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つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

台風の狭間の津幡町で考えた。

2012年06月20日 23時15分36秒 | 自然
「今日の一枚」は、今朝の空。
きのう投降した「4号」は列島を掠めて去っていったが、
すっきり台風一過とはならず、風や雨を落とす雲が残された。
続いて接近しつつある「5号」の影響だろう。
レイニーシーズンでもあるし、悪天候は仕方のない事と受け止めているものの、
ジメジメした空気は、やはり釈然とせず恨めしい。

…と、空を見上げ溜息をついていたら、
「日本人と天気」について、ある「仮説」が頭をもたげてきた。

日本人が天気に敏感なのは、豊かな自然と四季が要因だと言われる。
取り分け津幡町のある日本海側は、その移り変わりが顕著だ。
雪景色が覆う、冬。
草木が芽吹く、春。
炎暑にあえぐ、夏。
実りと色彩の、秋。
確かに同じ土地に居ながらにして目にするそれぞれの様相は、驚くほど違う。
それぞれの様相をもたらす天候に関心が向いたとしても不思議はない。

しかし、同じ豊かな自然と四季のある土地であっても、
西洋人は左程でもないらしい。
知り合いのヨーロッパの女性は、日本人が交わす時候の挨拶に対して、
気にし過ぎるのではないかと大いなる疑問を抱いていた。
それは、単に「個人の感覚の違い」だけでなく、
「民族の環境の違い」に一因があるのではないだろうか。

唯一神と多神教の感覚の差異。
前者の民族は、全てを司る存在を崇め、
後者の日本人は、あらゆる対象を奉る。

または自然災害の頻度の差異。
地震大国、台風銀座、豪雪地帯などと言われる日本。
僕達の記憶の奥深くには、自然の驚異が刻まれていて、
DNAには、畏敬の念が刷り込まれているのかもしれない。
コメント
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