私が俳句を初めて作ったのは40歳のときで、初めてパソコンを買った年です。
パソコン通信をやりたくてパソコンを買った。
ASAHIパソコンネットがその年に、「パスカル短篇文学新人賞」を設立した。
それに投稿したくてパソコン通信を始めたのです。
その頃、プリンターを含めて25万円ほどかかりました。
私は、なんとかパソコンを買ってもらうために女房に頭を下げた。
その当時だと、私の月給の1ヶ月分以上だったと思う。
パソコン通信は、ASAHIパソコンネットとニフティーサーブに入った。
「パスカル短篇文学新人賞」の会議室は当然毎日見ていた。
「かしの木亭談話室」には、書き込みをしていた。
その書き込みが「九想話」の原型になりました。
そして、「等々力短信」という会議室の中に「わいわい雑俳塾」という句会があった。
私の心の中に、小説と並んで俳句というものがあった。
小説は20代から書いてきたが、俳句はまったく作っていなかった。
山頭火の本を読み、俳句に興味がわいた。
しかし、このへんが私の無教養なところですね。
山頭火の俳句は自由律で、俳句の本流とは違う。
でも、私は自由律俳句の山頭火や尾崎放哉が好きになってしまった。
五七五の定型の俳句には興味がなかった。
「わいわい雑俳塾」を読んでいて、私も俳句を作ってみようかなと思った。
たしか私が40歳の11月だったと思う。
兼題のひとつに「木枯らし」というのがあった。
それで作った句が次の句です。
自己嫌悪木枯らしの中ぶらさげて
私としてこの句がすごく気に入った。
いや、俳句のことはまったく知りません。
でも他のことはどうでもよかった。
それであと二句を作って投句した。
「わいわい雑俳塾」は、3つの題が出て、三句投句します。
するとけっこう私の句が選句されたんですね。
結果は当然、参加者の中では下のほうでした。
それでもそれが楽しくて、今日まで句会を続けてきました。
最初の頃は、けっこう自由律俳句を作って投句していたが、そのうち定型だけになりました。
「わいわい雑俳塾」に投句を続けているうちに、
ある人から別な句会に誘われた。
それは、「パスカル短篇文学新人賞」に投稿している人たちの句会だった。
ほとんどが私より10歳以上若い小説を書く人たちだった。
「パスカル短篇文学新人賞」に参加した人たちがみな若かったんです。
そりゃそうですよね。
パソコンを使って小説を投稿するなんてその当時、20・30代の人しかしなかったでしょう。
無分別な私は、その「第七句会」に参加してしまったのです。
第七句会の参加者は素晴らしい人ばかりだった。
私のように茨城の三流高卒で零細企業に勤めてきた人間には、
とうてい知り合えないような教養ある人間ばかりだった。
大手出版社で辞書をつくる部署にいた人がいた。
医者の人もいた。
そのときはただの人だったが、その後芥川賞をとった人が2人いた。
川上弘美さんと長嶋有さんです。
川上弘美さんは女性なので私はあまり話さなかった。
なにしろ人妻ですから遠慮しました。
綺麗な人でしたね。
第七句会とは違いますが、パスカル会議室のオフのとき、
たしか西武池袋駅東口の西武デパートの前で待ち合わせだった。
そのときやってきた川上弘美さんが私に話しかけてきた。
「パスカル会議室のオフの人ですか?」
「はい」と応えてしばらく話した。
そのとき素敵な人だなと思った。
このことは今でも大切な私の思い出です。
第七句会には、正選と逆選があった。
逆選に選ばれると落ち込んだ。
なんどかそういうことがあったとき、川上弘美さんからメールをいただいた。
> 私は、九想さんの句が好きです。めげないでがんばって下さい。
というようなことが書いてあった。
長嶋有くんとは、漫画の「ブラックジャック」のことをよく話したことを覚えている。
ある句会のとき、彼が「ブラックジャック」の一話をコピーして持ってきてくれた。
「この前、ボクがいいといったものです」
私は、そんなにしてまで自分の好きな漫画を理解してもらおうとする彼が好きだった。
また一緒に酒を呑みたいな。
(果たして、おれのこと覚えているかな?)
だらだら俳句を作ってきたが、これといってこれまで俳句を勉強したことがありません。
勉強することが嫌いな私です。
でも、少しでも俳句がうまくなりたいな、と思っている現在の私です。
昨年、旗坊さんから、良い俳句の条件をメールでもらった。
1.季語が動かない
2.説明しない
3.類想がない
このように作るといい俳句が出来るという。
私も納得です。
私としては、旗坊さんが、俳句の先生です。
それにしても俳句は難しいですね。
一生続けていきます。