★ 最近は『カワサキの想い出、そして未来』というイベントのこともあってしょっちゅう、thirai さんから電話がかかってくる。
つい先日、『長野県の鈴木さんという人から電話があって―――』という。 いろいろ仰るのだが 『それは、ケン鈴木さんではないのか?』と言っても何となく要領を得ないのである。
『長野県軽井沢のペンション、シルバーストーン、ケン鈴木』はなかなか有名である。
私は、名前は知ってはいるが、お会いしたこともない。 当然ながら、キヨさんなどはよく知っているようだった。
★それから何日かが経って、昨日thirai さんから、『やはりケン鈴木さんでした。そして彼も今度のイベントに来られることになった』との電話。
そんなことで、昨日はいろいろ昔のことを調べたりして過ごした。
ケン鈴木に関しては、
当時のKRのことを取材したこんな記事 や
Mr.Bikeの記事の中に出てきたので、
それらを見ながら、昔を楽しんでいた。
★私はカワサキの二輪事業とはともに歩んできたし、レースにもいろいろと関係したのだが、
KRの時代は一番レースからは離れて、東南アジアの市場開発や国内市場の立て直しに躍起になっていた時代なのである。
だからケン鈴木さんの名前も、聞いたことはあるのだが直接お会いしていないのである。
ここから先は私の勝手な推測だから、一部は間違っているかも知れない。
当時UKの社長は、メグロからカワサキ自販に転じ、さらにヨーロッパに販社を出すときに川重に移った故内田君がやっていた。
彼はレースには情熱があって、北陸カワサキを担当していた時も、カワサキが初めて鈴鹿を走った時のライダーは、山本隆君と内田君が育てていた塩本くんを借用しての2台の出場だったのである。
UKでも確かチームを持っていて、そのチームの監督を鈴木さんがしていて、ヨーロッパGPのレース運営はUKに任していたのではと思う。アメリカもKMCが独自にチームを持っていたように思う。
明石はマシン開発、海外のレース運営は販社ということになっていたのではと推測している。
83年に私は国内販売から企画に戻って、レース中断を決意している、そんな時期であった。レースどころかカワサキの二輪事業がおかしくなった時期であった。
当時のUKに行った時、内田君と一緒にシルバーストーンのサーキットで、レース観戦などしたりしているが、そのすぐ後にカワサキはレース中断せざるを得ない状況に追い込まれたのである。
★そんな時代のKR250,KR500 だったのだが、これがホンダのレースマシン開発に影響を与えたなどとは、思いもよらなかったのである。
昨年の秋、ホンダのレースを担当されていた渡辺さんから、こんなメールが、NPOの会員の雷神マッハさんに届いたのである。
『最新の雑誌「RACERS」カワサキKR特集を観ての私感です・・・
巻頭部分の特集は1980~82にWGPに参戦したKR500になっています、
私が知りたかったKR250、350については詳しい記事や写真が無いのは
大変残念です、しかし1978~83の期間は私にとっても一番忙しくも充実していた
期間だからです、今でもKR250・350とKバリントンは鮮明に記憶に残っています。
それまでの全日本レースレベルだけを観ていた私には衝撃的でした・・・
この時の体験が後のNS500開発時にコンセプト設計とマシンレイアウトに大きく
影響をしているからです・・・
又、元カワサキチームの鈴木様が現在、軽井沢でペンションを営んでいるとの事ですので
是非友人の方々とお尋ねして、当時のカワサキとホンダのGPレース歓談をしたいですね
今なら全て本音で語り合えると考えております、鈴木健夫様と繋がりをお持ちの方に
ご配慮をお願いしたいと思います。』
★少しはしょってはいるが、以上のようなメールである。
実は今回の『カワサキの想い出、そして未来』のイベントには、このホンダの渡辺信義さんは参加されて明石に来られるのである。
昨秋、もうホンダを引退された渡辺さんとは、電話だけではお話をしたりした。ホントにひょんなことだが、3月4日にはケン鈴木さんと渡辺さんはお会いになれるのである。
今これを知っているのは、私と雷神マッハさんだけだが、『いい出会い』が待っているように思っている。
★昨日は田崎さん(元川重社長)にも電話をした。
このイベントも『ほぼ恰好がついてきたので、来られませんか?』と。
まず、80%出席である。
そんなに驚くことはない。前述した『カワサキが初めて鈴鹿を走ったマシン』を提供してくれたのは、当時製造部にいた田崎さんなのである。
『アメリカでW1に初めて乗った日本人は私』などとイバッテいテ結構バイクには乗ったりする。オートポリスやアメリカのサーキットでも走ったりするマニア?なのである。
田崎さんと同期のZ1のエンジン開発の稲村さんも来るし、ライダー始め珍しい人いっぱいである。
今ならカワサキの歴史なら一番詳しいかもしれぬ二輪車新聞の衛藤誠さんも、NPOの会員さんとして会費を払っての出席なのである。
田崎さんも稲村さんも、勿論NPOの会員さんである。
2月いっぱい、いい会合になるようにさらに詰めていきたいと思っている。
彼がブリジストン二輪車時代にMXやRRでワークスチーム員の技術者の時からです。
BSが倒産後ヨーロッパに行かれ、アプリリアなどイタリアのメーカーののちカワサキヨーロッパのレーシング担当になられ明石に来られた時、逢いました。
それはそうと、BSを倒産させたらいけませんネ。筆が滑ったのだと思いますが。レースを止めただけで、タイヤはちゃんと作っています。
同じ二輪でも自転車は現在も立派に生産されています。
そう言う事で行けばトーハツも二輪車はありませんが、消防ポンプとか、エンジン掃除機とか生産していたようですね。
失礼しました。