いつだったか、劇団の名前を決めようということになった。
みんなで劇団事務所で話し合った。
みんなでといってもあのころ劇団員は全部で何人いたんだろう?
たしか15・6人、いや20人ぐらいかな?
でも、6畳のアパートに何人ぐらい入れるのだろう?
実際の劇団員は7・8人だったかな?
劇団員じゃなくてもいろんな人間が出入りしていたから、よく分からない。
正直、私の記憶もあいまいです。
いろいろもめて「イエローカンパニー」という名前になった、と思う。
私が提案したのは「哀演児」だった。
進行形の「ing」を「哀しみを演じる子ども」というような意味にして考えた。
けっこうみんなの評判はよかったのだが、採用されなかった。
練習はどこでやったのだろう?
晴れているときは代々木公園が多かった。
デザイン学校の教室も借りた。
公民館などの会議室も借りたと思う。
まだ台本も出来てなかったので、みんなで歌ったり、踊ったり、
ちょっとしたシーンを設定して演じてみたりした。
台本は少年雑誌のあるマンガを原作にして、
脚本を劇団を中心になって立ち上げた男が書くことになっていた。
その漫画家に許可をもらいに行ったりしていた。
3月の上旬、代々木公園での芝居の練習のため劇団員を原宿駅で待ち合わせていた。
なかなか全員が集まらなかった。
そのころ私は仕事を探していた。
試薬会社を退職して1ヶ月はたっていた。
それなりの蓄えもあったが、そろそろ働かなくてはと思っていた。
駅のゴミ箱に新聞が捨ててあったので、それを取り出し読んでいると求人欄があった。
ある大学生協のバイト募集があった。
翌日、文京区にあったある国立大学の生協に面接に行った。
ところが私の前の人で採用は終わってしまった。
「他の大学でもいいですか?」と採用担当者がいう。
私はどこでもいいから仕事がしたいのでお願いした。
ある女子大生協を紹介された。
その足で目白駅からバスで行く女子大に行くと「今から働いてくれ」となった。
4月から新学期が始まるので倉庫には新入生に売る商品が山積みになっていた。
次の日から私は女子大の学バスに乗って仕事に行くことになった。
いつもは目白駅から女子大まで10分ほどの満員バスの中、男はバスの運転手と私だけだった。
試薬会社にいたときはまったく若い女の子に縁がなかったのに、この環境の変化はなんなのだ。
ここまで書いて、そういえば昔このことを九想話に書いたな、と思いだし探してみたらありました。
2003年4月に「哀演児1」~「哀演児6」です。←ここをクリックして下さい。
今、あらためて考えてみるとこれはえいちゃんが新宿の画廊で、あの絵を気に入ったからだ。
たったそれだけで私の生活環境が激変した。
なにしろ本郷三丁目にあった10人弱の零細試薬会社の社員が、6月にミュージカルをやる劇団に入り、
ついでにデザイン学校に入学し、女子大生協で働くことになった。
ところが、私はミュージカルの公演前に「イエローカンパニー」をやめてしまった。
その理由は「哀演児6」に書いてあります。
えいちゃんは、その後も公演までいたと思う。
私が劇団をやめてから、えいちゃんともつきあわなくなった。
私は、昼間は女子大生協で働き、夜はデザイン学校で勉強していたのでつきあう時間がなかった。
同窓会でえいちゃんに会ったとき、原宿の劇団のことは忘れていた。
この九想話を書き始めて思い出した。
あのあと「イエローカンパニー」がどうなったか聞けばよかった。
これからえいちゃんと会うときがあるだろうか?
えいちゃんは、5年前に離婚して今はひとりで暮らしているといっていた。
仕事は、土方をしていると…。
「娘とはたまに会えるんだ」といっていたえいちゃんの表情は明るかった。
― 了 ―
九想さん、これはブログではなく小説ネタです。
タイトルは「龍彦」。
300枚書いてください。
そして主題を明確に(偉そうですいません)。
期待してます。
私も「いつものブログとは違うな」と感じ,
「次を読みたいな」と強く思いました。
それを旗坊さんが「ブログではなく小説ネタ」だと
ずばっと指摘されて,合点がいきました。
ぜひ小説として形にされることを,
私も期待しています。
そろそろまじめに書きたいと思います。