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太平洋沿岸を飛ぶ (30) - 和歌山・田辺市

2010-02-14 | 近畿


ミナカタ・クマグス ― それは近代日本が生んだ超人。

「歩くエンサイクロペディア」といわれ、民俗学の先達である柳田国男からは「日本人の可能性の極限」と讃えられた男である。


坂本龍馬や西郷、新選組が活躍し、翌年からは明治という1867(慶応3)年、南方熊楠は、和歌山市の金物商の家に生まれた。熊楠の「熊」は熊野本宮大社、「楠」はその神木クスノキにちなんでの命名という。
6人兄妹の次男。子どもの頃から好奇心が旺盛で、植物採集に熱中するあまり山中で数日行方不明になり、天狗にさらわれたと噂され、「てんぎゃん(天狗さん)」と呼ばれていた。

7歳の頃から国語辞典や図鑑の解説を書き写し始めた。1879年(12歳)、中学に入学。知識欲はさらに増大し、町内の蔵書家を訪ねては『和漢三才図会』という百科事典を見せてもい、内容を記憶して家で筆写し、5年がかりで105冊を図入りで写本したといわれる。 
その抜群の記憶力は後に英語、ドイツ語、フランス語など19もの言語を操る力となった。

和歌山中学校を卒業し上京。神田の共立学校(現、開成高校)入学。高橋是清からも英語を習った。この頃に世界的な植物学者バ-クレイが菌類6,000点を集めたと知り、それ以上の標品を採集し、図譜を作ろうと思い立った。その後、東京大学予備門に入学。
同期には、幸田露伴、芳賀矢一、正岡子規、山田美妙、秋山真之、夏目漱石などがいたという。
しかし地方から出てきた熊楠は、ここでは学問への欲求が満たされず程なく退学。

父を説得し20才で渡米。サンフランシスコ、シカゴ、フロリダ、さらにはキューバ、ハイチ、ジャマイカ、そして中南米と各地を巡り、頻繁に山野へ出かけては、植物採集など独学でフィールドワークを続けた。この過程で熊楠は粘菌の魅力にとりつかれていく。

米国滞在の6年間で標本データが充実したので、植物学会での研究発表が盛んな英国に渡ることを決意する。
26才でロンドンへ渡り、科学雑誌「ネイチャー」に「東洋の星座」という論文が掲載されたことにより、その名が知られ、大英博物館の嘱託職員に迎えられた。大英博物館では、仕事をしつつ、読書と筆写に明け暮れ、その中で作り上げた「ロンドン抜書」は、民俗学や博物学等について、52冊・1万800ページにわたり丁寧に書きつけている。また当時亡命中の“中国革命の父”孫文とも親交を結んでいる。

34才で帰国し、3年あまり植物の宝庫である熊野の山々を踏破調査し、37才から和歌山・田辺市に家を借り、居を定める。熊楠は田辺を「物価は安く、町は静かで、風光明媚」と絶賛し、亡くなるまでこの町で過ごした。