雑感日記

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カワサキの二輪事業と私 その34  昭和38年(1963)

2017-01-06 07:00:05 | 自分史

★ 昭和38年は、カワサキにとっても私自身にとっても、『新しいスタート』の年だったと言える。

前年秋のモーターショーに発表した125ccB8は、地味な実用車なのでショー会場では、そんなに反響もなかったのだが、私の1月30日の日記には『B8の評判がいい』とその感想を書いている。

 

    

 

 このどちらもネットの中にあるブログに掲載された写真からだが、カワサキ125B8とはこんな車なのである。

川崎航空機とカワサキ自販の連名広告になっているが、カワサキ自販からの広告出稿で、あの小野田滋郎広告宣伝課長時代なのである。まだ川航には広告宣伝部門がなかった時代だった。

 

    

  

  ただ、明石サイドでも、そんな広告の写真撮影のお手伝いなどはいろいろとやっていた。

この下の写真は、現在私の住んでる三木市の旧175号線(写真の青い線)のヨコにある池だが、ここでモペットM5の広告写真をカワサキ自販の細さんと一緒に撮りに来たりした。手伝ってくれたのは、当時近畿メイハツにいた吉永さん、往年大阪でちょっと有名だった『吉永オートサービス』の吉永さんである。モデルも社内の女の子という、そんな時代だったのである。

 今は新しく175号線バイパスが出来て殆ど通る方はいないのだが、私にとっては懐かしい想い出の場所なのである。

 

    

 

 

   

 

  この写真はGoogle Map から頂いたが、便利な世の中になったものである。

 

 

★ 前年の12月21日に結婚したばかりで、私自身も新しく家庭を持った年だったし9月末には長男が生まれている。自分のことで言うなら、この年の1月の給料が25900円夏のボーナスが62000円、そんな給料で生活していたのである。

世の中自体が、まだ組合運動が盛んで、賃上げ闘争などで川航でも24時間ストなどが実際に行われていた時代で、組合関係も結構重要な対策事項で、各職場には組合関係の『常任幹事』というポストがあって、何故か若手の平社員がそれにあたっていたのだが、営業部門は私、当時まだジェットにいた田崎雅元さん(後川重社長)はJETの常任幹事で、最初に出会ったのはこの『常任幹事会』だったのである。

この年も4月1日に職制変更があって、営業企画部管理係となって坂口守次さんが係長になっていろいろと業務範囲も広がったのである。先日ちょっと触れた富士登山の福田君などもサービス機能として一緒の仲間だったのである。

 

いろいろあった昭和38年だが、この年あった最大の出来事は5月の『青野ヶ原モトクロス』での1位から6位までの完全制覇である。

 

   

 

カワサキワールドにも飾られていたので、ご覧になった方も多いかと思うが、一番左の中村治道さん、その横の高橋鐵郎さん(後川重副社長)、ライダーたちはみんな社員ライダーなのである。4人のうち左から秋原・加藤・飯原くんの3人はよく知っている。秋原君は一緒に物品税の戻入立ち合い検査をやった仲だし、加藤・飯原コンビはその後も品証のテストライだったし、カワサキの最初の鈴鹿6時間耐久レースにもコンビで出場し、途中トップを走ったりしたのである。

中でも飯原武志くんは、今でも大槻・稲村のZ1開発コンビが主宰するZ1会のゴルフコンペでは、毎年4回お会いするしこの会に私を誘ってくれたのは『いいさん』なのである。このZ1会は当初は開発部門だけのコンペからスタートしたのだが、その後営業部門もレース関係者も販売店も参加しているし、最近は二輪のZファンも参加しているのである。まさにカワサキの二輪事業らしい集まりで、歴代事業本部長もその殆どがメンバーなのである。その特色は、過去の職位などは全く関係のない横一線の繋がりなのである

 

★この青野ヶ原モトクロスに出場するキッカケは、前年度鈴鹿サーキットで行われた第1回全日本ロードレースを製造部門の人たちがバスを仕立てて観戦し、『カワサキもレースを』と立ち上がってこのレース参戦となったのだが、当時はあくまでも有志の参加で、会社からの出場ではなかったのである。

まだ二輪事業を立ち上げたばかりで、レースなど何も解っていなくて、レースをスタートさせるのはなかなか難しかったと思うのだが、これを仕掛けたのは兵庫メグロの西海義治社長で、鈴鹿へのバスを仕立てたのも、この青野ヶ原モトクロスを主催したのも当時MFJの兵庫支部長もしていた西海義治さんなのである。レーサーなどについても何にも解っていなかったので、兵庫メグロにいた子飼いの松尾勇さんをカワサキの製造部に送り込んでいたのである。

この青野ヶ原モトクロスのマシンも、それ以降カワサキがモトクロスにKXという称号をつけるまでの数年間のカワサキのレースマシンはみんな松尾勇さんの手によるものだと言ってもいいのである。

西海さんは、ご自身がプロのオートレーサーで、レースにも技術的にも詳しかったし、当時の技術課長山田煕明さん(後川重副社長)とも親しくてその後も長くカワサキのレースに関与されたのである。

 

★そんなカワサキの明石サイドによる初レースが、なぜこんな最高の結果になったのか?このレースには他メーカーのマシンもライダーも大勢参加していて、後カワサキのエースライダーになる山本隆くんもヤマハのマシンで参加していたのである。

若し天候が晴だったらこんな結果には決してなっていないと思う。1位から6位まで独占という結果は、あとにも先にもこのレースだけだと思う。そんな結果をもたらしたのは雨の水溜りだったのである。

レース場は雨が降って出来た水溜りの連続で、カワサキ以外のマシンはみんな水を被って止まってしまったようである。『水対策』が完璧だったカワサキだけが全て完走して1位~6位独占という結果になったという。(後山本隆くんに聞いた話で、このことだけでも彼に喋らすと延々と喋るのである。)

当時の中村さんや高橋さん、それを支えていた川崎芳夫さんなど、このチームワークは抜群だったし、営業部門からはこのチームのマネージメントということで同じ係にいた元野球部のマネージャーをしていた川合寿一さんが参加し、私は直接関係はしなかったが小野次長の指示で、遅くまでマシン製作などしていたメンバーへのパンなど差し入れをしたぐらいのことなのである。

 

★この青野ヶ原のレースの結果は、当時の明石サイドの二輪部門関係者にとってはまさに朗報だったし、特に製造部門を中心に最高に盛り上がったのである。

 たまたま、この年は前年度のB7などの不振などから、会社としては日本能率協会に大掛かりな調査を依頼していて、長期間に亘って、販売・生産・技術部門などの現場の聞き取り調査が行われていたいた時期なのである。

二輪事業をこのまま続けるべきか否か』 日能のその判断要素の中に、この『青野ヶ原モトクロス』の結果が大きく影響したことは間違いないのである。

その結論は、幾つかの条件を付けて『この事業続けるべし』という結論に至り、昭和39年度1月、『単車再建』を旗印に新組織の立ち上げに繋がっていくのである。

 

昭和38年というのは、そんな特筆すべき年だったのである。

1963年、11月23日にはアメリカ大統領ケネデイが暗殺された、そんな年でもあった。

 

 

★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

https://www.facebook.com/%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-662464933798991/

 

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