代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

野津道貫と赤松小三郎

2014年08月25日 | 赤松小三郎
 
 母校の同窓会で昨年から始まった赤松小三郎研究会。今月は私の発表の順番に回ってきたので新史料はないかと探し回っていた。

 国立国会図書館の憲政資料室に野津道貫(陸軍元帥)関係文書が所蔵されている。野津の史料の中には、赤松小三郎についての未発掘史料もあるに違いないと思って探しているとやはり出てきた。
 
 昭和6~7年に編集されかかり、未完のまま出版されていない「道貫公事蹟」という手書き史料がある。赤松小三郎に関するかなり詳しい記述があった。

「道貫公事蹟(手書き原稿で公刊されていない)」の第9章は、野津道貫と赤松小三郎の師弟関係について詳細に述べられている。同史料に以下のようにあった。

 慶応元年正月に野津は藩命で江戸に上り、英国式兵学を学ぶため下曽根金三郎の塾に入門。その後、野津道貫は、下曽根金三郎の旧塾頭であり、当時、下曽根と関係が悪化していたために別に塾を開いていた平元良蔵の元にいた赤松小三郎から直に英式兵学を学ぶために転塾したというのである。同史料は以下のように書く。

「慶応元年藩命ニ依リ英式修業生被申付江戸ニ出テ麻生下曽根甲斐守門ニ入塾又同家旧塾頭麻生狸穴平本(ママ)良蔵邸へ英学者信州ノ人赤松小三郎ヲ聘シ専ら英式訓練セシニ付仝邸ニ轉塾後チ赤松ヲ藩に聘シ京都ニ仝行教場ヲ今出川ニ開設藩邸諸訓練ヲ担任セシム・・・・」。

 この記述から以下のことが分かる。

① 慶応元年から小三郎暗殺までの2年半にわたって赤松小三郎に師事していた一番弟子的存在は野津七次(後の元帥・道貫)であった。
 また、この史料からは、下曽根門下の中でもっとも英式兵学に熟達していたのは赤松小三郎であると見込んだため、あえて転塾して小三郎の教えを受けたというニュアンスも読み取れる。

② 薩摩藩に赤松小三郎をスカウトしたのも野津七次であった。

 以上、これまでの赤松小三郎研究においては語られることのなかった事実である。  
 ちなみに、「道貫公事蹟」では、小三郎が薩摩藩邸で教え始めたのは慶応3年4月と推測している。その理由は、慶応3年4月12日、島津久光に従って薩摩の歩兵1~6番隊、砲兵一隊、総勢700名が入京し、この700名を英国の陸軍式で調練する師範が必要とされており、赤松が招請されたというのである。(もっとも赤松小三郎が薩摩藩邸で教え始めた時期は本当に4月なのか正確には特定できていない)。

 野津七次は、赤松小三郎を藩邸に招請すると、兄の野津鎮雄を塾頭とし、自分はいったん藩命で鹿児島に帰っている。鹿児島でさらなる藩命を受け、横浜の英国人騎兵の元で騎兵学を修行することになっていたという。この横浜にいた英国人騎兵とは、赤松小三郎の英語ならびに兵学の師であるアプリン大尉ではないかと思われる。おそらく小三郎が信頼する門人の野津にアプリンを紹介したのであろう。

 ところが野津は横浜に向かう途中、情勢が急転したという理由で京都に足止めされる。そのあいだの慶応3年9月3日、赤松小三郎は暗殺されてしまうのである。中村半次郎は、赤松小三郎と野津七次が一緒に歩いているのを尾行し、小三郎が野津と別れて一人になったところを襲ったのだ。

 「道貫公事蹟」には赤松小三郎の暗殺のあとの野津七次の行動として以下のように書かれている。

(赤松が暗殺されると)「元帥はこの時、上京して居られたので、その下手人の探偵方を命ぜられたという説が伝わって居ります」

 野津が恩師・赤松小三郎の仇討を企てたという話は、薩摩藩士・有馬藤太の回想録である『維新史の片鱗』(日本警察新聞社、1921年)でも語られている。有馬は同書で次のように言う。「野津などは仇討を企てたものだが、トートー分からずに仕舞に成った」と。

 ちなみに、有馬は同書で、犯行は中村半次郎の独断によるもので、暗殺の事実は現場にいた4人しか知らぬと語っている。

 上田出身で文部省の維新史料編纂課にいた松尾茂は大正14年(1925年)に臨終前の有馬藤太を訪れて真実を究明しようとインタビューを試みた。有馬は、松尾に問われると、「4人しか知らぬ」という前言を覆し、「大久保、西郷等が『赤松信州へ生還せしむるべからず。』として桐野に密命を下したる」と回答したという(千野紫々男の「幕末の先覚者 赤松小三郎」『伝記』1935年6月号:56-57頁)。

 あるいは中村半次郎らの単独犯行であったら野津は仇を討ったであろう。背景がこれでは、仇討の願いがかなわなかったのは当然であった。


 10年の後に西南戦争が勃発。野津兄弟は西郷と桐野と戦うのに躊躇はなかった。同戦争でもっとも凄惨な戦いとなった田原坂の戦いにおいて、政府軍を率いたのは野津鎮雄・道貫兄弟であった。対する西郷軍を率いたのは篠原国幹。篠原は、赤松小三郎が暗殺されると、「いささかも口に出したものは斬罪に処する」と箝口令を布いた人物でもあった(千野紫々男の「幕末の先覚者 赤松小三郎」『伝記』1935年6月号)。

 篠原本人は小三郎を尊敬し、小三郎を幕府の密偵と主張する中村半次郎に対し、「先生は密偵などではない」と必死にいさめたとも伝わっているが、暗殺されると、薩摩を守るために箝口令を布いたのであった。
 その田原坂の戦いにおいて、篠原は戦死する。篠原は最期の戦いにおいて、小三郎の書いた掛け軸を背負っていたとも伝わっている。そのエピソードの元の出所はいまだ不明である(ご存知の方いたら教えていただきたい)。

 田原坂の戦いは、小三郎の門人同士による死力を尽くした戦いであった。そして野津兄弟が勝った。野津道貫は10年越しの仇討を果たしたのだ。
 


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