双子の息子が生まれた頃-2

2015年08月26日 | 健康・病気

勤めていた広告代理店が、読売新聞西部本社版の日曜日の全二段を買い切っていた。
なのでなんとしても毎週そこを求人広告で埋めなければならなかった。
社長と部長は、これまでの付き合いのある会社があり、全二段の3分の2は埋まった。
その残りを社員で埋めなければならなかった。
新人の私ともう1人の男の他に、以前からいた女性の営業がいた。
その3人で残りの紙面を埋めることは並大抵なことではなかった。
朝9時に朝礼をして終わるとすぐ電話営業を始めた。
昼休み1時間あって午後も5時までやった。
もうしっちゃかめっちゃかに電話をかけまくった。
しかし、電話がつながって社名をいっただけで切られた。
社長と部長は隣の部屋にいた。
社員1人に1つの電話番号があり、電話機のボタンの明かりで電話しているかどうかが社長にわかる。
私が電話することが辛くなって電話しないでいると、隣から社長が飛んできて、
「**(私の名前)、電話しろ!!!」と怒鳴った。
私はなんでこんなことをしてなければならないんだと悲しくなった。

ここまで書いてきて、このことは2001年の九想話に書いたことを思い出した。

12/14 営業マンだった私
12/15 営業マンだった私2
12/16 営業マンだった私3
12/17 営業マンだった私4

これを読んで下さい。
辛い時代でしたが、良いこともありました。
そんなエピソードが書いてあります。

1980年7月3日に息子たちは産まれました。
朝、病院に行ってガラスケースの中の息子たちに対面した。
うちの子たちは、未熟児だったのでガラスケースに入れられていた。
長男はすぐ出られたが、次男は1週間ほど入っていた。
目やにが多かったのです。
私は、未熟児網膜症になって失明したらどうしようを悩んだ記憶があります。
私は息子たちの顔を見て会社に行った。
そのとき勤めていた時計の部品製造会社は産休なんてなかった。
仕事は、デジタル時計のガラスにシルクスクリーン印刷をしていた。
版を拭くとき、失敗したガラスを拭くときにシンナーを使っていたので、
毎日シンナーまみれになって働いていた。
シンナー遊びではなく“シンナー労働”してました。
ガラスにシルクスクリーン印刷をしながら、息子たちの名前を考えていた。

今朝も「まれ」を観た。
子どもたちは男の子と女の子だった。
ということは二卵性なんですね。
(一卵性で男女はありえない)
ドラマの後半のほうで赤ん坊が一日中泣いていた。
うちの息子たちも泣いていた。
乳幼児は3時間ごとに乳を飲む。
双子のその時間がずれると1時間半になる。
女房の母乳は足りなくなり、仕方なしにミルクにした。
はじめの頃はミルク瓶を煮沸消毒していたけれど、
そのうちまにあわなくて水で洗うだけになってしまった。
私は会社で残業して夜の9時頃帰ってきて、それから息子たちの世話をする。
女房は朝から夜まで1人、育児で疲れている。
深夜は私が手伝わなければどうにもならない。
私たち夫婦にとって試練のときでした。
でも、今思えば、楽しく懐かしいときでした。
また、したいとは思いませんが…。


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