空海は、774(宝亀5)年、讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県多度津町)で生まれた。父は郡司・佐伯直田公、母は阿刀大足の娘。俗名は、佐伯 眞魚(さえき の まお)。

日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)とともに、旧来のいわゆる奈良仏教から新しい平安仏教へと日本仏教が転換していく流れの劈頭に位置し、中国から真言密教をもたらした。書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられる。

789(延暦8)年、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章等を学んだ。
18歳で京の大学に入るが大学での勉学(専攻は明経道)に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったという。
この時期より入唐までの空海の足取りは資料が少なく断片的で不明な点が多い。吉野の金峰山や紀州熊野の山岳地帯などで山林修行を重ねると共に、幅広く仏教思想を学んだといわれる。
のちに「高野山」を最後の修行の地としたのは、この若い時期に高野の地を見定めていたためともいわれる。


空海は、十九歳になる。妙な青年だったにちがいない。
頭髪はよもぎのようで、乞食のなりをしている。
彼が大学をとびだし『三教指帰(さんごうしいき)』を著してから入唐までの七年間ほどが空白にちかい。
この時期については晩年の空海はほとんど沈黙している。いったいこの七年間、彼は何をしていたのであろう。(同前)