2001年までの九想話は、パソコン通信に書いていたので、
朝日ネット以外の人には見られなかった。
それをなんとかみんなに見て欲しくて九想庵というホームページを作ろうと考えた。
考えていたのだが、インターネットやホームページというものがよく分からなかった。
1998年4月に私は、会社を辞め山梨から所沢に帰ってきました。
その年に会社が、本社を東京から山梨に移転したからです。
1年の約束で山梨工場に単身赴任したはずなのに、本社が東京から山梨に移ってしまったのでは、
私の帰るところがなくなったので会社を辞めたのです。
山梨に行くまで私は、本社のあった小平工場に勤務していました。
いや、それから発展する会社だったら家族を山梨に引越させても会社に残ったと思うが、
そのときの会社は墜落寸前の旅客機でした。
産業の米といわれた半導体の生産は、その頃韓国や台湾が主流になってしまった。
私の会社は、半導体メーカーがある工程で必ず使う装置を造っていたのです。
2年ほど前には、国内の日立・富士通・NEC・東芝・ソニー・シャープなど半導体メーカーに、
海外ではインテル・モトローラーなどに、装置がバンバン売れていたのです。
私が会社に辞表を出すと社長が、
「もし転職した会社が良くなかったら帰って来い」と温かい言葉をかけてくれた。
しかし、その社長も3ヶ月ほどで解任になった。
5月から転職した新しい会社に行きかなり辛い思いをした。
そんなときに楽家に行くようになったんですね。
あの年はハッキリいって地獄でした。
45歳で転職して新しい仕事を覚えるということは並大抵のことではなかったです。
私と一緒に採用された30代の男は、仕事のことでノイローゼになり退職した。
私も何度やめようかと思ったことか、しかし、息子たちが高校3年生だった。
息子たちの進路を考えたら会社を辞めることはできなかった。
自分を殺しても息子たちの人生を生かしたかった。
楽家で肥さんとは、あまり話さなかったですね。
良くも悪くもあの頃(楽家)のことはいつか小説にしたいと考えています。
慣れ親しんでいた「はながさ」も翌4月に閉店。
失意の中,翌々5月「楽家」開店と私の中ではつながっていくのですが,
(2年間のタイムラグがある)
2001年の8月に「楽家の“先生たち”」で,
私とのインターネットを通してのやりとりがあって,
(花見やボーリングではご一緒していましたが)
1年あまりを経て親しくなり始めたのかなと思います。
その時期,九想さんも苦しい状況にあったとすると,
「楽家」は本当に「救いの場」だったのだと感じます。
「楽家」・・・ぜひ小説にしてほしいなあ。
それまで10年ほど新所沢に住んでいても友人はできなかった。
楽家に行くようになって友だちが沢山できました。
実は、3月29日にN野さんの家に行ってみんなと飲みました。
ほんとは花見をしようということだったんですが、雨が降りそうだったので中央公園での花見はやめて飲みました。
軽井沢では誰とも飲まないおれは、息が詰まりそうな暮らしをしている。
埼玉に行ってみんなと飲むことで精神のバランスがとれています。
楽家であったことを、いつか文章にしたいと思っています。