息子たちの誕生日

2010年07月03日 | 健康・病気
今日は、息子たちの誕生日。
あいつらも30歳になりました。
2人とも結婚をして家も買った。

私が30のときはどうだったろうと振り返る。
私は、社員が60名ぐらいの会社にいた。
メインの商品は、マスフローコントローラというもので、
ガスの流量を制御する精密器械だった。製品名はMACだった。
主に、半導体製造メーカーで使われるもので、
その頃は半導体バブルで、ものすごく景気が良かった。
造っても造ってもよく売れた。

私は製造課の社員として入社して、1年ほどたって資材課に移った。
部品を集めるのが仕事です。この仕事に私は合っていた。
ところが私が入社したときそれを開発した人が会社を辞めた。
残った開発担当者は良い新製品ができなくて、
MACの売り上げが落ち、私は34歳でその会社を退職した。
そのとき社員は30人ほどになっていた。
何年か前にその会社を訪ねたが、そこに会社はなかった。

私が30歳のとき、息子たちは3歳か4歳だった。
埼玉県の富士見市というところの公団住宅に住んでいた。
2DKという間取りだった。
息子たちが1歳半まで東京の高島平団地にいた。
その頃、飛び降り自殺で有名な団地でした。
子どもが1歳になると0.5人という評価になり、
うちは双子だから1人となり、3人家族は住宅変更をする権利が生まれた。
高島平の1DKから、富士見市の2DKへと住宅変更を希望して叶えられた。
2DKに引っ越したときは、豊かな気持ちになりましたね。

私の30歳のときは、無我夢中で生きていた。
2人の息子を育てるために必死だった。
安月給だったけど、双子なので女房は家にいるしかない。
私だけの収入でそのときのわが家は暮らしていた。
今思い出すだけでもぞっとするほどの貧しい暮らしをしていました。
東京の練馬に住む女房の両親の援助がなかったら、やってこれなかったと思う。

でも、その頃、私は一番小説を書いていた。
毎日、原稿用紙に向かっていました。
夜の8時頃、息子たちに絵本などを読んでやって一緒に寝て、
11時に女房に起こしてもらって、それから3時頃まで書いていた。
クソ話なんて書いてないで小説を書かなければだめですね。
(でも、小説を書く才能のないことを思い知らされる今日この頃です)

私の昔話なんてどうでもいい。
息子たちが、私よりはまともに暮らしていることが嬉しい。

今日の夜、女房からKのメールが転送されてきた。
孫の大きく成長した写真があった。
赤ちゃんというよりお姉ちゃんという感じだった。
Kから女房にメールを送るなんてことはこれまでなかった。
Kも、娘の成長が嬉しいのだろう。
こんど東京にいったら会いに行きたい。
もう何ヶ月も会っていない。
1ヶ月に1度は東京に行っているが、遠慮して行ってない。
会いたいな。

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