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雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

緊急事態宣言解除 コロナ対策   雑感

2020-05-23 05:44:35 | 私の生き方、考え方&意見

★ 大阪・京都・兵庫の3県に発令されていた『緊急事態宣言』は解除された。

 だけど、今後どのようなことになっていくのだろうか?


 


4月初めの緊急事態宣言の翌日から、
私は自分でノートに『感染者実数』を記録し続けている。
今後も、少なくとも9月までの3ヶ月は続けたい。


感染者累計』から『死者と退院者累計』を差し引いた数値である。
現実にその時点で、感染の危険のある人の人数のベースで、これ以外に世の中にはまだ解っていない『感染者』がいるのだが、確かにその通りだが、日本での死者の数は世界に比べて、桁違いに低いからそんなに沢山いるはずはない。
感染者実数』さえ押さえたら『全体が解る筈』という『私の勝手な仮説』なのである。

今のところ『私の仮説』通りの推移で、右端の数値が『感染者実数』だが、
5月の初めには1万人を超えていたが、退院者がどんどん増えて、今は3100人まで減少した。少なくとも今後数週間はこの傾向が続くから、1000人ほどになるだろう。



  


 

専門家先生などは、油断すると直ぐ増えると仰るが、
実感染者が1000人以下』なら『0人にする』などと言わずに、上手にコロナと付き合っていけば『大丈夫だろう』と思っている。



★ 世間も、マスコミも、世界もいろいろ言うが、
日本は今までのところ世界で群を抜いて『上手く対応した』と評価すべきで、
国も地方も国民もよく頑張った』自画自賛してもいいと思っている。

政府の緊急事態宣言の発表が『遅かった』などの批判もあるが、そんな宣言が出る出ないに関係なく、『国民は自ら上手く対応した』というべきだろう。
コロナ対策など、政治家やお金ではなく基本的には『国民の態度』だと思う。

そんな常識的な、辛抱のできる国民性が良かったのだと思う。
私自身も『よく知っている岩手県』は同じ日本の中で未だに0人で通している。
これは『岩手の県民性』がそうさせたのだと思う。
 
 
総じて、欧米諸国よりも、台湾を筆頭にアジア諸国の方が、結果がいいのは、基本的に欧米人よりは辛抱が出来る性格なのかも知れない。

  




★3月以来、私自身の生活は変わった。

朝は近くの公園にランニングに行って時間もいっぱいあるので2時間近く、結構ハードに動いているので、お陰様で体は自分でも解るほど確りした。

家内の買い物に週2回ほど付き合う以外は外出もしないし、人と話もしていない。
時間があるので庭の手入れもやれたし、今年のばらは綺麗に咲いた。
このブログも、結構確り書く時間が出来た。

      


兵庫県は『緊急事態宣言は解除』されたが、こんなお願いが出されているので、
この3か月続いている生活スタイルが、そのまま続くことになるのだろう。


  


 
 こんな施設が休業要請を継続するようにとのことだが、
 『スポーツジム』以外には、私には全く関係がない施設ばかりである。
 

   
  


 世の中はどのように変わっていくのだろうか?
 この『コロナ騒動』を機に、世の中になくてもいいものは、
 なくなってしまってもいいのではと思ったりする。

 ちょっと慣れてしまえば、プロ野球やサッカーなど放映などもないが、
 あまり気にならなくなった。
 この際、地方がもう一度見直されてもいいのかも知れない。

 

★ 『新型コロナウイルス』はワクチンさえ開発されたら、何とかなるのだろう。

 ただ、世界の動きなど『元の状態にいつ戻るのか?』
 日本への観光など100%消えてしまったと言っていいのだが、復活するだろうか。

 経済対策が今後はKEY になるのだろう。
 多分間違いなく『新しいスタイル』のモノがいろいろと現れることになるのだろう。
 いろんな企業で『新しいソフト』が機能するのだろう。

 昨日、こんなことがあった。

    
 5月10日にAmazon に樋渡啓祐著『反省しない』という本をオファーしたのだが、
 いつもは翌日には届く本が10日経っても届かないのである。


    
 Amazon に電話したら、『お客様相談室』の電話はお休みなのである。
 メールを打ってみたら、漸く返事が来た。
 『6月1日』に届くというのである。

 世の中、便利になって注文したら翌日届くのが普通だと思っていたが、
 それが20日後になっても、届くことが解っていたら特にどうということはない。
 『そんな世の中に変わる』と思えばそれでいい。 
 


★ 一度、コローっとAmazon のように変わるのもいい。
夏の甲子園大会』も戦後初の中止のようだが、全国の高校の大会だと言うが、全国の殆ど高校には関係のない『野球学校の大会』になってしまっているので、
この際、その基本コンセプトを考え直すいいチャンスでもある。

いままであったものが最善ではないはずだ。
これからの3ヶ月で、世界はどう変わるのだろう。
9月1日にどんな世の中になっているのだろう。
昨年の9月1日に戻ることが『最善ではない』ことは明らかである。

万全に見えた安倍内閣は9月1日はどのようになっているのだろう。
大阪の吉村人気はどうなるのか?
世界のコロナはどうなるのか?

この3か月で、私自身は身体も確りしたし、『生きる』ことにより自信が付いた
昨年の『9月1日』よりは明確に進歩した自分であるように、この3か月を過ごしたい。




7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 5

2020-05-22 05:12:28 | 私の生き方、考え方&意見

★ SPA直入のことや、これに関係した人たちのことをもう少し書いてみたい。

 私の40年間の現役生活ではいろんなことがあったが、
一番心に残っていること一つ上げよ』と言われたら『SPA 直入』と答えるかも知れない。

 最初に岩崎茂樹と二人で、草ぼうぼうの現地を歩いたのが最初だが、
 日本の中で一番多く訪れた町は『直入町』だし、思い出いっぱいなのである。
 直入町長以下、町の方たちとも仲良くなったし、
 SPA直入は町の活性化にもお役に立てたこともよかったなと思っている。


 この当時、1988年から1990年代の初めの頃、 
 7万台の目標達成のために、一番力を入れてたのは、
 『遊びのソフト会社ケイ・スポーツ・システム(KSS)で、
 そのスタート時期には、私自身もこの会社のことに掛かりきりだった。

 そのKSSの常務として実際に動いてくれたのが南昌吾くんである。

 
ずっと昔、カワサキが特約店制度を立ち上げたのは1973年だが、
当時の二輪業界では初めての本格的な二輪車専門店制度だった。
ホンダ・スズキ・ヤマハさんはいずれも50ccモペット全盛期で、自転車屋さん主力の販売網だったのである。

最初にこの制度を展開したのは大阪南営業所、京都営業所そして岡崎営業所の3地区だったのだが、この制度を全国に展開するためにも、最初は絶対に失敗は許されなかったのである。


大阪は私の直轄だったが、藤田孝昭くんと南昌吾くんが担当していた京都岡崎を選んだのは、この二人なら上手くやるだろうと期待したのである。
当時の京都には、今もお付き合いのある柏原久・関初太郎、レース界で『ヨシケン』で通っている吉川健一くんなどがいたユニーク極まる営業所だったし、
岡崎営業所では、あの杉浦さんが『ヤマハオートセンター』を立ち上げたばかりで南くんは、そんなムツカシイお店の対応をしていたのである。 
今はレッドバロンとしての全国展開だが、そのスタートからカワサキとはお付き合いがあって、私も懇意にして頂いているのである。

カワサキのこの特約店制度は見事に成功するのだが、この3営業所を嚆矢としてほぼ3年で全国展開が図れたのである。
 

★それから20数年近くも経って、『7万台の販売目標』というムツカシイ課題に立ち向かったのだが、この時も、新事業のジェットスキーを藤田孝昭、新しいソフト会社KSSを南昌吾くんの二人が担当してくれたのである。 

この辺りの『私のやり方』はずっと一貫していて、社内にはいろんな優秀な人材はいるのだが、『前例のないはじめての仕事』をやれる人というのは、これは『ちょっと変わった独特のもの』を持っていないとムツカシイと思っていて、そんな人材はなかなか社内でも少なくて、この二人の他には平井稔男さんぐらいで、平井さんにも、いろいろと『全く新しい仕事』をお願いしたのである。

新プロジェクトであった『ソフト会社・ケイ・スポーツ・システム(KSS)』では、
南昌吾常務の下に、今もお付き合いのある渡部達也・吉田俊くんなどのホンの数人でのスタートだったのである。



★オモシロイ会社には、自然にオモシロイ人たちが集まるもので、
当時のKSSには外部のいろんな人たちが集まってきたのだが、
レースにも、ジェットスキーにも関係があり、SPA直入とも最も関係が深かった人と言えば、あの『岩城滉一』なのである。


彼は単身で突然、東京事務所に私を訪ねて来たのだが、当時は4輪のレースをやっていて、新しく『二輪のレースをカワサキでやりたい』というのである。 

そんなことから『岩城滉一』とのお付き合いは7年間ほど続くのだが、そんな大物と直接付き合ってくれたのが南昌吾くんで、なかなか密接な関係で、ざっとこんな感じのお付き合いだったのである。

  
  


★そんな岩城滉一が当時一番気に入ってたのが『SPA直入』で、直入町での滞在日数は相当なもので、直入町の人たちとも密接に繋がったりしたのである。


これが直入町のSPA直入の立地だが、ご覧の通り『芹川ダム』がすぐ近くにあって、
当時は『芹川ダム』をジェットスキーゲレンデにしようという計画が進んでいて、
岩城滉一はジェットスキーにも惚れ込んで、直入滞在時には、SPA直入では二輪を、芹川ダムではジェットスキーを存分に楽しんでいたのである。



 


★そんな岩城滉一とのお付き合いなのだが、
東日本大震災のあった年2011年の3月半ばに、突然『岩城滉一』から電話が入ったのである。
何事かと思ったら、青森県のどこかで計画していた『旅サラダのロケ』が地震のために出来なくなってしまったので、
SPA直入』をお借りするように頼んでいただけないか? というのである。

私もカワサキを退職して10年以上経ってるし、頼むにしても『どのような頼み方』がいいのか考えて、上からのルートではなく『ずっと下の私がよく知ってる人』に頼んだのだが、上手く社内を動いてくれて、半月余りの間に現地でのロケも終わって、4月2日のオンエアとなったのである。
 こんな頼まれ仕事は『前向きにやってくれる人』でないと、『余分な仕事だ』と思うような人では上手く回らないものである。


★ 4月2日の『旅サラダ』を見ての感想を、こんな風にブログにアップしている。


   


こんな風に『旅サラダ』に 『SPA 直入』が岩城滉一と共に登場したのである。
 
   

  




 二論でサーキットを走る画面も写ったし、


   
   
   


当時泊ってた旅館『翡翠』の首藤文彦さんとも再会して、SPA 直入のメンバーたちとも旧交を温めた様子もテレビに放映されたのである。


   


★こんなことがあるから、
 『人とのお付き合い』はちゃんとしておかないとと思うのである。

 岩城滉一という有名人との7年間のお付き合いも、『二輪やジェットスキーのファン』としてのお付き合いで、そこには契約金のようなビジネスライクなものはなかったのである。

 『旅サラダ』も東日本大震災という思わぬ出来事から、大慌てだったと思うが無事間に合って、ホントによかったなと思っているし、カワサキも、直入町にとってもよかったなと思っている。



★『旅サラダ』には『SPA直入』だけでなく『オートポリス』での走行シーンも入っていたのだが、SPA直入建設当時に、同時に建設が行われていたのが『オートポリス』で、当時の金でその建設費用は300億とも500億円とも言われていた。
SPA直入』は土地代は不要だったので、その100分の1ぐらいの費用で出来上がっているのである。

不思議なご縁で、『オートポリス』は今はカワサキの所有になっていて、そのオートポリスの経営を担当し確固たる運営方式に仕上げたのは、かってのKSSで南昌吾常務を支えた渡部達也くんなのである。


 いろいろと想い出の多い『SPA直入』なのだが、そのスタートは30年前だし、
『旅サラダ』ももう10年前の話なのである。

いま、シリーズで纏めようとしている
7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代』での『私の生き方、考え方&意見』は今現在もそのまま続いていて、ネットの世界でも、現実にもホントに昔と同じように多くの方たちとお付き合いがあることは嬉しいことである。

そんな方たちの名前がいっぱい飛び出すことになるだろう。



 
 




7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代   4

2020-05-20 05:53:45 | 私の生き方、考え方&意見

★ 『7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代』も4回目になった。

 100回ぐらい続くだろうかとは思っているのだが、
 幾らでも話題はありそうなのだが、
 まずは10回ぐらいまでは少しピッチを上げてアップしておきたいと思っている。

 
 このテーマの数値目標は『7万台・売上高400億円』なのだが、
 これは当たり前だが『1年間』での数値なのである。

 そういう意味では結構大きくて、だから簡単ではない目標なのである。
    
 当時の資料が残っているが、こんな数値目標で、
 二輪車で6万台、ジェットスキーで1万台 計7万台  なのだが、

 当時の実力は、二輪車が44000台ジェットスキーは3000台だから、
 これは普通ではない『大変な目標』であることがお解り頂けると思う。
 

  
 


 今思っても、こんな目標をやると、よく約束したものだと思うのである。

 88年以降の1年間の移動値のグラフ見ると、出だしは横ばいだが、
 89年の半ばから、目標の線を上回って、
 3年目にはほぼ目標を達成できる目途が付いているのである。


 


 二輪も、ジェットスキーも、ともに目標推移を上回った傾向を示しているのである。
 
   なぜ、こんなことになったのか?
 確かに、思いもよらぬ ZEPHYR の好調や、
 当時は新製品であったジェットスキーの好調もあったのだが、


   




 基本的には、従来の販売促進策などには頼らない、
カワサキの新しいイメージ創』というソフト重視の基本戦略が功を奏したと言っていいだろう。

二輪車もジェットスキーも、『遊びの道具』なのである。
そんな遊びも、『遊び半分ではいい遊びは出来ない』と、
遊びの専門会社・ケイスポーツシステム』を立ち上げて、他社とは全く差別化したいろんな仕組みシステムを立ち上げたり、実践したりしたのである。

いまも尚続いているユーザークラブKAZEは、ケイ・スポーツ・システムが一番最初に取り上げて、89年1月にスタートしているのである。
 スタート時点は1000人ほどだったのだが、それ以降どんどん伸びて最盛期は55000人を擁して、実質ホンダHARTの5倍の陣容になったのも、専門会社が本格的に取り組んだからである。 いつか『KAZEのコンセプト』についても取り上げてみたいと思っている。

そんな『新しいカワサキのイメージ創造』の核となるソフト会社KSSの設立は、
当時新しく創った末端のユーザーが走れるサーキット『SPA直入』の管理運営会社という理由で申請したので、川重本社の承認も簡単に取れたのだが、この会社の運営対象は、本音はそんなハードの管理ではなく、
それを利用する『末端ユーザーへの働きかけのソフト』が第一目標だったのである。
 


★ホントに、なぜこんな目標が達成できたのか?
端的に言うと『私は兎に角ツイている=いい運を持っている』から出来たのかも知れないと思ったりしているのである。
私の人生は不思議なほどツイていて、いろんな新しいことを手掛けるのだが、目論んだことはほぼ実現しているのである。
その時々に『いい商品』に巡り合えたり、『いい仲間と組む』ことができるのである。

SPA直入の建設計画は私が計画して始まったものなのだが、当時は別に国内担当でもないので、その運営に関係するなどとは夢にも思っていないのである。
それが結果としては、『自らが運営できる』そんなラッキーなことに繋がっていくので、『ツイている』としか思えないのである。


★この際昔を振りかって、『SPA 直入が出来た経緯』を纏めるとこんなことである。

ずっと遡って1970年代後半、Z1などの大型バイクの開発にテストコースが必要だと当時の技術本部(技術本部長髙橋鐵郎さん)が言い出して、大分県直入町にテストコース建設用の広大な土地を購入し所有していたのだが、その後の事業部の事情などから、大規模なテストコースの建設はムツカシク、ずっと放置されたままになっていたのである。

その購入条件の中に、直入町の人たちの雇用なども入っていて、直入町からは事業本部に対してそんな約束履行を厳しく要求され続けていたのである。

1988年に、その対策としてモトクロスコースを作って対応するなどの案が出たのだが、私がそれを聞いて『モトクロスコースより小規模なサーキットの方がいい』と当時の髙橋本部長・柏木企画室長に言って即刻OKを取り、レースなどにも詳しい岩崎茂とのコンビで『SPA 直入』計画はスタートしたのである。

もしそんな話を私が聞かなかったら、サーキットなどは出来ていないのである。

 
なぜ、私がそんなことを言い出したのかというと、
この時代『レーサーレプリカ全盛時』で、ユーザーたちはそんな高性能車を走らせる場所がなくて峠に集まり『峠族』などと言われていた時代なのである。

当時は鈴鹿も菅生もほかのサーキットも、『素人に走らせたら危ない』などと言って、一般ユーザーには走らせなかったので、メーカーとしてはちょっと無責任だなと思っていたのである。

私はいつも、いろんな新しいことを考えるのだが、それは『業界の常識』によるものではなく、普通に自然に、常識的に考えることにしている。

二輪業界に限らず『業界の常識』などは業界に都合のいいように考えられていて、末端のユーザーなどは無視されていることが多いのである。

素人は危ない』などと言うが、一方通行で、交差もないし、対向車もいない
そんなサーキットでの走行が危ない』などと言うのは、メーカーはそんな危険な商品を売ってるのか? 『二輪車はそんなに危険な商品ではない』とホントにそう思っていた矢先に、こんな話だったので即刻飛びついたのである。

小さなサーキットだがSPA直入の建設に着手したのは1988年春のことである。
ただサーキット建設など、川崎重工の本社財産課も造った経験など皆無だし、頼んだ建設会社も経験などないものだから、その基本設計のコンセプトは岩崎茂樹が一人で考えたようなものである。
私も岩崎も創成期のカワサキレースに関係していたので、コースレイアウトなども何とかなったのである。

この計画は、規模は小さいが本来の計画であった『二輪のコース』が出来るというので、直入町も大賛成で、大分県などへの申請などはムツカシイ面もあったのだが、町長自ら県への申請に同伴してくれて、当時の県知事に直接頼んでくれたこともあって、半年足らずで開発許可も下りたのである。

そんな1988年の10月に、突然私は『国内市場担当』となり、自ら計画したサーキットの運営もやることになったのである。



★ SPA直入は小さいが、こんなに綺麗なサーキットなのである。
 
 ユーザーの安全も考えて、グリーンベルトも広く、
 コース幅は鈴鹿サーキットと同じにしている。


 

     

そして、このサーキットの管理運営をする会社という名目で、
ケイ・スポーツシステム』を立ち上げたのである。

 
 


ちょっと余談だが『SPA直入』のネーミングの名付け親は岩崎茂樹なのだが、
SPA直入』のSPA は、確かに直入町の長湯温泉の意味もあるのだが、
ベルギーの世界的に有名なサーキットの『スパ・フランコルシヤン』とも賭けているのである。

 
★このSPA直入は89年4月に着工し、90年4月に完成、盛大なオープンセレモニーを行うのだが、日本で初めて一般ユーザーが走れるサーッキットだと大人気で、約4000人の二輪ユーザーが集まったので、小さなサーキットは人で溢れたような状況だったのである。

そこで挨拶に立たれた直入町長は
有史以来初めてこんなに大勢の人たちが直入町に集まった』とご挨拶されたのである。 
確かに有史以来の出来事で、多分その後も直入町に4000人を超す人たちが集まったことなないのではと思うのである。


ユーザー走行は1周だけで、直線コースは当日は走らなかったのだが、流石にコースは満杯で、今思うとよく事故が起こらなかったなと思ったりする。

 当日は清原などカワサキのライダーの他に、当時はヤマハにいた金谷秀夫なども参加してくれて、模範走行や、ユーザーたちの走行の先導を務めてくれたのである。

当日の写真は手元には持っていないのだが、小林茂さんなど、お持ちではないのだろうか?

あれから30年経った今も、SPA直入は、当初のコンセプトの通り、多くライダーたちに可愛がって貰っているようなので、起案者としては大満足なのである。
 

SPA直入については、オープン後もいろんな話題がいっぱいなので、
次回、もう一回 『SPA直入』についての話題をアップしてみたいと思っている。


 

だいぶ変わっている 私 Only One の評価   雑感

2020-05-18 06:20:37 | 私の生き方、考え方&意見

★ 最近私自身のことを、
普通に言えば『ちょっと変わっている』少しカッコよく言えば『差別化できた生き方』だったのだろう。  

と書いたりしたのだが、
それに対してFacebook でこんなコメントを頂いたのである。

 
古谷さんは、『ちょっと変わっている』ではなく、『だいぶん変わっている』と思います。

『差別化できた生き方』というより"Only One"だと思います。!!!素晴らしい人生を歩んでおられます!!


このコメントを書かれた方は、兵庫県立大学の松本茂樹先生で、
いろんな形でお付き合いがあったので、結構ちゃんと私のことは解っておられるのだが、おちょくっておられるようにも思えるが、
やはり『誉め言葉かな』と思って、結構喜んでいるのである。

人間幾つになっても『褒められる』のは気分がいいのだが、
褒めて頂いたのが『学校の先生』だというのが最高なのである。



★先日のブログでもちょっと触れたが、世の中の職位の高い人、例えば『大会社の社長さん』などを決してエライ人などとは思ったりはしないのだが、

学校の先生』や『お巡りさん』は 『社会の中で、エライ人、尊敬すべき人』と、
小学校時代に教えられて、ずっとそんな考えがそのまま続いているのである。

私にとってはいつの時代でも、変わらず
学校の先生や、お巡りさん』は、社会の中で尊敬すべきエライ人なのである。

現役時代会社の中で、一目置いていたのは、
お巡りさんと同じような役割の『保安の方たち』だったりしたのである。


こんなことを思うと『学校の教育』で覚えた『知識』などよりは、
その時に身に付いた『小学校の先生の教え』の方が大事で、
勉強した学科の知識ではないように思う。

別に『修身』の授業で教えてもらったわけではなくて、
何となく担任の先生から学んだことが今でも身に付いているので、
逆に『学校の先生』を尊敬するのである。


  



★ いま『コロナウイルス問題』から、学校が休みになったりして、授業内容が遅れるなどと問題にしているようだが、そんなことは大したことではないと思ったりしている。

私自身は戦後の混乱時に中学1年を棒に振って、もう一度日本に戻って中学1年からやり直したのだが、小学生時代はそんなに勉強もしなかったが、成績優秀で朝鮮京城府から表彰されたりもした。

学校で勉強したのは神戸一中の2年生までなのである。
3年生になった時男女共学になり県一女と一緒になったら、特に英語・数学などのレベルは1年間逆戻りしてしまったし、
高校は学区制で明石高校に転校したら、また学業のレベルが元に戻って、数学で言うなら『対数』のところまでを3回教えて貰っているのである。

 
そんなことで、中学2年生以降は学校で勉強したような記憶が一切なくて、
一応大学卒ではあるのだが、強いて言えば『大学野球部卒業』で、
学歴で言えば『中学卒』だと自分ではずっと思ってきたのである。

会社の入社試験の面接でも『君は成績悪いね』から始まったのだが、
単位は取れてはいたが『』ばかりだったのである。
大学の教室に入ったことが殆どなかったから、それは当然なのである。


★ 然し、勉強する分野というのは、学校を卒業してからもいろいろあるし、その期間の方が断然ながいので、一生続いているのだろう。
私自身は会社に入社してからも、広報分マーケッテングなどは、興味があったので『結構、勉強した』と思っているし、
定年後、ふとしたきっかけで入った『ネットの世界』でも独学だが、ブログ・ツイッター・Facebook など、いずれもそこそこのレベルで続けられていると思っている。

パソコンを触ったのは70歳からで、もう15年以上続いているのである。


  
  


★ 『人間の素質』などは生まれた時から決まっていて、年と共に進歩することはないのではないかなどとも思っている。

どんなにアタマのいい人でも、プロのスポーツ選手になることなど難しいし、
理数の嫌いな人は技術屋さんにはなれないし、
法律を学んで弁護士になるなどは、そんな素養がないとダメだと思う。

然し、世の中にはいろんなことで生きていけるから、
画家や音楽家』などもいるし、
田中角栄のような政治家もいるのだと思っていて、
それらはみんなその人が生まれつき持っていた素質ではないかなと思っている。

 
★ 今回の『コロナ騒動』で、多分今後の世の中は変わっていくことが予想される。
 『新しい世の中に対応できる能力』は、学歴なんかじゃないことは間違いない。

 そういう意味では、みんなに平等に与えられたチャンスなのである。
 私は、どんな世の中になっても、『87歳の高齢者だが対応できる』と思っている。
 そんなことを平然と思うので『だいぶ変わっている』と思われるのだと思う。

 これは2年前、85歳の春の写真だが、 70歳以降は殆ど衰えていない。
 体力的にも、70歳以降どんどん向上していると実感していて、
 そのあたりは『だいぶ変わっている』か、『Only One』 と言えるかも知れない。


   



 然し、どうも私がお付き合いのある方は、
 殆どが『変わっている方たち』ばかりである。
 よく言えば『個性がある』というべきか?

 まともで、真面目一筋の方の人生など、そんなに面白くはないのではと思
 
 私などと『気の合う松本茂樹先生なども、
 大学教授としては『ちょっと変わっている』と言えるのではなかろうか?




7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代   3

2020-05-16 06:29:50 | 私の生き方、考え方&意見

★ 『7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代』と題して、
 『私の生き方、考え方&意見』というカテゴリーで、1990年代のことを書いてみる
と言ってしまったのだが、これからどのように進めたらいいのか?  ちょっと困ってしまっているのである。

普通なら『時系列』に並べていけばいいのだが、『私の生き方、考え方&意見』というカテゴリーで、当時の私自身の発想などがベースなので『書くことが多すぎて、何からスタートしたらいいのか』迷ってしまっている。

この時期に限らず、現役40年間の記録は結構きっちり残っていて、当時がどんな時代で、何を考え、何をしてきたのかはほぼ正確に解るのである。

 
★ 父から特に多くのことを言われたわけではないのだが、
男は自分の言ったことには責任を持て』と言われたことが、何故か心に残っていて,
ちゃんと責任を持つためには、自分で言ったことは『紙に書いて残す』のが一番だと思っていて、現役時代の自分の言ったことは、殆どが正確に残っているのである。


7万台への挑戦』というテーマの講演会は冊子になって残っているが、それ以外での発言もいろいろ正規の書類として残っている。
社内でも、いろんな人がいろんなことを言われるのだが、
あとになって『あの時言った意味はな』などと言い訳するようなことも多いので、私はそんな訂正が出来ないように『紙に書いて残していた』のである。

もし間違ったら『間違っていました』と素直に謝ればいいと思っていた。
そんな生き方』は、今も同じように続いている。



★ この時代の『7万台への挑戦』がスタートしたのは、1988年10月1日からなのだが、昭和で言えば最後の年昭和63年で、3か月後には平成が始まっていたのである。

そのスタートダッシュの時期は、ざっとこんなことをやったと纏められているが、
今見ても、大きな課題に取り組んでいるなと思うし、新会社ケイスポーツシステムも半年後の4月には設立されているのである。
私は少々大きな仕事でも『半年で目途は立つ』と思っていて、『半年で出来ないものは10年経っても出来ない』と思っていて、何事も一応は半年目途で対策することにしている。

ユーザークラブKAZEもこの時期に、KSSで本格的に取り組み、その会員カードは『JCBカードを使用することにしている』のだが、このことがホンダ・ヤマハ・スズキの各ユーザークラブが消滅する中で、ひとりKAZEだけが、30年経った今でも存続している理由なのだが、お解りになりますか?

流通業とは「自分の仮説の正当性を問うビジネス」と言われていて、当時私の建てた仮説が正しかったという証左なのだが、


 その具体的な理由などはまたの機会に。
 兎に角、『アタマを使って考える』 
 そんな『ソフトの分野』やそこから生まれる『新しい仕組み』こそが
 利益の源泉だと考えていたのです。


    
    

★88年10月に『レースでも頑張る』と宣言してスタートしているのだが、
半年後の『鈴鹿4時間・6時間耐久』を優勝で飾っている。

その6時間耐久のライダーは、今でもFacebook でお付き合いのある当時はジュニアだった北川・鶴田組だったのである。 
北川圭一は世界チャンピオンになったりしているが、京都の吉川健一くん(ヨシケン)に頼まれて、チームグリーンに私が紹介したのだが、長くレースは関係があったが、ライダーを紹介したりしたのは北川くんが最初で最後なのである。
そんなことで立派になった今でも当時と同じように付き合ってくれるし、鶴田竜二くんも二輪業界で成功されているが、今でもFBに毎日のように『いいね』を頂いているのである。
   


★ 私は、極端に『せっかち』でもたもたしてるのは嫌いだから、
 この1988年10月に国内市場を担当しその1ヶ月目も相当精力的に動いている。
 そんな記録もちゃんと残っていて、その1ヶ月がどんなものだったか、
 明確に解るのである。


10月1日から国内担当なのだが、その日は『オリンピック閉会』などと書いているが、これは『ソウルオリンピック』にジェットスキー・チームでの参加をオリンピック委員会から要請されて、開会式の当日漢江でデモンストレーションを行ったのだが、その団長としてソウルを訪問していたのである。

『家も見れたのは印象的』とあるのは、戦前子供の時に住んでいたソウルの家を見に行ったら、見つけることが出来て写真を撮ってきたりしたのである。
 


 


だから、国内の販社担当は実質2日からだが、
この月もざっと見るとやらねばならぬことは殆ど全てこなしているし、
全国を飛び歩いて忙しく過ごしているのである。

この中で特筆すべきは、15日に一泊どまりで行った
竹園ホテルでのレースOB会開催』である。

こんな会合を最初のイベントとして開催したのは、今後のカワサキのレース活動を本格的にやるという『私の決意表』みたいなものだったのである。

そんな意気込みを25年前のレース創生期を担当した錚々たるメンバーに、
明確に表明したかったし、二輪車新聞の衛藤さんも招いて、記事として全国に報道されたのである。
これくらい大きくやり且つ新聞記事などにすると、と中途半端なレース活動など出来ないので、自らをそんな立場に追い込むのが『私自身のやり方』なのである。

 

 その時集まったメンバーだが、
こんなブログにもアップしたので、ご覧になった方もおられるだろう。
   
   


既に、この世を去られた方も多いのだが、

今も尚、ネットなどを中心に繋がってる人たちも多くて、
私自身の生き方』のベースは、どんな方とも『お付き合いのあった時代のままに』お付き合いすることをモットーにしていて、ここにお集まりも方たちも、社会的な地位の高くなられた方や、有名ライダーばかりなのだが、ずっと昔のレーススタート当時と同じようなお付き合いが続いていたのである。

Facebook で毎日のようにお会いしている山本隆・多田喜代一・大槻幸雄さんもおられるし、和田も宗和も杉本もいるし、平井稔男さんも、田崎雅元さんもいる。
この日のOBライダーでは星野と清原が一番若くてOBの席では二人が末席だったのである。



★ 人の人生は、その人の実力・努力もあるが、『運かな』と思ったりもする。

私はご縁があって川崎航空機に入社するのだが、3年目に肺浸潤で1年程入院し、退院する時にちょうどカワサキの単車の営業部が出来たのでそんな新しい部門に異動になったのである。 入院がなかったら多分違う部門には異動したような気がする。

これなども『運があった』と思うのだが、
若し単車に行かなかったら、
単車でも担当がレースとか販売第1線でなかったら、
ライダーやレース関係の人とも出会えていないし、販売店の人たちとの出会いもなかったので、
結果的にはこんなオモシロい人生にはなっていなかったような気がするのである。

レースで出会った人たちは山本隆金谷秀夫星野一義もみんな超有名ライダーになるのだが、それぞれ持って生まれた才能や本人の努力も勿論だが、何となくそれぞれ『好い運』をお持ちだったと思う。
 
特に金谷や星野は、彼らの給与が月2万円からのお付き合いなのだが、周囲のライダーたちのふとしたことから、その『デビュー』が待っていたりして、そんなご縁を不思議に思うのだが、私も当時ライダーの契約関連を担当していたので、それをジャッジする立場にはあったのである。

そういう意味では、私自身にも運があったし、何となく私に出会った人たちも好運だったような気もする。 

振り返ってみると、私と出会ったというか、密接に関係のあった方たちは、
川重では大庭さん田崎さんと社長になられたし、山田さん、髙橋さん、佐伯さんと3人の副社長もおられるし、成功された方は多いのである。
レース界では、ロードの金谷秀夫、モトクロスの山本隆、4輪の星野一義など、
販売店では、仙台の服部、堺の伊藤、ジェットスキーの福井さんなど、
その若い当時をよく知っているので、不思議なほどの大成功なのである。


定年後、ふとしたことから、KAWASAKI Z1 FAN CLUB の登山道夫さんに出会って、今もいろんなお付き合いがあるのだが、

登山さんがKZFCを作られた時、私も会員になったのだが、
その時頂いた会員カードのNOが、『No. 29』 なので『なぜ?』と聞いたら
福の神』だと仰るのである。


 Kawasaki. Let the Good Times roll !
  
 髙橋鐵郎さんはそれをいつも
 『Kawasaki に出会う人たちがハッピーになるように展開します』と言われていて、

 何となく Kawasaki を 古谷に置き換えて、
 『私に出会う方が、ハッピーになるように行動したいな』とは思っていたのだが・・・

 第3話は、こんなところで。

 
 
 



7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代   2

2020-05-14 05:57:15 | 私の生き方、考え方&意見

★ 『7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 2』 は、
小林茂くんの講演会での発表がどんなものだったかの紹介から入りたい。 

スライドを使っての話だったのだが、
彼の話の切り出しは、こんな女性の裸を大きく扱った広告の話から始まっている。

       

固い会社のイメージしかない『カワサキらしくない』ビックリするような広告なのである。
こんな写真を冒頭に持ってきたことで、川重の部課長さんはびっくりしたであろうし、彼の話を聞く気になったに違いないのである。

話の入り方が、やはり広報の専門家だなと思うところがある。 


        



 この時期の基本コンセプトが『新しいカワサキのイメージ創造』なのである。

 『イメージ』とは『他人の評価』なのだから、
 まず最初に、周囲の人たちに『関心を持ってもらう』 ことがない限り、
 『イメージそのものが湧かない』のである。

 小林くんが語っているように、ホンダさんが『やりましたね』と言ってくれたり、
 販売店など業界の話題に自然になるように仕組まれた戦術展開なのである。

 当時、二輪業界の目は間違いなくカワサキに向いていて、自工会の会合などでも『1強3弱』などと言われたりしてたのだが、HY戦争の時などと違ってKawasakiの動きは、

Kawasaki .Let the Good Times roll !

『Kawasakiに出会う人がハッピーになるようにカワサキは行動する』というコンセプトの通り、二輪業界全体がハッピーになる、そんな動き方をしていたので、結構好意的に受け止めて頂いていたのである。

カワサキの二輪の長い歴史の中で、私ほどホンダさん、ヤマハさんスズキさんと仲が良かった人はいないのではと思ったりしている。
現役時代、社内ではいろいろ言う人がいたが私は車はホンダアコードだったし、娘のバイクはスズキ、ゴルフのクラブはヤマハだった。
特にヤマハさんとは、ジェットスキー関連で同じ協会だったこともあって、ホントによくして頂いたのである。



★1980年代のカワサキオートバイ販売の社長は大庭浩さんが兼務されていた。
数ある世界の販売会社の中でも、カワサキオートバイ販売の社長は常に事業本部長が兼務されていたのである。
これはずっと昔、トヨタ自販・トヨタ自工があった時代、
カワサキもカワサキ自販があってその社長は川崎航空機の専務が兼務されていて、当時は事業部(明石工場)の上位に位置していた会社だったのである。
トヨタは合併したが、川崎航空機はその後川崎重工業と合併したこともあって、その後は事業本部長兼務となったのである。

今の現役諸君は、多分そんな経緯はご存じないと思う。

そんなことで、大庭本部長も社長を兼務されて、大庭さんにとっては、はじめての『社長職』だったこともあって大いに乗り気で『7万台』などと言う数字も大庭さんが言われたのだが、それは途方もない台数だったので、長期目標だけで現実には何の動きもなかったし、堅実な黒字経営に拘る会社として『カワ販』は存在していたのである。

大庭さんが川重に戻られてからは髙橋鐵郎本部長が社長を兼務されていたのだが、1988年10月に突然、『7万台の販売目標』と共に私に国内を担当するよう指示があったのである。

当時のカワ販も事業本部長の高橋さんが社長だったし、私自身も専務職で出向はしたのだが、未だ川重籍だったし、事業本部にとっても当時は事業部への利益貢献度もアメリカを抜いてTOPを走っていたから、事業部に対するリーダーシップも相当に持っていた、そんな時代だったのである。


★ 『7万台』という数字は途方もないもので、二輪だけではとても無理だと思ったので、ジェットスキーを加えて『何とか挑戦しましょう』と、『7万台、売上高400億円』を数値目標として、このプロジェクトはスタートしたのである。

約束した限りは、少なくとも『実現するような方策』を採らねばならないのだが、
従来のカワサキのイメージを変えない限り、7万台はとても無理だと思ったので、
従来のような販売店への販促対策ではなく、
イメージ創造の主役である末端の二輪ユーザー』に直接働きかける方策を模索したのである。
その具体的な施策として、SPA直入という日本ではじめて一般ユーザーが走れるサーキットの建設や、二輪ユーザーの組織KAZEなどの展開を本格的な『ソフト会社ケイ・スポーツ・システム(KSS)』を設立して本格的に対応したのである。

従ってこの時期の主役は、販売会社や営業ではなくて、KSSであったと言っていい。
そこを中心に『遊んでいても自然に売れるそんな仕組み創造』を目指したのである。



★これは私が担当した直後、
博報堂が調査した『1988年の二輪4社のイメージ』なのである。

余談だが、こんな調査は結構高くて何十万の単位ではなくて『何百万円』の単位なのだが、こんなことから入るのは私ぐらいで、普通は金額を聞いて止めてしまうだろうと思う。

 ただ、本気で『7万台に挑戦』するのなら、現在の自らの実力をちゃんと知った上での対策がない限り、闇雲に突進では、目標が実現したりはしないのである。
 そのあたりは『マーケッテングの基本』の分野なのである。

   
  

 これを見て頂くとお分かりのように、
 当時のカワサキは『個性的なデザイン』で『玄人受けはする』が、
 『広告のセンスがなく』『レースに弱く』『常にチャレンジしない』 
 そんな固いイメージで、これを変えない限り、
 『7万台など夢のまた夢』だと思って
 『新しいイメージの創造』を基本コンセプトにしたのである。


 この時点では、それぞれのイメージ項目もさることながら、
イメージ総量』が小さすぎて、『イメージがない』に近いのである。
そんなカワサキのイメージを向上させるためには、よほど変わったことをやらない限り、他人に関心を持たせることなど難しいので、
例えば広告でも小林くんの『カワサキらしくない広告』がMUST なのである。


1年経って、いろんな活動の結果
幾らか『レースにも強く』『常にチャレンジする』カワサキになっているが、
特筆出来るのは『広告センス』が大きく伸びたことと、
全体の『イメージ総量』が大きくなって、この1年間の活動は大いに評価すべきものであった。

  


そんなカワサキの採った方向を3年続けて、漸く販売台数にもその実績が現われた時期でのこの講演会だったのである。



★そんな意味で、講師に選んだのは
常にチャレンジするソフト会社のKSS』
『レースの強いカワサキを目指すスポーツ推進部』
『イメージ創りの根幹である広告宣伝課』の担当の
3人のメンバーを講演会の講師として選んだのである。

 
私の発想は、常に普通の方とはちょっと違っていて、
●レースサーキットの『SPA直入』や、
●新しいソフト会社『ケイスポーツシステム』や、
●本格的な『ユーザー組織KAZE』など
当時は全く世の中にない新しい存在で、『世の中にないことの説明』はムツカシいのだが、それをやるためには、川崎重工業の決裁は必要なのである。

それが何となくそれが出来たのは、当時の川重の大庭浩社長に絶大な信頼があって、何となくそれらしい説明をすると、そんなに確りご理解はなくても、
古谷がやるならいいか』ぐらいで通ったのだと思うのである。

私の直接の上司は髙橋鐵郎さんという当時でも10年以上一緒に仕事をした方がおられたし、そんな環境に恵まれていたのである。

 
★ ただ、『成功する・実現する』ことが信頼の基盤になるのだが、
7万台という目標が実現しそうな段階での、この講演会だったのである。

もう一度、小林茂くんの講演の内容をこの冊子から一部をコピーしてみます。
沢山喋った中での最後の部分なのだが、なかなかいいことを言ってるので、
時間のある方は是非お読みになって頂きたいと思います。 


     
      

                 
          
  
       

             
      


 ざっと、こんな感じの講演会だったのだが、
 今回のテーマは、この時期カワサキがどんな発想でどのように動いていたのかが
本題なので、今後そう言った課題を中心ご紹介を続けていきたいと思っています。

 ご期待ください。


 

最近思っていること  雑感

2020-05-13 05:12:45 | 私の生き方、考え方&意見

★ 日本国中が『新型コロナウイルス』の影響を受けている。

 私自身の生活も、3月初めから全く変わってしまった。
   私自身の生き方の基本と言えば、敢えて言えば『差別化』だろうと思う。

 子どもの頃から、終戦・戦後の社会に出るまでの環境の変化も、
 社会に出てからの40年間の『現役生活』も、
 定年からほぼ20年近くになろうとしている『定年後の生活』も、
 間違いなく一般の方たちからみたら『変わっていて
 こんな『生き方や発想』をした人は少ないことは間違いないのである。

 だから、普通に言えば『ちょっと変わっている
 少しカッコよく言えば『差別化できた生き方』だったのだろう。



★ そんな生き方だったのだが、
 この2ヶ月、コロナウイルス問題が日本でも現実対応が必要になって以来、
 さらに『変わった生活』になってしまったが、自分では結構気に入っている。
 
 3月2日が誕生日なので、『87歳になってからの生活』が変わったと言っていい。
    それまで続けてたジムでのトレーニングから、外の公園でのそれに変わった。
 約2時間、スロージョッギング・ストレッチそしてダッシュで仕上げている。
 それも、ジムに行ってた時よりも、より確りと出来ている。
    家の体重計に出る数値はどんどんよくなって、
 昨日は、体脂肪は23台になったし、年齢ははじめて72歳と出た。

 10時過ぎには家に戻るので、夜寝るまでの時間はたっぷりあって、
 その時間を兎に角『独りで過ごす』ことになって、
 Stay Home だから時間があり過ぎるのだが、
 『時間を持て余す』というようなことは全くなくて、いつの間にか寝る時間になる。

 『環境の変化』には子ども時代から今まで『柔軟に対応』することには慣れていて、
 今回も『ちゃんと対応できている』のである。

 端的に言えば、今までよりはちょっとだけ『広い範囲』で物事を見たり、
 今までの『生き方』から『更に何か新しいこと』などと思ったりしている。
 そんな『考え続ける時間』が出来て、何となく充実感がある。

 

★ これは今朝、防災公園でストレッチをしてる時、見上げてた空の写真だが、
 こんな空を見ながら、いろんなことを考えたりしている。

  



 公園の芝生のあまり手入れされていないところには、
 こんなクローバとたんぽぽがいっぱいなのだが、手入れされているところより、
 こんな『自然に近いのはいいな』と思ったりしている。




 それが『特にどうだ』ということでもないのだが、
 今まで見えていなかったものが『見える』ということは進歩だろう。


 もう10年以上続いている『この雑感日記』をちゃんと考えて、
 時間をかけて書き出したのは、ごく最近のことで、
 今までは単にさらーっと書き流していたのだが、
 読み返して校正したりするのは、初めてのことなのである。
 


★ そういう意味では『コロナウイルス・様様』なのである。

ネットをやっててよかったな』と改めて思っている。
ネットではコメントなどで話も出来るし、外の様子もよく解るのである。

私は、どんな方とでも同じように接することが出来るのが『特技』で、
そう言う意味では『ネットはみんな横一線』だから、非常に私に合っている。

世の中には『社会的地位や職位の高い』いわゆる『偉い方』がいるのだが、
不思議なほど私は、
例えば『会社の社長』などを『偉い方』などと思ったことがないし、
そんな方に対しても『普通の年上の方』とまったく同じ対応で通せたのである。
運動部育ちなので、先輩には『敬意を』、後輩には『気安く』で通している。


中学1年生の頃だったが、世の中の大人の方と初めて話をした方が、後、川崎重工業の社長になられた砂野仁さんで、伯父の知人だったのだが、私にとっては単なる『おっちゃん』で、その時はまだ『偉い方』とは思わなかったのである。

伯父宅で飲んで、お宅まで、お送りしたことも何回かあったのだが、
その時、明石公園の中で大きな声で歌を歌われる砂野さんを知ってたから、
大会社の社長さんになられてからも身近に感じてたのかも知れない。
私は砂野仁さんのコネで川崎航空機に入れて頂いたので、人生の恩人なのである。


大体87歳でネットなどやってる方が珍しいのだと思う。
昨今『人生の先輩』などと持ち上げられることもあるのだが、
長く生きた』からいろんな経験があるのではなくて、
普通の方は見逃すような『つまらぬ?こと』にでも関心を持ったりするので、
それが積み重なっただけだろう。
それは一言で言うと『好奇心』かなと思ったりする。


★人間は『生きてきた経験をベース』に今を生きているのだと思う。
だから、どんな経験でも経験は貴重だし、
新型コロナウイルス体験』もまた新しい『貴重な経験』なのである。

特にこの『コロナウイルス問題』は、間違いなく世の中の発想を変えそうである。
日本は先進国だとばっかり思っていたが、ウイルス検査などの分野では全くの後進国だということがよく解った。

いろいろ言われているが、
今のところ感染者の数も、死者も世界に比べて桁違いに少ない。
これは国やリーダーたちの方策の成果というよりも、
状況を理解して適切な行動をとった、日本民族が優秀だったということなのだろう。

ただ、ホントの評価は、終わってみないとよく解らないのだが、
コロナ問題を契機に
世の中がいい方向に変わった』と言えるようになればいいなと思っている。

私自身は間違いなく、既に『いい方向に変われている』のである。



 

7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代       1

2020-05-11 06:48:15 | 私の生き方、考え方&意見


★ ごく最近小林茂くんが
  Facebook に私の現役時代の写真をアップしてくれたのだが、
  その1990年代の私の現役時代最後の10年間のテーマが、

 『7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ創造』だったのである。
 
 そんな当時の基本コンセプトについて纏まっているこんな冊子がある。



   
 


この冊子の冒頭にこのように紹介されていて、
当時の事業本部の部課長250名に講演会の形で話したものを要約することなくそのまま文章にしたものなのである。

この冊子を作ってくれたのは『岩崎茂樹くん』で、私とは親交があったのだが、
この紹介文を見ても、当時の私や国内販売の基本コンセプトを、間違いなく理解してくれていたと思っている。

 それはこのように紹介されている。

日本国内市場を担当しているカワサキオートバイ販売が、ここ数年の間、取り組み且つ相当の成果を挙げ得た一連のマーケッテング活動をご紹介致します。
これはさる1月29日、明石に於いてCP事業本部部内関係者約250名を集め、講演会の形で披露されたものを、要約することなく、そのまま文章にしたものであります。
 皆様方にお汲み取り頂きたいのは、そのユニークな手法ではなく、なぜそうしたのか? 何を狙っているのか? といった、一貫して中を貫いている ”哲学”=基本的な考え方であります。
特に、取扱商品をハードウエアとしたとき、それに絡んでくるソフトウエアの部分をビジネスとして捉え、ハードウエアだけでは、最早、競争相手との差別化が困難となったこの時代に、このソフトウエアのビジネスをイメージ構築の柱とした、ダイナミックなマーケッテング活動を、市場環境や、ユーザーの意識の変化に即応して展開していく姿勢をも学んでいただきたいと思います。
そうして頂くことによって、手法の一つ一つはそれぞれ、ご担当の市場に適用できないまでも、貴市場独特のマーケッテング活動計画策定に、必ずや一灯を投じる役割を果たし得るものと信じます。
   

         


★この1990年代の約10年間は、私の現役時代の『集大成』と言ってもいい時代で、
 『7万台』という途方もない目標も達成できるのだが、
 それ以上に『新しいカワサキのイメージ創造』がホントは中心課題で、
 『7万台達成』はその結果だったのである。

 この時代のことを、いつかは書きたいなと思っていたのだが、
 突然Facebook に小林茂くんが、
    この講演会のこんな写真をアップしたので、
 その時代のことを纏めてみようかなと思いたったのである。


 

 
 
 ★今までこのブログでも『カワサキのこと』はいろいろとアップしてきたのだが、
 『カワサキの歴史』 をその中心課題として纏めてきた。 
 
 今回は『7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代』と題して、
 その時代の私自身や、周囲の人たちの動きなどを中心に、
 そのベースにある『私自身の発想や生き方を』を、
 『私の生き方、考え方&意見』というブログのカテゴリーで纏めてみたい。

 
 今日が第1回なのだが、『第100回』ぐらいまで続いたらいいなと思っている。
 どれ位の期間になるかは解らぬが、『100回分』ぐらいの材料は多分あるだろう。
 
 その第1回は、小林茂くんがそのきっかけを作ってくれたので、
 そんな彼に関係のあることからスタートしてみたいと思っている。


★ この講演会は、髙橋鐵郎本部長(カワサキオートバイ販売社長兼務)から、
私が依頼を受けたのだから、私一人で喋っても勿論何の問題もなかったのだが、
目標達成のために頑張ってた営業以外の3人も講師に選んだのである。

 
講師のメンバーと内容はこんなことだったのである。


  



講師は私と、ケイ・スポーツ・システムの南常務、スポーツ推進部の重本部長、そして広告宣伝課の小林課長で、
聴衆は当時の事業本部の部課長250名なので、
そんな人たちに対して、私は兎も角、
子会社の若手のこんな3人が話をすること自体が異例なのである。
 
3人が話す内容等、私は事前には何の報告も受けずに、
ぶっつけ本番みたいなものだったが、
日頃やってることを話すのだから『任して、大丈夫』という私の発想なのである。

当時、彼ら3人がやってたことは、『それなりに高度な水準』だったという自信があったからそんな判断になったのである。


ただ、私は大勢の聴衆の前で話す機会は何度も経験していたのだが、
多分この3人にとってはこんな経験ははじめてだから、
そんなに上手く時間調整なども出来ないかも知れぬし、
講演の時間は決められているので、それは最後に『私が調整すればいい』とぶっつけ本番でのスタートだったのである。


その出来栄えがどうであったかは、
こんな冊子に纏めて社内は勿論、
海外販社には英文にして、
さらに高橋本部長は当時の川崎重工業の大庭浩社長以下全役員に配ったりしているので、『想定以上の評価』であったことは間違いないのである。

私は後、大庭さんから、全役員に国内市場のことを話すように指示を受けたりするのだが、機会があればその話もと思う。



★この講演会で、小林くんがどのような話をしたのかは、次回に譲るが、

 Facebook に小林くんは、こんな投稿もしているのである。


  



★私の話は兎も角
 
●南常務の『KSS とKAZE活動

KSSとはケイ・スポーツ・システム という「ものを造る川崎重工業」の中では珍しいソフト会社なのだが、そこでは30年経った今も尚続いているユーザークラブKAZEを片手間ではなしに『ソフトビジネス』として捉え、ソフト会社の中心課題として、真正面から取り組んだのである。 

HART ・YESS など他メーカーのユーザークラブが全て消滅している中で、
KAZEが残っているのは如何にその取り組みがホンモノであったかの証左だろう。 私は今も現役のKAZE会員なのである。

● 重本部長の『スポーツとレース活動

それまでのカワサキはレースに力を入れていたとは言い難い状況だったのだが、
この時代のTEAM GREENは、カワ販で担当していて、ロード・モトクロスとも、相当の力の入れ方だったのである。
ファクトリーに 宗和・塚本・多田、
TEAM GREEN に 北川・鶴田などがいた時代で、
オモシロかったのだが詳細はまたの機会に。

● 小林課長の『広宣活動

 どんなことを喋っているのか?
 これは次回にでも譲ることにして、
 カワサキの初代の広告宣伝課長が私で、2代目が岩崎茂樹さんなのである。
 
 小林茂くんは、確か榊君の後の4代目だと思うが、
 カワサキの歴史の中で一番長く広報を担当したのではなかろうか?

 広報とか広告の世界は、なかなかその評価もムツカシイのだが、
 『新しいカワサキのイメージ創造』という基本コンセプトを実現のための、
 非常に重要な役割を担っていたと思う。


広報については、私自身が専門に近い分野だったが、
小林くんが広告宣伝課長時代に、彼に具体的な広告の指示など出したことはない。彼は清水君と二人で結構自由にやっていたと思う。 

 

この講演会の講師にも、迷うことなく選んでいるのは、それなりに信頼していたのかなと思っている。

当時のカワサキの広告は結構ユニークで、
広告代理店とは私は結構密接に関係していたが、
それは基本コンセプトの分野で、具体的なことには『口を出したりはしていない


私は部下に仕事を任すというか、権限を渡すときに、
権限とはその人に与えられた誤りの量である』という認識で臨んでいて、
仮に、小さな誤りがあっても、それをすぐに指摘するなどは意識的にしなかった。
誰でも、自由に任したら、そんなに大きな誤りなどしないものなのである。


★これは、2013年の私自身の旧いブログだが、
その中で広告の話に触れていて、
こんな広告と一緒に、小林茂くんも登場している。

時間のある方は、リンクをお読みください。



 
 
 
 
 では第1回は、まずはこんなんところで、
 
 第2回をご期待ください。


 

  
 




 

今年のゴールデンウイークが終わった。

2020-05-07 05:52:19 | 私の生き方、考え方&意見

★ こんなゴールデンウイークがあるなど、今まで想像すらしたことがない、
 そんな今年の『ゴールデンウイーク』が終わった。

     


     
 今後も、世の中は一変するかも知れない。
 今年の新型コロナウイルス騒動は、いつどのように終わるのかは解らないが、
 この2ヶ月、私自身も『コロナウイルス』のお陰で、新しい体験がまた出来た。

 今年で87年、激変と言える戦前・戦後の時代を生きてきたのだが、
 人生の最後に、また新しい時代に出会えるかもと、
 少々不謹慎かも知れぬが『よかったな』と思ってるし、
 『長生きできてよかった』と思ったりしている。



人間、危機に遭遇すると思いもしない力を発揮するものである
 このゴールデンウイークの街の様子を見て、戦時中を想い出した。
 日本人の団結力というか、基本的に持っているものは素晴らしい。
 世界のどの国よりも優れた民族だと改めてそう思った。
 国が地方の知事がお願いをしたら、これほど素直に辛抱できる国民なのである。

 
    同時に、危機になるとリーダーの力が発揮される。
 大阪が日本の中心になったような、日本のトップを走っている昨今である。
 10数年前は、日本の中で消えかかっていた大阪なのに、
 橋下さん・松井さん・吉村さんと続いて、大阪は生まれ変わったようである。

 橋下さんがずっと『吉村さん』を褒めていたが、今回の対応を見ると流石である。
 具体的な対応の仕方が素晴らしい。
 確りとした『仕組みで対応』されているところがいい。

 このような具体的な指針を数値で大阪だけが示すことが出来たのは、
 それが出来る『大阪独特のシステムでの対応を続けてきた結果なのである。


  




★現役時代にお付き合いのあった服部吉伸先生はこのように言われていた。
  
世の中には原因のある問題と原因のない問題の二つがある。 原因のある問題は、原因の追究、把握、対策と言う思考ステップで課題を解決する。原因のある問題の解決に必要な能力は創造力と呼ばない。 創造力の源泉はアイデアであり思考ステップの特徴は「絞り込んで考え続けるというところにある
仕組みを造るのは、非常に高度な仕事である。仕組みを造らずに放たらかしの形にして、創意工夫してやりなさいというのは酷である。損なやり方である。
人が自分の価値を発揮できる状態を造りださない限り、人はコストにしか見えないだろう。人はコストではなく価値創造者である。』
 
 
   原因のある問題に対する対応は、日本人は得意なのだが、
 新しく『仕組みを創る』のは、何故か日本人は不得意で、
 今回のコロナ対策でも『仕組みを創って対応した』のは大阪だけかも知れない。



  ★このような『大阪の戦略的な対応』を
 ご本人は今回の危機に対する具体的な『出口戦略』と表現されたのだろうが、

 



国の西村経済再生相はその方向はには賛意を示しながらも、
緊急事態宣言からの出口戦略』としては、『言い方が違う』と
文句をつけたような表現をされたようだが、何故このような言い方になるのだろう?

 


国が出来ないことを、大阪が先にやったのが、気に食わないのだろうか?



『「出口戦略」(exit strategy)という用語』はベトナム戦争時にアメリカ国防総省内で使用されたのが始まりで、 損害が甚大な状況下で、いかに人命や物資の損失を最小限に抑えて軍を撤退させるか、といった検討や実施に対して出口戦略という用語が用いられるそうなのだが

大阪府の吉村洋文知事は、緊急事態宣言が5月末まで延長されることを受けて、
出口が見えないトンネルではなくて、出口が見える戦略を示してほしかった」とコメントされたようで、これが気に食わなかったのかも知れない。



★いろいろあったが、このゴーデンウイークは、日本中がStay Home で辛抱した。
 
 日本全体では、未だに感染者0の岩手などもあるのだし、
 全国一律の対応はムツカシイのだとは思うが、
 安倍さんも、政治家としての思い切っての対応をぼつぼつ決断されたらと思う。

 感染者の延べ人数は増えているが、
 退院者を差し引いた『実質感染者は増えてはいない
 勝手なカンだが、 今後『減少傾向』に入って落ち着いてくるのではと思う。

 『コロナ危機』を乗り越えて、新しい世界がどんなことになるのか?
 そんな『新しい世界・新しい日本』を見てみたいと思っている。
 

★『はじめて体験したゴールデンウイーク』だった。
 今後も『新しいこといっぱいの世の中』が当分続くと思われるが、 
 それに対して世界は、日本はどのように対応していくのだろうか?

 『人間の知恵』に期待したい。





岩手県     雑感

2020-04-23 06:18:21 | 私の生き方、考え方&意見

★ 岩手県でのコロナ感染者が未だにゼロである。
 そういう意味では『日本一いま安全な県』なのである。

 
確か岩手県は北海道を除けば、日本一番面積の大きい県でもある。

ずっとずっと昔、もう40年以上も前の話だが、
私はカワサキの東北6県を担当していたこともあって
岩手県』は懐かしい想い出いっぱいの県でもある。


当時のカワサキはまだ『実用車のカワサキの時代』で
125ccB1などを中心に販売していたのだが、
岩手県は毎年 『ダントツで日本一』の実績を誇っていたのである。



  



どれくらい広いかというと、
隣の県の仙台から盛岡までの距離がちょうど200キロなのだが、

兵庫県の神戸と愛知県の名古屋の距離が同じ200キロで、
その間には 兵庫ー大阪ー京都-滋賀ー岐阜ー愛知と 6県が並んでいる。


そんな岩手県はこんな立地だから、
山坂の多い自然いっぱいの県で、
その県民性は東北を代表すると言っていい『
人間味あふれる・辛抱強い真面目な方』ばかりなので、
そんな岩手の人たちを私は大好きだったのである。


南部牛追い歌の歌詞には、
田舎なれども南部の国は、西も東も金の山と歌われていて、
どこに『金の山』などあるのかなと思うほどの田舎県なのに、
そのように思う『気持ちの豊かさが素晴らしい』と思っていた。

そんな県民性からか、
なぜか当時は地味だった『カワサキの良さ』を気に入って頂いて、
毎年『日本一の実績』を上げていたのである。


  



盛岡に本社のあった岩手カワサキの久保克夫社長は、
私に『経営の仕組み』とか『人との付き合い』を教えて頂いた先生なのである。
特にその『経営の仕組み』は総合的に素晴らしくて、その後私が人生の殆どを、
仕組み創り』に専念してきたのは久保さんの影響なのである。



★突然、こんな『岩手県の想い出』を書いているのかというと、
 新型コロナウイルス感染者が未だにゼロという岩手県について、
 こんな記事が出ていたのである。

全国で新型コロナウイルスの感染が拡大する中、47都道府県で唯一、感染者ゼロの続く岩手県についての疑問が、岩手日報社に寄せられているというのである。
県民や医療関係者からは岩手県の低い人口密度のほか、手洗いや外出自粛を励行する「真面目な県民性」があるとの見方も。


間違いなく真面目で辛抱強く、
言われたことは実行しているのだろうし、その環境もいいのだと思う。
広い』『自然が多い』ことなどは多分コロナ対策に有効なのだと思う。

東京・大阪などはその逆なのである。

私の住んでいる三木市も、
兵庫県は緊急対策指定県に入っているのだが、
未だに『コロナ感染者はゼロ』なのは、岩手県と同じレベルなのである。

三木も間違いなく『広いし自然いっぱい』なのである。
このような環境では『真面目で辛抱強くおおらかな人間』に育つのかも知れない。


★このコロナ問題は、いつどのような形で終息するのか?

一度『人の生き方』の問題も、
都会にばかり集中する今までの生き方を、
一度考え直すいい機会になるかも知れない。

家庭』という人間の最小の単位は、
家と庭』があって初めて成立するのであって、
ホテルのスイートルームの延長』のような
高層マンション』などは、本来人間の住む場所としては、どうかな? 
と思ったりする。

三木の人たちはその殆どが家と庭のある『家庭で』生活しているのである。
多分、岩手県の人たちもそうだろう。

世の中騒がしい『コロナ対策の日々』だが、
それとは、殆ど関係なく、自然に毎日暮らしている
おじんの生き方・考え方・意見』なのである。



 

緊急事態宣言    雑感

2020-04-07 06:39:27 | 私の生き方、考え方&意見

★ 今回は『私の生き方、考え方&意見』というカテゴリーで、
 私自身の『コロナウイルス問題』に対する意見を率直に書いてみたい。


   一般に『緊急事態宣言を早く出すように』というのが大勢だったような気がする。

 その『緊急事態宣言』がやっと今日出る運びとなった。
 それはそれで、『遅過ぎた』という意見も出るであろうし、
 舛添さんのように『なぜ出さなくてもいいものを出したのか』という意見もある。

 今の日本人は何故こんなに『文句ばかり言う国民』になってしまったのだろう。

 世界は『コロナウイルス』を第2次世界大戦以降の最大の危機だと言っている。
   『コロナウイルス』を戦争に例えた世界のトップもいるのだが、
 今の世代は75年前の第2次世界大戦は経験していない人が殆どなのである。


 私は昭和20年8月15日(1945)、終戦の時は中学1年生だった。
 そして今のソウル・京城にいた。
 本当に突然、何の前触れもなく、世の中が変わってしまったのである。
 
 戦時中の内地での空襲は知らないが、
 外地からの引き揚げも、戦後の食糧難も体験して身に染みて解っている。


★ 確かに、今回の『コロナウイルス問題』も大変だが、
  その大変さは比較にはならないのではなかろうか?
  
  今回の『コロナウイルス対策』も国などには頼らずに、
  自らが判断して、自ら『対応する』ことが基本だと思う。
  
  戦後の時期は、国など何の指示も出さなかったし、
  空襲で家が焼けた人たちも、外地から引き揚げた人たちも、
  何の補償もなかったのである。

  私自身も、突然終戦で学校はなくなって引き揚げてきたが、
  翌年の4月に中学に再入学して1年生からやり直したのである。
  
  住む家も焼けてしまっていたし、お金も当時の金でひとり1000円だけ持って、
  ソウルの家も、道具もそのままにリュックひとつを背負って戻ってきたのである。
  私は兎も角、両親はよく頑張ったなと思っている。



★ 戦後75年の日本は本当に平和で、
  個人の人権も『世界で一番』と言っていいほど尊重されて、
  戦争の経験もなく、『平和ボケ』して過ごしてきたので、
  今回の『コロナ騒動』でも、周囲に頼ろうとするのだが、
  今回の問題など、基本的に個人が判断して、
  『自らその方向を決めればいい』だけの話なのである。


  『緊急事態宣言』は出たが『緊急事態宣言』が何かをやってくれる訳ではない。
  そんなことは解り切ったことなのだが、またいろいろと言い出しそうである。




★ 『コロナウイルス問題』 これがいまの世界の状況なのである。

  

  
     『文句を言う人が多くなった』と感想を述べたが、
  それ以上に『文句など言わずに、黙って対応した人もまた多かった』のである。
  この現状は『日本の素晴らしい対応の結果』が現われている。
  世界各国に比して
  『国も、日本人も、素晴らしい対応をした』 と胸を張るべきなのである。

  『日本は検査の数が少ないから感染者の数も少ない』などと言う理論もあるが、
  『死者の数を見れば一目瞭然』である。
  世界の各国に比べてダントツに少なく、
  3月初旬には感染者の数は日本より少なかったアメリカだが、
  今は、死者の数では、『日本の70人に対してアメリカは7000人』なのである。

  日本は『少なくともアメリカよりは頑張っている』と言い切って間違いない。
  
 
  
★ 3月初旬、あのクルーズ船がいたころは、
  日本の対応に、欧米諸国はいろいろとケチを付けていたのを想い出す。
  日本はあの未経験の難局を切り抜けて約1ヶ月、
  国も、国民も本当によく頑張って『今がある』。

  文句や、悲観的なことばかり言わずに、
  もう少し『日本の良さ』を見直して胸を張るべきなのである。

  この問題の対応は個人個人の対応が基本的で、
  国や『緊急事態宣言』などに頼ってみてもダメなのは、
  あんな強力な組織があり、
  『外出禁止令』も出せるアメリカの現状を見れば明白なのである。

  
  敢えて言えば、
  『日本の「民族の優秀性」が齎した結果』だと私は思っている。
 
  国が『緊急事態宣言』など出さなくても、
  各地のリーダーたちは、それぞれいい方向を示したし、
  一般住民は、それぞれの判断でいい行動をした結果なのだと思う。

 
  『緊急事態宣言』は発令された。
  一番『いい時期に』発令されたと言えるかも知れない。
  『とやかく言う』以前に各自が『如何に行動すべきか』を考え実行すべきである。

  今こそ、日本人は自信を持って、
  世界のトップ水準の結果を維持すべき、
  『絶好の機会が来た』と考え、夫々が胸を張って堂々と行動すべきだと思う。

  3月初旬から1ヶ月、私は殆ど人とは会っていないし、話もしていない。
  『緊急事態宣言』が出ても、全く同じような生活態度が続くだろう。
  

  これが 『戦前派の「日本大好きな」おじんの発想』なのである。
  どんな事態に直面しても 
  『前向きに、ネアカに行動すべき』だと思っている。
 


 
 

今後の葬送のスタイル  雑感

2020-03-21 08:00:04 | 私の生き方、考え方&意見

★ Yahooの意識調査で、こんなのがあった。

墓は要らない』、『自然に還りたい』と考える人たちの間で、自然葬が広がりつつあるというのである。





 




 
 その結果を見ても、
 『散骨』が『従来の墓石を立てての埋葬』を抜いてトップを占めている。
   もし、投票したりするときは、私もひょっとしたら『散骨に1票』入れるかも知れないなと思ったりした。








 
★ 昨日は春の彼岸で、明石の長寿院まで墓参に行ってきた。

 長寿院は、明石城主松平家の菩提寺で、こんな歴代のお殿様の墓もある由緒ある名刹なのである。



   
  
   


 
三木に住んでいるので、車で40分の距離なのだが、
若し私が先に逝ってしまったら、家内が墓参を若しするとすれば、『大変』というか『不可能』に近いなと思ったりする。

ずっと旧い話だが、本家の伯父が檀家総代なども務めていたこともあって、お寺とは親しくさせて頂いているし、私が本家を継がねばならぬような事情も、私が小学生の時代まではあったので、長寿院の先代の和尚さんには子どもの頃からいろいろお世話になったり、教えて頂いたりしたのだが、私自身の性格はどうもこのような旧い仕来りにはしっくりこないところもあった。


 当時は、曾祖父の松平家の剣道指南番をしていたという古谷満平の墓などもあって、その数は15ぐらいもあって、場所を覚えるだけでも大変だったのだが、阪神大震災の時に、みんな倒れてしまったりして、お寺さんが殆ど整理されてしまったのである。 ある意味ホッとしたところもあった。

 今は本家の祖父・祖母・伯父・伯母の本家の墓と両親の墓の二つだけである。



  



★ 現在は『正月、春の彼岸、お盆、秋の彼岸』と年に4回は欠かさず墓参に行っているのだが、鎌倉に住んでいる『息子の代』になるとここまで来るのは『大変』だと思うし、ましてや孫の代になると、これはとても無理なのである。

そんなことを思うと『私自身の代』で散骨などほかの方法でもいいかなと思ったりもするのだが、墓は既にあるので、そうはならないかも知れない。
日本のお寺などのかっての風習は、その一族がその地に住んでいた時代の名残で、現在のように、生地と生活をする場所が離れてしまった現代では、その事情が全く違ってしまっているのである。

墓などに戒名などを刻んで残すのも、その人がこの世に生きた証左のようなものだと思うが、今の時代、墓など創らなくても、私が生きた証左は、『ネットの世界』だけでもいっぱいだし、それで充分かなと思ったりもしているのである。

ただ、少なくとも私が生きている限りは、年4回の墓参は続けようと思っているし、
特に世話になった本家の伯父のためにも、ちゃんと綺麗に墓を守っていきたいと思っている。
昨日も、1時間以上かかって、墓の周りの草を抜いてきたのである。

果たして、どんなことになっていくのだろうか?
 
 
 


高齢者の生活 は ? 

2020-03-17 06:43:06 | 私の生き方、考え方&意見

★ 平均寿命が最高を更新して、女性87.32歳 男性81.25歳  になったらしいが、
 
    健康寿命はそんなに高くはなくて、
 男性で72歳、女性で75歳と、意外に低いのである。


  



健康寿命」とは、
医療や介護に依存しないで、自分の心身で生命維持し、自立した生活ができる

私自身は間違いなく今現在は健康で至って元気なのである。



★この3月の初めに87歳を迎えたのだが、
ちょうどその頃から『新型コロナウイルス』問題が浮上して、
今までずっと行っていたジムにもプールにも行かなくなって、
『家内以外の人とは殆ど喋らない新しい生活スタイル』が始まっているのである。

そんな『新しい生活パターン』になって半月が過ぎた。

毎朝8時から10時ごろまでは、近くの三木総合防災公園に行っている。

● そこでスロー・ジョッギングを約40分
● 50~60メートルダッシュを約15分、6本ほど 結構ちゃんと走れる
● 林間広場にある器具を使ってのストレッチや腹筋運動を40分ほど
● 大体歩数は7000歩、距離5キロ、消費カロリーは1000kcal を越える


    



87歳としては、結構厳しいレベルだと思うのだが、十分にこなせている。
世の中の水準から言うと『異常』なのだと思うが、どんどん身体が確りすることを実感できる『進歩』があるから不思議なのである。


午前中は外で過ごして、
午後は殆どパソコンの前に約7~8時間もいる生活である。

● ニュース・情報収集・検索など 2時間ぐらい
● パンダ碁 これは平均7局ぐらい打つので 2時間ぐらい
● ブログ記述 結構調べたりするので 1~2時間
●   Facebook ・ ツイッターなど  2時間

テレビは最近はあまり見なくなったが、
今は相撲を見たり、専ら夜のニュース番組などを見たりする。
睡眠は夜の10時には寝て、朝の起きる時間は様々だが、7時間以上はとれている。


こんな生活が2週間ほど続いたのだが、
もう少し暖かくなると『庭仕事』を2時間ぐらいやりたいななどと思っている。


★ネットでチェックしてみると、
高齢者の健康な生活』は以下の4項目が大事だと言われているが、
それも大丈夫出来ている。

 1.栄養バランスのとれた食事
  これはお蔭様で家内がちゃんとやってくれるので私は何もしなくても大丈夫
 2.腹8分目
  これはどうかな? 口卑しいので『腹9分目』ぐらいかな。
 3.有酸素運動
  これは120% できている
 4. 気持ちが前向き
  これも大丈夫だと思う


★こんな生活で『満足かどうか?』ということなのだが、 

果たして何歳まで生きれるのか?
少なくとも今は健康には全く不安はないし、『すぐ死ぬ』とも思わないので、
では、どのように生きるべきか?』と思うのである。

人類が経験したことのない『超高齢者社会』の中で、
高齢者と言えるレベルだが、健康状態も『体力維持』も出来ている。
人間鍛えたら『何歳になっても進歩する』などと思っていて、
筋力は勿論、柔軟性なども間違いなく『進歩』が続いている。

いまのところ『認知症』も大丈夫のようだし、
いつの日にか、こんな状態のまま『突如死ねたらいいな』と思っている。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

転勤  雑感

2020-03-13 05:50:31 | 私の生き方、考え方&意見

★ Yahooの意識調査を見ていたら、
 『転勤は必要かどうか?』というこんな調査があった。



  


 その答えはこのようになっていて『必要がない』というのが
 その大半を占めていた。


  




 今まで『考えたこともない』質問である。
 現役時代は、カワサキの二輪事業に従事していて、それは世界展開であり
日本でも全国展開であるから、その現地で採用する人以外は、転勤はMUST
のような状況だった。

 自分自身のことで言えば、明石が勤務地であったが、
明石ー仙台ー大阪―札幌 と3回の転勤を経験したし、現役の終盤国内市場を担当した時は、人事上の『転勤を決める』立場にいて、それを担当していた総務部は、定期異動と称して年に2回ほどは毎年転勤作業をやっていた。

 『当然のことだ』と思っていたので、改めて『必要かどうか?』という質問にはびっくりしたが、『必要ない』が大勢を占めているのは、『そうかな』とも思った。

当時のカワサキでも、多分今でも『転勤しない』人の方が『転勤する』人より多いはずで、特に必要なければ転勤などさせる必要などないと思う。
社内では『転勤できない』という人もいて、それはそれで認められていたようにも思う。

 私などは一度目の仙台は、初めて事務所を創るために転勤したので、ずっとそこに住むのなら兎も角、何年か後には転勤があって後任の人が来るので、社内では転勤はMUSTなのである。 すべて『必要ない』と言われてしまうと会社の運営が成り立たないことは間違いなかった。
特に海外市場なども、そこに定住するということはないのだから、何年かおきに『』が生じるわけである。


★『転勤が大変』かどうかは、『大変』といえば大変だが、いい面もないではない。
私などの1回目の転勤は社宅から一戸建ての借家に入れたし、海外の方たちの住居をみても、とても『日本では住めない』ような立派なところが普通だったから、そういう面で、いい面もあるし、いろんな経験も積めるのでいい面もあるとは思っている。

会社の経営から言うと『転勤は結構費用』が掛かるのである。
現地採用者』は費用面では、殆ど何も掛からないから、『不必要な転勤』は会社にとって無駄だから、自分の家を持つのが当然の世の中になったので、同じ転勤でも自分の家から通える範囲に限っているような会社もあるようである。


★一般にはどのようなことになっているのか調べてみたら

  • 企業調査によれば、正社員でも転勤をする者の範囲は限られている」が27.5%、「転勤はほとんどない」が27.1%となっている。
  • 転勤の目的は、「社員の人材育成」が66.4%ともっとも多い。
  • 転勤命令の決定方法は8割弱が転勤命令は会社主導で決定されている。
  • 転勤がある企業において、過去3年間で、転勤において家族的事情等を考慮したことがあるかについては、「親等の介護」が56.7%でもっとも多い。

とこんな感じで、その内容は普通かな、と思うのだが、
改めて『転勤が必要かどうか』という設問自体が、あまり意味がないようにも思った。

必要ない』という人が60%、『必要』が40%は、妥当かなとも思う。


★私自身の感想を言うと、
多分家族にとってもいろんな経験が出来て、
転勤はよかった』と思っているのではなかろうか?
その『経験』がない人に、聞いてみても比較も出来ないのだから、あまり意味がないとも思ったりする。



 






新型コロナ問題 いろいろ  

2020-03-05 07:00:41 | 私の生き方、考え方&意見

★『新型コロナ対策問題』で、テレビは連日いろいろと取り上げている。


番組自体の姿勢がおかしいのか、
批判的な意見』の方が多いな という印象を受けるのだが、
世の中の人たちの意見は概ねこんなところで、常識的かなと思ったりする。




 
 
いろんなイベントなどに対しても、中止が妥当という意見が主流なのである。

 




★ネットを見ていたら、こんなビックリするようなニュースに出会った。

このニュースは同時に中国でも報道されていて、ネットやSNS上のコメントで、
ほぼ100%と言っていいほど賛同と理解を示す意見で占められていて、
反対する意見や批判の声はほとんど見られないというのである。
 
 『中国では日本での新型コロナ全国一斉休校が絶賛されている』というのである。

 中国のそれも一般大衆が、なぜ『安倍総理の決断』を絶賛するのか?





日本では、このニュースについてはむしろ「場当たり的だ」「共働きの家庭に大きな負荷がかかり、社会を崩壊させる」「政権維持を優先した政治判断」などといった非難の声が目立っている印象があるが・・・・

そうした声を見越したかのように中国のSNSでは、
良い決断だが、日本のマスコミはまた政府を批判し、大騒ぎになるだろう
日本政府は所詮、どんな政策を下しても、結局たたかれるから・
などのような発言さえあったそうである。

なぜ、こんなに賛成意見なのかというと、
一つ目は中国では長年の一人っ子政策の影響で、子どもはその家の「すべて」であり、どんなことがあっても子どもを最優先に考える傾向があるというのと、

2つ目は、今回の新型肺炎では、中国の人々は、これまでの日本からの支援や応援に対し、多くの中国人はとても感動し、感謝してきたというのである。

いずれにしても、今回のような突然の危機に対しては、
国を挙げての対策が必要で、
そんな国の対策』に、つまらぬ文句など言ってること自体が『オカシ』のである。


★ お隣の国中国で、こんな意見になるのは、中國にとってこの問題が『国難』にも当たるホントに大きな問題だという意識を大衆のレベルまで共有されているのだと思う。

日本の場合は中國と比べるとそのレベルは『国難のレベル』には達していなかったのだと思うが、
この問題をホントに真剣に考えていた、大阪の橋下徹さんや、櫻井よしこさんなどは安倍さんの判断を同じように絶賛しているのである。


毎晩8時からあるBSフジの『プライムニュース』(反町理)

という番組をよく観るのだが、

新型コロナ克服へ日本人がなすべきこと と題して
昨夜は桜井よしこさん、お一人の出演で、
2時間たっぷり『新型コロナウイルス問題』など語っておられたが、
副題に『一刀両断』とあったのだが、なかなかの迫力だったのである。

 

   
 

新型コロナ問題』は 『日本の国難・危機』を国として乗り切る、自分の国を自分で守る意識がないのは異常だし、メデイアもおかしいと手厳しかった。
いろんな評論家や専門家が登場して、知識は持っていても決められない。
一番大事な「システム構築」をする人材が日本は欠けている。』という指摘も、
そんな日本での『安倍総理の決断』は評価できるという立場でのご意見には私は全く同感なのである。

最後の提言は『日本よ全き国家たれ』であった。
 
 

★ いろんなイベントが中止されたりしているが、
 春の選抜野球も『無観客試合での開催になる』とか。

 この問題では、私たちの周辺でも影響を受けているのである。

 4月18・19日に 
 KAWASAKI Z1 FAN CLUB  主催の『 大槻幸雄氏の殿堂入りをお祝いする会』   を大槻さんの出身地である京都府綾部市に
 全国からZファンが集まってお祝いをしようという催しを予定していたのだが、
 9月26・27日に延期することに決めたのである。
 
 9月末になると多分この問題も、終わっているだろうという判断なのである。

 こんな施設と
   


 すぐ近くの同系列のこんな温泉ホテルを借り切って
 盛大な楽しいイベントになるだろうと思っているのだが、
 春の楽しみが、秋までお預けになってしまったのである。




 大槻幸雄さんのこの受賞は、昨年の秋のことだったのだが、
 この『日本自動車殿堂』には、本田宗一郎さんなど、
 4輪に関係のあった方々が多いのだが
 2輪関係では『大槻幸雄さん』が初めてなのである。

 1年経ってからのお祝いとなってしまったのだが、
 5月には、大槻さん90歳を迎えられるので、
 そんな『90歳のお祝い』も、同時にと思っているのである。